第20話 新たな問題①
「っていうか、そもそも何故、鈴華さんが狙われてるんですか? お婆さん、何か知ってるんじゃないですか!?」
「あ、あんたにゃ関係のない話だよ!」
鈴梅は両目に警戒した色を濃く浮かべていて、頑なに深雪を遠ざけようとしているのが分かる。
確かに、何か事情があるのかもしれない。あまり深雪のような余所者に、関わって欲しくないのかもしれない。だが、今は時間がなかった。神狼の暴走を止めるには、どうしても鈴華の存在が必要なのだ。深雪は身を乗り出し、鈴梅に迫った。
「関係なくないです! 神狼は同じ事務所にいるんだし、鈴華にも、この間ここで食事した時に良くしてもらったし! 鈴華が攫われたのなら、助けなきゃ……今は神狼が身動き取れないんだから、余計に誰かの力が必要でしょう?」
すると、鈴梅も負けじとこちらを睨み返し、大声を張り上げる。
「そりゃ、あんたの理屈だろ。こっちは興味本位で首を突っこまれたらそれこそ迷惑なんだ! 聞けばあんたの身にも災いが及ぶよ! それでもいいってのかい!?」
「災い……」
えらく不吉な言葉が飛び出してきて、深雪は思わず言葉を呑んだ。一体、どういうことなのだろう。すると鈴梅は、幼い子供に言って聞かせるように、「ああ、そうだよ」と、畳みかけた。
「相手の事情を聞くっていう事は、そういう事だよ。分かったら、とっとと……」
「なんだ、そんなことか」
深雪はつい、笑みを漏らした。
「何だって……!?」
鈴梅は、何が可笑しいのかと、眉をひそめる。
「……俺の事、わざわざ心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。どっちかって言うと、俺自体が災いの種みたいなものだから。それに比べたらどんな厄介事も災いのうちには入らないっていうか……。ましてや鈴華はいい子だし、神狼もまあ……概ねいい奴だと思うし、あの二人について知ることが災いになるなんて絶対あり得ないよ」
事情があるというのは、今までもそれとなく感じていた。鈴梅が本心では、深雪を自分たちのいざこざに巻き込みたくないと思っていることも。
確かに深雪は部外者だ。実際、《龍々亭》を訪れる前であれば、深雪もあまり関わらないという選択をしたかもしれない。けれど、今はもう、放っておけばいいという気持ちにはなれないのだ。神狼の暴走や鈴華の誘拐を、自分には関係の無いこととして見て見ぬふりなどできない。それが余計なおせっかいでなければ、自分に出来得る限り、力を貸したい。
鈴梅は、珍獣でも眺めるかのように、右の眉を跳ねさせた。
「……。変な子だね、あんた。そんなこと言う奴、初めて見たよ」
「ははは……よく言われます」
鈴梅はそれでも尚、僅かに逡巡していたが、やがて深雪に事情を打ち明けようと心を決めたようだった。深雪を信用したというよりは、こんなところで二人で言い争いをしていても、益が無いと悟ったのだろう。
躊躇いつつも、説明を始めた。
「……鈴華を連れ去ったのは《レッド=ドラゴン》の奴らだよ」
――やはり。深雪が案の定だと内心で思っていると、鈴梅は人差し指で自分の頬を指し示しながら言った。
「あの頬に傷のある男の一味は見たことがない奴らだったけど、チャイナ福のボタンが黄色だったから、おそらく黄家の者だろうね」
「ホワン家……?」
初めて聞く単語に深雪が目を瞬かせると、鈴梅は呆れたように腕組をした。
「なんだ、そんなことも知らないのかい。黄家は現在《レッド=ドラゴン》を牛耳っている最大勢力だ。早い話が親玉ってことだよ」
「幹部組織みたいなものか」
「奴らが鈴華を連れ込んだ先は、十中八九、《東京中華街》だ。ただ、奴らの本当の目的は鈴華じゃない。神狼の方さ」
「神狼……?」
深雪はますます目を瞬かせる。
神狼に用があるのに、何故、わざわざ鈴華を誘拐するのだろう。
疑問に思ったが、すぐにその理由に思い当たった。何が目的かは知らないが、あのゴロツキたちは鈴華を人質にとって、神狼を支配し、或いは要求を呑ませようとしているのではないか。
深雪はそう察しを付けたが、鈴梅はその辺りについては明かさなかった。ただ、ゴロツキに対する悔しさと、鈴華への心配、そしておそらく僅かばかりの後悔を滲ませて俯いた。
「この誘拐に黄家の息がかかっているのか、それとも傷男の独断なのか……それは分からない。でも神狼がどう動こうと、奴らは絶対に鈴華を痛めつけるつもりなのさ! 《レッド=ドラゴン》の奴らにとって鈴華は『組織を裏切った反逆者』なんだから……‼」
(そういえば、頬に傷のある男も、鈴華を『裏切者』って言ってたな……)
つまり要約すると、ゴロツキ達の一番の目的は神狼だが、鈴華にもそれなりに悪意を抱いているということらしい。確かに、二人まとめて痛めつけようと考えるなら、鈴華の誘拐はそれなりに有効だ。誘拐された鈴華と、それを知った神狼双方に、身体的にも精神的にも、大きなダメージを与えられる。
「でも、そもそも何でそいつらが鈴華や神狼を……?」
深雪は敢えてそう尋ねるが、案の定、話したくない事なのか、鈴梅はしわのたくさん刻まれた顔を神経質そうに歪め、口籠った。
「そいつは……あたしの口からじゃ言えない」
「そんな、こんな時に!」
「あんたを信用していないわけじゃない。ただ鈴華や神狼の為に、それを話すわけにはいかないんだ。……堪忍しておくれ」
鈴梅は絞り出すような声で、苦しげにそう言った。それは、何かに耐え忍んでいるようでもあり――或いは、何者かの運命に同情し、憐れんでいるようでもあった。
いずれにしろ、急にそんな弱々しい声で懇願されては、それ以上、詰め寄るわけにもいかない。
(何か……俺が考えてるより、ずっと複雑な事情がありそうだな……。それに、鈴華がもし本当に《東京中華街》の中に連れ込まれたのなら、部外者である俺たちが後を追って簡単に入り込めるとも思えない……どうしたらいいのか、まずは事務所のみんなと連絡を取らないと……!)
神狼はおそらく、事務所が介入することに難色を示すだろう。今までも、自分のことは殆ど事務所で話さなかったし、己の不調も隠していた。仕事はこなすが、周囲とは一定の距離を取ると、そう決めている様子だった。
だが、相手が《レッド=ドラゴン》となると、個人の力だけで対抗するのは絶対に不可能だ。ましてや今回は攫われた鈴華を取り戻さなければならないのだ。それを考えると、余計に単独行動では限界がある。
「まったく……何もかも、あいつのせいだよ! あの男が来てからというもの、神狼は調子を崩すし、鈴華は厄介な連中に狙われるようになるし……疫病神もいいとこだよ!」
考え込む深雪の前で、鈴梅は恨めしそうにブツブツと不平を口にした。深雪はその中に含まれていた単語の一つが気になって、鈴梅を聞き質す。
「あの男? ……って誰?」
最初はゴロツキ達の事かと思ったが、そうであるなら『男たち』と複数形になる筈だ。連中とは別の誰かなのだろうかと首を傾げるが、鈴梅は口にするのも嫌だといった風に、投げやりに片手を振った。
「ああ……何でもないよ、こっちの話! それより、神狼の具合はどうなんだい? また何もかも忘れちまうなんてことにはならないだろうね!?」
「それはまだ、何とも……取り敢えず、もう一度、診療所に戻ろうかと思ってるんだけど」
鈴華を連れて行けば、きっと何とかなると希望を抱いて来たのだが、彼女がいないとなると、神狼の暴走をどうやって諫めるかという問題が新たに発生する。鈴華に関しても、これからどうするにせよ、一度戻って流星たちと合流せねばならない。
そう思っていると、鈴梅は一層、顔を険しくして決意を浮かべ、深雪の腕を掴んだ。
「そうかい……それじゃ、あたしも行くよ! 神狼はあたしの孫も同然なんだ。とても放ってはおけないよ!」
その申し出は深雪としてもありがたかった。確かに、鈴梅も鈴華と同様、神狼の家族だ。彼女の姿を目にしたら、ひょっとすると神狼も自我を取り戻すかもしれない。
とにかく今の神狼には、傍に近しい者の存在が必要だ。
「でも、お店があるんじゃ……?」
「今日はもう閉めるよ。鈴華と神狼の二人がいないんじゃ、どの道、ろくに営業できないだろうしね」
「すごく危険だよ」
「何言ってんだい、余計な心配は無用だよ! 毎日、厨房に立ってんだ。まだまだ若いものには負けないよ!」
鈴華の祖母は、そう言ってニカッと豪胆な笑みを見せる。その笑顔は豪胆そのもので、まるで百戦錬磨の猛者のように見えたのは、何も深雪の気のせいではあるまい。確かにこの老婦であれば、暴走した神狼を見てショックのあまり気絶する、などという事もないだろう。深雪たちの事情もある程度知っているし、積極的に協力してくれそうだ。
「じゃあ、一緒に行こう! ……あ、でも、ちょっと待っててくれる?」
深雪は鈴梅に断りを入れると、腕の通信端末を操作し始める。
(まずは、マリアか誰かに報告しとかなきゃ)
これから鈴華を救出するにしても、綿密な計画を立てたり、用意周到に準備をしたりせねばならないだろう。何せ相手は《監獄都市》でも一、二を争う闇組織、《レッド=ドラゴン》だ。行き当たりばったりでは危険極まりないし、失敗するのは目に見えている。
ただ、流星はまだ神狼に掛かりきりになっているだろうから、マリアに知らせておこうと考えた。
数コールの後、通信はすぐにマリアへと繋がり、もぎゅっという少々マヌケな効果音と共に、ウサギのマスカットが宙に飛び出してきた。
「あ、マリア!? 大変なんだ!」
ところが、ウサギはすぐに布団に潜って、鼻提灯を膨らませながら昼寝を始めてしまう。
『ただいま、マリアちゃんは通信に出られませんのですじゃ~! ……グウグウ。そゆことなので、伝言はピー音の後で、よろぴく~!』
「通信に出られないって……こんな時に何やってんだよ、もう!?」
深雪は思わず愚痴をこぼしてしまった。まさか本当に寝ているわけでもあるまいが、そう呑気にされると、こちらも急いでいるのにと、焦りと苛立ちを覚えずにはいられない。マリアはマリアで、《Ciel》の捜査が忙しいのかもしれないが。
(仕方ない……診療所に戻れば、流星がいる筈だ。鈴華のことは流星に話そう。今はとにかく、急いで戻らないと……!)
深雪はとりあえず鈴梅を連れ、診療所へと急ぐことにした。
十分ほど後、深雪は鈴華の祖母、鈴梅と共に、診療所の前まで戻ってきた。道路からビルの二階を見上げると、確かに右端にある部屋の窓ガラスが、派手に割れているのが分かる。鈴梅も同じものを見上げながら、不安と心配を浮かべ、小さな声で呟いた。
「ここに神狼が……?」
「うん、そのはずだけど……」
深雪はそう答えつつも、激しい違和感を抱いていた。
(妙だ。俺がここを出るとき、神狼はあんなに暴走してたのに……今は静かすぎる)
神狼は己のアニムスを爆発させ、その衝撃で病室は荒れ狂っていた。だが、今はそれが嘘のように静まり返っている。神狼は――流星たちは、どうなったのだろう。ここからでは、何も分からない。
しばらく様子を見てみるが、やはり二階からは何の物音もしない。その静寂が、逆にとても不気味に感じられる。
何はともあれ、ここで考え込んでも仕方がない。早く、自分の目で確かめなければ。深雪は鈴梅をビルのエレベーターへと促した。
「とにかく、二階に上がってみよう!」
二階にある診療所に上がってみると、やはり内部はしんと静まり返っていた。細かいガラス片や木くずが廊下にまで散らばっているが、辛うじて、床や壁に直接の破損は無いようだ。
慎重に神狼を運び込んだ病室を覗いてみる。すると、部屋は破壊された状態のままだが、中は無人だった。神狼も姿も無ければ、シロや流星、石蕗の姿もない。あるのはぺしゃんこになったカーゴや点滴棒、そしてもはや原形をとどめていないベッドや棚ばかりだ。
「誰もいない……?」
てっきり、神狼は今も暴走状態にあるだろうと思っていたし、事態が悪化していることも覚悟していたのに、誰の姿も無いとは。想定外の事態に呆気に取られる深雪の傍で、鈴梅が口元を両手で覆い、息を呑んで病室を凝視しているのが分かった。
「これは……まるで、竜巻でも通ったみたいじゃないか。まさか、これを神狼がやったって言うのかい……? あの心優しい神狼が……!」
鈴梅は強い衝撃を受けたようで、声を震わせ、喉を詰まらせる。
(まあ、心優しいかどうかはともかく)
内心で冷静に突っこみつつ、深雪は周囲を見回した。
「どこに行ったんだろう? まさか、窓から外に逃げ出したとか……!?」
窓は下半面がコンクリートの壁になっているが、よじ登れば乗り越えられないことはない。だがその際、窓枠に残った鋭利なガラス片で間違いなく身体を傷つけるだろう。場合によっては手や膝を切って、血が出るかもしれない。だが見たところ、そのような痕跡も見受けられない。
一体、何がどうなっているのか。混乱して立ち尽くしていると、廊下を挟んで斜め後方の病室の扉が開き、中からシロがひょっこりと顔を出した。
「あ、ユキ! お帰り! 鈴梅お婆ちゃんも一緒だったの?」
「シロ! 神狼と流星は!?」
深雪は驚いて駆け寄るが、シロの表情はいたって穏やかで、深刻な気配や切羽詰まった空気は全く感じられない。
「流星は一度、事務所に戻るって言って、出て行っちゃったよ。マリアと六道に《しえる》の報告があるんだって。用事が終わったらまたここに戻って来るって言ってた」
(ああ、それでさっきマリアに連絡した時、繋がらなかったんだ)
先ほどマリアに連絡した時、留守番メッセージが流れた。おそらく、流星と打ち合わせをしていたのだろう。
「神狼……神狼はどうなったんだい!?」
今度は鈴梅がヒステリックに声を荒げた。確かに、深雪もそれが一番気にかかっているところだ。するとシロはにこりと微笑み、自分の出てきた病室の中を指し示した。
「こっちの部屋で寝てるよ」
促されるままに覗いてみると、今度こそ静かにベッドの上で横たわる神狼の姿が見えた。掛け布団を胸の辺りまでかけ、無造作に投げ出された右腕には点滴針が刺さっている。そこから伸びるチューブの先へと視線を転ずると、点滴棒に引っかけられた輸液ボトルがあり、その中には青みを帯びた液剤が満たされていた。これがアニムス抑制剤だろう。深雪が倒れた時にも見覚えがあるから、間違いない。
何があったのかは分からないが、どうやら神狼にアニムス抑制剤を投与するという目的は達せられたようだ。
神狼は眠り込んでいるのか、深雪たちが病室を覗いても目を閉じたままだ。もし意識があったなら、飛び起きてこちらにガンの一つも飛ばしているだろうから、やはりぐっすり眠っているのだろう。
ここへ運んで来た時は、全力疾走でもしたかのように荒々しい呼吸をしていたが、今はそれも規則的で穏やかだ。
取り敢えずほっと息をつく深雪の後ろから、鈴梅が病室の中を覗き込んだ。そして横になった神狼の姿を認めると、血相を変えて枕元へと駆け寄った。
「ああ、神狼! ……どうなんだい、具合は? 悪いのかい!?」
「石蕗センセーは、取り敢えずは一安心だって言ってたよ」
シロはそう答えるが、鈴梅が安堵した様子はない。
「記憶は? まさか、みんな忘れちまったなんてことは……」
「それはまだ分からないって。とにかく今はアニムス抑制剤を打って様子を見るって言ってた」
「そうかい……ああ、なんてことだ。可哀想に……!」
鈴梅は悲痛な声で呟くと、祈るようにして、神狼の左手を自らの両手で握りしめた。確かに神狼は落ち着いてはいるものの、顔色は依然として悪く、目の下にはうっすらと隈のようなものも見える。どこか具合が悪いのであろうことは一目瞭然だ。鈴梅が心配を募らせるのも分かる。
一方、深雪はシロに小声で尋ねた。
「石蕗先生は?」
「診察室だよ。さっき、新しい《Ciel》の患者さんが運び込まれたの。後でまた見に来てくれるって」
「あれから何があったんだ? 神狼はかなり危険な状態だったと思うけど……」
最初は鈴華がいない中、神狼の暴走を止められるかどうかが最大の懸念だった。それが払拭されたのはいいが、今度は逆に、自分は少々、余計なことをしてしまったのではないかという気持ちになってくる。いずれ誰かが、神狼が倒れたことを家族に知らせなければならなかっただろうから、《龍々亭》へ行ったことが無駄足だったとは思わない。だが、戻って来てみてかなり拍子抜けしたのは事実だ。
シロも深雪のそう言った気持ちを察したのか、こちらを気遣うような気配を滲ませつつ、説明を始めた。
「それがね、ユキが出て行ってからすぐ、神狼、また気を失ったんだ。石蕗先生は、アニムスを暴走させて体力を使い果たしたんだろうって言ってた。そのまま放っておいたら、意識が無いのにアニムスだけがどんどん暴走して、もっと危険な状態になるんだって。でも、流星が一瞬の隙を見逃さずにお注射をして、ようやく収まったの」
「なんだ、そうだったのか。良かった……!」
自分の行動が若干、空回りしたのは残念だったが、とはいえ何事もないのが一番だ。深雪は安堵の溜息をもらすが、すぐにはっとして叫んだ。
「あ、いや、全然良くなかった! 大変なことになったんだ‼」




