第28話 黄城(ホワンチョン)
《東京中華街》の中に於いて、五百メートル級の高層ビルはさして珍しくない。
中でも一番の高さを誇るのが、黄龍大楼だ。
黄家の居城ともいえるその超高層ビルは、少々、風変わりな構造をしていた。
まず、一階から八十八階部分までは、現代的なガラス壁面のビルだ。二本の巨大柱がそのビルを支えていて、それらはしめ縄のように幾重にも身を捩っている。そして、その交差する柱と柱の隙間に、それぞれの階が刻まれているのだ。
いわゆる、二重らせん構造である。
これは二頭の龍が絡み合い、天に昇るさまを現していて、黄家が実質的にはこの街の支配者であるという事を暗に示していると言われている。
黄龍大楼の全容はそれだけではない。その現代的なビル部分の上に、紫禁城を思わせるような中国建築が鎮座しているのだ。
勿論、大きさは本物と比べるべくもない。だが、朱色の壁面や黄色の屋根瓦、或いは建物を支えるいくつもの柱の存在は、かの歴史的建造物を嫌でも彷彿とさせる。《東京中華街》の者たちは、その城を羨望と妬みを込め、黄城と呼んだ。
その黄城の一室。
出窓に二十歳前半ほどの若者が腰を掛け、眠たそうに欠伸をしていた。
精工な唐草模様の刻まれた窓枠の向こうには、絢爛豪華なる《東京中華街》の街並みを一望することができる。
この街の中に於いて、黄城からの眺めは、ただの美しい夜景などではなく、常人の想像を絶するほどの価値を持つ。何故なら黄家以外の者は足を踏み入れる事すら叶わないが、その黄家の者でさえ、誰でもこの眺めを拝めるというわけではないからだ。
ごく一部の選ばれし支配者のみに許された、真の特権――それがこの眼下に広がる煌きなのだ。出窓に腰掛ける若者は、その特権を余すところなく平然と享受しているのだった。
獰猛なネコ科の肉食獣を思わせる、挑発的な瞳。欠伸で緩む口元には、好戦的で鋭い犬歯がのぞく。頭髪は金髪で逆立たせ、後頭部からは三つ編みが胸元にまで垂れている。深紅のチャイナ服は絹でできており、胸元には金糸で彩られたチャイナボタンが光沢を放っていた。
若者は細身だが、体はかなり鍛えているらしく、肉付きがいい。肩ががっちりとしていて二の腕の筋肉も発達しており、胸板も厚い。傍らには巨大な青竜刀を携えている。精緻な彫刻を施された、美術品としても価値の高い業物だ。
若者の名は、黄雷龍。《レッド=ドラゴン》の幹部で序列三位の高位ゴーストであり、黄家の次期当主と目されている男である。
「かったりぃな……なんか面白い事ねえのかよ……」
黄雷龍は、不機嫌にそう呟いた。
雷龍は自分が行く行くは黄家を――そしてこの《レッド=ドラゴン》を率いていく立場であるという事を自覚している。伯父であり現当主でもある黄鋼炎からも、その為の帝王学を厳しく叩き込まれてきたし、自分もその期待に応えるべく、最大限に努力してきた。
その現状には、不満はない。それにも関わらず、最近の雷龍は若干、胸の燻りを覚えていた。
《東京中華街》は発展している。この《監獄都市》の中でも、最も発展し成長を遂げている街だと言っても過言ではないだろう。だが、池袋は狭い。狭いから、上へ上へと高層化していく他ないのだ。《監獄都市》の大部分は、依然として《新八洲特区》と《中立地帯》で占められている。誰もそれに異論を唱える者はいない。だが、雷龍はそういう、既定のルールに疑問すら抱かない衆愚ではない、と自らの事を認識していた。
(……俺たちはもっと成長できる。もっとでかくなる。その為には、土地が必要だ)
勿論、『領土拡大』がそう容易い話でないのは分かっている。そんなことをすれば、まず《アラハバキ》は黙っていないだろうし、《中立地帯》の《死刑執行人》たちも間違いなく動き出すだろう。だが、《レッド=ドラゴン》も力を蓄え、今やそれらに対抗できる力を十分持っている。血は流れるだろうが、勝算がないわけではない。
だが、今のところ、そのような気配は全くない。せめて大規模な抗争でも起きてくれれば、仕掛ける口実もできるというものだが、ここ数年はそのような気配もない。《中立地帯の死神》――東雲六道が陰で暗躍し、抗争の芽を悉く摘んでいるという話も聞く。
(余計なことをしやがって……)
《新八洲特区》はともかく、《中立地帯》はその大部分が荒れ果てた廃墟だ。それなら、それらの土地を《東京中華街》へと吸収させてしまっても構わないではないかと、雷龍は思う。
《レッド=ドラゴン》なら、その様に無駄に土地を遊ばせたりはしない。この街と同様、きっと成長し発展させてみせる。
だが、現実はそう、うまくはいかないのだった。《レッド=ドラゴン》に与えられたのは池袋という、あくまで世界全体から見れば豆粒のようなごくごく小さい街のみだ。その中をいくら開発させようと自由だが、そこからは一歩も外に出ることを許されないのが実情なのだった。
だから、黄雷龍は待っているのだ。きっかけさえあれば、このぬるま湯に浸かったかのような状況は一変するだろう。その時こそ、勢力拡大のチャンスだ。いずれ『面白い事』は向こうの方からやって来る。どんなに平穏に見えても、所詮この街は《監獄都市》なのだから。
ただ、それを待つのもだんだん、うんざりしつつあるというのが現状だった。黄雷龍は今の《レッド=ドラゴン》の組織力を――そして何より、自分自身の実力を試してみたくて仕方なかったのである。
何度目かの溜息をついた時。不意に、亀甲紋と唐草模様を合わせてデザインされた、豪奢なオーク色の部屋扉が、勢いよく開いた。深紅の絨毯の上を小躍りしながら現れたのは、ブランド品に身を包んだ若い女性だ。
「見て見て、雷龍! 似合う!?」
「香露か。一体、何しに来たんだよ?」
雷龍は半眼でそれを出迎えるが、香露はそのテンションの低さを気にした風もなく、喜びを露わにしてくるりと一回転する。
「ふふん……どう? エ〇メスのバッグにカ〇ティエの指輪、ディ〇ールのワンピース! どれも今年の新作なの! 爸爸に頼んで、わざわざヨーロッパの本店から取り寄せてもらったんだ! このために、わざわざダイエットまでしたんだから! どう、似合うでしょ~?」
緑香露は、そう言ってモデルのようにポーズを決めた。ファッションに合わせてか、髪は本来の黒ではなく、ローシェンナに染め上げ、顔も欧米風のくっきりした化粧を施している。
似合うか似合わないかと問われれば、間違いなく似合うだろう。香露は幼馴染の雷龍の目から見ても美人だ。スタイルもいい。欧米の有名ブランドに身を包むその姿は、まごう事無きセレブのお嬢様だ。ただ悲しいかな、それらは雷龍にとってさして価値のある事でもなければ、興味のある事でもなかった。
「……。どれもギラギラしてんなあ……」
投げやりに感想を漏らすと、さすがに香露はむっと顔を顰めた。
「何よ、もう! 折角、許嫁が会いに来たのに、他にもっと言う事はないわけ? あたしがこうやって女磨きしてるのも、全て雷龍のためなんだよ? 雷龍だって、どうせなら婚約者に恥ずかしくない奥さんになって欲しいでしょ?」
「どうでもいい……っつーか、頼んでねーし。あー、それより何か起きねえかな。退屈で死にそうだぜ……」
「もう……ホンットにお子様なんだから」
香露はあまりにも素っ気ない雷龍の反応にぷりぷりと腹を立てると、部屋に設えられていたテーブルチェアセットへと向かった。そこかしこに細かな細工や金箔が施してあり、清朝の高名な貴族が所有していたという、格式のあるアンティークだ。香露はその中華椅子にドカッと腰掛けると、傍に控えていた侍女に合図を送り、何やら美しい器に盛られた菓子のようなものを持ってこさせた。透明で弾力性があり、傍目にはゼリーか何かの一種のように見える。
「っつーか、お前、何食ってんだ?」
スプーンで菓子を口に運ぶ香露に尋ねると、香露は雷龍をちろりと睨む。
「コラーゲンよ、コラーゲン! お肌に超良いの、知らないの?」
「まずそーだな」
「味なんて、どうでもいいの! 美容が第一なんだから!」
ダイエットだの、美容だのって、そんなに見てくれを着飾ることが大切なのか。雷龍は半ば呆れつつ口を開いた。
「女って、やたらと美容に拘るよな」
「……何よ、悪い?」
「美しくなったからと言って、この街に閉じ込められた現状が変わるわけでもないだろ。こんな狭い世界で美を追求したとして、何か意味あるのか?」
そもそも、そんなものを食べて本当に美しくなれるかどうかも疑わしいではないか。雷龍はそう思ったのだが、香露は不服そうに唇を尖らせた。
「だって……仕方ないじゃん。他にすること、無いんだし」
こんな狭い世界だからこそ、美容に心血を注ぐくらいしか、やることがないのだと、そう反論する香露に、雷龍はますます気が滅入る思いだった。
どうして自分たちがこんな場所に閉じ込められなければならないのか。何故、決してより多くを手にすることが許されぬのか。そんなのは間違っている。力ある者には、それ相応のものを手にする権利がある筈だ。
再度、苛立ちを込めて息を吐きだしていると、屋敷の廊下が妙に騒がしくなる。聞こえてくるのは荒々しい足音や、殺気交じりの怒鳴り声だ。控えめに見積もっても、穏やかな様子ではない。
「何だ……?」
「やだ、何かあったのかしら」
雷龍は香露と顔を見合わせた。嬉々として興奮交じりの雷龍とは違い、香露は面倒くさそうな表情だ。
するとその時、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。現れたのは雷龍の良く知る顔だった。黒髪黒目で短髪の青年は、すらりと背が高い事以外、これといった特徴が無い。薄錆色のチャイナ服を纏っていて、胸元には黄色いチャイナボタンを留めている。雷龍と並ぶと、まるで存在そのものが影であるかのような若者だった。
青年は室内に香露がいるとは思わなかったのだろう。驚いたように軽く目を見開き、慌てて香露に会釈をした。そして次に、滑るようにして雷龍の方へ近づいてくると、そっと耳打ちする。
「雷様」
「何だ、影剣? 何があった?」
すると、黄 影剣は僅かに顔を強張らせ、声を潜めた。
「侵入者です。どうやら《中立地帯》のゴーストが紛れ込んだようなのですが……いかがいたしましょう?」
「はっ……! 今どき、物好きもいたもんだ」
雷龍はそれを一笑に付した。ひ弱な《中立地帯》のゴーストが、この街に潜り込んで何をしようというのか。せいぜいこの街の発展ぶりに驚き、腰を抜かすのが関の山だろう。それを想像すると、笑わずにはいられなかったのだ。
一方、香露も雷龍と影剣の会話を聞いていたようだった。両腕を掻き抱くと、忌々しそうに身震いをし、悲鳴を上げた。
「やだ……《中立地帯》ってあれでしょ? ボロッボロの犬小屋みたいなところでしょう? あーやだやだ! どうしてそんなとこに住む貧乏人が、この《東京中華街》にやって来るのよ? 貧乏が伝染っちゃう……すぐに追い出してよ!」
「《中立地帯》の奴らは腑抜けぞろいだからな。そういうのは光霧の奴にでも対処させりゃあいいだろ」
雷龍は片手を振ってそういうと、再び大きな欠伸を放った。確かに雷龍は刺激を求めている。だが、それはあくまで《監獄都市》を揺るがすような大事件や、身の内が震えるほどの強大な相手だ。決して、百パーセント勝利が確定している雑魚ではない。
ところが、影剣は前屈みになると、雷龍の耳元に顔を寄せ、更に声を潜めた。
「それが……相手は《東雲》の《死刑執行人》のようです」
それまで気の抜けきった様子だった雷龍は、かっと眼を見開き、表情を一変させた。そして猫科の獣のように吊り上った瞳をぎらりと光らせ、にい、と笑う。
――これだ。自分はこれを待っていたのだ。東雲探偵事務所の連中が何をしにこの街にやって来たかは知らないが、許しを得ずにこの街に侵入したとなれば、《休戦協定》にも抵触する可能性がある。そうなれば、正々堂々と正面からやり合える口実にできるだろう。自分の実力を試す大きなチャンスだ。
そう考えると、全身の血が沸騰し、細胞の一つ一つが活性化するかのような激しい興奮を覚えずにはいられなかった。
雷龍は勢いよく立ち上がると、傍らに携えていた巨大な青竜刀を肩に担ぐ。
「面白えじゃねーか……一体、何しにきやがった?」
「それは分かりませんが……どうやら紅神狼もこの街にいるようです」
「神狼が……?」
雷龍はさすがに眉根を寄せた。神狼が現在、東雲探偵事務所に籍を置いているのは知っている。だが、それでも神狼は優秀な《紫蝙蝠》だ。いや、だった、と言うべきか。ともかく、潜入や内偵には恐ろしいほど長けていて、その痕跡を決して相手には悟らせない。それなのに、こうもやすやすと潜入を察知させるとは、一体何があったのか。それとも、この情報自体が何かの罠なのか。
冷静に考えてみると、妙なことだらけだ。確かに東雲探偵事務所と《レッド=ドラゴン》は対立する事もなくはない。しかし、《アラハバキ》と比べれば、その関係はずっと良好だと言えた。それは、単に信頼関係の有無や性質上の問題ではなく、その方が双方にとって利益があるからでもある。
《レッド=ドラゴン》にしてみれば、《アラハバキ》と敵対している手前、東雲探偵事務所とは出来るだけ穏便に事を済ませたいという事情がある。また、東雲探偵事務所の方も《アラハバキ》と《レッド=ドラゴン》の両方を一度に敵に回したくはないと考えている筈だ。
睨み合う《レッドードラゴン》と《アラハバキ》、両者の対立のストッパーの役目をするのが東雲探偵事務所――というのが、この《監獄都市》に於ける平時の構図だ。だから、東雲探偵事務所の側が《レッド=ドラゴン》へと積極的に仕掛けて来ることは基本的にない。
勿論、《レッド=ドラゴン》が重大な犯罪に手を染めていれば話は別だが、今のところその様な話は浮上していない筈だし、あの伯父に限ってそれが露見するヘマを踏むわけもない。
一体全体、何があったのか。いや、何が起こっているのだろう。この黄家の庭とも言うべき池袋で、一体何が――? 疑問がないわけではなかったが、結局、己の力を試したいという自己顕示欲の方が勝った。雷龍は大ぶりの青竜刀を握る手に力を籠める。
「まあいい。……そういう事なら、俺が行く!」
「雷様、しかし……!」
「そうよ、雷龍! 勝手なことをしたら、伯父様に怒られるわよ!?」
影剣は懸念と難色を同時に示し、香露は厄介事などご免だとばかりに唇を尖らせる。だが、雷龍はその両方をきれいに無視し、屋敷の廊下へと踏み出すのだった。
「へっ……伯父貴が怖くてやってられるかよ。黄家の次期当主はこの俺だ! それに神狼が戻ってるなら、盛大に出迎えてやりてえしな……!」
《アラハバキ》や《中立地帯》の連中と狡猾に渡り合い、《レッド=ドラゴン》をここまで発展させ、成長へと導いた伯父の手腕は、雷龍も素直に尊敬している。だが、《東京中華街》が次のステップへと進むためには、伯父のやり方だけでは不十分なのだと雷龍は考えていた。これからは、自分たち若い世代が、時代を築いていくのだ。
(何より、相手が《東雲》の奴らなら、少しは楽しめるだろう。この地獄みてえな退屈ともおさらばってわけだ。ぞくぞくするぜ……‼)
そして黄雷龍は、全身を駆け巡る興奮を隠しもせず、獰猛に瞳を光らせ、舌なめずりをするのだった。




