第23話 《東京中華街》②
最初は何となく、神狼が《レッド=ドラゴン》から追放されたのだろうと思っていた。何か禁を侵したか、或いは誰かの不興を買って、古巣にいられなくなったのだと。
だが、もしかしたらそんな単純な話ではないのかもしれない。誰かの許しを得れば、全て元の鞘に戻るなどという、そんな甘い話ではないのかもしれない。 そしてそうであるなら、いよいよ本人からちゃんと話を聞かない限り、真相を知ることはできないだろう。
しかし、ここで神狼を問い詰めたところで、それを明かしてくれるとも思えない。何せ深雪は神狼から一ミリたりとも信用を得ていないのだ。
これから《東京中華街》に潜入することを考えても、もう少し事情を知っておきたかった。だが、これ以上、深く追求するのはやめておいた方がいいだろう。神狼は明らかにそれ以上の詮索を望んでいない。それを無視して強引に問い詰めても険悪になるだけだし、何より、神狼が可哀想であるような気がした。
今のところは諦めるしかない。内部組織の対立構造を説明してくれただけでも、御の字だ。
深雪は深々と溜息をつく。一方、神狼はどこか宙の一点を見つめ、思惑に耽っているようだったが、やがてその視線をまっすぐ深雪へと向けた。そこにはいつもの疑心と警戒が、色濃く浮かんでいる。
「お前……何故、そんなことを聞ク? お前には何一つ関係のない話だロ。聞いて何の得がアル?」
「別に損得勘定で聞いたわけじゃないよ。俺は神狼の事、何も知らないから……興味があって聞いただけだよ」
素直に答えたつもりだったが、神狼は疑り深そうな視線を余計に強めただけだった。
「この世界でハ、知り過ぎる奴は長生きできナイ」
「大袈裟だなあ。……でもまあ、別にそれでもいいよ。何も知らずに、自分の殻に閉じこもって生きるよりは、命を狙われても知る方を俺は選ぶ。知るべきことを知らずに安穏と生きるのは、ただ夢を見ているのと同じなんじゃないかな」
瞼を閉じ、或いは耳を塞ぎ、自分に都合のよい世界に閉じこもって生きる事はできる。それに、そうしたからと言って誰に責められるものでもない。でも、それは果たして本当に生きていると言えるのか。本当にその『夢』は己自身にとって幸福な事なのだろうか。
それは違う、と深雪は思う。そんなのは幸せじゃない。ただ、それ以上不幸にならないようにしているだけだ。マイナスにならないように、現状維持をしているだけ。それでは、長くはもたないと分かっていながら、心地良さにしがみついている。
ただ、かく言う深雪も、全てを閉ざし、己の中に閉じこもったこともある。その時はまるで水族館の中にいるような感覚だった。深雪は安全なところから、水槽を眺めるようにどこか冷めた目で周囲を見ている。穏やかで空虚で、苦しみや悲しみも無いが、喜びや生き甲斐といったものも全くない、恐ろしいまでに静かな世界だ。
そして、自分に優しくしてくれる人たちにだけ、ほんの僅かに心を開いていた。
だがそれも、あまり意味がないのだということが分かった。その水族館のセキュリティも決して万全ではなく、容赦なく水槽のガラスを叩き割って侵入してくる者(――敢えて誰とは言わないが)にはとても対処できない。むしろ、頑なになれば成る程、不思議と摩擦が生じ、軋轢が強まったりもする。それなら、最初からピタリと閉め切らない方が賢明だ。
それに、仮にそんなことをしたところで、結局、最後にしわ寄せが来るのは自分自身だ。何故なら、どれだけ完璧に自分の世界に閉じこもることができたとしても、外の世界は待ったなしに変化を続けているのだから。
いくらゴーストと言えど、万物の変化からは決して逃れられない。それなら、自分の方から積極的に変化を受け入れ、挑み続けた方がいい。深雪は、今ではそう思っている。
だから、神狼にも手を貸そうと決めた。たとえ最終的に結果が同じだったとしても、どうしようもない後悔に身を焦がすより、自分がすべきだと思ったことを成した方がずっといい。動かずにじっとしていた方より、動き出した方がいい場合であれば、尚更だ。
深雪は神狼をまっすぐ見つめ返した。嫌われているのは知っている。疑いたいだけ疑えばいいし、好きなだけ警戒すればいい。深雪は自分を偽るつもりは無いし、適当な文句で誤魔化す気もない。無理してご機嫌を取り、好かれようなどとも思っていないし、そんな小手先の社交辞令で容易に信頼を得られるほど生易しい相手でもないという事も知っている。
本音を言うなら、嫌われているという事は決して気持ちのいいことではない。適当に、なあなあで済ませた方がいいのではないかと思う事もある。でも、これからたった二人で危険地域へ潜入するのだ。頼れるのは互いの存在だけ。そういう危機的な状況では、むしろ嘘や偽りの方が命取りになるのではないかと思うのだ。
今のうちに思う存分、反発してもらって、最後に納得してもらったら、それでいい――深雪はそのように考えていた。
神狼の眼にはやはり、好意的な色が浮かぶ気配はない。ただ、警戒や疑心に、微かに戸惑いが混じる。
「……。本当に気味の悪い奴だナ」
神狼がボソッと低い声で何事か呟いたので、深雪は「え、何か言ったか?」と、尋ね返すが、神狼はそれに答えることなく、不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。
「いいから、早くしロ! 用意できたのカ? さっさとしないト、置いていくゾ!」
「あ、いや待って! 今着替えるところなんだって!」
深雪は慌ててパーカーとその下に来ていたTシャツを脱ぎ、渡されたチャイン服に袖を通した。
青鈍色の上着は、丈が脛のあたりほどまであり、おまけにかなりダボッとしている。最初はサイズが合っていないのかと思ったが、そうではなく、もともと緩いタイプの長袍であるようだ。
丈が長いので動きづらいのではないかと懸念を抱いたが、実際に来てみると生地が柔らかく、裾が邪魔になることもない。胸元の鮮やかな藍色をしたチャイナボタンも、良いアクセントになっている。
一方、神狼の選んだ孔雀緑のチャイナ服は、タイトで丈も腰のあたりまでしかない。神狼はその上から灰色のパーカーを羽織り、ネイビー色の野球帽を目深に被る。深雪はその姿に軽い驚きを抱いた。
「何か、チャイナ服とパーカーって変な組み合わせだな。そういうの、アリなのか?」
「別に珍しくはなイ。チャイナ服の中にTシャツを着たり、こいつの上からスーツを羽織ったりスル」
「そうなのか。それだけチャイナ服が浸透してるんだな、きっと。……っていうか、俺も何か被った方がいい?」
「……俺は一部で顔を知られているかラ、被り物は必要だガ、お前は必要ないだロ。それよリ、街の中に入ったらキョロキョロせずに堂々としてろヨ!」
「分かってるって。この間、聞き込みもやったし、少しは慣れてるよ」
「本当だろうナ……? その言葉、忘れるなヨ! ……それかラ、通信機器は置いていケ」
「え……何で?」
どきりとした。まさか、神狼に内緒で事務所と連絡を取ろうとしていることを、見透かされたのだろうか。思わず身構えたが、どうやらそういうわけではないらしい。
「《レッド=ドラゴン》にモ、情報屋はイル。端末があれバ、すぐに居場所を特定されてしまウ」
「……分かった、ここに置いとく。それならいいだろ?」
深雪は、腕輪型の端末を外し、シンクの上に置いて見せた。だが、神狼が視線を外した瞬間、それを素早く手に取ってズボンのポケットに忍ばせる。これが無かったら外部と連絡がつかないし、深雪が神狼と共に《東京中華街》へ潜入する意味もなくなってしまう。だから、何があっても絶対に持っていかなければ。
幸い、神狼は深雪の動作に気づいた様子もなく、通信機器に関する言及もそれ以上は無かった。
(あと……一応、ビー玉も持って行こう)
勿論、出来るだけ戦闘は避けるつもりだ。でも、《東京中華街》の中では何が起こるか分からない。深雪らに敵対的なゴーストも多いだろうし、いざという時、手元に爆発可能な物体があるとも限らない。だから、あくまで緊急時用のお守り代わりだ。
神狼は次に靴を取り出した。深雪にはスリッポンを、自身は紐付きのスニーカーを選ぶ。色は両方とも黒だ。神狼によると、靴は割と自由が利くそうで、無理に中華靴を履かなくてもいいらしい。服にしても靴にしても、多少の傾向はあれど、こうでなければならないという厳格な決まりがあるわけではなく、各々がそれぞれアレンジし、着やすいように着崩しているのだと言う。
「……言っておくガ、《レッド=ドラゴン》に所属しているのハ、みな一定以上のアニムス値を満たしたゴーストばかりダ。例え凶器ヲ持っていなくとモ、油断ハするなヨ」
「あ……ああ」
「それかラ、俺たちハ《レッド=ドラゴン》の下っ端デ、最近、藍家に入ったばかリの新入り……そうイウ設定で行くゾ。くれぐれモ、ボロは出すなヨ!」
「分かった。努力するよ」
深雪は自信たっぷりに頷いて見せるが、神狼はそれが気に入らないらしく、思い切り不服そうに顔を顰める。
(自信が無さそうにしたらしたで、やっぱり不機嫌になるくせに……どうしろって言うんだ)
そう苦情を言いたかったが、口にしたら間違いなく、神狼はますます怒り始めるだろう。今はこんなところで無益な喧嘩をしている場合ではない。
深雪は文句を呑み込み、マンションを出る神狼の後を追ったのだった。
深雪は神狼に促されるままに、今はもう既にその機能を果たしておらず、完全にただの箱と化した池袋駅の構内を進んだ。
使用されていない駅の構内など、何が潜んでいるか分かったものではない。荒廃した東京駅や渋谷駅を散々、目の当たりにしてきた深雪としては、正直言ってそのようなところを通り抜けたくは無かった。多少遠くても、回り道をした方がいいのではないか。そう思っていたのだが、意に反して、駅の構内は何事もなく通り抜けられてしまった。
内部が荒れている様子も無いし、ゴロツキに絡まれることもない。《レッド=ドラゴン》の根城だと聞いていたから、どれほど危険なのかと危惧していたが、むしろ治安は新宿より良いくらいだ。そうと認めたくはないが、間違いなく何か強い力が働いていて、池袋に平安と秩序をもたらしている。
(俺たちの変装がうまくいっているからっていうのもあるかもな……)
何人かチャイナ服を着た若者とすれ違ったが、不審な目を向けられることも無ければ、こんなところで何をしているんだと、荒々しく咎められる事も無かった。深雪と神狼の変装がそれだけ自然だという事の証左だろう。
(ちょっと不安もあったけど……これなら何とかいけそうだな)
自信が湧いてくると、緊張も少しだけ解けてくる。ぎこちなさが消え、自然な足取りになってくる。《東京中華街》のビル街の中は一体どうなっているのだろうと、少々、興味も湧き上がってきた。
そうして池袋駅の西口に降り立った深雪は、我知らず、目が皿のようになった。
「す……スゲー……‼」
天を突くような高層ビルは、真下から見上げると圧巻の一言だった。
ビルとビルの間を縦横無尽に通路が繋ぎ、ビルの壁面を彩る超巨大ディスプレイの中では前衛的な化粧を施したモデルがこちらに向かってウインクしている。
原色のネオンや看板が煌々と光を放ち、夜だというのにあまりの眩しさで目を開けていられないほどだ。SF映画さながらの近未来的な光景だが、どことなく日本らしくない。勿論看板が中国語というのもあるが、他にも原因はある。それはビルのデザインだ。グネグネと身を捩っていたり、中心部に空洞が開いていたり。耐震性が不安に思われるほど、いろんな形がある。
「……行くゾ」
気づくと、神狼は既に《東京中華街》の中心部に向かって歩き出していた。こういった光景は慣れているのだろう。臆した様子も無ければ、驚いたり感嘆した風でもない。深雪もそれを追おうとしたが、眼前に急に水の壁が現れ、思わず足を止めてしまった。
よく見ると、駅前をぐるりと大規模な噴水が半円形に取り囲んでいるではないか。世界的な観光都市でしか見られないような巨大な噴水が、何トンもの水を一斉に噴き上げ、壁のように見えたのだ。
凄まじい迫力に深雪が見入っていると、その水の壁にドラゴンを模した華々しい映像が投影され、音楽が流れ始める。そして、まるでそれと合わせるようにして、巨大ビル群の向こうに大きな花火が打ちあがった。色とりどりに輝いた大輪の花々は、まるでこの世を謳歌するかの如く、轟音を上げて咲きほころんでいる。
驚いた深雪は、思わず仰け反ってしまった。
「何やってんダ、急ゲ!」
神狼にせっつかれ、深雪は慌てて小走りに走り出す。噴水を迂回し、駅から中心街へと延びるメイン道路の歩道を歩いていく。
そこには車も人も、何もかも溢れていた。
歩道は完全なるタイル張り、街路樹は美しく手入れされ、そこを行きかう人々も誰一人として貧乏人には見えない。通りすがる顔は老若男女、みな自信が溢れ、余裕があり、恰幅もいい。服にもかなりの金額を割いていそうだ。疲れた様子や攻撃的な様子、擦れた雰囲気などは全くない。気のせいか、悩みすらないのではないかと思ってしまうほどだ。
メインストリートの両脇に目をやると、専門店や高級料理店、ブランドショップが立ち並んでいる。どれも時代の最先端といった趣で、デザイン性やファッション性をこれでもかと見せびらかしている。中には海外の有名ブランドショップのロゴも見えた。新宿でよく見かける、露店や屋台の姿は全くない。
この《監獄都市》の中に、このような賑わいが残っているとは思わなかった。おまけに、二十年前にはなかったものも多数ある。家電メーカーの専門店にあるショーケースには、見たこともないロボットがずらりと並んでいるし、アパレルショップの店頭を飾るジャケットも初めて目にするデザインだ。
深雪は新鮮で斬新な光景に、圧倒されっぱなしだった。つい口をぽかんと開け、周囲をきょろきょろ見回してしまう。二十年前の東京も、こういう活気のある光景が至る所で見られた。懐かしさもあるので、余計にだ。
道路がやたらと広いと思ったがそれも通りで、六車線の中央に、さらにレールが敷いてあるのが見える。路面電車かと思っていたら、ちょうど真っ赤な二階建ての電車が後ろからやって来て、深雪たちを追い越していった。
この《東京》で路面電車を見られること自体、奇跡的なのに、まさか二階建てとは。深雪は呆気にとられ、それを見送った。
すると、神狼がさっそく脇腹を小突いてくる。
「おい、口空いてるゾ。……間抜け面するナ! 目立つだロ、どこのおのぼりさんダ!?」
「いや……ごめん。何かいろいろ想定外でさ。てっきり、横浜中華街みたいなの想像してたから……」
それを聞いた神狼は、お前は一体どれだけモノを知らないんだとばかりに、心底、呆れ果てた表情をした。また罵倒されるかと思ったが、意外にも神狼はそれを口に出さなかった。どうやら深雪の無知にも、段々と慣れてきたらしい。
ただ、一つだけ小さく溜息をつくと、顔を僅かに俯けて、通行人と視線が合わないようにしながら、小声で説明を始めた。
「《東京中華街》は別名、リトル香港と呼ばれていル。その名の通り、基本的にハ現代の香港を模して造られた街ダ。これハ《監獄都市》の外でモ、よく知られタ話だゾ。……最も、本場の規模はこんなものじゃナイ。何せ、今や世界で一、二を争う巨大観光都市だからナ」
「ふうん……世界は変わり続けているんだな。何だか、《東京》だけ取り残されてるみたいだ」
二十年前は、《東京》は首都で、中心にあるのが当たり前、人やモノ、金が集まってくるのが当たり前だった。だから地方の衰退などという社会問題も、どこか他人事で、東京さえ残っていさえすれば後はどうにでもなると、何となく思っていた。
それがまさか、東京そのものが衰退してしまうだなんて。
複雑な表情を浮かべる深雪に、神狼は肩を竦めた。
「そうカ? この街は最初からこんなダロ。昔は首都だったって言うけド、ずっと昔に遷都したって言うしナ」
「あ……ああ、うん。……そうだよな」
何とか表面を取り繕って相槌を打ったが、深雪は内心で激しい動揺を覚えずにはいられなかった。
(そうか……神狼の感覚が普通なんだ、きっと。俺はここ二十年ほど《冷凍睡眠》で眠らされていて、目覚めたばかりだから……やっぱ外国の話とか聞くと、空しいっていうか、ここだけ取り残されてる感が半端ないな……)
いや、このままでは取り残されるどころか、《東京》が首都であった記憶も失われ、存在すら忘れられてしまうのではないか。ここが外界から切り離された街であり、その可能性が十分にあるのだと思うと、どうにもやりきれなかった。
《東京》が《監獄都市》にさえならなければ、この池袋のように見違えるような発展を手にしていたのだろうか。あのどうにも手のつけようのない廃墟地帯も生み出されずに済んだのだろうか。
もし《関東大外殻》を取っ払い、《監獄都市》の制定を覆すことができたなら、本来の姿を取り戻すことができるのだろうか。
仮定の話をしても仕方ないのは分かっている。しかし、《東京中華街》の威容をこれだけ見せつけられると、ついそう考えずにはいられない。




