第40話 ショーの始まり
(この二人も悪い人っていうわけじゃないんだな、きっと……)
黄雷龍が深雪に力を貸してくれるのは、黒彩水が気に食わないからという理由もあるだろう。でも、一番はおそらく、深雪と同じで神狼の処遇が理不尽だと感じているからだ。
そうでなければ、例え深雪が彩水に豪快に啖呵を切ったとしても、このように手を差し伸べたりはしなかっただろう。
(まあ、裏を返すと、責任重大ってことだけど)
雷龍は立場上、彩水と刃を交えることができないようだ。だからその分、深雪に期待をしている側面もあるのだろう。
彼らの期待を背負っている以上、余計に腹を据えてかからねばならない――そう決意する深雪は、ふと視線を感じて振り向いた。すると、悄然とした鈴華がこちらを済まなそうに見つめていた。
「雨宮くん……ごめんね。私、感情的になって……でも、どうしても言わずにはいられなかったの」
「鈴華……」
「でもそのせいで、神狼のお兄さんを変に刺激してしまったから、『決闘』なんて……雨宮くんを危険な目に合わせてしまって……!」
鈴華は彩水に反発していた時の威勢はどこへやら、痛々しいほど縮こまって萎縮していた。深雪が彩水との決闘に挑むことになってしまった事に対して、多大な責任感を感じているらしい。
鈴華も可哀想だ。《龍々亭》での彼女は、とても魅力的な女の子なのに、今の鈴華は自分の怒りや憎しみに完全に振り回されてしまっている。自分では解放されることを望みながらも、亡霊のように這い寄って来る過去に、雁字搦めになっているのだ。
誰かが、少しでもその呪縛を取り除いてあげなければ、彼女は一生苦しみ続けるだろう。
少しでも力になれたら良いのだが。深雪はそう思いながら、ゆっくり目元を緩めた。
「……鈴華が悪いわけじゃないよ。ああいう人は、良くも悪くも他人に影響されて自分の考えを変えるなんてことはしない。だから鈴華が言い返さなかったとしても、いずれはこうなっていたと思う」
「でも……私……感情任せに罵ったり、非難ばかりして……最低だよ……!」
鈴華は両手で顔を覆い、その間から発せられる言葉は、いかにも心もとなく、後悔と自己嫌悪に満ちていた。深雪は慌てて口を開く。
「そんなことないよ! 鈴華は神狼を守ろうとしたじゃないか!」
「でも……!」
「……俺も二人を守るよ。鈴梅婆ちゃんに頼まれてるしね」
深雪が鈴梅の名を口にすると、鈴華は両目を潤ませた。祖母や《龍々亭》の名を聞き、自分の家に帰りたいという帰郷の念が湧き上がっていたのだろう。それを見ると、深雪はやはり《龍々亭》にいる時の鈴華が本当の鈴華なのだと確信する。
そしてだからこそ、はやく《龍々亭》に戻してやらねばならないのだ、と。《東京中華街》が決して悪い街だとは思わないが、少なくとも鈴華は、この街にいるべきじゃない。
それを考えると、ますます決闘に勝たねばと、使命感が湧き上がってくる。緊張したのか、心の臓が早鐘を打ち出し、深雪は慌てて深呼吸をした。
一方の神狼は、いまだに顔を強張らせて深雪を見つめていたが、やがてぽつりと低い声で言った。
「……お前、死ぬなヨ」
「ああ。分かってるよ」
そう答えるが、神狼はさらに近づいてきて、小声で耳打ちをする。
「……できるだけ時間を稼ゲ。致命傷さえ防げバ、生き延びるチャンスはあル。勝負に出ズ、ひたすら慎重に粘るんダ。そしたラ、きっト……」
「神狼……?」
『きっと』の後に、何が起こるというのか。深雪は目を瞬かせるが、神狼は結局最後まで口にしなかった。雷龍と影剣の様子をしきりと窺っているようだから、この場では言い難い事なのだろう。
結局神狼はそのまま続きを口にせず、代わりに確認するかのようにして、深雪の顔を、きっと睨んだ。
「とにかク、死ぬナ。……分かったナ!?」
「わ、分かってるって」
深雪のアニムスは《ランドマイン》だ。発動させる前に、爆発させる触媒に触れておかねばならず、それを望むポイントへ配置する過程も必要だ。相手の出方を見つつ反撃をするにしろ、気づかれぬよう罠を張るにしろ、少々、時間がかかる。
つまり、《ランドマイン》は速攻や特攻には不向きなアニムスなのだ。だから、不意打ち狙いの持久戦に持ち込むしかない。それは深雪としても最初からある程度覚悟していたし、だからこそ、こちらにも勝機があると思っていたのだが、神狼の口ぶりだと、それ以外にも何かあるのだろうか。
(いや……ごちゃごちゃ考えたって仕方ない。今はあの黒彩水って人に勝つことだけに集中しよう)
深雪たちも彩水の後を追い、中央広場へ移動することになった。
もはや逃げることも無いと判断されたのか、雷龍たちは深雪や神狼、鈴華を捕虜扱いすることもなかった。それどころか、ごく普通に歩いて移動することが許された。
だが、鈴華はまだしも神狼はまだ顔色が悪く、完全回復したようにも見えない。深雪は、黄龍大楼の中で休んでおくことを勧めたが、神狼は自分も行くといって聞かなかった。
目の眩むような長大なエレベーターを降り、黄龍大楼のエントランスから外に出ると、通りの向こうに見える公園には、続々と人が集まってきているようだった。《東京中華街》の中心部にある公園――奇しくも昨晩、雷龍と戦ったあの広場だ。
集まってきている者は、黒いチャイナボタンを付けている者が多い。黒彩水がさっそく招集をかけて集めてきたのだろう。
広場に集まった《レッド=ドラゴン》の若者たちは、どういったショーが始まるのかと、殺気じみた高揚感を撒き散らしている。
それを浴びた深雪は、今更ながらに背筋に緊張が走るのを覚えるのだった。
深雪たちが広場の入り口に近づくと、どこからともなく集まってできた人垣が、真っ二つに割れた。いかにも、格闘技系スポーツの入場シーンを彷彿とさせる光景だ。
集まった観客は選手の入場を今か今かと待ち侘びている。その両目は激しい敵意や悪意で満ちていて、気のせいか黄家の者たちより、その度合いは強いように感じた。
深雪は緊張した面持ちでその人が気の間を通り抜ける。そして、神狼や鈴華、雷龍、影剣がその後ろに続く。
やがて暫く歩くと、昨晩と同じく開けた広場に出た。黄色い屋根瓦に囲まれた石畳の広場で、その中央には大きな円形の噴水がある。
中央にある噴水塔からは、四方八方へと放射状に勢いよく水が噴き出し、円形の台座には並々と水が湛えられている。
黒 彩水はその噴水を背に、悠然と立ち、深雪の到着を待っていた。水面のきらめきが日光を反射し、その精悍な顔に美しい波模様を描いている。
深雪が彩水と対峙するや否や、広場に集まった観客から凄まじいブーイングが起こった。黒家のゴーストたちも黄家の配下の者たちに負けず劣らず、目つきの悪いゴロツキばかりだ。広場は瞬く間に、殺気にも似た異様な興奮に包まれる。
その負の感情の矛先は、ほぼ間違いなく全て深雪に向けられているのだ。それを考えると、鳩尾の辺りがぎゅっと一気に冷え込んだ。
黒家のゴーストたちもまた、他の地帯のゴーストを嫌っているらしく、「日本人のゴーストは追い出せ!」「いや、この場でぶっ殺せ!」などと、かなり物騒な言葉も聞こえてくる。深雪を擁護する声や応援する声は皆無で、完全にアウェー状態だった。
これだけ大勢、観客がひしめいているというのに、深雪の味方をしてくれるのは神狼と鈴華、雷龍、影剣の四人だけだ。
その四人は、広場の入り口近くの最前列を陣取り、深雪と彩水の決闘を見守ることにしたようだった。周囲にいる黒家の者たちの顔には、四人を快く思っていない様がありありと現れているが、特に黄家の人間である雷龍や影剣がいるせいか、手を出そうという勇者は今のところいない。
それでも、ちらちらと敵意交じりの視線を送っている。
黄雷龍はそのにあっても全く動揺することなく、堂々と腕組みをしながら吐き捨てた。
「ちっ……彩水の野郎、この短時間でよくもこれだけ集めたものだぜ」
「チャイナボタンを見るに、黒家の者と白家の者が多いようですね。他家の者もちらほら見受けられますが……」
影剣もまた落ち着いてはいるものの、雷龍よりは幾分か緊張した面持ちをして周囲を見回している。おそらく、何かあれば主である雷龍を守らなければならないと思っているからだろう。
実際、黒家の野次馬たちは異様な雰囲気だった。周囲に立ち並ぶ高層ビルが幾重にも音を反射するせいだろうか。彼らの放つ怒気が広場の中で蒸留され、何倍にも濃くなり、沈殿していくかのような錯覚を覚える。
男たちが罵声を飛ばすたび、まるで鈍器で殴られているかのような圧迫感が体を打った。
「本当にこの中でやるのか……?」
野次馬たちが放つ罵詈雑言の嵐に、深雪が早くもげんなりしていると、彩水は静かに頬を吊り上げた。
「どうした、恐れ慄いて身動きも取れんか? 先ほど俺に切った啖呵は、ただのこけ脅しではあるまいな?」
言葉こそ陳腐な挑発だったが、その不敵で且つ不遜な表情は、彩水が己の勝利を心の底から信じ、微塵も疑っていないのだという事を如実に物語っていた。こちらを煽るというより、圧倒的有利を見せつけることで、心理的なプレッシャーを与えようというつもりなのだろう。
戦いは既に始まっている。
「そんなわけないだろ。そっちこそ、こんなに人を集めて大丈夫なの? もし何かあったら、恥をかくのはあんたの方だよ」
深雪が言い返すと、彩水は演技がかった仕草で両手を上げて見せた。
「はっ……ずいぶんと余裕だな。まさか、勝機がある……などと考えているわけではないだろうな?」
「やるからには勝ちを狙いに行くよ。そうでなきゃつまらないだろ、そっちも」
あくまで周囲の野次馬たちを刺激せぬよう、抑えた口調で応えるが、彩水はここぞとばかりに大声を張り上げ、全てをぶち壊した。
「……おい、みな聞いたか!? この《東京中華街》に潜り込んだ鼠は、さんざん街を荒し回っただけでは飽き足らず、我々の平穏な日常をぶち壊すつもりだぞ‼」
すると、野次馬たちは待ってましたとばかりに、ワッと一斉に反応する。
「許さねえ、そんなことさせてたまるか!」
「コソ泥はぶちのめせ!」
「こ・ろ・せ! こ・ろ・せ‼」
(昨夜も見たなあ、この光景……)
眩暈のしそうなほどの濃厚な悪意が空間を支配していく中、深雪はどこか冷ややかな感情でもってそれを見つめていた。
余所者は排除する。それが家を問わず、《レッド=ドラゴン》の基本的なスタンスであるらしい。
しかし、昨晩とは違う点もある。黄雷龍と戦った時も深雪に対するブーイングは凄まじいものがあったが、あの時はまだお祭り騒ぎのような楽観した空気も内在していた。どちらかと言うと、スポーツ観戦の熱気に近く、黄家の若者たちも、何より黄雷龍をとても慕っているようだった。自分たちの大好きな『若』を応援しなければ。そういった、ある種の愛情に溢れていた。
だが、今の広場には、そんな明るさは全くない。あるのはただ、暴力への陰湿な渇望だけだ。黒家の者たちはおそらく、彩水に感情移入しているわけでは無く、味方だとすら思っていない。彼らはただ、目の前で繰り広げられる殺戮を目にしたいのだ。誰かが誰かを徹底的に叩き潰すところを見たいだけなのだ。
観客は舌なめずりをして待ち望んでいる。深雪が圧倒的暴力によって苦しむさまを。彼らはもちろん、深雪に恨みなどない。余所者であるというのも、建前でしかないだろう。彼らにとっては、犠牲者など誰でもいいのだ。誰でもいいから、暴力と破壊の餌食になるのを見たいのだ。
それはおそらく、彼らが押さえつけられた不本意な環境に置かれている事と関係があるだろう。日々のストレスを、抑圧に対する鬱憤を、この『闘技ショー』で発散させたいのかもしれない。
(……くそっ! 今頃になって緊張してきた……しっかりしろ、俺! 場の空気に呑まれて萎縮したら、それこそ相手の思う壺だ‼)
黒彩水はもちろん、理解しているだろう。ここに集まった観客が、別に彩水に好意を持ち、応援するために集まったというわけではない、という事を。
それでも彼は黒家の『仲間』を招集した。それは間違いなく、深雪へプレッシャーをかけるためだ。だから、決してこの場の雰囲気に動揺してはならない。僅かでも怯んだ素振りを見せたら、それは相手の策中に嵌ったも同然だ。
深雪は両手で頬をバシバシと叩き、自分に気合を入れる。そして、緊張で強張った体をほぐすために軽く足踏みをしながら、何とはなしに体を回転させた。
すると、いつの間にか鈴華が背後に近寄ってきている。驚く深雪に対し、鈴華は申し訳なさそうに目を伏せた。
「あの……今更だけど、こんなことに巻き込んで、本当にごめんなさい。雨宮くんには関係の無い事なのに……!」
深雪は、ストレッチをしながら破顔する。
「関係なくはないよ。だって鈴華に何かあったら、《龍々亭》の超絶美味い餃子が食べられなくなっちゃうじゃん」
「雨宮くん……」
「これが終わったら、またシロと一緒にお店に行こうって約束してるんだ。だから、絶対にみんな無事で戻らないと。……ね?」
鈴華は両目に涙を浮かべ、唇をぐっと噛み締め震わせながら、深雪を見つめた。何か言いたそうだったが、言葉にならないのだろう。暫くして、押し出すように小さく「……うん」と言って頷いた。
神狼が後ろから心配そうに近づいてきて、鈴華の肩に手を添え、小さな子供をあやす時のようにポンポンと小さく叩く。そして、深雪に向かって小声で囁いた。
「水ニ気を付けロ」
「……水? って、噴水の?」
「あア。《導師》のアニムスは、水を操る力なんダ」
――水。深雪はそれを聞いて意外に思った。てっきり、彩水のアニムスはもっと凶悪で稀少な代物ではないかと思っていたからだ。
そもそも、四大元素である火、水、風、土を操るアニムスは、非常に保有者が多い。その数は、全てのアニムスの大半を占めるほどだ。だから、水を操る能力もさほど珍しくはなく、よく見かけるアニムスだと言えた。
神狼のアニムスである《ペルソナ》が非常に珍しいアニムスであるのとは対照的だ。
だが、とにかくも、相手のアニムスの情報があるのは大変ありがたい。深雪は神狼へ、にっと笑みを向ける。
「分かった。教えてくれて、ありがとな」
その時、「早くしろ!」とか、「ビビってんのかぁ!?」などと、周囲から怒声交じりの野次が飛んできた。彩水は深雪に向かって顎を上向け、見下すような仕草をして見せる。これもまた、明らかな挑発だ。
「おい、観客はお待ちかねだぞ。そろそろ始めようじゃないか」
「それじゃ、行ってくる」
深雪は神狼と鈴華にそう言い残すと、ゆっくり歩み出す。そして、罵声と野次が濃厚に混じり合い、轟音と化してびりびりと空間を震わせる中、広場の中央へと向かう。
✜✜✜✜✜✜ ✜✜✜✜✜✜ ✜✜✜✜✜✜
鈴華は、広場の中央へと歩み去る雨宮深雪の背中を見つめながら、ポツリと呟いた。
「神狼、雨宮くんは本当にいい人だね。そんな人を私たちの都合で、こんなことに巻き込むべきじゃなかった……!」
すると、神狼もまた深雪の背中を見つめたまま、鈴華の手をそっと握りしめた。その掌は平熱にしては仄かに熱く、まだ熱があるのだということが伝わってくる。
大丈夫なのだろうか。相当な無理をしているのでは。そう思った鈴華が神狼の横顔へ視線を向けると、神狼は若干、苛立たしそうに口を開いた。
「あいつハ、ただの呆子ダ。何も考えてないんダ。俺たちの事なんテ、放っておけばいいのニ、何かト首を突っ込んでくル……《導師》にハ、どう足掻いてモ勝てるわけないのニ!」
ムキになって腹を立てる神狼が、鈴華は何となくおかしくなってきて、淡く微笑む。
「……神狼がそんな風に、誰かのことを怒るなんて珍しいね。雨宮くんの事が心配?」
「違ウ! ムカついてるだけダ‼」
神狼は全身全霊をかけて否定するが、鈴華はある事に気づいていた。神狼は基本的に、鈴華の前で東雲探偵事務所の話はしない。興味が無いからではなく、鈴華が本心では事務所の仕事を快く思っていないという事を知っているからだ。
でも、神狼は何故だか深雪の事は鈴華の前で話題にした。「事務所に変な奴が入って来た」、と。後に続いたセリフは、以前、深雪の想像した通り罵詈雑言ばかりだったが、鈴華はそれを意外に思った。神狼が誰かにそういった感情的なわだかまりをぶつけるのは珍しい、と。
「本当に……鈴梅婆ちゃんのところへ帰れたらいいね……」
《龍々亭》であった事を思い起こしていると、自ずと祖母の顔が思い出され、胸が痛んだ。
本当に、また以前のような生活に戻れるのだろうか。例え《東京中華街》から脱出することができたとしても、鈴華たちの存在は既に《レッド=ドラゴン》へと知れてしまった。この《監獄都市》では、彼らに睨まれては生きていけないというのに。
俄かに不安が込み上げてきて、鈴華は神狼の手を握りしめる。神狼もまた、再びそれを握り返す。そして小さく囁いた。
「大丈夫ダ、何があってモ鈴華は俺が守るかラ……!」




