第39話 兄と弟
思い返してみれば、神狼は責任感が強く、自尊心も高かった。任務に対しても真面目で、滅多に過失は無かった。そんな人間が油断や怠慢で体調不良になるとは考えにくい。何か不可抗力の事態に巻き込まれたのだと考えた方が自然だ。
(すべてはこの強引すぎる兄貴が原因なのか)
生まれる順番など、誰にも選べない。親が子を選べず、子もまた親を選べないのと同じだ。黒彩水の神狼に対する態度は、明らかに常軌を逸していた。兄弟として許される上下関係を遥かに逸脱している。
その彩水は、鈴華に批判を浴びせられても、何ら感情を動かされた様子は無かった。ただ、神狼を必死で庇う鈴華の存在を、目的を達する上での障害物だと判断したのだろう。異物を取り除く機械のように、淡々と鈴華を新たな標的と定めたようだった。
「……。狼、この女が言ったことは本当か?」
「《導師》……?」
神狼でなくとも、嫌な予感を覚えずにはいられなかっただろう。すっと両目を細める彩水の姿は、獲物を狙って遥か上空から地上へと滑空してくる、猛禽類そのものだった。
「つまり、この女がいなくなれば、お前は戻って来る……そういう事か?」
「なっ……!?」
その言葉が何を指すのか。余りにも明白な恫喝に、さすがの鈴華も、真っ青になった。何をするつもりなのかと、深雪も思わず身を乗り出しかけたが、それよりは神狼の動きの方が早かった。
「《導師》! お願いでス、どうか鈴華だけハ……‼」
神狼はこれまで深雪が見たこともないほど慌て、鈴華を抱きしめ、自分の後ろに押しやった。自分が身代わりになろうとしたのだ。その様子をまざまざと見せつけられ、彩水もとうとう不機嫌を露わにした。
「これほどまでに鈍りきっているとは……この愚か者が!」
そう大喝すると、彩水は手にしていた鉄製の扇子を躊躇なく振り上げ、それを神狼の顔面に向かって打ち下ろした。
「神狼‼」
目の前で理不尽な暴力が振るわれるのを、黙って見ているわけにはいかないと考えたのだろう。雷龍は神狼と彩水に向かって躊躇なく踏み込んだ。だが、その寸前で影剣がそれを押しとどめる。
「いけません、雷様!」
直後、バシッという音が客間に響き渡った。
鉄の塊が激しく人体を打ち付ける音――しかし、扇子は神狼には直撃しなかった。勿論、雷龍にでもない。
白銀の扇は、代わりに神狼と彩水の間に割って入った、深雪の顔面を激しく殴打していた。
「あ……雨宮くん!?」
「お前ッ……!!」
殴られることを覚悟し、ぎゅっと目を瞑っていた鈴華と神狼は、驚き、呆気にとられた様子で声を上げた。まさかそこで深雪が割り込んで来るとは、露ほども思っていなかったのだろう。一方の黒彩水は、そこに深雪がいることに、初めて気づいたといったような表情をした。
「……何だ、貴様は?」
誰何する声はしかし、まるで虫けらに対するもののように、冷ややかだった。少なくとも、人間に対して向ける語勢ではない。深雪はそんな彩水を、じろりと睨み返す。
「……どうも」
「貴様……見ない顔だな。白家の新入りか?」
深雪は未だ、昨夜に助けてもらった白家のチャイナ服を着用していた。だから彩水はそのチャイナボタンの色を見て、判断を下したのだろう。
深雪は鉄扇に殴られた衝撃で若干頭がくらくらし、唇の端には血が滲んですこぶる痛かったが、顔にはそれをおくびにも出さず、静かに答える。
「俺は《レッド=ドラゴン》のゴーストじゃない。東雲探偵事務所に所属してるんだ。一応……《死刑執行人》として」
すると、『東雲探偵事務所』という単語に反応し、彩水は柳眉を僅かに顰めた。
「《東雲》……? あの、《中立地帯の死神》などと呼び習わされている連中か。それで、《中立地帯》の《死刑執行人》が、ここへ何の用だ? この街が何と呼ばれているか……誰が支配している街か知らぬわけではあるまい? ことと次第によっては……命はないぞ」
彩水はそう言うや否や、ぴたりと深雪の喉元に鉄扇を突きつけた。神狼に負けず劣らずの、鮮やかな身のこなしだ。人に攻撃を加えているというより、まるで舞踊でも踊っているようにも見える。
だが、いくら動作が流麗だろうと、命を握られていることに変わりはない。事実、彩水がその気になれば深雪は一瞬にして喉を潰され、呼吸困難に陥るだろう。まさに絶体絶命だ。
しかし、不思議と深雪は恐怖を感じなかった。それどころか微動だにせず、黒彩水の目をまっすぐに、ぐい、と睨み返す。
そう、この時深雪は憤っていた。表情はあくまで静かだったが、腹の底ではぐらぐらと真っ赤な怒りを煮えくり返らせ、その熱に突き動かされていた。そして、不思議とそういう時の方が、人間は腹が据わるものだ。
「いいけど、俺を殺してもあんたの望みは叶えられないよ」
「何……?」
「俺は一人っ子だから、兄弟の確執とかはよく分からない。でも、さっきから黙って聞いてりゃ、『人形』だの『道具』だの、そういう事を弟に言う兄貴って、ちょっとイタいっていうか……俺様も度が過ぎるとただキモイだけだから、そのあたり、ちょっと気を付けた方がいいんじゃないかな」
「何を言っている……?」
訝し気な表情をする彩水に、深雪は肩を竦めて見せた。
「兄弟も親子と一緒で、いつまでも一緒にいられるわけじゃない。いつかは別々の道に進む日が来るんだ。……まあ、それが寂しいっていう気持ちも分からなくないよ。ただ、神狼は、今では立派に独立して、《死刑執行人》として活躍してるんだ。だからそれを応援してやるのが、いい兄貴っていうものなんじゃないかな」
ようやく深雪の言わんとしていると事が伝わったのか、彩水は途端にその精悍な顔に軽蔑と嘲りを浮かべ、鼻を鳴らした。
「……はっ! くだらん。それはあくまで一般論だろう?」
「変わらないよ。傍から見たらあんた、弟離れできてない、ただのこじらせた重度のブラコンだよ」
「あ、雨宮くん!?」
「何言ってるんダ、お前!?」
神狼と鈴華は、目を剥き、半ば呆れたような声で言った。何故、遠慮なく彩水を刺激するような言葉を口にするのかと、深雪の正気を疑ったのだろう。自暴自棄になったのかと、心配すらしていたかもしれない。
だが、深雪はもちろん正気だったし、諦めたわけでも投げやりになったりしたわけでもなかった。ただ、彩水の振るう血縁の暴力を、どうしても許せないと思ったのだ。
力の籠った目元からそれを察したのか、彩水はますます不機嫌そうに口元を歪める。
「馬鹿めが……偉そうに、知った口をきくな! いいか、これは我々、紫家の問題だ! 部外者は口を閉じてろ‼」
確かに、これを家族問題と考えるなら、深雪は部外者かもしれない。だが、神狼にしろ鈴華にしろ、深雪とは全くの無関係だというわけでもない。
「分かんねー人だな、あんたも。どこの家の出だろうが関係ない。神狼が今いるのは東雲探偵事務所なんだ。だから、あんたの元には戻らない。……神狼は、俺たちの仲間なんだからな‼」
最初、静かだった深雪の言葉は、最後の方には、はっきりとした大声に代わっていた。その剣幕が想定外だったのか、部屋の中はしんと静まり返る。特に神狼と鈴華は、普段は頼りさそうな深雪の意外な一面を目にし、ひどく驚いたようだった。
「雨宮くん……」
「……。あいツ……」
一方、雷龍はニヤリと口の端を吊り上げた。
「くくっ……あの野郎、思ったよりおもしれ―じゃねえか!」
そこには、深雪に対する否定的な感情は見られない。むしろ、次に何をしでかしてくれるのかと、心を踊らせているようでもあった。
「確かに……見かけより、少しは骨がありそうですね」
影剣も意外そうに相槌を打つ。その口の端には微かな笑みが滲んでいた。彼もまた深雪が黒彩水の前に立ち塞がっている事に対し、密かに好感を抱いているのだ。
一方、彩水は殺気の籠った陰湿な瞳で、深雪の真意を測るかのように、慎重な視線を注いでいたが、やがて深雪の喉元に突きつけていた鉄扇をすっと下す。
自分の主張を分かってくれたのか。深雪はそう期待をしたが、すぐにそれがただの思い違いであることが明らかとなった。彩水は鉄扇を懐にしまうと、獰猛で酷薄な笑みをその顔に浮かべたからだ。
「……いいだろう。そこまで言うなら、己の命をかける覚悟はできているんだろうな?」
「《導師》? 何ヲ……!?」
神狼は再び顔を強張らせたが、彩水はそれを顧みることは無い。
「ここは公平に戦って、決闘で決めようじゃないか。俺が勝ったら、狼を連れていく」
それを聞いた深雪は、内心で不意を突かれた心境になった。黒彩水は、『決闘』などという古風なことはしそうにないと思っていたからだ。
もちろん、元は《紫蝙蝠》の長だったのだから、暴力沙汰に抵抗は無いだろう。だが、だからこそ、『決闘』などという回りくどいことをする必要は無いのではないか。この男がその気になれば、そんな事をしなくとも、容易に深雪を排除してしまえるだろうからだ。
黒彩水は明らかに何かを企んでいる――深雪はすぐにそう察したが、ここは敢えてその提案を呑むことにした。
「じゃあ、俺が勝ったら神狼を返してもらう。そして、あんたは二度とまとわりつかない……それでいい?」
「構わん。もっとも……《紫蝙蝠》の牙の餌食となり、生き残った者は皆無だがな」
暗に手加減はしないと匂わせながら、彩水は両眼に粘着性を帯びた残忍な光を浮かべる。
「中央広場で決着を付けるぞ。形式はシンプルなタイマン勝負だ。言うまでもないが、アニムスの使用は可。道具や武器、その他の持ち込みも可。勝利の条件は、どちらかの降参、或いは死亡とする」
「分かった。それでいいよ」
「……逃げるなよ」
「そっちこそ」
深雪は悪意に満ちたその瞳を、真正面から睨み、弾き返す。
誘いに乗るのは当然、危険も伴う。だが、かと言ってここで退いたら、彩水はますます我が物顔に振舞うようになるだろう。
いくら肉親とはいえ、世の中には思い通りならないこともある――誰かがそう、彩水に理解させねばならない。でなければ、神狼を連れていかれるだけだ。だから、ここで逃げるわけにはいかないのだ。
彩水は小馬鹿にしたような視線を深雪に向けると、鮮やかな動作で身を翻し、部屋を出て行った。プレッシャーから解放され、小さく溜息をついたのも束の間、今度はブチギレた様子の神狼が駆け寄ってくる。
「お前……この呆子 ‼ 何を考えてるんダ!?」
余りにも腹を立てているせいか、先ほどまで青白かった神狼の顔には赤みがさしている。そこまで怒らなくてもいいのにと深雪は心の内で呆れながら、取り敢えず言い訳をしてみる。
「いやあ、なんか成り行きで……。でもまあ、何とかなるよ、きっと」
ところが、それは完全に火に油だった。
「なるカ、ボケ! 言っとくガ、あの人は強いゾ! 俺の暗殺技術ハ、全部あの人に叩き込まれたんダ‼ 俺の数倍は強いんだゾ‼」
「え……マジ……?」
「マジだ、呆子 ‼ お前……生きてハここを出られないゾ‼」
神狼はきっぱりと断言する。思わず、実の兄にもそれくらいはっきりと反抗すればいいのにと思ってしまうが、そんな事ができないほど、恐怖心を植え付けられているのだろう。深雪は曖昧に浮かべた笑みを引っ込め、神狼の目をまっすぐ見返した。
「でも……俺が勝てば、神狼は自由になれるんだろ? だったら、できるだけのことはやってみるよ」
深雪が本気で彩水の『決闘』を受けるつもりである事を悟った神狼は、ますます戸惑いを深め、眉根を寄せた。
「お前……本当ニ戦うつもりなのカ……!? 何のためダ? 何のためニそこまですル!?」
「俺、ああいう奴嫌いなんだ。自分が優秀だと思い込んでいて、平気で他人を踏みつけて支配するヤツ。神狼だって嫌なんだろ? あいつの言いなりなんて」
すると、神狼は俄かに答えに窮し、視線を逸らせた。
「俺ハ……そうやって生きてきテ、それが当たり前だったかラ……!」
「でも、以前のような関係に戻るのは嫌なんじゃないのか? だったら、その気持ちを大事にしろよ。兄貴だからって何でも従う必要はない。こういうのは、一度ガツンと言っといた方が互いにとっていいよ」
「……」
神狼は釈然としない表情だった。深雪が彩水と戦う理由に納得していないのはもちろん、そもそも自分が彩水に自己主張をする事が正しい事なのかどうか、迷っている様子でもあった。
神狼が心の中で《レッド=ドラゴン》に戻らないと決めているのは間違いない。だが、彩水の怒りを買ってまでそれを貫くべきかどうなのかと、思い悩んでいるのだろう。ここまで来たら、神狼にとって彩水の呪縛は、もはや立派な『洗脳』レベルだ。
(これは……多分、俺が思っているよりずっと深刻だな……)
そうであるなら、尚更、放ってはおけないと思う。どうにかして、洗脳じみた彩水の呪縛から神狼を解き放ってやりたいと思うのだ。
確かに神狼や彩水の言う通り、深雪は部外者だ。でも深雪は、《中立地帯》での神狼や鈴華の姿を知っている。その時に比べ、《東京中華街》にいる現在の二人は、鬱屈としていてとても息苦しそうだ。
彼らは明らかに抑圧状態にある。それを見ていると、あまりにも可哀想に思えてならなかった。誰にだって、自分の意志で自らの人生を生きていく権利がある。もちろん、家族や兄弟は大切にするべきだ。でも、過剰に支配したり、される関係は、いくら血が繋がっているとはいえ間違っている。
ただ、黒彩水は決して一筋縄ではいかはないだろう。神狼を上回る実力者だというなら、尚更、深雪が戦って簡単に勝利できる相手ではない。
だが、彩水が『決闘』という単語を選んだことに、深雪は僅かな可能性を感じていた。『決闘』にはルールがある。少なくとも、問答無用の『殺し合い』よりは、幾分かマシだ。
一方、黄雷龍は豪快に笑いながら、深雪へと声をかけてきた。その顔は、妙に高揚し、弾んでいるように見える。まるで、自分自身が彩水との決闘に挑むかのようだ。
「ふははは! あの黒彩水に真っ向から喧嘩を売る奴が、この俺以外にもいようとはな! おもしれえ、ぶっとばしちまえ‼」
「れ、雷様!」
慌てて影剣が雷龍を諫めるが、雷龍はそんな事で前言撤回するような性格ではない。
「……ああ、そうだな。こいつが彩水をぶっとばしちまったら、俺の楽しみが無くなっちまうか。よしお前、適当に手を抜いて、ボコられて来い!」
それに対し、影剣は「い、いえそうではなく……!」と、困り果てるばかりだ。
「ってか、勝てって言ってるのか負けろって言ってるのか、どっちなんだよ?」
深雪も、声援なのか何なのかいまいち釈然としない、あまりにも豪快過ぎる雷龍の言葉に、苦笑するしかなかった。
(何か、喧嘩っ早いガキ大将みたいな人だなあ……)
時に純粋であり、時に苛烈。味方はどんなことをしても守るが、敵には一切の容赦がない――と、いろいろ激しいところのある性格のようだが、完全な悪人ではない。それが、深雪の黄雷龍に対する評価だった。
確かに、彼には野望がある。だがそれは、決して利己的な私欲にまみれた野心では無い。ただまっすぐに六華主人を目指し、まっすぐに《レッド=ドラゴン》や《東京中華街》を守りたいと思っているだけなのだ。
そのやや近視眼的な純真さに、不安や懸念が無いわけではない。でも、深雪は個人的に、黄雷龍のまっすぐさには好感を抱いていた。まっすぐな植物は良く育つ。今は小さな蕾でも、将来、大きく花開く可能性がある。
深雪が雷龍をそのように見直したのと同じように、雷龍もまた、出会った時に比べると、随分、深雪に対するイメージを改めたようだった。深雪に向かって、猛獣じみた敵意ではなく、子供のような純粋な笑みを向けてくる。
「……まあ、それはともかく、せっかくの勝負事で丸腰ってのもなんだろう? 獲物くらいは用意してやるぜ。何でも言ってみな」
「ああ……だったら、ビー玉とかあったら助かるんだけど」
深雪が答えると、雷龍は驚いたような表情をする。
「ビー玉……? そんなもんで戦うつもりか? 刀や銃もあるんだぞ」
「刀は重いし、銃は怖くて銃口を人に向けられないから」
「お前……そんなんで本当に彩水とやり合えんのか? あいつは筋金入りの殺し屋だぞ? ビー玉なんてお前、パチンコ玉で銃撃戦に臨むようなもんだぞ!」
深雪があまりに頼りなさそうで心配になったのだろう、雷龍はやたらと親身に接してくる。何か深い意図があるわけではなく、ついついお節介を焼いてしまう性分なのだ。ひょっとしたら、深雪が《中立地帯》のゴーストであることを、忘れかけているのかもしれない。
心配してもらうのは有難かったが、深雪がビー玉に拘るのには理由がある。深雪は尚も大型の武器を勧めてくる雷龍に、苦笑を返した。
「……大丈夫。俺のアニムスは、ビー玉が一番、相性がいいから」
すると、雷龍は未だに納得した様子は無かったものの、影剣に指示を出してビー玉を取って来させた。やがてすぐに、煌びやかな小箱に入れられたガラス玉が影剣によって運びこまれる。
深雪はそこから一掴みずつ、ビー玉をズボンのポケットに入れた。




