第36話 ドラゴンの腹の内②
「皆殺しって……」
絶句する深雪に、鈴華は再び怒気を孕んだ言葉を荒々しく吐きだした。
「それくらい平気でするのよ、あいつらは! お父さんだって容赦なく殺したし、神狼の事だって、絶対に便利な道具くらいにしか思ってない……‼」
「鈴華……」
確かに話の内容は衝撃的だ。神狼の過去も、《レッド=ドラゴン》の闇の深さも、ただただ圧倒されるばかりだった。いくらゴーストとはいえ、人としてあるまじきことだと深雪も思う。
でも、深雪は何より鈴華の事が心配だった。彼女が時折覗かせる怒りはあまりにも激しく、鈴華自身、それをコントロールできていないのではないかと感じさせるからだ。
「……ともかく、紫家を失い、黒家は完全に牙を抜かれてしまったのよ。今では主人の黒蛇水も病で床に伏せっているらしいから、黒家の再興はもう二度と望めないでしょうね……」
鈴華の言葉を聞きながら、深雪は思考を巡らせた。
(それってつまり、紅家も黄家も、反乱の黒幕は黒家だって知っていたってことだよな……?)
紅と黄の両家は、表向きは黒家の主張通り茶家を戦犯として吊し上げながら、抜け目なく紫家をも消滅させ、黒家を完全に無力化させてしまったのだ。
しかしそれは、黒幕が黒家だと分かっていたからこそ取ることのできた措置なのではないか。
(となると、茶家は本当に権力闘争に巻き込まれただけってことか……そりゃ、鈴華が彼らを憎むのも無理はないな)
権力闘争に負けたと言えばそれまでだが、身内であればそう簡単には割り切れないだろう。鈴華が憎しみに近い怒りを抱くのも頷ける。
だが、当の鈴華は軽々しく同情されることを望んではいないだろう。深雪は、今は敢えてそこに踏み込まず、会話を続けることにした。
「……でも、それならどうして神狼は生き残ったんだ?」
《紫蝙蝠》が皆殺しにされたのなら、何故、神狼は生き残り、紅家を名乗っているのだろう。
「それは、私にはよく分からないけど……神狼には、黄雷龍が何故か特に目をかけていたから、そのせいかもね。最終的に、紅家の養子になるという形で落ち着いたみたい」
「ってことは、つまり……紫家の生き残りは神狼だけってことか?」
「……。いえ……もう一人いるわ。全ての元凶である、あの男がね……‼」
鈴華の表情は相変わらず硬かったが、先ほど黄雷龍の話をしていた時とは、僅かにその色合いが違うような気がした。
黄雷龍に対しては強い錨や嫌悪を見せていたが、『あの男』という言葉を発した瞬間、脅えのような感情が覗いたような気がしたのだ。
(『あの男』……? 鈴梅婆ちゃんもそんなことを言っていたような……?)
鈴華の言う『あの男』と、鈴梅が存在を匂わせていた男は同一人物なのではないかと、深雪は何となくそう思った。二人がその言葉を口にした時の含みのある口調が、とても似ていたからだ。
深雪は俄かに、その『あの男』というのが誰の事を指しているのか気になってきた。鈴華も祖母の鈴梅も、気丈で勇敢な性格だ。現に鈴華はあの黄雷龍を前にした時でさえ、毅然としていた。その彼女たちが名を口にすることすら躊躇うほどの人物とは、いったい何者なのだろう。
(詳しく聞き出したいけど、鈴華も鈴梅婆ちゃんも、あまり『あの男』っていう人に関して話題にしたがっていない感じだな……)
何か事情があるようだが、詳細な説明を求めてもいいのだろうか。鈴華の様子はひどく追い詰められているように見える。逡巡していると、突然、バタンという音と共に部屋の扉が盛大に開け放たれた。
「な……何だ!?」
深雪はぎょっとし、反射的に椅子から立ち上がって背後を振り返った。すると、部屋の扉から、金髪を逆立てた黄雷龍と、それに影のように付き従う影剣の二人が、悠々とこちらにやって来るではないか。
二人とも、昨夜見たのと同じ、光沢のある深紅のチャイナ服を纏っている。
「黄雷龍……‼」
鈴華も雷龍の姿を認め、さっと顔を強張らせて立ち上がった。彼女の浮かべた驚きと戸惑いは、しかしすぐに怒りや憎しみに取って代わられる。
深雪は深雪で、非常にまずい事態になってしまったことに、強い焦燥感を抱いていた。
(この二人、何しに来たんだ……? ひょっとして、俺を始末しに……!?)
深雪の部屋に鍵はかかっていなかったとはいえ、勝手な行動を取ったことを《レッド=ドラゴン》が快く思っている筈がない。ばれないうちに自分にあてがわれた部屋に戻れば大丈夫だと思っていたが、つい鈴華との会話に没入してしまった。それに気づいて腹を立てた雷龍と影剣が、深雪を探してここまで来たのだとしても、不思議ではない。
ところが、雷龍は深雪など見向きもしなかった。それどころか鈴華も完全に無視し、まっすぐ眠っている神狼のところへ向かう。その足取りには遠慮や躊躇が微塵も無く、威風堂々という言葉がぴったりだ。
そしてベッド脇で立ち止まると、神狼を静かに見下ろした。
「……神狼はまだ目を醒まさねえのか?」
雷龍の発した呟きを、深雪は当初、影剣に向けられたものだと思っていた。そうでないなら、おそらく鈴華だろう。
深雪はと言うと、この窮地をいかに切り抜けるべきかで頭がいっぱいだった。
(どうする……? 神狼はまだ気を失ったままだ。逃げるにしても、ここは建物の中で地上は遥か下だし……!)
部屋の扉は無造作に開かれたままだ。全速力で走れば、逃亡が成功する可能性はある。だが、鈴華はどうするのか。未だ目を覚まさない神狼は。二人とも、《レッド=ドラゴン》にとっては、あまり好ましくない存在のようだ。そんな二人を残し、深雪が一人だけ逃げ出してハイ終わり、というのも無責任だし、薄情であるような気がする。
特に神狼は、深雪の事を、身を挺して庇ってくれたのだ。
ところが、焦る深雪などお構いなしに、雷龍は淡々と質問を発し続ける。
「《中立地帯》ではどうなんだ。元気でやってるのか?」
(もしここで戦闘になったら……逃げ場なんて無いぞ……!?)
「《中立地帯》は殆ど日本人ばかりだろう。肩身の狭い思いをしているんじゃないか?」
すると、雷龍の傍に付き従っていた影剣が、険しい表情をし、深雪を睨んだ。
「おい、そこのぼんやりした日本人! 雷様の質問に答えろ‼」
「へ!? えっと……俺?」
まさか自分が、という思いと、何で自分に、という疑問で深雪は軽く混乱した。一体、どういうつもりなのだろうと様子を窺っていると、影剣はますます腹を立て、声を荒げる。
「お前以外に誰がいる? さっさと答えんか! どうなんだ!?」
「どうって言われても、普通としか……」
「何だと!?」
「あ、いや……だから、いつも通りだよ! 仕事はできるけど態度デカくて、ちょっとヘマでもしたらすぐに暗器が飛んでくるし。おまけにけなすし、ど突くし、罵倒するし……まあ、元気と言えば元気だよ。これ以上ないくらいにね。って言っても、最近はちょっと調子を崩してたけど……」
「そうか……。役に立たねえ部下の面倒を押し付けられて、可哀想にな……!」
雷龍はそう言って、右手で目頭を押さえ、憐れむ仕草をして見せた。
(おい……役に立たねえ部下って、俺の事かよ!?)
深雪は内心で思い切り毒づいた。声に出さなかったのは、一応、敵地の中だからだ。
雷龍も影剣も今は丸腰で、公園で見せた戦意や敵意も全く感じられないが、万が一という事もある。いいか悪いかは別として、彼らは実質的にこの街の支配者なのだ。
「……俺なら、絶対にそんな思いはさせない。勿論、紫家のような非人道的な扱いもさせない。ふさわしい場所でふさわしい役目を与えてやる。いや、欲しいなら何だって与えてやれる。それなのに……何故、お前は戻って来ない……?」
雷龍はそう呟くと、悔しそうな表情をし、神狼を見つめた。その眼差しは、公園で神狼に再会した時に見せたものより幾分落ち着いているものの、あの時と同じ歯痒さや苛立ちを滲ませている。
その感情の強さと、「組織には戻らない」と言った神狼の、頑なな拒絶の間にあるものの落差は、あまりにも激しすぎるような気がした。それは何故なのか。
「あの……ちょっと聞いてもいいかな」
気づけば、疑問は口をついて零れ落ちていた。ところが、影剣は一層顔色を険しくし、声を尖らせる。
「貴様、誰が口をきくことを許した!?」
「……え、ちょっと何言ってるか分かんないんだけど」
あんたらは王様か何かか。それで俺は下賤な民草か。思わず半眼で応じると、雷龍はこちらを見もせずに、面倒くさそうに影剣へと口を開いた。
「構わん、影剣。……俺が許す」
(本当に何なんだ、この人たち)
突っ込みたいことは山ほどあったが、取り敢えずそれは脇に寄せ、深雪は肝心の疑問を口にした。
「ここに来る前、神狼は《レッド=ドラゴン》には戻らないって言ってたんだ。事情は知らないけど……戻れないって。あんたたちが望んでいることが、必ずしも神狼の望みであるとは限らないんじゃないかな」
「……そんなことは分かってる!」
途端に激情を炎のように燃え上がらせた瞳が二つ、深雪へと襲い掛かった。
「だが、神狼は仲間だ! 俺たちの仲間だ! 仲間を取り戻そうとすることの何が悪い!?」
ようやくこっちを見たかと深雪は思ったが、あくまでそれは結果であって、わざと振り向かせようとしたわけではない。だが深雪の意志とは関係なく、雷龍は焦がさんばかりの激烈な視線を容赦なく深雪へと浴びせ続ける。
「俺は……俺は《レッド=ドラゴン》を愛している! だから《レッド=ドラゴン》に属する者……良き者は全て守る! ……当然だろう‼」
深雪は何と答えてよいか分からず沈黙した。雷龍の抱いている思いはとても真っ直ぐで、それはそれで大いに結構だが、あまり《レッド=ドラゴン》の実情と噛み合っていない気がしたのだ。
雷龍は『良き者全て』と言うが、それは『己にとって都合の良い者』の誤りではないのか。それが証拠に、玉宝や鈴華は茶家というだけで、理不尽な扱いを受けているではないか。それに白家など、黄家と立場を異にする者たちは、現状にずいぶん不満を抱いているようでもあった。
だが、答えがないのを肯定だと取ったのか、雷龍は神狼へと視線を戻した。
「本当は……神狼だって戻りたいと思っている筈なんだ……!」
雷龍は感情を押し殺した声でそう囁くと、眠っている神狼に手を伸ばす。しかし、鈴華が横から割り込んできて、それを振り払ってしまった。
「やめて、神狼に触らないで!」
「貴様ッ! 雷様に何という態度を!?」
影剣は激怒するが、雷龍は静かな声でそれを制する。
「構わん、影剣」
「しかし……‼」
不服そうな表情を浮かべる影剣とは逆に、雷龍はあくまで冷静だった。
「茶鈴華か。……まさか、生きていたとはな。父親ともども処刑されたと聞いていたが」
どうやら鈴華はつい最近まで死んだことになっていたらしい。通りで追手が来なかったわけだと、深雪は納得する。だが雷龍の言葉に、鈴華の怒りは早くも爆発の兆しを見せた。
「父は自分が身代わりになる代わりに、私と母を《東京中華街》から逃がしてくれたのよ。……誰かさんが着せた、無実の罪に問われて、ね……!」
「お前の父……茶聖財は《レッド=ドラゴン》の秩序を転覆させようとする動きがある事を知りながら、紅家と黄家にそれを報告しなかった。それは立派な罪だ」
「よく言うわね。あなたたちにとって、第二勢力である黒家と正面から対立するよりは、少数勢力である茶家に罪を着せた方が、何かと都合が良かった……ただそれだけの話でしょう!?」
鈴華は雷龍が相手でも、全く怯む様子を見せない。それが彼女の性分なのか、それともそれほど腹に据えかねているのか。だが、雷龍の方はあくまで動じることなく、すっと両眼を細める。
「……だが、今はもう、それは過去の話だ。望むならお前と祖母ともども、《レッド=ドラゴン》に戻れるよう手配してやってもいいぞ」
「何ですって……!?」
「雷様、勝手にそのようなことをお決めになっては……!」
影剣は慌てた様子で雷龍の言葉を遮るが、雷龍は頑として己の発言を曲げようとしない。
「黄家の次期主人は俺だ。何の文句がある?」
「しかし、今はまだ黄鋼炎様が主人なのです。その命令に逆らっては、雷龍様のお立場が……!」
「だったら何だ!? 仲間の一人も守れないで、そんな立場とやらに何の意味がある‼」
毅然とした態度で言い放つ雷龍だったが、鈴華は雷龍の主張などこれっぽっちも信じていない、疑り深そうな目で睨みつける。
「……何よ。それで、神狼を取り戻してどうするというの? また神狼を《紫蝙蝠》として酷使させるつもり? 神狼の記憶が無くなったのは、一体誰のせいだと思っているのよ!? あなた達が黒家との身勝手な権力争いに紫家を巻き込んだせいでしょう!?」
「俺はあんなことはしない!」
「どうかしら? あなたたちは私の父も平気で手にかけたわ! 私の父はあなたの伯父である黄鋼炎と旧知の仲で、週末にはいつも囲碁を指すほど親しかったのにも関わらず、ね……! あなたたちは自分の利益や権力のためなら、親友だって平気で裏切るのよ‼」
「あれは伯父貴のやったことだ! 俺は同じ轍は絶対に踏まねえぞ! 神狼は仲間だ! 仲間を売るような真似は、俺は死んでもしねえ‼ この命にかけて、守り通してみせる‼」
言葉を重ねれば重ねるほど、鈴華も雷龍も自制が効かなくなるのだろう。どんどんヒートアップしていく。鈴華の憎悪と雷龍の信念が、激しくぶつかり合って火花を散らしているのだ。深雪はそんな二人を取り巻く状況を、どこか冷めた心持ちで見つめていた。
(ふうん……この雷龍って人、敵には容赦がないけど、仲間思いの一面もあるってことか。昨晩の公園では自ら進んで鈴華を解放していたし、少なくとも、根っからの悪党ってわけでもないみたいだけど……)
でも、彼は少々、『黄家の次期主人』という将来約束された肩書を、少々過信しているような気がした。この真っ直ぐで喧嘩っ早い性格が、将来、災いを引き起こさなければ良いのだが。深雪は一抹の不安を感じずにはいられなかった。
一方、雷龍を睨む鈴華の目は、やはり猜疑心で溢れていた。そこには、雷龍の事を少しでも理解しようという余地は全く感じられない。
「……私には、あなたの言う事は到底信じられない。あなたは所詮、この《東京中華街》という名のきれいな箱庭の中に閉じ籠って、ただ威張り散らしているだけ。《壁》の外はおろか《東京》の中の事さえ禄に知らないし、知ろうともしていない」
「……!」
珍しく、雷龍は言葉を詰まらせた。鈴華の指摘に心当たりがあるのだろう。
確かにこの黄龍大楼で生活をしていたら、地上の事には疎くならざるを得ない。街の中で何が起こっているかを把握し辛くなるし、何より、人々と感覚が乖離していってしまう。雷龍の思いのまっすぐさと《レッド=ドラゴン》の実情が妙に乖離しているのは、その兆候なのではないか。
「違う……俺たちをこの街に閉じ込めているのは、《アラハバキ》や《中立地帯》の奴らの方だろう‼」
雷龍は苦々しさの滲んだ口調で呻くように反論するが、鈴華はやはり容赦がない。
「そうやって都合の悪いことはいつも誰かのせいにして、言い訳して……そんな人が次の六華主人の最大候補だなんて、《レッド=ドラゴン》の未来もたかが知れているわね。知るべきことを知らず、知ろうと努力もしない人が、まっとうな判断を下せるなんて、とても思えない……!」
鈴華は、汚らわしいものでも見るかのようにしてきつく雷龍を睨み、感情を吐き捨てた。悪意や憎悪を、もはや隠しもしない態度に、さすがの影剣も見過ごすことができないと考えたようだ。
「……女ッ! いい加減にしろ、それ以上の狼藉は許さんぞ‼」
「だったらどうするというの? 私の事も父のように殺すつもり!?」
「何だと!?」
影剣が恫喝しても、脅えるどころか更に断固とした態度で反論する鈴華。余りにも勇ましい態度に、深雪はハラハラする。
そして案の定、影剣は鈴華の態度に、とても納得できずにいるようだった。この部屋から摘まみ出してやるとでも思ったのか、鈴華に向かって一歩踏み出し、その腕を掴もうとする。だが、またもや雷龍はそれを押しとどめた。
「影剣、よせ」
「しかし、雷様!」
「さっきも言っただろう。俺は、仲間は殺さない、全力で守り通して見せる……と。茶鈴華、ここで生きるか死ぬかはお前次第だ」
「……!」
雷龍は再び静かに両目を細め、鈴華を見つめた。その視線は先ほどよりやや冷徹で、まるで鈴華に選択を突きつけているようにも見えた。――お前は本当に《レッド=ドラゴン》の一員に戻る気があるのか、仲間に戻る気はあるのか、と。
そしてこの問いに拒否は認められない。拒めば、それは《レッド=ドラゴン》を拒んだと同義だからだ。
そうなれば、鈴華は真の裏切者になってしまう。




