第38話 もう一人の《紫蝙蝠(ズーピエンフ)》②
紫家の子どもたちは身寄りのない子供の集まりだったと聞く。だが、中には本当の兄弟がまぎれることもあったのだろう。紫家にしてみれば、暗殺者として使えるなら何だって良かったのではないか。
もっとも、兄弟共に《紫蝙蝠》となるほどの才能を秘めている例がそうあるとも思えない。この二人はある意味、非常に幸運で稀有な例なのだろう。深雪はそう考えつつ、改めて神狼とその兄――黒彩水を交互に見つめた。
(成る程、通りで顔や雰囲気がよく似ているわけだ。でも、『愚弟』って……いくら血が繋がっているからって、謙遜にしても言い過ぎなんじゃ……)
勿論、深雪はここでは完全に部外者であり、《レッド=ドラゴン》の慣習に詳しいわけではない。ここでは兄弟は互いにそう呼び合うものなのかもしれないが、そうだとしても、黒彩水の口調には、肉親に対する親愛の情は、欠片も感じられなかった。冷たく無機質で、兄というよりは監督官か何かのよう――それが彼から受ける印象だ。
その彩水は、やはり無感情な瞳で神狼をまっすぐに見下ろしている。
「……少しやつれたな。どうした、また記憶でも失いかけたか」
「……ッ!」
神狼はびくりと体を震わせる。それだけで、神狼が実の兄に抱いている感情がどういったものか分かった。その正体は、トラウマとして引き摺るほどの恐怖。或いは、絶対的な支配に対する絶望感や無力感。それもまた、肉親に向けられるべきであろう愛情や気安さとは程遠いものだ。
だが黒彩水は、体を強張らせる神狼の姿などには全くの無関心であるようだった。
「案ずる必要はない。お前にはそもそも記憶など不要なのだ。そのようなものなど無くとも、俺が進むべき道へと導いてやる。お前はただ、黙ってそれに従っていれば良いのだ。……お前はこの俺が作り上げた、《殺人人形》なのだからな」
「なっ……!?」
(こいつ……‼)
黒彩水の言葉を耳にした鈴華は、信じられないと絶句し、深雪も思わず彩水を睨みつけていた。だが、彩水は鈴華や深雪には目もくれない。端から眼中にないどころか、まるでそこに存在している事にすら気づいていないかのようだ。
その深い闇を思わす黒曜のような瞳は神狼ただ一人のみに注がれ、口元には酷薄とも取れる笑みを浮かべていた。
「狼よ、俺の元に戻ってこい。そして共に黒家を支えるのだ。そうでなければ、わざわざ俺たちが自らの手で紫家の同胞を切り捨てた意味がないではないか」
「切り捨てた……? どういう意味なんだ……?」
穏やかならぬ台詞に、深雪が眉根を寄せると、鈴華が小声で耳打ちをした。
「神狼のお兄さん……黒彩水が優秀な人であるのは確かよ。元は《紫蝙蝠》の頭領を務めていたくらい。だから紫家の取り潰しが決まった時に黒家の養子になることになったの。黒家の主人、黒蛇水はちょうどその頃から体調がすぐれなかったそうだから……」
「つまり、彩水って人が黒家の養子になるから、紫家や《紫蝙蝠》はもはや必要なかったって……そういう事か?」
「それもあると思うけど……さっき、紫家は《レッド=ドラゴン》の暗部そのものだって言ったでしょ? そういう蓄積された内部情報や、純粋に戦力として紫家の子どもたちが他の家の手に渡るのを避けたんだと思う」
どのような事情があるにせよ、黒彩水が紫家を『切り捨てた』というのは事実なのだろう。おまけに彩水は神狼と違い、そのことに対して罪悪感も無ければ後悔も抱いていない。むしろ、その選択を当然とすら考えているようだ。
(しかもこいつは、それを神狼にもやらせたんだ……!)
深雪の中で、沸々と怒りが湧き上がってきた。それが神狼の中で大きな傷跡となっているのは一目瞭然だ。自分が悪に染まるのはまだしも、何故兄だというだけで、当然のように弟を巻き込み、一生苦しみ続けるような業を背負わせるのか。それはどう考えてもおかしい。
一方、神狼は彩水に対し、必死の抵抗を試みていた。
「俺ハ……あなたの元に戻るつもりハありませン。もう二度ト、あなたノ言いなりにハならなイ!」
だが、彩水はその決死の抵抗を、一笑に付す。
「何を馬鹿なことを。お前は俺の刃だ。刃はどれだけキレが良くとも、ただの道具にすぎん。お前の価値は、使われてこそ生きるのだ。ひとりで一体、何ができる?」
その言葉の中には、落ちこぼれの生徒を嘲笑う高慢な教師にも似た響きがあった。人間を優劣で判断する者特有の冷酷さと驕慢さが、そこには如実に見てとれる。神狼は心身ともに全力でそれに抗った。
「お……俺は道具じゃなイ! 訳も分からず兄弟を殺すだけノ人形じゃナイ……!」
神狼は彩水の顔を直視することすらできないのか、下を向いたまま叫んだ。その反論は殆ど悲鳴に近い。まるで、網から逃れようとする魚のように。
想定外の強固な反発にあい、彩水はすっと漆黒の瞳を細める。そして、その不快な心境を表すかのように、鉄扇をゆっくりと手の中で弄んだ。
「……《東雲》の奴らに、そう吹き込まれたのか? これだから《外》の連中は無能だと言うんだ。良いか、狼。お前にとってそれらの記憶は全て不要なゴミだ。完成されたシステムを狂わせる、電子ウイルスのようなものなのだ」
「ち、違ウ! 記憶は俺にとって大事なものダ! 記憶があるかラ、俺は俺でいられル……決しテ、ゴミなんかじゃなイ‼」
「いいや、ゴミだ。お前にはそもそも、人格など必要がないのだからな」
「そ、そんなッ……!」
きっぱりと断言する彩水の姿に、言葉を失ったのは神狼だけではなかった。鈴華や深雪は勿論、雷龍や影剣も、何故、人目も憚らず、のうのうとそんな台詞を吐けるのか理解できないと、顔を顰めている。
その中でただ一人、黒彩水だけが何もなかったかのように、平然とした顔をしていた。そして鉄扇をぴしゃりと掌に打ち付けると、溜息と共にゆっくりと口を開く。
「やれやれ……思ったより深刻だな。……まあいい。記憶を《リセット》しさえすれば、誤った情報など簡単に上書きできる。純粋なる刃に、記憶などという不純物は邪魔なだけだ。それをいくらでも白紙に戻せるというのが、お前の《ペルソナ》の真に価値あるところなのだ。……家に戻ったら、まず真っ先にその不要な記憶を取り除くことから始めてやろう」
「い……嫌ダ……そんなのハ嫌ダ‼」
神狼は尚も抵抗を続けるが、彩水にはまるで通じる気配がない。
「なに、恐れることはない。お前は覚えていないかもしれないが、今まで幾度となく行ってきたことなのだから」
「《導師》……!」
「どうした、狼。この俺に逆らうのか? 紫家の理に逆らうのか?」
そのような事、できるわけがあるまい。
彩水の瞳の底はあくまで冷たく、無情だった。反抗も抵抗も、彩水の意志に楯突く行動は全て認めない。彩水はそもそも神狼を一人の人間として認めていないのだ。だから自分に従い、思い通りになることが当たり前だと思っている。
そこには、簡単に曲げることなど出来そうにもない、鋼鉄のような一貫した強硬さが横たわっていた。
(黄家の配下の奴らは、黒家が神狼の手配書を出したと言っていたけど……この黒彩水って人がその黒幕じゃないのか……?)
黒彩水は、どんな手段を用いても、神狼を自分の手に取り戻したがっているように見える。それも、血の繋がった家族だからという温かな理由からではない。神狼が自分の傍にいて、大人しく言う事を聞くことが当然だと思っているのだ。
それはいくら何でも酷すぎる。彩水の横暴さに強い嫌悪を抱いた深雪は、神狼の手がカタカタと小さく震えていることに気づく。
(神狼……? ひょっとして、怖いのか……? それほど恐れているのか、この人の存在を……‼)
事務所では何者をも恐れず、はっきりと自分を主張する神狼が、人が変わったかのように実兄を恐れ脅える姿は、深雪にとっても衝撃的だった。兄弟間の事は、第三者には分からないこともあるだろう。でも、これではあまりにも神狼が可哀想だ。
萎縮する神狼に対し、彩水は冷徹な態度を崩さなかった。感情を荒立てることも無いが、優しさを見せることも決してない。いくら血のつながった兄弟とはいえ、さすがに二人のやり取りを見かねたのか、雷龍は激しい怒りの炎を燃え盛らせ、彩水を睨み据えた。
「ここを去れ、黒彩水! 神狼は、今は俺の客だ!」
ところが、彩水は小馬鹿にしたような冷ややかな視線を雷龍に返すだけだった。
「お前の命令は受けんぞ、黄雷龍。兄が弟に会いに来るのに何の問題がある? むしろ部外者はお前の方だろう」
「ここは《東京中華街》だ! 俺はこの街で起きていることに対し、全てを把握し、関わる権利がある!」
「ほう……まるで自分がこの《東京中華街》の、支配者であるかのような言い草だな?」
「当然だ! 俺は黄家の次期主人……将来、六華主人となり《レッド=ドラゴン》を率いていくのは、この俺なのだからな‼」
雷龍は、そうであるのが当然とばかりに、堂々と言い放った。見方によっては傲慢ともとれる発言だが、雷龍には臆する気配もない。心の底から純真に、それが現実になる事を信じているのだ。
ところが次の瞬間、彩水は大きく仰け反り、哄笑を始めた。
「ふっ……ははははは!」
「何が可笑しい!?」
むっとし、苛立った素振りを見せる雷龍に、彩水はふと真顔に戻って口を開く。
「いや、これは失敬。……愚かで無能な犬ほどよく吠えると言うが、まさしくその通りだと思ってな」
「何だと!?」
かっと眼を見開く雷龍に、彩水はぴしりと鉄扇を突きつける。
「確かに、現在の主流派を占めるのは黄家だ。だが、忘れたのか? もともと、この《レッド=ドラゴン》を興したのは黒家である事を。紅家と黄家は後から合流してきた身でありながら、卑怯な行いで《レッド=ドラゴン》を乗っ取り、黒家を追い落としたのだ。その二家に、未来永劫《レッド=ドラゴン》を率いていく資格が、果たしてあるのかな?」
それを突き付けられた雷龍は僅かに怯み、表情を歪めた。卑怯な行いがあったかどうかは定かではないが、紅家と黄家が黒家を追い落とし、《レッド=ドラゴン》を乗っ取ったのは事実であるらしい。だから一瞬、反論に窮したのだろう。
だが、すぐにいつもの威風堂々とした態度に戻って言い返した。
「ふん……お前の口ぶりだと、まるで自分にこそ、その資格があるとでも言いたそうじゃねーか!?」
「さあて……ただ、誰が六華主人になろうとも、少なくとも、黄家の威光の上に胡座をかき、無邪気に振舞っている小皇帝よりは余程マシだろうよ」
彩水は飄然として雷龍の追及を煙に巻くが、その切れ長の瞳は先ほどより更に冷たく、鋭い輝きを放っている。まさに氷のようだ。黄雷龍もまた、牽制の中にある敵意と対抗心を、敏感に嗅ぎ取ったのだろう。好戦的な若き獅子は、水を得た魚とばかりに、敵対心を剥き出しにする。
「俺に喧嘩売ろうってのか、面白え……どっちが六華主人にふさわしいか、今ここではっきりさせようじゃねえか‼」
ところが傍に付き従う影剣は、そんな雷龍に対し表情を曇らせた。
「い……いけません、雷様!」
「影剣? 何故、止める!?」
「……落ち着いてください! ここで黒彩水と表立って対立するのは、雷龍様のお立場上、決して良くありません!」
「立場……? それが何だって言うんだ‼」
声を荒げる雷龍の、高揚した気分を鎮めるかのように、影剣は声を潜めて囁いた。
「……六華主人は現主人の紅神獄様に認められ、選出された者の中から、六家の代表による多数決によって決められます。それは事実上、黒彩水にも六華主人に名乗り出る資格があるという事です。ここで不用意な諍いを起こし、紅神獄様のご不興を買っては、黒家をのさばらせる口実を、むざむざと与えてしまうようなものです!」
つまり、今のところ六華主人に一番近いところにいるのは、黄雷龍で間違いないようだが、その座は決して完全に保証されたものというわけではない、ということだろう。何かきっかけがあれば――例えば黄雷龍が短気に任せて大きな失敗を侵せば、六華主人の座は容易に遠のいてしまう。
そしてこの黒彩水にもまた六華主人への野心があり、それを隠しもしていないのだ。おそらく、現状では六華主人候補の二番手、といったところか。
「ふ……主は間抜けだが、飼い犬の方は、少しは頭が回ると見える」
失笑を漏らす彩水に、雷龍は激しい怒りをぶちまけた。
「……貴様ッ! 言わせておけば‼」
「狼は紫家の子どもなのだ。我々が作り出した道具なのだ。だから、我々に返してもらう……ただ、それだけの事だ!」
彩水は強い口調で雷龍を黙らせた後、未だ強いショック状態から脱しきれていない神狼に向かって、再度、冷酷に告げる。
「さあ、狼。俺と共に来い」
「お……俺ハ……!」
「何を迷う? 《外》の人間がどれだけ耳障りの良い言葉を並べようとも、真の意味でお前を理解することなどない。紫家の子どもを理解することができるのは、紫家の子どもだけなのだから。お前はそれを捨てると言うのか? そんなことをして、お前の中に一体、何が残る? どれだけ新しい土地で新しい記憶を得たとしても、その本質が変わることはない」
すると、神狼と彩水の間に、今度は鈴華が割って入った。
「ま……待ってください!」
「鈴華……!?」
目を見開き、弾かれたように顔を上げる神狼とは対照的に、彩水は剣呑な雰囲気を漂わせつつ双眸を細めた。
「……何だお前は?」
「私は茶鈴華……茶家の一人娘です!」
「茶家……ああ、降りかかる火の粉を払うこともできず、火だるまになって滅んだ、どうしようもない一族の事か」
彩水の言葉には悪意が滲んでいた。彼が鈴華を知らぬ筈がない。何故なら、神狼の手配書を出したのは間違いなく黒彩水だからだ。
彼が元々、暗殺や情報収集を専門とする《紫蝙蝠》の頭領だったことを考えても、当然、鈴華や《龍々亭》の存在を知っていただろう。だから間違いなく、敢えてとぼけたふりをして見せたのだ。鈴華に辱めを与え、彼女の自尊心を傷つけてズタズタに引き裂くために。
鈴華はきつく唇をかむ。傍から見ても、彼女が屈辱に耐えているのが伝わってきた。自分の事はともかく、亡き父のことまで侮辱され、平静でいられるわけがない。
それでも鈴華は、何とか震える声を押し出す。
「……お願いです。どうか、神狼を解放してあげてください。神狼には神狼の感情や意志があります。少しだけでも、それを尊重してあげてください」
だが、彩水の意志が揺らぐことは無い。
「しつこいぞ、何度言ったら分かる? 人形に感情は必要ない。いや、そもそも紫家の子どもに感情や意志など無いのだ。記憶が蓄積すれば小賢しくなり、人の真似をすることを覚えるようになる。お前たちはそれを、あたかも自我が芽生えたかのように錯覚している……ただそれだけだ」
そして黒彩水は、軽蔑交じりに鼻を鳴らし、冷淡に鈴華を見下ろした。
「お前は自分が狼を救ったのだとでも思っているのだろう? 自分の深い愛情が狼を人にしたとのだと、甘美な自惚れに浸っているのだろう。だから茶家は滅んだのだ、馬鹿め」
淡々と鈴華を踏みつけ、なじる彩水の言葉は、まさに凶器そのものだ。そしてその残酷な言葉の羅列は、鈴華たちが必死で守ってきた《龍々亭》の暮らしを、根こそぎ否定するものでもある。鈴華は涙を滲ませ、悲痛なほど声を張り上げた。
「神狼には、あなたなんて必要ないわ! 神狼のアニムスが不安定になったのだって、あなたのせいじゃない! あなたがわざわざうちの店を訪ねてきて、神狼を返せなんて言うから……その上、手配書や賞金まで出して、本当にどうかしてる……‼」
「鈴華、駄目ダ! この人を敵に回してハ……‼」
「神狼は渡さない! あなたにはまがい物にしか見えなくても、神狼と過ごした四年間は、私たちの大事な宝物なの……! それがある限り、神狼はあなたのところへなんか、戻らないわ!」
つまり鈴華の話を総括すると、以前、黒彩水が突然、《龍々亭》に押し掛けたことがあるらしい。時期的には、連続猟奇殺人事件の解決後、暫くしてといったところか。
神狼がひどく調子を崩したのは、それが精神的に大きな爪痕を残したことが原因であるようだ。
(そういえば……石蕗先生は、精神的なショックが原因でアニムスが著しく不安定になることもあるって言っていたっけ……)




