第26話 茶家と紫家
どうにも事情が呑み込めず、神狼へと視線を送ってみるが、何も説明はない。男たちに素性がばれ、それどころではないのだろう。
そうしている間にも、男たちは目を爛々と光らせてにじり寄ってくる。彼らは既に、自分たちの追っていた少女など、見向きもしない。ただ新たな獲物を仕留めんと、獰猛に舌なめずりをしている。
それほど、黒家が神狼にかけた報奨金が高額だという事か。
「へへへ……よく見りゃ、女みてえな顔してんじゃねーか」
「逃げんじゃねーぞ、かわい子ちゃん?」
「大人しくするなら、悪いようにはしねーからよお!」
男たちは一斉に瞳孔に赤光を灯らせた。《レッド=ドラゴン》はゴーストギャングだ。神狼によれば、所属するのは一定以上の実力を持つゴーストばかりだという。
これはさすがに逃げられない――深雪がそう危惧したのと同時だった。それまで男たちの様子を窺っていた神狼の眼が、すっと冷え冷えとしたものになっていく。事務所で見たことのある、《狩り》の時の眼だ。近寄る者を悉く凍らせるかのような、圧倒的な闘気。
「……‼」
深雪はうなじの産毛が逆立ち、震えを帯びるのを感じた。
(神狼、ここでやる気か!)
そうとは知らず、黄家の一人が、ニヤニヤと下卑た笑顔を浮かべて、神狼へと手を伸ばす。大方、僅かばかり痛めつければ、大人しく言う事を聞くとでも思っているのだろう。娼館で強制労働を強いている少女たちのように。
それが完全に徒となった。男の指先が神狼のパーカーに触れかかった次の瞬間、神狼は男の手を捻り、逆手に取ると、隠し持っていた匕首――短刀の形をした暗器を男の首筋にピタリと突きつけた。電光石火の身のこなしに、当の男はおろか、周囲の黄家の者たちも、誰一人として対応できない。
「ヒッ……!」
「なっ……?」
「何だ、今の? 手元が全く見えなかったぞ……!?」
男たちは驚きのあまり、アニムスを行使することすら忘れてしまったようだ。その瞳から攻撃的な赤光が、一斉に消えていく。荒事にはそれなりに慣れているであろう彼らだからこそ、その一手で神狼の実力のほどを瞬時に悟ったのだろう。
神狼は殊更に声音を低め、全身から容赦なく、斬りつけるような刺々しい殺気を迸らせた。
「……紫家の名を知りながラ、堂々と喧嘩を売ってくるとはナ。《レッド=ドラゴン》にも随分おめでたい連中が増えたと見えル」
それを聞いた黄家の一人が、化け物にでも遭遇したかのように激しく顔面を引き攣らせた。
「そうか……紫家ってことは、こいつ、《紫蝙蝠》の一員か‼」
「《紫蝙蝠》って……ウソだろ!?」
「ひいっ……‼」
男たちの顔が、皆、みるみる青ざめていく。それは動揺などという生易しいものではない。目を剥き、腰が引け、唇も震えて、完全に恐慌状態だ。
《紫蝙蝠》という言葉の意味は深雪には分からないが、それが彼らにとっていかに恐ろしく忌避すべき存在であるのかは、よく分かる。
そして《紫蝙蝠》と呼ばれた当の神狼は、捕らえた男の首筋に突きつけた匕首に、更に力を込めた。鋭利な切っ先が、ずぶりと皮膚に食い込んで鮮やかな鮮血を散らす。男は情けない悲鳴を上げ、身を捩った。だが、神狼の拘束は解けない。
「動くナ! 動けバ、こいつの命はないゾ‼」
「く、くそ……‼」
黄家の者たちは、神狼と距離を取り、そのまま動きを止めた。だが彼らは、あまり仲間を大切にする性格であるようには見えない。捕らえられた男の身が心配というよりは、神狼が何者か、本当に《紫蝙蝠》であるのかどうかを測りかね、警戒しているのだろう。
神狼は男を押さえつけたまま数歩、前進すると、背後にいる深雪に向かって鋭く囁いた。
「……今のうちに行ケ!」
「神狼……!?」
「聞こえなかったのカ!? そいつを連れて、今のうちに行ケ‼」
神狼は娼館から逃げ出して生きた少女をちらりと一瞥した。深雪たちに掴みかかってきた少女も、黄家の男たちと同様、神狼の動きに驚いたのか、パニックはすっかり治まり、今はただ震えて立ち尽くしている。
「でも、神狼はどうするんだ!?」
「二手に分かれル。……奴らの狙いは俺ダ。俺が注意を引き付けるカラ、その間にお前はそこの女と街の外を目指セ!」
『半端に同情し、半端に関わったりしたら、絶対に後悔することになる』――裏を返せば最後まで責任を取れと言う事だろう。深雪たちにとってはかなりの回り道だが、少女の身の安全を保障するなら、確かに最低でもこの街から脱出するしか他に術はない。
とても神狼らしい判断だと思った。そして深雪も、それに異論はなかった。
「わ……分かった。けど、無理はするなよ!」
声をかけると、神狼はいつものように不機嫌そうな返答を寄越す。
「誰に向かって言ってるんダ? ……いいから、行ケ!」
「行こう、こっち!」
深雪は少女の手を引き、一目散に走り始めた。街の区割りも二十年前とは激変していてさっぱり分からないので、取り敢えず来た道を戻ることにする。
(神狼の奴、さっきすごく顔色が悪かった。うまく逃げられればいいけど……!)
黄家の者に匕首を突きつける神狼は、一見するといつもの調子を取り戻しているように見えた。だが、その数分ほど前までは、あれほど苦しそうにしていたのだ。そんな僅かな時間で回復したとは、とても思えない。絶対に相当な無理をしているに決まっている。
そうさせてしまったのは、半分は深雪のせいだ。責任を感じつつ、背後を振り返ると、神狼はまだ黄家の男たちと睨み会っていた。
その黄家男たちの一人が、こちらを指さしている。大方、借金のかたが逃げた、などと喚いているのだろう。今は、この少女を安全な場所まで連れて行くのが先だ。少女の方もそれに反対する気はないのか、大人しく深雪について来る。
深雪は名も知らぬ少女の手を引き、走り続けた。
豫園の雰囲気をたたえた路地からメインストリートへ戻ろうとした深雪だったが、どこをどう間違ったのか、全く違った区画へと迷い込んでしまった。
そこは今までのようないかにも観光客を意識した通りではなく、ごみごみとした細い路地裏だった。あちこちにゴミが落ちていたり、落書きがしてあったりと、至る所で生活感が感じられ、照明も控えめで薄暗い。
深雪は昔、映画で目にした胡同の光景を思い出した。石造りの壁に、細い路地。人が一人通れるかどうかといった、極細の路地もある。ところどころには民家の勝手口と思しき扉やゴミ箱、物置などが点在していた。
どうやらその辺りは、観光客は足を踏み入れず、《東京中華街》に住む者たちの生活の場になっているようだ。この街にもこのような場所があるのかと、深雪は少しだけ拍子抜けした。
ただ、メインストリートのきらびやかな光景や、いかにもアジア的な観光地感が満載の豫園風の路地より、こちらの方が何だか肌に馴染むというか、しっくりくる。ただ、知らない場所に迷い込んでしまったという点では、大問題だが。
深雪は疲れてはいまいかと、少女の方を振り返った。出会った時は薄絹を纏っただけで、殆ど半裸状態だった彼女だが、今は深雪の着ていたチャイナ服の上着を着ていた。丈の長い長袍なので、少し引き摺っているが、それは我慢してもらうしかない。
それに加え、細い足には深雪の短いソックスを履いていた。最初は深雪の靴を履かせてみたが、サイズが大きすぎて合わなかったのだ。かと言って、路上を裸足で歩き続けるのは寒いし危険も伴う。何もないよりはと思ったのだった。
一方の深雪は、黒いタンクトップにだぼだぼのズボンと、何だか古いカンフー映画の主人公みたいな恰好だった。《監獄都市》の気温は他より寒いらしく、夜になると更に冷え込むので、少々、肌寒い。だがそれも、耐えられないほどではない。
後は二十年前に負った火傷の跡が人目に付くのが気になったが、ちょうど周囲が薄暗いので、見咎められることもなかった。少女は捲れ上がったような皮膚の傷を見て少し驚いたようだったが、それ以上、何かを尋ねたりはしなかった。
それにしても、一体ここはどこで、どちらに行けば良いのだろうか。四辻で立ち往生していると、それまで黙っていた少女がおずおずと話しかけてきた。
「もしかして……迷ったの?」
彼女の泣き叫ぶ姿しか目にしていなかった深雪は、普通に声をかけられたことにひどく驚いたが、すぐに困り果てて頭を掻いた。
「ああ、うん……ごめん。本当は、池袋駅に行きたかったんだけど」
「私、道……知ってる」
「そっか。最初から聞いとけばよかったかな」
思えばこの少女もまた、この《東京中華街》の人間なのだから、それが賢明だというものだが、まさか彼女がこれほど落ち着いて会話できるとは思っていなかったので、すっかり失念していたのだ。
「俺、雨宮深雪って言うんだ」
「私は……茶玉宝」
心なしか、玉宝は自分の名を名乗る時に、少しだけ言い淀んだ気がした。何か名を聞かれてはまずいことがあるのだろうか。
「えっと……君も《レッド=ドラゴン》の一員なの?」
《レッド=ドラゴン》には赤、黄、黒、白、藍、緑の六つの家があり、構成員は皆いずれかの家に属するというが、玉宝の姓は茶――そのどれにも当て嵌らない。疑問に思って尋ねると、玉宝は気まずそうに目を伏せる。
「私自身は茶家の出ではないんだけど、昔、少しだけ茶家の人たちにお世話になって……その時に茶家を名乗ることを許されたの。その当時は名誉なことだったけど、今はそのせいでこんなことになって……人生って本当、何が起こるか分からない」
――茶家。紫家と同じく、神狼の説明には無かった家だ。
「茶 ……って、もしかして、茶色の茶?」
「ええ」
「でも、《レッド=ドラゴン》を構成するのは、赤、黄、黒、白、藍、緑の六つの家だけだって聞いたけど」
すると、玉宝は少し目を見開いた。
「知らないの? 昔は全部で八家が存在していたの。今ある六家に、茶家と紫家を足した八家。ただ……今は茶家と紫家の二つは、滅んでしまったけれど」
(そうか……神狼は元々、紅家ではなく、紫家の人間だった……?)
神狼は紅家の養子なのではないか。藍家の次期当主も養子だというから、あり得る話だ。紅家に対して妙に余所余所しかったのも、そのせいか。推測を確信へと変えるべく、深雪は玉宝へ質問を重ねた。
「でも、どうしてその二家は滅んだんだ?」
「茶家は陥れられたの。あらぬ罪を着せられたのよ……‼」
玉宝は、よほど茶家の事を慕っていたのか、その声には我が事のように悔しさが滲んでいた。深雪は予想外に語気を荒げる玉宝を、呆気に取られて見つめる。
「それじゃ……紫家は?」
さらに尋ねると、玉宝は言葉を濁らせた。
「紫家の事は、私もよく知らない。あの家はちょっと特殊で……忌々しい連中だと嫌っている人も多かったから……」
『忌々しい連中』。先ほど、黄家の男たちが神狼に対して、《紫蝙蝠》だと恐れ戦いていた姿を思い出した。彼らが神狼に抱いている感情は紛れもなく恐怖心だったが、それが《レッド=ドラゴン》全体の認識だとすると、忌々しいと思う人々もいるだろう。特に組織を支配している紅家や黄家にとっては、自分たちと同等かそれ以上に恐れられている存在がいるという事態は、決して面白くないに違いない。
(ああ……だから神狼は『紅家は頼れない』のか……?)
深雪にはどういう事情があるのかは分からない。ひょっとすると、養子の身だからと敬遠しただけかも知れない。
ただ、神狼は深雪に紫家の事を一切、話さなかった。かつて紫家が存在したことも、自らがその紫家の一員だった事も、全て故意に伏せていた。深雪だけではなく、おそらく他の誰にも知られたくない事だったのだ。深雪にも他人に知られたくないことがあるから、その気持ちはよく分かる。神狼が古巣を追われたのも、何となくその辺に原因がありそうな気がした。
(滅んだ二家……か。何だかきな臭いな……)
考え込む深雪だったが、その場で悠長にしている暇は無かった。細い通りの向こうから、男たちの怒鳴り合う声が聞こえてきたのだ。次いで、複数の荒々しい足音。少女はびくりと身を竦めた。追手が近くまで迫っているのだ。
深雪は慌てて少女の手を取って走り始める。そして、一際、暗い路地へと彼女を押し込み、自らもその細い路地の中に飛び込んで息を潜めた。それから程なくして、複数の男たちが怒鳴り合いながらやって来て、深雪たちの目の前を走り過ぎていく。
「おい、女はいたか?」
「いや、こっちにはいねえ」
「くそっ……どこに行きやがった!? せめて女だけでも連れて戻らねえと、俺たちが罰せられるぞ!」
「分かってるって。だからこうやって探してんじゃねーか!」
男たちはみな血眼になり、玉宝の行方を追っていた。『せめて女だけでも』という台詞から察するに、おそらく神狼はあの場からうまく逃げおおせることが出来たのだろう。それは一安心だったが、その分、深雪たちへと追手が回ってきてしまっている。
深雪は男たちの胸元を注意深く見つめた。
(黄色のチャイナボタン……あれも黄家の奴らか。俺たちの事、かなり広まってるみたいだな……どうする、このままじゃ身動き取れないぞ……!)
目の前を荒々しく走り去っていった男たちは、最初に玉宝を追っていた男たちとは違う面々だった。一体どれほどの数の人間が、追手に回っているのだろうか。黄家が《レッド=ドラゴン》の最大勢力であることを考えると、状況は厳しいと判断せざるを得ない。途方に暮れる深雪の傍で、玉宝は消え入りそうな声で呟いた。
「ごめんね。私のせいで、こんなことになって」
「気にすることないよ」
「でも、あなたこの街の人間じゃないんでしょ?」
「分かるの?」
驚いて玉宝を見ると、少女は弱々しい微笑を浮かべた。
「うん。何ていうか……感じが全然違うもの」
「……そう?」
「《レッド=ドラゴン》はね、それぞれの家のカラーを何より大事にするところなの。でも、あなたは何も染まってない。何ていうか……無色透明な感じ」
深雪は何と答えて良いか分からなかった。自分の事をそういう風に考えたことは無かったし、正直に言うと、あまりぴんと来なかったのだ。『何も染まっていない』と言われるのは誉め言葉であるような気もするが、『無色透明』は透明人間みたいで、いかにも頼りなく、存在感が薄そうだ。
おまけに自覚は殆ど無いし、そう言われるならそういうものかと思うしかない。
すると、一度は遠ざかった男たちの話し声が、再びこちらへと近づいてくる。
「駄目だ、こっちにもいねえ」
「チョロチョロしやがって……あっちの細い路地を探してみるか」
「……‼」
男たちの指さしたのは、ちょうど深雪たちの潜んでいる小路地だった。深雪の心臓は大きく跳ね上がった。
(こっちに来る……!?)
玉宝も全身を震わせ、深雪のインナーのシャツを握りしめる。
「う……ううう……‼」
連れ戻されるという恐怖がぶり返してきたのだろう。玉宝は悲鳴とも呻き声ともつかぬ声を漏らした。深雪は玉宝の手を引き、細い路地のさらに奥へと進む。この路地が、途中で行き止まりになっていないことを心の底から願いながら。
細い路地は、進めば進むほど、いくつも枝分かれしている。どの道を選ぶのが正解なのかさっぱり分からない。取り敢えずは直感を頼りに進んでいく。
ところが、いくらも進まぬうちに前方から殺気立った男たちの怒声が聞こえてきた。慌てて右に曲がるが、そちらの方からも声が聞こえてくるではないか。来た道を戻ることもちらっと考えたが、そちらもおそらく追手に塞がれている。
(囲まれている……‼)
深雪たちの入り込んだ路地は一本道で、他に入り込める路地もない。あるのはぴたりと閉め切られた民家の勝手口だけだ。前方からも後方からも、怒声がひたひたと迫っている。このままではもはや男たちに捕まるのは時間の問題だろう。
深雪は唇を噛み締めた。いよいよ万事休すだ。
立ち往生していると、俄かに眼前の戸口が開く。
「……!?」
ぎょっとして身構えると、戸口の隙間から覗いたのは、十歳を過ぎたあたりの、二人の少女たちの顔だった。よく見ると二人は顔立ちが瓜二つだ。双子なのだろう。くりっとした大きな瞳が四つ、深雪たちを認めると、こっちに来いと手招きした。
「こっち! 入って、早く!」
双子の少女たちは、全くの見知らぬ他人だったが、細かいことを確認している余裕は無かった。渡りに船とばかりに、深雪と玉宝は扉の中へと勢いよく滑り込んだ。




