第35話 ドラゴンの腹の内①
鈴華の表情は随分疲れていたが、見知った顔と再会できて安堵している様子も見受けられた。よく見ると目元が晴れている。寝不足だろうか、それとも。
(ひょっとして、泣いていたのかな……?)
いずれにせよ、鈴華はあまり《レッド=ドラゴン》や《東京中華街》に対していい感情を抱いていないようだった。どれだけ豪華な部屋をあてがわれても、心から休むことなどできないのだろう。
「……神狼は?」
尋ねると、鈴華はベッドの方を振り返った。深雪もつられて目をやると、神狼がそこで身を横たえているのが見えた。瞼は閉じている。眠っているのだろう。
「あれからずっと寝てるの。熱も上がったり、下がったり」
鈴華は深雪と共にベッドの傍へと戻りながら、そう言った。窓から日の光が降り注ぎ、神狼の中性的な顔を照らしているが、それにも関わらず顔色はずいぶん青ざめているように見える。鈴華は目を覚まさない神狼の事が心配でならないのだろう。服の裾を握りしめ、きつく両目を瞑った。
「私のせいで、こんなに無理させて……どうしよう、神狼の記憶がまた無くなってしまったら……‼」
ただでさえ憔悴しきった様子だったのに、両肩を震わせ涙を押し殺す鈴華の姿は、あまりにも痛々しい。
「自分を責めるのは良くないよ。悪いのは鈴華じゃないんだし」
「……ありがと。雨宮くんはやさしいね」
顔を背け、か細い指で必死に涙を拭う鈴華の姿を、まじまじと見つめるのは何となく躊躇われ、深雪は神狼へと視線を注ぎながら言った。
「神狼の奴、一度、事務所で倒れたんだ。それで診療所に運んだんだけど、治療が終わってもいないのに鈴華を助けに行くって言ってきかなくて……よほど鈴華のことが大切なんだな、きっと」
「そう……。でも、だったら余計に私は捕まったらいけなかったんだ……! 神狼を二度と《レッド=ドラゴン》に関わらせない為にも、絶対に……‼」
やはり鈴華は、《レッド=ドラゴン》に対して良い感情を抱いていない。深雪はそう確信するが、一方でずっと抱いていた疑問も強まった。神狼や鈴華と《レッド=ドラゴン》との間に、一体、何があったのだろう、と。自分を育ててくれた組織をそこまで憎悪する理由は何なのだろうか。
ただ、深雪はこの件に関しては完全に部外者だ。過度な詮索は鈴華をさらに追い詰めてしまうかもしれない。だから、慎重に言葉を選び、質問を繰り出した。
「そういえば……神狼が《レッド=ドラゴン》を離れたのも、記憶がなくなったことに原因があるのかな?」
「……それもあると思う。でも、一番は多分、紫家が解体されたせいだと思うけど」
「その紫家っていうの、俺も気になってたんだけど……神狼の今の苗字は紅だよな? でも、元は紫家の人間だったのか? っていうか、紫家って一体……? 解体されたって、何があったんだ……!?」
矢継ぎ早に質問を浴びせるが、鈴華の反応は無い。少し早まっただろうかと内心で後悔したが、鈴華は全く答えるつもりが無いわけでもないようだった。
「……。そっか、雨宮くんは知らないんだね」
小さく呟くようにそう言うと、神狼の眠っているベッドに浅く腰かける。そこで深雪もそばにある椅子――先ほどまで鈴華が座っていた椅子に腰をかけた。互いにそれぞれ腰を掛けると、鈴華の視線の方が深雪より高く、深雪は鈴華を見上げる格好となる。鈴華はずっと力なく俯いているので、彼女にとってはその方が話しやすいような気がする。
「《レッド=ドラゴン》にはもともと、八つの家があったの。黄家に紅家、黒家、白家、緑家、藍家、そして……茶家に紫家」
「うん、それは俺も聞いたよ。でも今は、そのうち六家しか残っていないって」
深雪が答えた次の瞬間、鈴華の表情が苦しそうに歪んだ。
「茶家と紫家は取り潰しになったの。黒家と黄家の権力闘争に巻き込まれて、ね……‼」
(権力闘争……何か、きな臭い響きだな)
思えば白家に属している星星、銀月の姉妹の一家も、黄家の事をかなり毛嫌いしているようだった。各々の家にそれぞれ事情があり、必ずしも全ての家が強い信頼関係で結ばれているわけではない。《中立地帯》のゴーストに様々な立場の者がいるように、《レッド=ドラゴン》も決して一枚岩ではないという事だろう。過去に大きな権力闘争があったとしても不思議ではない。
これだけの繁栄を誇っているのだから、争いなどしなくともいいのに。つい心の中でそう思ってしまうが、発展しているからこそ巨大な権益を巡って争いが起きてしまうのかもしれない。《中立地帯》に住む深雪からしてみれば、何とも羨ましい話である。
鈴華は少し気持ちの整理がついたのか、幾分、落ち着いて話し始めた。
「事の発端は、私たちが生まれた頃……十数年前に遡るらしいわ。その頃、最初に《レッド=ドラゴン》を仕切っていたのは黒家なの。黒家はもともとこの国に長く住む華僑の血を受け継いだゴーストの一族で、《レッド=ドラゴン》もそもそもは彼らが結成した組織だったらしいわ」
(十数年前……俺が《ウロボロス》を壊滅させ、《関東大外殻》ができてから数年後か)
実際、二十年前の東京には既に、外国人のゴーストが存在していた。《ウロボロス》の中にはいなかったが、他所のチームの中には外国人ゴーストのメンバーもいたようだ。
「……その頃はまだ《レッド=ドラゴン》はごく小さな組織で、他のゴーストマフィアから存在を脅かされることも珍しくなかった。だから、彼らは勢力拡大を図ったのよ。組織を拡大するのに最も簡単な方法は、人員を増やすことでしょ? そこで加わったのが紅家と黄家だったの。
紅家と黄家は、大陸出身のゴーストで、この地での地盤は弱かったけど、とにかく数が多かった。だからあっという間に《レッド=ドラゴン》を牛耳って、黒家から主導権を奪ったってわけ」
「さっき雷龍って呼ばれてた人も黄家の人間なのか?」
「ええ、そうよ。黄家の現主人は黄鋼炎っていう人なの。黄雷龍はその甥にあたるわ。黄家の次期主人は彼だと言われている」
それを聞いた深雪は、思わずぎょっとして顔を顰めた。
「黄家の次期主人って……あのツンツン金髪頭が? 今の《レッド=ドラゴン》を実質的に率いているのは黄家なんだろ? だったらあの人が未来の《レッド=ドラゴン》のリーダーになる可能性が高いってこと!?」
勿論、黄家の栄華がこのまま永遠に続くとは限らない。他の家の当主がリーダーになる可能性も、無きにしもあらずだろう。だが、現段階では彼が《レッド=ドラゴン》の次期リーダーになる可能性が最も高いのではないだろうか。
(あんな好戦的な奴が《レッド=ドラゴン》のトップになってしまったら……《東京》はますます混乱するんじゃないか……?)
ただでさえこの《監獄都市》には理不尽や暴力、或いは憎悪や衝突といったものが渦巻いているというのに、雷龍の性格はそれに更なる拍車をかけてしまうのではないか。深雪は大きな懸念を覚えたが、残念なことにその悪い予感は的中してしまったようだった。
「……《レッド=ドラゴン》の最高権力者は六華主人と呼ばれているの。今の六華主人は紅家の当主である紅神獄 。でも、次代の六華主人は、あの黄雷龍が最有力だと目されているのは事実みたい。あくまで現時点での話だけど……」
とはいえ、鈴華の口調から察するに、その事実は既に決定事項となりつつあり、多少の事では揺るぎそうにもないように感じられた。
「ホント、嘆かわしい限りよね。黄鋼炎は確かに剛腕でありつつも思慮深く、実力のある人だと定評もあるけど、黄雷龍は彼ほどの器ではないんじゃないかって《レッド=ドラゴン》の中でも言われてるみたい」
鈴華の口調にも苦々しさが滲んでいた。どうしてそんな者が六華主人に――彼女がそういった不満を感じていることが、言葉の端々から伝わってくる。ひょっとしたら、《レッド=ドラゴン》の中にも同じように感じている者は多くいるのかもしれない。だがそれも、黄家に反旗を翻すほどの大きな勢力とはなりきれていないのだろう。
もっとも、黄雷龍の対抗勢力が誕生することが、必ずしも喜ばしいとは限らない。《レッド=ドラゴン》が分裂し不安定状態に陥れば、その混乱は《監獄都市》全体に波及してしまう恐れがある。深雪たちにできるのは、少しでも良い状態になるよう願う事だけだ。
鈴華は「話を元に戻すけど……」と、会話を続ける。
「……組織を乗っ取られた黒家は、もちろん面白い思いをしているはずも無かった。だから彼らは反乱を起こすの。そして《レッド=ドラゴン》に於ける最高権力、六華主人の座を取り戻そうとしたのよ。
けれど組織を取り戻すという大願が成就する前に、紅家と黄家にそれを看破されてしまった。だから黒家はその罪を茶家に被せたのよ。それが丁度、いまから四年前」
「茶家って、確か鈴華の……?」
「……ええ。私の父は、当時、茶家の主人だった。とても心の優しい人で、良くも悪くも権力争いとかそういったことには興味がない人だったわ。詩や絵画、骨董品が大好きで……暇さえあれば、自分も詩を詠んだり水墨画を描いたりしていた。そんな父が謀反なんて企むはずがない。でも……誰かが責任を取らなければならなかったのよ」
鈴華は両手が真っ白になるほど、きつく握りしめた。そして、痛みに耐えるかのようにして両目を閉じる。おそらく、彼女は自分の父親を心から慕ってたのだろう。その様子から、『責任』というのが何を指すのか、言われずとも想像できた。
辛いなら、無理して話さなくてもいい――深雪はそう声をかけようとしたが、鈴華は苦しそうにしつつも言葉を押し出した。
「父は黒家に無実の罪を着せられ、紅家と黄家にその責を問われて殺された……弁明する余地すら与えられなかったわ。私と祖母はなんとか《東京中華街》を抜け出し、《中立地帯》でずっと息を潜めて暮らしていたの。でも、どこかから私がまだ生きているということが漏れて、こんなことになってしまって……‼」
(そうか、だから鈴華は《レッド=ドラゴン》の裏切者呼ばわりされていたのか……)
《レッド=ドラゴン》のゴーストは基本的にあまり《中立地帯》では見かけない。だから、これまではうまく姿を隠すことができていたのだろう。それでも、《レッド=ドラゴン》は裏切者に容赦ない組織だと聞くから、いつ報復に合うかと不安な日々を過ごしていたに違いない。
活気に溢れていた《龍々亭》の営業も、そういった不安や恐怖と紙一重のところで、辛うじて成り立っていたものなのだ。それを考えると、悔しさを滲ませる鈴華の気持ちも痛いほどよく分かった。
そしてついに、その鈴華たちの貴重で平穏な日々は、滅茶苦茶に引き裂かれてしまったのだ。おそらく彼女たちの最も恐れていたことが、現実になってしまった。
「《レッド=ドラゴン》なんて、大っ嫌い……‼ この街だって立派なのは見かけだけだよ! みんな自分がうまい汁を吸う事ばかり考えていて、いかにその利益を独占するか、いかに他人の足を引っ張るか、そのために権力争いばかりしている醜い人たち……それがあいつらの本当の姿なのよ‼」
声を荒げ、憤りを露わにする鈴華に、深雪はかける言葉もなかった。鈴華の怒りは正当だと深雪も思う。けれど、どれだけ怒りをぶつけても、《レッド=ドラゴン》はびくともすまい。憎んだ所で、自分が苦しむだけなのではないか。そう思うが、憤る鈴華にそれを直接伝えるのも憚られる。
結局、深雪は鈴華の怒りが収まるの待ち、新しい質問を投げかけることにした。
「……紫家っていうのは何? 神狼はもともと、紫家の人間だったんだろ?」
すると、鈴華は怒りが完全に収まったわけではないようだったが、その質問にも丁寧に答えてくれた。
「紫家は、八家の中でも特殊な一族だったの。主に殺しや諜報活動を専門にした殺し屋集団……《レッド=ドラゴン》の汚れ仕事を一手に引き受けていたのが彼らだった」
(殺し屋……確かエニグマもそんなことを言っていたな)
神狼が殺し屋だったと聞かされても、以前のように戦慄を覚えたり、うすら寒さを覚えたりする事は無い。当時と違って、今は神狼の事を多少、知っているからだろう。案外、根は真面目な奴である事、ひそかに鈴華に思いを寄せている事。
だから、今はもう、あまり怖いとは思わない。でも、何故、という疑問は残る。すると鈴華がその疑問に答えるかのように説明しくれた。
「紫家にはもう一つ特徴があって、他の家と違って血の繋がりが殆どなかったという事なの。身寄りのない子供たちが集められて、殺しの技術を叩きこまれるんだけど、中には脱落者も多数出たと聞いているわ。生き残るのは大体、十人に一人くらい。後は訓練中に事故で死んだり、体を毒に慣らす途中に、その毒に負けて死んだり……殆ど命を落としてしまうのだと聞いたわ。
そして仮に生き残ったとしても、殺人人形として酷使され続ける。彼らには人権はおろか、人格さえ認められない。紫家はまさに《レッド=ドラゴン》の暗部そのものなの。そして生き残った者だけが《紫蝙蝠》に加わることを許される」
「《紫蝙蝠》……?」
「紫の蝙蝠っていう意味よ。紫家の暗殺部隊。蝙蝠ってほら、夜に活動するでしょ?」
「ああ、成る程……」
「『《紫蝙蝠》に命を狙われた者は、骨も残らない』……彼らの存在は《レッド=ドラゴン》の中でも、特に恐れられていたわ」
勿論、他家にも有力なゴーストはいるだろう。実際、黄雷龍も相当なアニムスの使い手だった。でも、強大なアニムスを持っているからと言って、他者の命を奪うのが容易であるとは限らない。特に暗殺となると、素人には無理があるだろう。だから、それ専門の部隊が必要だったのだ。
ただ鈴華の話の中で一つ気になったのは、神狼は望んで《紫蝙蝠》になったわけではないのかもしれない、という事だ。
《紫蝙蝠》になるには過酷な訓練が必要だという。常識的に考えるなら、自ら進んでそんな環境に身を置くとは思えない。
もしかしたら、神狼には他に選択肢が許されなかったのではないか。
「神狼は過酷な環境で育ったんだな……」
深雪がポツリと呟くと、鈴華も表情を曇らせ、「……ええ」と答えた。
「神狼だけじゃないわ。紫家の子どもたちは《レッド=ドラゴン》の為に、昼夜なく働かされるの。でも、《レッド=ドラゴン》の他の家は、紫家の子どもたちを軽蔑し、嫌っていた……自分たちの生活が誰の犠牲の上に成り立っているのかを、考えたこともないのよ。
だから、神狼には《レッド=ドラゴン》に戻って欲しくなかった。戻ったって、また虐げられるだけだから……!」
鈴華は背後で身を横たえ、未だ目を覚まさない神狼の寝顔を、振り返って心配そうに見つめる。深雪もまた神狼へと視線を向けつつ、彼自身も《レッド=ドラゴン》に戻ることは望んでいないようだったことを思い出す。
それはやはり、紫家での処遇があまりにも不当だったと恨みに思っているからなのだろうか。
(何か……それともちょっと違う気がしたけど……)
組織には戻れない――神狼は《東京中華街》に潜入する前、確かにそう言っていた。戻る気がないのは間違いなさそうだったが、一方で《レッド=ドラゴン》に対する恨みやつらみのような感情はあまり抱いていないような気がした。
むしろそこには、何か責任感や使命感にも似た、強い感情が存在していたような気がしてならない。もっとも、それらはあくまで深雪の感想でしかなく、真相は神狼にしか分からないのだが。
「……それで、紫家が解体されたのは何故なんだ?」
茶家が滅ぼされたのは、他家の陰謀だったとして、紫家まで無くなってしまったなのは何故なのか。首を傾げる深雪に、鈴華はまたもや詳細を教えてくれた。
「四年前、黒家が反乱を起こした話はしたでしょ? その時に彼らが陰で動かしていたのが紫家なの。
……もともと紫家は黒家が護身の為に設立したようなものだったから、黒家は紫家に対して特に強い権限を持ってた。反乱が露見し、黒家は何とかしらを切り通したけれど、紫家の解体は免れなかった。
紫家の子どもたちは皆殺しにされたそうよ」




