第25話 《東京中華街》④
もし、《レッド=ドラゴン》の支配者に目を付けられているとしたら。潜入の危険度もぐんと増す。その辺が一体どうなっているのか――今更、知ってどうなるものでもないが、よく神狼に聞いておかねばならないと思った。
深雪は神狼へと視線を向けた。ところが、横を歩く神狼に異変が起きていた。神狼は先ほどと違い、肩を上下させている。呼吸も荒々しく、顔色も心なしか悪いように見える。
「……神狼、大丈夫か? シンドくなったら、そう言えよ」
歩くのも辛いのか、神狼は立ち止まって膝に手をつき、身を屈めてしまった。深雪もまた立ち止まって、その背中を擦る。すると神狼は顔を歪め、深雪の手を振り払った。
「うるさイ、お前の同情など必要ナイ!」
「そういう言い方、しなくてもいいだろ。同情してるわけじゃない。ただ、心配なだけだよ」
「それが必要ないと言ってるんダ!」
「いい加減にしろよ、そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
あまりにも神狼が強情で頑固なので、深雪もとうとう大声を張り上げてしまった。本当に具合が悪いのであれば、何か手を考えなければ。好きだ嫌いだと、感情的になっていがみ合っている場合ではない。
深雪の大声に驚き、通りすがりの観光客がこちらへ、ちらちらと視線を向ける。それに気づいた深雪は、声を潜めつつも神狼に向かって言った。
「俺たちは何しにここまで来たんだ? 鈴華を救出するためだろ。喧嘩をするためじゃない。せめてそれまでは、互いに協力し合わなきゃ、目的すらも果たせなくなる……そうだろ?」
「……!」
「俺たちがこのまま言い争って、《レッド=ドラゴン》に捕まりでもしたら、鈴華はどうなるんだ。黄家の三人組は彼女に対して、いい感情を抱いていないみたいだったぞ。このままじゃ、何をされてもおかしくない。……それでもいいのか? 一人で何もかも背負い込んで玉砕覚悟なのはいいけど、やれるだけ手を尽くす方が先だろ」
正論を突かれて反論できないのか、神狼はむっつりと黙り込む。しかし暫くして、苦々しげに吐き捨てた。
「……お前をここニ連れてきたのハ、鈴華を連れ去っタ連中の顔ヲ見ているからダ! お前ハ、あくまで藍家に協力を断られた時ノ保険……それ以上ノ理由なんてナイ!」
「それなら、それでもいいよ。どう言われようと、俺は神狼に協力するって自分で決めたんだ。でもそれは、あくまで鈴華の救出を成功させるためだ。失敗させるためじゃない」
神狼はまたしても黙り込む。もう言葉を発するのも辛いのか、眉根を寄せ、何かに耐えているような表情をしている。ぜえぜえと、息も苦しそうだ。
これは本格的に、どこかで休ませなければ。そう思っていると、やがて神狼は、先ほどよりさらに弱々しい声で、小さく呻いた。
「お前は俺の、最も嫌いなタイプの人間ダ! 事務所で初めて会った時かラ、気に食わない奴だと思ってタ……!」
「そりゃ、どうも。そんな前から嫌ってもらってたなんて、有難すぎて涙が出そうだ」
「お前の眼は何も失ったことがない者の眼ダ。与えられるのが当たり前デ、それに疑問を抱くことすらナイ……愚かで怠惰デ、傲慢な人間の眼ダ……‼」
言葉は途中で途切れ途切れになり、最後の方は殆ど掠れて聞こえなかった。今にも倒れ込んでしまうのではと、不安になるほどだ。
ここで倒れられたら困る。この街には医師の石蕗もいないし、他に診てもらう当てもない。それに下手に目立てば、《レッド=ドラゴン》に潜入を感づかれる恐れもある。東雲探偵事務所の《死刑執行人》が縄張りの中に潜り込んでいると知れたなら、《レッド=ドラゴン》は間違いなく激怒するだろう。神狼はともかく、深雪は半殺しにされても文句は言えない。
だが、深雪の懸念とは裏腹に、神狼の調子は見る間に悪化していく。
「おい、本当に大丈夫か? 顔が真っ青だぞ。やっぱりまだ具合が……」
とにかく、どこか休める場所を探さなければ。深雪はぐるりと周囲を見渡す。だが、豫園を彷彿とさせる街中はどれも似たような木造建築ばかりだ。看板や標識はあるものの、どれも中国語が主で、深雪にはいまいち何の施設だかよく分からない。
これは困った――そう顔を顰めた時だった。目の前の細い路地から若い女性が飛び出してくる。
深雪は動転した。その女性の格好が、ほぼ半裸で足も裸足、おまけに長い黒髪を振り乱していたからだ。キャミソールなど、必要最低限の下着の上に、天女が纏っているふわりとした衣を纏い、辛うじて上半身を覆っている。しかしそれでは四肢を隠すことができず、細い二の腕や腿が露わになっていた。
二十歳になったかならないかくらいの、うら若い女性だ。幼さの残る顔には美しく化粧が施されているものの、恐怖と焦りが色濃く浮かび上がっている。まるで、モンスターの襲撃から必死で逃れてきたお姫様のようだ。
どう見ても、只事ではない。
「なっ……!?」
女性と危うくぶつかりそうになった深雪は、ぎょっとして仰け反った。女性もまたひどく驚いたのか、その場で硬直していたが、すぐに慌てた様子で自分の背後を振り返る。そして深雪たちが何者かしっかり確認することもせず、上擦った声で悲鳴を上げる。
「た……助けて! 殺される‼」
すると、その女性を追ってきたのだろう、いかにも堅気ではなさそうな風体の、チャイナ服を着たゴロツキが数人、慌ただしく同じ路地から飛び出してきた。頬に傷はないので、鈴華を襲ったのとは別の男たちだ。でも、暴力的で利己的な雰囲気はよく似ている。
男たちは深雪とぶつかった少女の姿を認めると、やっと見つけた、とばかりに駆け寄ってきた。少女は「ヒッ!」と短く悲鳴を上げ、逃げようと走り出す。しかし男たちは素早く少女を取り囲み、行く手を塞いでしまった。
「おっと、どこに逃げるつもりだよ、お姫様?」
「こっちがお前の親父に、一体いくら貸してやってると思ってんだ! そいつを全部払い終わるまでは、みっちりお勤めしてもらわなきゃ困るんだよ!」
「い……いやあ! 誰かああ! 誰か助けてえええ‼」
獲物が死に絶えるのを待つハイエナのような、陰湿で歪んだ笑みを浮かべ、男たちは少女へと迫った。少女はつんざくような悲鳴を上げるが、最早、逃げる気力もないのか、血の気の完全に失った青白い顔で、細い手足をがくがくと震わせている。
「あ……あれは……?」
深雪は半ば呆然としつつ、神狼に尋ねた。神狼は男たちを警戒してか、顎を引き帽子のつばで自分の顔を隠しつつ、小声で答えた。
「こ……この近くに娼館がアル。そこから逃げ出して来たんだ……ろウ……」
「娼館って……それじゃあの子は、借金のかたに売られて……!?」
深雪は息を呑む。《東京中華街》の治安があまりにもいいので、つい忘れそうになるが、《レッド=ドラゴン》はあくまでもゴーストギャング――闇組織なのだ。裏ではいろいろとあくどいことにも手を染めているだろう。ただでさえ、カジノや風俗店は犯罪と隣り合わせだ。
頭ではそれを理解していても、実際にその一端を目の前にすると、衝撃を受けずにはいられない。
男たちの一人が女性の細い腕を掴み、乱暴に連れ戻そうとする。少女はよほど酷い目にあってきたのか、狂ったように泣き叫んでそれに抵抗した。ところが、周囲の通行人はみな、騒動を見て見ぬふりで通り過ぎていく。観光客は勿論、《レッド=ドラゴン》の構成員と思しきチャイナ服の者たちも、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりだ。深雪は眉を顰める。
「誰も助けない……何でだ……?」
「奴らの胸元を見ロ」
神狼は男たちの胸元を、顎で指し示した。男たちのチャイナ服は、色や柄、形など様々だが、胸元のボタンの色だけはみな同じだった。
「あれは、黄色のチャイナボタン……?」
《レッド=ドラゴン》は赤、黄、白、黒、藍、緑、の六つの家に分かれており、それぞれの家にちなんだチャイナボタンを付ける。黄色は黄家の象徴だ。
神狼は低い声で囁いた。
「黄家は《レッド=ドラゴン》の最大勢力だと言っただロウ。もっとも力があるシ、恐れられてもいるんダ。実際、手を出せば報復を食らう恐れもあるしナ。敢えて首を突っ込み、逆らうものなどいなイ」
「そんな……!」
「俺たちも行くゾ」
そう言うと、神狼は再び歩き出した。一見すると平然としているよう見えるが、普段の神狼を見ていれば、足元が若干フラフラしているのが分かる。調子が悪いのを、何とか気力だけ堪えている――そういった様子だ。
確かに、男たちに気づかれ怪しまれる前に、ここを離れるのは正解かもしれない。だが、深雪の足は半裸の少女の傍から離れなかった。
「で、でも……あれを放っておくのかよ!?」
すると、神狼は忌々しそうに舌打ちをした。
「俺たちの目的はなんダ? 観光カ? それとも慈善活動カ? 違うだロ。今は鈴華を取り戻すことが何より先決だロ! お前だっテ、さっきまデそう言ってタだろうガ‼」
「そ……それはそうだけど……でも、あんなに嫌がっているのに……!」
このまま深雪たちまで見て見ぬふりで立ち去ってしまったら、彼女はどうなってしまうのか。そんな事、決まっている。娼館に連れ戻され、望まぬことを強要されるのだ。そして、最後はボロ雑巾のように捨てられる。
これから何が起こって最後はどうなるかまで、寸分たがわぬほど想像できるというのに、それでも無視をしろというのか。他に用事があるから自分には関係ないと、何も見なかった事にしろというのか。
勿論、鈴華を救出するという当初の目的を忘れたわけではない。その目的を果たすためには、こんな人通りの多いところで騒ぎなど起こすわけにはいかない。神狼の体調だって万全ではないのだ。強引な手段に走るわけにはいかない。
(どうすればいいんだ……‼)
何を最優先にすべきか。深雪は迷い、動揺した。つい先ほどまで自分が何をすべきか、澄み切った夜空に浮かぶ満月のように明確だったのに、今はそれに暗雲が立ち込め、霞んで見えなくなっていた。優柔不断なのは分かっている。だが、目的の為に己の好き嫌いを殺すことはできても、割り切って冷酷になりきることができない。
脳裏を鈴華の姿が何度も掠めたが、足は頑としてその場を動かなかった。
それを見た神狼は、苛立ちと反感の籠った声で、鋭く吐き捨てた。
「……だかラ、お前を連れてくるのは嫌だったんダ! ここで騒ぎを起こしたラ、何もかもが台無しになル……鈴華を取り戻せないばかりカ、俺たちの命すら危うくなりかねないんダ! 正義の味方を気取っている余裕はどこにもないんだゾ!」
「わ……分かってるよ、そんな事! ってか、いかにもなこと言ってるけど、神狼だって、さっきまで足を引っ張ってたじゃないか。具合が悪いのはいいにしても、俺の事は嫌いだ、協力するのは嫌だ……ってさ」
「は、話を蒸し返すナ!」
「でも、俺のはただの我が儘じゃない。あの子の人生や生命に関わる事だろ!」
「そんな事ニいちいち構っテいられるカ! 何故俺たちガ、通りすがりノ人間の人生を背負わなきゃナらないンダ!? それニ今あの娘を助けたところデ、根本的な問題ノ解決になるとは思えナイ……半端に同情シ、半端に関わっタりしたラ、絶対に後悔するコトになるゾ‼」
「……‼」
きっぱりと神狼から突きつけられたその言葉は、深雪に鈴華の祖母、鈴梅の言葉を思い起させた。
『――こっちは興味本位で首を突っこまれたらそれこそ迷惑なんだ! 聞けばあんたの身にも災いが及ぶよ! それでもいいってのかい!?』
神狼が言いたいのも、おそらく同じ事だろう。確かに、黄家の男たちを追い払ってはい終わり、などと単純には済むとは思えない。すぐに男たちは少女を追いかけてきて、深雪たちのいないところで彼女を捕え、当初の予定より更に酷い折檻を与えるだろう。
だが、今の神狼と深雪には、それを阻止し、彼女を守り続けるほどの時間を割くゆとりは全くない。
そういう意味では、神狼の『半端に同情し、半端に関わったりしたら、絶対に後悔することになる』という言葉は正鵠を射ていると言える。神狼は『深雪嫌い』が入ると、途端に強情で子供っぽくなってしまうが、基本的には冷静で的確に物事を考えている。
「じ……じゃあ、あの子を見捨てるってのか? 神狼はそれで本当に納得できるのかよ?」
反射的に問い質すと、神狼も痛いところを突かれたと思ったのか、ほんの僅かに言葉に詰まり、ぐっと唇をかみしめる。しかしやがて苛立ちを一層、濃く滲ませると、さらに語調を荒げた。
「納得できるかどうかの問題じゃナイ! 現実的に無理だと言ってるんダ‼」
「それは……そうだけど……!」
神狼は自分の調子が良くないことを自覚している。だからこそ少女をどうこうする余裕はないと言っているのだろう。それは深雪とて同じだ、慣れない潜入で周囲には神狼意外に味方がおらず、とても他人の事に構っている余裕はない。
《死刑執行人》はヒーローではない。全ての結末を、己の望む通りに掴み取れるわけではない。深雪は選ばなければならないのだ。目の前の少女か、それとも鈴華か。そしてどちらかを選ぶという事は、もう一つを切り捨てる事でもある。
心臓が早鐘を打ち、口の中がからからに乾いた。一体どちらを選ぶべきなのか。どう行動するのが『正解』なのか。
ところが、深雪の葛藤は突然、終止符を打たれた。少女が金切り声で叫び、死に物狂いで深雪たちへと飛びかかってきたのだ。
「お……お願い、見捨てないで! 連れ戻されたら折檻が待ってる……何でもするから、助けて‼」
もう、藁にでも縋りたい気持ちなのだろう。少女は必死の形相で、深雪と神狼の服に掴みかかってきた。
考えてみれば互いに自己紹介もしておらず、彼女は深雪たちが何者であるかも知らない筈だ。だが、切迫した状況に追い込まれた少女には、そんな事など、どうでもいいのだろう。或いは、このままでは連れ戻されるという恐怖のあまり、そういったことを冷静に考えられない状況なのかもしれない。溺れかけた者が、身近に浮かぶ漂流物に手当たり次第にしがみつき、何が何でも助かりたいと願うように、とにかく誰でもいいから助けを求めたいのだ。
「ち、ちょっと待……落ちてついて!」
いきなり掴みかかられ、深雪はぎょっとした。少女と言えど、死に物狂いの人間が見せる力は相当なものだ。女性だからといって、決して侮ることはできない。いわゆる、火事場の馬鹿力というやつだ。
深雪は何とか少女を落ち着かせようと声をかけるが、殆どパニック状態に陥った少女には、その言葉が届いている様子はない。
一方それまで、少女を捕らえる事しか眼中になかった様子の黄家の男たちは、徐々に深雪たちへと不審の目を向け始めた。
「あん……? 何だ、てめえら? 邪魔しやがったらただじゃ置かねーぞ!」
「さっさと行っちまえよ、腰抜けども。黄家に楯突いたら、どうなるか分かってるよなあ? 厄介事に巻き込まれたくはねーだろ?」
――このまま騒ぎになっては、まずい。何とか穏便にやり過ごさなければ。
それが無理なら、最悪、逃げるしかない。少なくとも神狼はそう考えたのだろう、そろりと僅かに後ずさりした。その仕草に気づいた少女は、今にも泣き出さんばかりに訴える。
「待って、お願い……置いて行かないで‼」
そして、両手にますます力を籠めた。右手は深雪のチャイナ服の腕を、左手は神狼のパーカーの袖をそれぞれ握りしめ、力任せに手繰り寄せる。その、女性とは思えないほどの凄まじい力に引っ張られ、深雪と神狼の体はがくんと激しく揺さぶられた。おまけにその弾みで、神狼の被っていたキャップが路上に落下してしまった。
(あっ……‼)
そう思ったのも束の間、帽子で隠していた神狼の顔が表に露わになる。神狼はすぐに顔を背けたが、黄家の男たちの一人が、それに気づいた。
「ん……? おい、こいつどっかで見た顔だぞ」
「はあ? このチビがか……?」
男たちは怪訝な表情を浮かべ、近寄って来て深雪と神狼をじろじろと観察する。そして、先ほどとは別の男が、神狼を指さして、あっと声を上げた。
「こいつ……もしかして紫家の生き残りってヤツじゃねえか……?」
「紫家って……あの紫家か!?」
すると、周囲の男たちも一斉に神狼へと視線を注いだ。そして、まるで金の卵を産むガチョウでも見つけたかのように興奮し、どよめき始めた。
「ああ、やっぱ間違いねえ! 黒家が出した、手配書に乗ってた顔だ! こいつを捕らえて黒家に突き出せば、大金が手に入るぞ‼」
「くっ……‼」
神狼は奥歯を噛み締めた。どこか中性的な線を残した端正な頬に、冷や汗が流れ落ちる。一方、深雪は若干、話が読めずに混乱していた。
「黒家が手配書……?」
神狼は確か、黒家は紅家や黄家と対立していると言っていた。そんな黒家の人間が、何故、紅家の者である神狼の手配書を出しているのだろう。
(紅家でも黄家でもなく、黒家の人間が神狼を狙っているのか? でも、何で……? それに、紫家って……!?)




