第49話 黄剛炎
その言葉に、流星は再び瞳に剣呑な気配を浮かべる。
「……やる気か?」
「当然だ! この際、はっきりさせようぜ‼ ……俺たちとお前ら、どっちが上かって事をな‼」
再び額を突き合わせ、殺気を放つ両者。アニムスが使用できなかったとしても、流星の懐には銃が、雷龍の片手には大ぶりの青竜刀が握られている。その二人が書面から激突したなら、ただでは済まないのは火を見るより明らかだった。
更に《レッド=ドラゴン》には黒彩水や藍光霧など、他にも有力なゴーストは大勢いるし、こちらにも奈落やオリヴィエがいる。始まりは、小さな雨粒の如き衝突でも、徐々に大きな波紋となって広がっていき、巨大な波しぶきを生みかねない。
流星や雷龍もそれが分かっているからか、互いに決して手は出さない。しかし、発する威圧感は拮抗していて、互いに一歩も引く様子がない。
睨み合いがいつまでも続くかと思われたその時、大気を揺るがすような重低音の声音が響き渡り、部屋の空気が一変した。
「……いい加減にせんか、雷龍‼」
現れたのは、二メートル近くある巨躯の男だった。
纏っているものは、黄雷龍と同じ真紅のチャイナ服だ。年齢は五十代に差し掛かった壮年の男だが、体はとてもそうに見えないほど鍛え抜かれていて、完全に格闘家のそれだった。
腕や腿、胴、胸板、全てが太く引き締まっているが、特に首から肩にかけては、何百年も生きた古木の根のように隆々としている。それと呼応するかのように顔の輪郭はどっしりと角ばっていて、口元からもみあげを、濃い髭が覆っている。
眼光は異様に鋭いが、決して攻撃的ではなく、落ち着きと思慮深さも伴っている。だが今は、甥の言動に少々、怒りを抱いているようだった。
男の名は黄鋼炎――《レッド=ドラゴン》のナンバー2だ。
その黄 鋼炎の背後には、藍光霧と黒 彩水が続いて部屋に入ってくるのも見えた。藍光霧は最初に会った時と同じく柔和で穏やかな相貌をしているが、黒 彩水の方は僅かに気まずそうな顔で俯いていた。
「鋼炎様……!」
神狼と鈴華は黄鋼炎の姿を目にして、どこか安堵したような表情を浮かべたが、その後ろに現れた黒彩水を見るなり、すぐさま緊張した面持ちとなった。
「伯父貴……!」
黄雷龍と影剣もまた鋼炎の姿を見て、表情を一変させた。流星に啖呵を切ってい態勢もどこへやら、悪戯がばれた子供のようなバツの悪い顔となり、急に大人しくなる。
いくら黄家の次期当主と尾は言え、現当主の威光には叶わないのだろう。
その黄鋼炎は、自らの甥に対して、贔屓したり手加減したりするつもりは、欠片も無いようだった。
「雷龍、勝手なことをするな! 彼らは儂が招き入れたお客人だ! 無礼を働くなど、許さんぞ‼」
と、深雪たちに憚ることなく、堂々と雷龍を大喝する。
気位の高い雷龍の事だ。敵視している東雲探偵事務所の面々の眼前で、年端もいかぬ幼子のように怒鳴りつけられては、面目丸つぶれだろう。だが、雷龍も決して大人しく黙ってはいなかった。納得がいかないとばかりに、憤然と伯父へ噛みついていく。
「な……何でだよ! 何でこんな奴らをこの街に入れたりしたんだ!? この街は……《東京中華街》は俺たちの街だろ‼」
「それはお前の口を挟むべき事柄ではない! そんな事よりも、これからお客人はお帰りだ。丁重に街の外までお見送りしろ!」
「けどよ……」
よほど、《中立地帯の死神》が《東京中華街》に入り込んだのが気に食わないのか、尚も引き下がろうとしない雷龍に、とうとう黄鋼炎も業を煮やしたようだった。怒りを湛えながらも思慮深かった両目を、くわっと見開き、鍛え抜かれた右手を振り上げる。
そしてその拳を容赦なく雷龍の左頬へと叩き込んだ。
「くどいぞ! この儂に逆らうか‼」
反論を口にしかけていた雷龍は、代わりに飛んできた鋼炎の拳を強かに浴びた。ゴキ、と、耳にするだけで痛そうな硬質な音が聞こえてきて、深雪は思わず目を瞑る。
黄雷龍は力いっぱいに殴られたものの、転倒することはなく、その場に踏みとどまった。だが、その左顔面はすぐさま晴れ上がり、唇を切ったのか、真っ赤な血も滴り落ちる。それでも憤りは治まらないのか、雷龍は鋼炎をきっと睨みつけた。
暫く伯父と甥は睨み合っていたが、先に折れたのは雷龍の方だった。苦々しげな表情で鋼炎から視線を外し、小さく舌打ちをすると、そっぽを向く。どうやら伯父には頭が上がらない模様だ。
それで終わりかと思いきや、黄鋼炎は、今度は黒彩水へと鋭い視線を向けた。
「次はお前だ、黒彩水」
「……はい」
「決闘、などとよくも勝手なことを……六華主人の候補たる者が、浅慮に過ぎるぞ!」
「申し訳ありません」
「歯を食いしばれぇぇぇい‼」
再び地を揺るがすような咆哮を放ったかと思うと、鋼炎は雷龍にしたのと同じように、彩水の頬を殴りつけた。彩水もまた一切の抵抗をせずに、それを敢えて受けたように見えた。その制裁の仕方が鋼炎のやり方だと知っていて、じたばたせず、大人しく受け入れることを選んだのだろう。
深雪としては、いくらゴーストとはいえ暴力に訴えるのはどうかと思うが、自らの身内である黄雷龍と、今や黒家の御曹司である黒彩水を、全く分け隔てなく扱うところに、黄鋼炎という人物がこの《レッド=ドラゴン》の№2である所以を感じた。
深雪は無言で黄鋼炎の横顔を見つめる。覇気に満ちていながらも、深みのある眼差しは、彼の歩んできた道のりの激しさや険しさを思わせた。この《レッド=ドラゴン》という組織を束ね、率いるには、力は必須だったに違いない。
だが、力さえあれば良いかと言うと、そういうわけでもないだろう。人望や指導力、カリスマ性といったものがなければ、誰もその後ろにはついて来ない。
その為には、身内を贔屓しないというのは必須条件だ。
《レッド=ドラゴン》が六家にも別れているのに、それでも内部分裂を起こさず全体として一つにまとまっているのは、おそらくこの黄鋼炎の存在があるからだ。彼の存在はこの組織にとって、柱そのものなのだろう。
深雪の目から見ても分かる。確かに黄雷龍に将来性はあるのかもしれない。だが、黄鋼炎の器には、まだまだ到底及ばない。
雷龍は尚も憤りを浮かべ、口を一文字に引き結んでいた。それでも、せめてもの抵抗なのか、くるりと向きを変えると、足早に部屋を出て行く。
「……こいつらの見送りなんざ、まっぴらだ。光霧にでもやらせてくれ。行くぞ、影剣!」
「れ……雷様!」
影剣が慌ててその後を追うが、雷龍は振り向きもしない。その背中には、どこにぶつけたらいいのかも分からない様々な種類の怒りが、ぐつぐつと音を立てて煮えたぎっているのが目に見えるかのようだった。
深雪は何だか雷龍が気の毒になってきた。戦いを仕掛けられた時は、はっきり言って迷惑な奴だと思ったが、雷龍にしてみれば自分のやるべき仕事をしただけなのだろう。だからと言って同情はしないが、このまま黙って《東京中華街》を去るのも何だか寂しい気がした。
「俺、ちょっと行ってくる」
深雪は流星に向かって小声で囁くと、雷龍を追って小走りに駆けだしたのだった。
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黄鋼炎は退出する甥の雷龍を厳然とした態度で見送っていたが、バタンと部屋の扉が乱暴に閉められると、初めてやれやれといった表情を浮かべた。そして、改めて六道へと向き直る。
「……やれやれ、手のかかる甥で、お恥ずかしい。我が六華主人である紅神獄は体調が優れぬのでな。この場に同席できぬ無礼をお許しいただきたい」
確かに、紅神獄の健康不安説は、随分前から囁かれている。今年に入ってからも、《アラハバキ》や《東京特別収容区管理庁》との重要な会合を、何度かキャンセルしていた。
病状がどの程度なのかはまだ明らかとなっていないが、ともかくもその間、黄鋼炎がこの《レッド=ドラゴン》と《東京中華街》を支える事態となっている。
「いや、こちらこそ騒がせてすまなかった」
六道はソファに腰かけたままそう応じると、前屈みになり、静かに目を閉じた。六道は足が悪い。だから、立ち上がって握手を交わすようなことは無かったが、黄鋼炎も特別にそれを咎めたりはしなかった。
だが、言うべきことは言わなければと考えているのだろう、最初の威圧的な表情に戻ると、重々しく口を開いた。
「東雲殿。我々は本来、無益な対立は望まない。それに貴殿は《新八州特区》の連中とは違う。甥はああ言ったが、我が主人も儂も、貴殿との敵対関係は決して望んでおらぬ。《中立地帯》と《東京中華街》――双方の良好な関係は、この《監獄都市》全体にとっても有意義なものとなるだろう。だが……なればこそ、互いの境界線は守るべきだ。そして、互いの領域を侵さぬことが重要な前提となる」
「もちろん、こちらもそれは承知している」六道もまた、静かに答える。
「我々はよそ者だ。それでもこの街を切り拓き、ここまで発展させてきた。我々はただ、自らの手の内にあるものを守りたいだけだ。それ以上は何も望まぬ。だが……もしそれを侵し略奪する者が現れたら、全力でそれを排除し、叩き潰す! それがたとえ、貴殿の仲間であっても、だ‼」
黄鋼炎はその大きな掌を宙に掲げると、何かを打ち砕くかのように握りしめた。
神狼はそれを目の当たりにし、息の詰まるような苦しさを覚えた。黄鋼炎が深雪の事に言及しているのは言わずもがなだった。どのような事情があろうとも、深雪をこの街に連れてきたのは自分だ。話がここまで大きくなってしまったことの責任は、自分にもある。
そう考えると、神狼は消えてしまいたいような、いたたまれない気持ちになる。
一方、六道もまた、鋼炎の迫力ある忠告を浴びても、少しも動じることがなかった。全てをねじ伏せるかのような力ある視線に臆することなく、それを真正面から見返すと、あくまで冷静に答えた。
「……成る程。あなたの考えはよく分かった。ただ……願わくば、あなたの後継者も同じ考えであることを望みたいものだな」
それは黄鋼炎にとって、痛いところを針で突かれるかのような一言だっただろう。彼が甥であり時期六華主人の候補である黄雷龍の素行に頭を痛めているのは、周知の事実だ。
黄家の現当主は、僅かに苦々しげな色を浮かべたが、表面上は穏やかに答えた。
「……。あれにはこちらからも、十分言い聞かせておきましょう」
黄雷龍の主張は危険だと、神狼も思う。《監獄都市》を巡る状況は、決して彼が思っているほど単純ではないからだ。
この街は『敵』や『味方』などと明確に線引きできる境界線などなく、常に複数の要因が複雑に絡み合っている。《レッド=ドラゴン》が決して一枚岩ではないように、《アラハバキ》にも不安定要因が存在するし、《中立地帯》に数多存在するゴーストギャングたちも、今でこそバラバラだが、いつ大きな勢力へと成長するか、決して予断を許さない。
黄雷龍もそれを理解していないわけではないだろうが、彼は力への依存があまりにも強すぎる。黄鋼炎もそれを憂慮し、懸念しているのが伝わってくる。黄雷龍の性格そのものは、決して危険でもないし、兄貴肌の親しみやすい人物なのだが。
その鋼炎は、次に神狼と鈴華に目を向ける。その時には、その頑強なる眼元は、若干、柔らかくなっていた。神狼と鈴華が《レッド=ドラゴン》を追われた経緯を知っているからだろう。邪険にする様子もなく、身内のように優しく声をかけてくる。
「……神狼、鈴華。息災か」
神狼は返答に窮した。自分は《レッド=ドラゴン》にとって裏切者だ。一体、どういう顔をしてそれに答えればいいのだろう。逡巡していると、所長の六道と目が合った。六道は小さく頷き、黄鋼炎との会話を促してくる。そこで、神狼はこくりと頷き、短く答えた。
「……はい」
鋼炎は優しい目をすると、その分厚い手で、神狼の肩をポンポンと叩く。
「二人とも、我々大人のせいで辛い思いをさせてしまったな。もし戻って来たくなったら、いつでも戻って来なさい。歓迎するよ」
「………」
黄鋼炎は懐の深い人物だ。紫家の崩壊によって《レッド=ドラゴン》を裏切らざるを得なかった神狼の事情をそれなりに汲んでくれるだろうし、必要以上に厳しく罰したりはしないだろう。本当に元のように受け入れてくれるつもりなのかもしれない。だが、だから尚の事、その好意に甘えるわけにはいかないと思ってしまう。
神狼には、《レッド=ドラゴン》にいた頃の記憶の一部がない。それらは完全に失われていて、二度と戻ることは無いという。
そのせいか、神狼は他人の優しさを苦痛に思う事があった。決して迷惑なのではないし、有難いのも重々承知だ。ただ、自分にはその優しさを受け取る資格がないのではないかと思ってしまうのだ。
恩を受けても、いつかきれいさっぱり忘れてしまうかもしれない。そんな恩知らずになるくらいなら、最初から自力で何とかした方がいい。
鈴華はそんな神狼の心情を察してか、黙り込んでしまった神狼の代わりに、一歩進みだすと、黄鋼炎へと応じた。
「……ありがとうございます、鋼炎さん。でも、お婆ちゃんが私たちの帰りを待っているので……」
すると黄雷龍は目を瞠り、次いで昔を懐かしむように両目を細める。
「鈴梅どのか。確か今年で七十五になられる筈……お元気か?」
「はい。それはもう、シャキシャキしていますよ」
「そうか。あの方は昔から聡明で強い方だったからな。大切にするのだぞ」
「……はい」
鈴華は、憎悪や嫌悪を露わにすることなく、ごく自然に黄鋼炎の言葉に対し、受け答えをしていた。彼女の黄家に対する恨みは並みならぬものがある。それでも、己の悪感情を黄鋼炎にぶつけるべきではないと、自制しているのだろう。黄剛炎は、《レッド=ドラゴン》の中でも一二を争う実力者だ。その剛炎に逆らい、気分を害させるのは、得策ではない。
だが、いやいやそれをやっているようには見えない。黄鋼炎は相当な人格者だ。鈴華も、彼を前にしていると、自ずと感情が鎮まってくるのだろう。
黄鋼炎は神狼や鈴華に向かって、最後に大らかな笑みを浮かべると、次に傍で控えていた藍光霧に向かって指示を出した。
「外までお送りしろ」
「……承知」
藍光霧は穏やかでありつつも、はっきりと頷きを返す。そして六道の傍へ歩み寄っていくと、流星らに退出の段取りを説明し始めた。
神狼はそれを見つつ、どうしても気になって、少しだけ部屋の反対方向へと振り向いた。そこには、左の頬を腫らした黒彩水――《導師》が無表情で立ち竦んでいた。
六道が鋼炎と言葉を交わす間も、《導師》はずっと部屋の壁際に立ち、殆ど気配を感じさせなかった。その表情は、まさに人形で、恐ろしいほど変化しない。
だが神狼には、彩水もまた黄雷龍と同じで、黄鋼炎から言い渡された沙汰に対し、納得していないのだという事が伝わってきた。表情が変わらなくても、空気で分かる。神狼と《導師》は《紫蝙蝠》として、気の遠くなるような長い時間を共に過ごしてきたのだから。
考えてみれば、彩水はあれほど神狼を取り戻したがっていたのだ。その為に、邪魔をする深雪を手に掛けようとすらした。だから、それが叶わなかったことに不満や疑念を抱かないわけがない。
だが、こうやって東雲探偵事務所が乗り込んできたとなると、現実の問題として、《導師》は神狼を諦めるしかなくなるだろう。事はもはや兄と弟の問題ではなく、《レッド=ドラゴン》と東雲探偵事務所の問題なのだから。
《導師》はその事に関してどう考えているのだろうか。神狼はそれが気になって仕方なかった。彼の動向を探り、警戒するためというのも勿論ある。だが、もしかすると《導師》とは袂を分かったつもりでも、自分の気づかぬうちに支配の残滓が残っているのかもしれない。
けれど、結局、《導師》が神狼の方を向くことは無かった。東雲探偵事務所の面々が帰り支度を始めたのを見計らって、ひっそりと部屋を退出していく。神狼の方には、振り返る素振りもない。そして、静かに部屋の扉を閉めると、完全にその気配が断たれたのだった。
神狼はそれにほっと安堵を覚えたが、一方で、胸の内で隙間風のようなものがびゅうびゅうと吹き荒び、じくじくと鈍い痛みを覚えるのを感じずにはいられなかった。
何故、自分がそんな強い痛みを覚えるのか、分からない。自分は、あれほど《導師》を恐れ、その支配から逃れたかった筈なのに。何故こんなにも、置いて行かれてしまったような、心許ない気持ちになるのだろう。
神狼は、ただただ、その感情に戸惑い、どう扱ったものかと持て余すばかりなのだった。




