第41話 黒家の言い分
その気持ちは痛いほど嬉しかった。
でも鈴華は、それを素直に神狼に伝えることができなかった。
自分のせいで、神狼を巻き込み、挙句の果てに深雪まで戦わせて、このような事態になったのだ。無邪気に喜ぶなどできるはずも無い。
全ては自分が発端だ。自分のせいで、こんなことになったのだ。
鈴華は時おり、自分が酷く醜い存在だと感じることがある。鈴華は決して一人ではない。自分を大切にし、こうやって守ろうとしてくれる人たちが大勢いるのだから。
それなのに、憎しみに支配されると、簡単に我を忘れてしまう。それが、特に家族である神狼や鈴梅の心を、著しく傷つけることが分かっていながら、怒りを抑えることができないのだ。
父の死を、どうしても過去の事として忘れ去ることができない。そんな時、自分がひどく身勝手で、どす黒い憎悪の塊に成り下がってしまうような気がする。そういう時の自分は最低だし、大嫌いだ。でもそれでも、感情を抑えられない。
神狼にも深雪に対しても、どれだけ謝っても、謝りきれない。ただ今は、深雪が善戦し、勝ってくれることを祈るしかなかった。
鈴華や神狼が《龍々亭》に戻るためという、身勝手な理由でそう思うのではない。深雪にどうにかして生き残って欲しいと思うからだ。
そして神狼と二人で並び立って、彩水と深雪が向かい合うところを、黙って見守るのだった。
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一方、深雪は彩水と真正面から睨み会っていた。彼我の距離は五メートルほどだ。一歩で相手に近づける距離ではないが、互いの表情は良く見える。
彩水は深雪が丸腰で戦うつもりであるのを見て取り、同級生の下らない悪戯に気づいた時のような、呆れ気味の苦笑を漏らした。
「見たところ、丸腰のようだが……それでいいのか?」
「お気遣いどうも。でも、これが俺のやり方なんで」
深雪は淡々とそう返事をすると、腰を落とした。脹脛から腿に圧力がかかると、腹にも自然と力がこもる。それで、緊張も少しだけ和らぐような気がした。
今でもゴースト戦は怖い。おまけに勝敗の条件には、彩水と深雪、どちらかの死亡という項目も含まれている。そして彩水は本気だ。おそらく、深雪の息の根を止めることに何の躊躇もないだろう。
だが、深雪にも絶対に負けられない理由がある。
「ふ……では、遠慮なくいくぞ」
彩水の武器は、何の変哲もない直刀だった。腰に佩いたそれを流麗な動作ですらりと抜くと、深雪へ向かってさっそく踏み込んでくる。
そして、ごく普通に間合いを詰め、マニュアル通りの動きで刀を振り下ろした。何もかもセオリー通りの動きだ。そのせいか、攻撃をかわすのも全く難しくない。深雪は刀を振るう彩水と距離を取りながら、内心でひどく拍子抜けしていた。
(何か、びっくりするほどフツーだな……暗殺者だって聞いてたから、もっとトリッキーな動きをするのかと思っていたけど、想像よりずっと手堅いタイプなのかもしれない)
彩水の刀を難なくかわし、後退する深雪。すると、彩水はやはり、武術の参考書のような何の変哲もない動きで、深雪を追撃してくる。今のところはアニムスを使う気配もない。
(しばらくは様子を見るか)
神狼は先ほど、彩水のアニムスが水を操る能力だと教えてくれた。だが、一口に水のアニムスと言っても、そのタイプはいくつにも分かれる。
例えば、液体の水を気体へと蒸発させることができたり、逆に大気中の湿気や水分を凝縮させて、水を抽出したり。個人によって、出来る事はさまざまなのだ。
彩水が一体、どのタイプの水能力者なのか。それが分かるまでは、積極的に仕掛けていくのは危険だ。深雪はそう判断し、当面は相手の出方を窺う事にする。
ところが、彩水から距離を取った深雪は、ふと自分のチャイナ服の袖に目をやり、どきりとした。いつの間にか、そこにスパッと切れ目が入っているではないか。
それは、深雪の全く見覚えのない傷だった。
(あれ……? 確かに攻撃を避けたはずなのに……気のせいか?)
斬れ目が入っているのは服だけで、体は無傷だ。だが、深雪の記憶では、斬りつけられた覚えなどないし、彩水の直刀は全て避けたはずだ。
昨晩、雷龍と戦った時も様々な傷を負ったが、このような切れ目は無かった。
では、一体どこで。
しかし、それをじっくり思い出す暇もなく、再び彩水が直刀を振りかざして迫ってくる。深雪は先ほどと同じように危なげなくそれを避けた。
スピードは決して遅くない、が、いかんせん、動きがあまりにも型に嵌り過ぎており、動きが簡単に読めるのだ。
ところが、余裕で彩水から離れると、今度はズボンの腿の辺りに切れ目が入っている。今度は体に掠ったらしく、血が僅かに滲んでいる。
(やっぱりおかしい……刀の刃先は触れていないのに、服が斬られている!)
一体、どこでこんな傷が。己の身に何が起こっているのだろう。疑問は瞬く間に不安と化し、全身に伝播してひどく動揺しそうになる。だが、深雪は慌てて意識を集中させた。ここでパニックになりでもしたら――隙を見せたなら、黒彩水は確実にそこを突き崩してくるだろう。
一方、深雪の焦燥を知ってか知らずか、彩水は淡々と攻撃を繰り出してくる。
上段からの斬り、そのまま刀を一回転させ、斜め下からの払い斬り。
どれもやはり動きが単調で、深雪でも容易に太刀筋が読める。
ところが、確実にそれをかわしている筈なのに、彩水から離れると、今度は右肘と左の脇腹に裂傷が入っていた。
相手の攻撃は一つも命中していない。それは、間違いない。それなのに、気づけば傷はできている。とてつもなく不気味だった。急に手足が重くなり、毒でも与えられたかの如く、じわじわと体力を削られていく感覚に陥ってくる。
(くそ……どうなってるんだ!?)
その一部始終を広場の隅で眺めていた雷龍と影剣は、忌々しげに言葉を交わしていた。
「出たな、奴お得意の暗殺剣か」
「あの少年は気づくでしょうか?」
「今のところは気づいてねえだろうな、あの様子だと」
雷龍は気だるげに目を細め、面白くもなさそうに口元を歪めていたが、やがて不意に、その唇をにやりと吊り上げた。
「このままじゃ彩水の圧勝だ。それじゃ勝負としちゃあ、つまんねえな。少し焚きつけてやるか」
それは一体、どういう事なのか。影剣は眉根を寄せるが、制止をする前に雷龍は動き出していた。唐突に口元に両手を当て、深雪に向かって大声を張り上げたのだ。
「おい、お前! 目に見えるものだけが全てだと思うなよ‼」
彩水の追撃から逃れ続ける深雪は、最初、それが自分に向けて放たれた言葉だと気づかず、一瞬、呆気に取られてしまった。
「え……? 何今の、どういう意味!?」
助言は非常に有難い。だが、ダメージを受けないよう神経をすり減らし、絶え間なく動き回っている深雪にしてみれば、そんな、なぞなぞめいた助言の真意を考えるような余裕は全くない、というのが正直なところだ。
ところが、雷龍はそれには答えず、意地悪くニヤニヤと笑うばかりだった。
「そこまで教えてやる義理は無え。自分で考えろ!」
「そ、そんなこと言ったって……うわ!」
僅かに気が逸れたところを、彩水は見逃さない。身体をしなやかに屈伸させて、一気に間合いを詰め、直刀を振り下ろす。
深雪は彩水の放った袈裟斬りを、間一髪で避けることに成功した。だが、やはり直撃を免れた筈なのに、左の袖口には新たな斬れ目が、はっきりと走っている。
ここまで同じことが連続して起こると、さすがに事故や自然現象というのは考えられない。もちろん、深雪の記憶違いでもない。
「目に見えるものが全てじゃない……? 直刀の他にも、何か武器があるってことか……!?」
一連の現象は、間違いなく黒彩水の仕業だ。何某かの手段を用いて、直刀とは別に、深雪へ攻撃を重ねている。
着想は瞬く間に確信へと姿を変えた。すると彩水は深雪と十分な距離を取った後、雷龍へと氷のような研ぎ澄まされた視線を向けた。
「……黄雷龍、邪魔をするのか?」
対する雷龍は、太々しい笑みを彩水に返す。
「俺はただ、ヒントを与えただけだ。相手は《死刑執行人》とはいえ、戦闘はずぶの素人……《レッド=ドラゴン》の暗殺部隊、《紫蝙蝠》の首領だったお前をガチで相手にするには、少々分が悪いだろ」
「それで日本人のガキに肩入れか。堕ちたものだな、裏切者めが!」
「おい、カリカリすんなよ。まさか、黒彩水ともあろう者が、そんな事で形勢を逆転されるなんてことはないだろう?」
「……当然だ!」
鋭く吐き捨てると、彩水は再び深雪へと大きく踏み込んだ。
またか――そう思った深雪は、次の瞬間に頭が真っ白になった。彩水はそれまでと違い、腰を深く落とし、まるで滑空する鳥のように、一瞬にして接近してきたのだ。
同時に直刀が閃いたのが分かったが、あまりにも早すぎてその太刀筋を目で追うことができない。
身構え、警戒態勢を取っていた深雪は、反射的に後方へ飛び跳ねた。彩水の手元が読めたからではない。勘だけを頼りに、本能的に動いたのだ。
そして、今回ばかりはそれで正解だった。彩水の直刀は、ぎりぎりのところで深雪を捕らえることは無かった。
ところが、だ。辛うじて彩水の繰り出す一太刀から逃れることができたものの、距離を取って右足に力を入れた途端、腿の辺りに激痛が走った。見ると、やはり先ほどまで無かった裂傷が生まれている。しかも、今度の傷は今までの中で一番大きく、斬った場所も悪かったのか、鮮血が噴き出した。
すると、その血に触発されたのか、黒家の若者たちは歓喜の咆哮を上げ、異様なほどの盛り上がりを見せる。
「うおおおお、いいぞ!」
「やれ!」
「殺っちまえ‼」
地鳴りのような歓声が炸裂した。拳を振り上げ、目を血走らせ、ただ破壊への衝動に任せて猛り狂うその様は、とても理性が働いているようには見えない。今にも制御不能の状態に陥り、広場へと雪崩を打って押し寄せそうなほどの勢いだ。
(これは……!)
今まで、出来るだけ観客の存在は気にしないようにしていたが、ここまで来ると、さすがに無視しきない。深雪は背筋が一気に凍りつき、粟立つのを感じた。
騒ぎ立てる野次馬が勢いのあまり、雪崩れ込んできて乱闘騒ぎにでもなれば、血みどろの争いになるのは必至だ。そして、それは今やいつ起こってもおかしくない。
(黒彩水って人、何を考えているんだ……!?)
そんな事態に陥れば、黒彩水とて無事では済まないだろう。こうぐるりと四方を囲まれていたら、いくら腕利きの暗殺者であろうとも逃げられるはずがない。
だが、彩水は野次馬の歓声が耳に入っていないかのような涼しい顔をし、直刀を振るい続けていた。しかも、先ほど黄雷龍の煽りを受けて見せた超人的な身のこなしではなく、単調な攻撃に戻っている。
深雪にはその姿が心なしか、じっと何かを待っているように感じられてならなかった。
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その頃、黄雷龍もまた、四方八方から黒家の者たちの歓声を浴び、それを苦々しい表情で見つめていた。
「ちっ……これが奴の真の目的か」
「この状況は我々にとっても、好ましくありませんね……」
影剣もまた、警戒を強め、周囲を注意深く見回した。影の如く特徴の無い若者は黄雷龍の真後ろに立ち、頭に血の昇った観客が雷龍に手を出してきても対応できるように、ぴたりと張り付いている。
「あの……それって、どういうことですか?」
鈴華は雷龍と影剣の会話が気になったが、雷龍にそれを尋ねるのは死んでもご免だった。だから雷龍を無視し、影剣に向かって尋ねた。
影剣は返答するのに僅かばかり躊躇し、雷龍の様子を窺うが、主の咎めが無いので、鈴華の質問に応じてくれた。
「喧嘩の勝負で物事を決めるなど、常日頃から何事に対しても合理性を好む黒彩水にしては、らしからぬ判断だ。だが、こうして大勢の前であの少年をいたぶり、黒家の力を見せつけようとしているのだと考えれば、辻褄が合う」
「そんな……私刑や暴力を見せつける事で支持を得ようだなんて、最低……!」
鈴華は嫌悪を込めて吐き捨てる。そんなもので一時の人気を得たところで、厚い信頼にはなり得ないし、いざという時には何の役にも立たない。人間性を失うだけだ。そうまでして、権力が欲しいのか。神狼の感情や意志を平気で蹂躙し、そうまでして己の浅はかな欲望を満たしたいのか。
鈴華は隣に立つ神狼の表情を覗き見た。神狼はじっと彩水と深雪に視線を注ぎ、その表情からは何を想っているのかは分からない。
ただ一つだけ分かっている事は、それでも神狼は実兄を咎めたりしないだろうという事だ。例え利用されるだけの関係であったとしても、神狼は彩水を完全に拒むことは無い。
そして彩水はそれを当然のことと思い込んでいる。
「本当に、最低……‼」
鈴華は憤りを込めて、再度、吐き捨てた。深雪へと、執拗に攻撃を仕掛け続ける黒彩水を、恨めしく睨みながら。
すると、不意にそれを鼻で笑う音が聞こえてきた。弾かれるようにして顔を上げると、黄雷龍が小馬鹿にしたように鈴華を見下ろしていた。
「最低、か。どうやら《中立地帯》で、すっかり平和ボケに毒されてたと見えるな」
「何ですって……!?」
真正面からそう愚弄されたなら、さすがに無視などできない。鈴華は声を荒げるが、雷龍は白けたような表情をして目を細めた。
「俺たちは政治家でもなんでもねえ。何で人気取ろうが知ったこっちゃねえだろ」
「どうしてそう澄ましていられるのよ? 紅家や黄家がそもそも信頼不足だから、こんなことになってるんじゃないの?」
「あいつらは主流から外れた負け犬の集まりだ。お前ら茶家の連中と同じでな」
「……!」
鈴華は血が滲むほど唇を噛みしめた。誰に侮辱されようとも、耐えられる。だが、父を死に追いやった張本人である黄家の者に馬鹿にされるのだけは我慢ならない。
だが黄雷龍は、鈴華から憎しみの篭った視線を向けられてもびくともしなかった。それどころか、既に鈴華の存在には興味が失したのか、戦闘が繰り広げられている広場の中心部分をまっすぐに睨み据える。
「そんな奴らが何人吠えたところで、何も変わりゃしねえんだよ……!」
そんなやり取りを交わしている間にも、周囲を取り囲む黒家の若者たちから、黒彩水を称賛する言葉が次々と発せられる。
「やっぱり、外の奴らに毅然と対応してくれるのは、黒家の方々だ!」
「そうだ、紅家や黄家の奴らは弱腰ばかりだ! 外の奴らには、もっと力で思い知らせるべきだ‼」
すると、まるでその言葉を待ち侘びていたかのように、彩水がすかさず口を開いた。いかにも演技の入った仕草で観衆に向き合うと、彼らに朗々と語りかける。
「その通りだ! 紅家や黄家に《レッド=ドラゴン》を任せていたら、我らの愛すべき《東京中華街》は蹂躙され、何もかも奪い去られてしまうだろう! そこにいるコソ泥のような鼠が大勢入り込んでな! 今こそ我々黒家がもう一度権力を握り、この街を守る時だ‼」
「そうだ、そうだ‼」
「紅家と黄家は私欲の塊だ! 美味い汁を吸うだけ吸って、何もかも独占してやがる……不公平だ‼」
多くの観客たちは、黒彩水の言葉に共感しているようだ。彩水の言葉に調子を合わせ、己の不満を喚き立てている。すると彩水はそんな観客に向かって、何かを打ち砕くかのように拳を握りしめると、それを天空へと突き上げて見せた。
「戦え、黒家の者たちよ! お前たちは満足しているか? この理不尽な世界に、心の底から納得しているか!?」
「ふざけんな!」
「納得なんかしてるわけねーだろ‼」
ブーイングにも似た荒々しい反応が返ってくるが、既に想定済みの展開だったのか、彩水は顔色一つ変えず、平然とそれに答じる。
「ああ、そうだ! 我々、黒家は、長年に亘って虐げられてきた! 紅家と黄家からは不当に弾圧され、あるべき権利を悉く毟り取られたというのに、街の外では《アラハバキ》や《中立地帯》などという敵対勢力が常に我々の生活を脅かし続けている! 我々が置かれているのは絶望の最中だ! 我らに未来はあるか? 我々の心休める家は一体、どこにある!?」
「それは……」
「し……仕方ねえだろうが! 俺たちは所詮、負け犬なんだからよ!」
「それは違う‼」
自暴自棄に吐き捨てる黒家の者たちに、彩水は語気を荒くした。
「目覚めろ、黒龍の子らよ‼ 思い出せ! 《レッド=ドラゴン》は元々、誰の創った組織だった? 我々、黒家のものだった筈だ! この街は、一体、誰が最初に切り開いた? そう、我ら黒家が汗水垂らして築き上げてきたのではなかったか‼」
心の奥底を鼓舞するような、激しく熱を帯びた声音が、広場に響き渡る。黒家の若者はいつの間にかしんと静まり返り、その言葉にじっと耳を傾けていた。
やがて、彼らは微かにざわめき始める。そして、それは徐々に大きな波へと転じていった。
「そ……そうだ。最初に《レッド=ドラゴン》を作ったのは俺たち黒家だ!」
「紅家や黄家じゃない……俺たちこそが、真正の《レッド=ドラゴン》なんだ‼」




