第9話 石蕗診療所③
「アニムス値、0……!? 信じられない……さっきは確かに、500を超えてたっていうのに……‼」
察するに、その機材はアニムス値を測るための機器なのだろう。0とか500といった数値が何を基準にしているのか、知識の無い深雪には、いまいち分からないが、石蕗の茫然自失とした様子を見ると、彼女にとってとんでもないことが起こったのだという事は間違いない。
「本当にゴーストではなくなったと……そういう事ですか?」
オリヴィエもそれが信じられないのか、普段は穏やかな声音から、激しい動揺が伝わってくる。石蕗は条件反射のように、こくこくと頷いた。
「信じられない……アニムス値がこれほどまで減少して、おまけに0になることがあるだなんて……こんなの、あたしも初めてだよ……‼」
「嘘だろ……!? 本当に……花凛は人間に戻ったってのか……?」
戸惑い、混乱する石蕗や流星とは逆に、俊哉は喜びを全身で爆発させて叫んだ。
「花凛! 良かったな、これで不安定なアニムスで苦しむこともなくなる……命を脅かされることも無いんだ‼」
「うん、俊哉……うん……‼」
「良かったな……ホントに良かった……‼」
俊哉は花凛をぎゅっと抱きしめる。花凛もまた、痩せ細った腕で俊哉を抱きしめた。
深雪はぐったりと疲労していて、指先を動かすのも億劫だったが、喜び合って抱擁を交わす二人を目にしていると、自分の中にも喜びと充足感が穏やかな波となって広がっていき、全身を心地よく満たしていくのを感じる。
(俺、今度こそ間違わなかったのかな)
答えを出すのはまだ時期尚早かもしれない。でも、この二番目の能力を使って、誰かが喜んでくれたのは初めてだ。それを目にすると、やはり使ったのは正解だったのではないかと思えてくる。
一方、ようやく落ち着きを取り戻した石蕗は、深雪の傍で片膝をつき、背中をさすってくれた。
「……立てるかい?」
「あ、はい……大丈夫です」
笑顔を作ってそう答えるが、言葉に反し、深雪の肩は激しく上下している。石蕗は僅かに微笑むと、次いで深雪の腕に鋭く視線を走らせた。
腕から放たれていた白い光は既にないものの、まだ一部が赤い痣に沿って僅かに点滅している。石蕗は深雪の腕に手を伸ばし、脈をとる時のように人差し指と中指の先で触れると、眉根を寄せた。
「えらく熱を持ってるね……」
そして、今もなお喜び合っている俊哉と花凛の方ををちらりと一瞥してから囁いた。
「おいで。部屋を移動しよう」
オリヴィエは腰を上げた深雪と石蕗に気づき、怪訝な表情を向ける。
「どうしたのですか? 何か、問題が?」
「いや、ちょっと確認したいことがあってね。赤神、こいつ借りていくよ」
「……」
しかし、流星は石蕗にそう声をかけられても、微動だにしなかった。どこか一点を、まるで憎い敵に出会ったかのような厳しい表情で、睨みつけている。その顔色は、心なしか青ざめているようにも見えた。
「赤神?」
石蕗に再度声をかけられ、流星はようやく鈍い反応を返した。
「あ……ああ、分かった。俺、先に事務所に戻るわ」
「では、私は深雪を待つことにします」
オリヴィエの申し出は純粋に嬉しかったが、深雪は首を振ってそれに応えた。
「大丈夫だって。大したことないし、事務所もすぐそこだし」
「でも……」
「孤児院の方の仕事もあるんでしょ。そっちに行ってあげてよ」
確かに、肩に圧し掛かるような疲労を感じるが、全く歩けないほどではない。少し休んでいたら、いずれ回復するだろう。オリヴィエはいつも孤児院と事務所の掛け持ちで忙しくしている。孤児院には、深雪などよりオリヴィエを必要としている子供たちが大勢いるのだ。
深雪の予想は外れていなかったらしく、オリヴィエは申し訳なさそうな中にも、少しほっとした様子を滲ませ、頭を下げる。
「……すみません。では、そうさせてもらいます」
「うん、それじゃ」
深雪は流星に視線を向けたが、いつも気さくな赤髪の青年はこちらを見もしない。先程ではないが、やはりまだピリピリとした緊張感を漂わせている。
気のせいではない、流星は激しく憤っている。でもその怒りが何に対してのものなのかが分からず、深雪は戸惑うばかりだった。
流星の事は気になったが、石蕗に促されたので、深雪は彼女と共に花凛の病室を後にしようとする。すると俊哉が、突然大声を張り上げた。
「あ、あの!」
「え?」
大声に驚いて振り向くと、俊哉は深雪に向かって、がばっと頭を下げる。
「すんませんしたッ! 俺、生意気ばっか言って……‼」
(け……敬語……!?)
あまりにもしおらしい俊哉の態度に、深雪は驚きを通り越して、ぎょっとしてしまった。何か悪いものでも食べたのではないか、などと思ってしまうが、すぐに俊哉も自分の悪態をそれなりに後悔していたのだと思い当たる。
やはり、根は悪い少年ではなかったのだろう。花凛の容態が一安心だと分かり、自分の行動を反省する余裕が出てきたのだ。
「いいよ、気にしてない。それより……約束、守れよ」
悪戯っぽい口調で言うと、と俊哉は真っ赤になりながらも、顔を上げて毅然と深雪を見据える。
「も、もちろんっス!」
「……ねえ、俊哉。約束って、何?」
一方の花凛は、不思議そうに小首を傾げた。すると俊哉は、げっ、という顔をし、耳まで赤くなってしまう。そして照れ隠しなのだろう、ぶっきらぼうな口調で「何でもねーよ!」と花凛に答えていた。
深雪は目を細めて二人の様子を見つめていたが、すぐに石蕗の後を追って診察室へと向かったのだった。
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診療所の外に出ると、既に日は傾きかけていた。
思ったより、時間がかかってしまった。早いところ孤児院に戻って、夕食の支度をしなければ――オリヴィエは、そう思った次の瞬間、何だか自分自身が可笑しくて、ひっそりと内心で苦笑を漏らした。
確かに自分はいつも、気づけば孤児院の事を考えている。だから、深雪にもそのことを見透かされているのだろう。付き添いを断られた時には、このような少年に気を遣わせてしまうなんてと反省したが、一方で助かると思ったのも事実だった。
(それにしても……)
思い出すのはやはり、石蕗麗の診療所で目にした光景だ。
ゴーストが人間になる。世界各地を転々としてきたオリヴィエであるが、そのような話は耳にしたことがなかった。
そういった薬が必要とされているのは、嫌というほどよく知っている。だが、その開発に成功したという例はまだない筈だし、ましてや一人の人間にそれを可能性にする力があるなど、とても信じられない。
そもそもアニムスはどれも人智を超えた力だが、その中でも特に異質な力だと言えるだろう。
ただ、確かに異様な光景ではあったものの、オリヴィエは深雪の《第二の能力》に対して、あまり脅威や危険性を感じなかった。
オリヴィエがゴーストになったのは三歳の時だ。あまりにも幼かったため、人間だった時の記憶は殆ど残っていない。そのせいか、ゴーストが人間に戻るという事実に対し、あまりピンとこないというのが実情だったのだ。
だが、オリヴィエの隣を歩く流星は、どうやら同じような感想を抱いたわけではないようだ。
そもそも、深雪に《ランドマイン》以外のアニムスがあるらしいということを教えてくれたのは流星だ。だが、当の流星は、その力を実際目にし、驚愕や当惑といった感情の他に、強い嫌悪や忌避感を抱いているという事に、オリヴィエは気づいていた。
「……あれが深雪の隠された能力、ですか。何というか……確かにこの世のものとは思えないような、人知を超えた力でしたね。私も数々のアニムスを目の当たりにしてきましたが、あのような力は見たことがありません」
さりげなく話を向けると、流星は敵意も露わに吐き捨てた。
「……。あんな力が実在するなんてな……思い出しただけでも、ぞっとする」
「流星……」
いつもは人懐こい筈の流星の両眼は、今は殺気交じりで険しく、そこには憎しみすら感じられた。それも、ただの悪意ではない。長い年月をかけて発酵し醸成された、濃厚な憎悪だ。
どす黒い激憤に身を焦がすその姿はまるで、生涯をかけて恨み続けてきた敵に遭遇した復讐者のようでもあった。
「俺は人間に戻りたいとは思わない。たとえ戻れるとしても、絶対に、な……‼」
(それは嘘だ。流星、あなたは本当は、誰よりも人に戻りたがっている)
しかし、オリヴィエはそれを口にはしなかった。おそらく流星自身も、それは自覚しているであろうことを知っていたからだ。
ただ、この赤髪の若者の中には、その願望を優に凌駕するほどの激情が劫火の如く燃え盛っている。それ故、そういった言葉を口にするのだ。
それに、幼少の頃にゴーストとなったオリヴィエと違い、流星はゴーストになってまだ日が浅い。そういう意味でも、彼にはオリヴィエより余程、人としての生活に執着や未練があるだろう。
流星を支配している、劫火のごとき激しい感情が何に起因しているのかまでは、オリヴィエは知らない。知っているのは、流星がもともと警官だったということくらいだ。それに、普段は決してそういった『私情』を他人に勘付かせることもない。
ただ、共に過ごせば、それとなくそういったことは分かってくる。
「……流星。まだ深雪が我々の『敵』になると、決まったわけではありませんよ」
「……」
そもそも、深雪が診療所で見せたあの力が、善なのか悪なのか、それもまだ分からない。これまで見たこともないような力なのだ。一見しただけで、その価値を決める事などできる筈も無い。
そしてそれがもし、仮に受け入れられないものであるとしたなら、なおさら深雪を疎外してはならないのではないかと、オリヴィエはそう思っていた。
すると、流星はぴたりとその場に立ち止まる。それで、隣を歩いていたオリヴィエも、数歩先で立ち止まった。
俯いているので、流星の表情は窺い知ることができない。どうしたのだろうと不審に思っていると、やがて流星は何かを力づくで振り払うかのように深く息をつき、オリヴィエに向かって顔を上げる。
その時には、いつもの飄々としたキャラクターに戻っていた。
「……分かってるよ。あいつはうちの事務所の可愛い後輩なんだ。当たり前じゃねーか」
「それなら、良いのですが……」
流星は、見た目の外見は個性的で我が強そうだが、実際の仕事ぶりはそれとは全く違う。本当の彼は、オリヴィエが心配になるほど与えられた『任務』に忠実で、六道に逆らう事もなければ、命令違反をするところも見たことがない。
事務所のメンバーに対しても、例えば奈落のように、自分の個人的な感情をそのままぶつけることは、滅多になかった。
その流星が初めて皆間見せた『激情』に、オリヴィエは一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
それが一過性のものであればまだよい。だが、先ほどの流星の様子から察するに、とてもそうであるとは思えなかった。
(彼の中で巣食う業火が、彼自身を焼き尽くしてしまわなければいいが……)
己に厳しい流星だからこそ、その渦巻く激情が、彼自身を滅ぼしてしまうのではないか。そんな悪い予感が脳裏を掠めて離れない。
オリヴィエは、それが現実にならないことを切に願うばかりだった。
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石蕗の診察室は、花凛がいる病室の半分ほどしかない、実に簡素な部屋だった。
入って左側の壁にはパソコンや消毒薬、様々な書類の置かれた机にカレンダー。反対側の壁には、真っ白いシーツの診察ベッド。置かれているものは、普通の病院にある診察室のものと、殆ど変わらない。
深雪は石蕗に勧められた、背もたれなしのパイプ椅子に浅く腰かけた。医務机の前に座った石蕗の、ちょうど左側だ。
石蕗はデスク上にあるパソコンを開き、その中にあるカルテへ何事か打ち込みながら、深雪へ質問を繰り出す。
「さっきの力……以前、最後に使ったのはいつだ?」
「ええと……二週間ほど前です」
「二週間前か……君が倒れて奈落に助けられたころだな」
「あれよりは後です。でも、最初にあっちの能力が発現した時は、痛みが酷くて……頭痛もすごいしてました」
「成る程……。これまで何度、使用した?」
「えっと……ちょうど二回です」
「今ここで、もう一度使って見せてくれと頼んだら、できそうか?」
「それはちょっと……無理じゃないかな。普段も集中したりしてみるんだけど、あまり反応は無くて、さっきの時みたいに唐突に使えるようになる感じです」
すると石蕗は、腕組みをして考え込んだ。
「まだ、自分ではコントロールしきれていないという事か。それとも、そもそも確実性の無いアニムスなのか……自分としては、発動のきっかけは何だと思う?」
「うーん……許せないとか、怒りとか……そういう強い感情が湧き上がった時が多いような……」
坂本一空の時や鵜久森命の時は、発動の原因は怒りだった。彼らのあまりに横暴な考え方、或いはあまりにも残酷非道な所業を、このまま赦しておいてはいけないと思ったのだ。
一方、花凛の時は、酷な運命を背負わされた彼女があまりにも可哀想で、そこから何とかして解放してあげたいと強く思った。
怒りは無かったが、他の二人の時と同じく、感情が激しく昂っていた。
石蕗は、「成る程」と小さく呟くと、それを再びパソコンへ打ち込んでいく。
「保持者の強い感情、ひいては精神状態に左右されるアニムスだという事だな。そういえば、君には別にアニムスがあるんだってな? 確か爆発系統の能力だとかいう……」
「あ、はい。《ランドマイン》です」
「ふむ……《地雷》か。正直に言って、君のようなケースは今まで全くと言っていいほど無かったんだ。異能力が二つある上に、その片方がゴーストを人に戻す能力なのだからな。異例尽くしで、あたしも戸惑っている。ぶっちゃけ、さっき自分で見た現象が信じられないほどだ」
「えっと……すみません……」
怒られているわけではないのは分かっていたが、何となく申し訳なく思って謝ると、石蕗は可笑しそうに笑い声を上げる。
「謝る必要はないさ。ただ……もう少し詳しく調べてみる必要はあるが、きみの急性アニムス激化症候群は、おそらく君の第二の能力が原因だろう。分かりやすく言うと、器に対して、アニムス(ちから)が強大すぎるんだ。ただでさえ能力が二つあるのだからな。体にはかなりの負担がかかっているのだろう」
確かに、《ランドマイン》しかアニムスがなかった時には、ああいう風に急に高熱を出して倒れることもなかった。今は治まっているが、頭痛といい、右手の異常な痛みといい、全て《二番目の能力》が現れた頃から出始めた症状だ。
「俺はどうすればいいんですか?」
理由は分からないし、自ら望んだわけでもないが、深雪の中にアニムスが二つ存在しているのは事実だ。その事実と、一体どうやって付き合っていけばいいのか。
ところが頼みの石蕗は、「そうだねえ……」と言って再び考え込んでしまった。石蕗も、こんな症例は初めてだと言っていただけあって、対処法がはっきりとしないのだろう。
だが、すぐに深雪をまっすぐに見つめて口を開いた。
「一つ分かっているのは、君にはアニムス抑制剤を投与したら効果が見られるという事だ。さっきも言ったが、いつ再び急性アニムス激化症候群を起こすか分からない。その時のために、アニムス抑制剤を常備しておくことだ。必要なら、あたしが処方しよう」
「でも、値が張るんじゃ……?」
預金が全くないわけではない。《冷凍睡眠(コールド=スリープ)》の被験者となった時に受け取った謝礼金が、手付かずのまま残っている。でも、この極度に閉鎖された《監獄都市》の中で、継続してアニムス抑制剤を入手し続けることができるのか、自信はない。
そう懸念した深雪がおずおずと尋ねると、石蕗はニヤリと笑みを返した。
「金なら東雲六道に支払ってもらってる。事務所の他の奴らの治療費もな。だから、君は気にするな」
「はあ……」
確かに六道は深雪らの雇用主なのだから、《死刑執行人》の仕事をこなす上で負った怪我の治療費を払っていてもおかしくはない。でも深雪としては、何だか六道に借りを作っているようで、落ち着かなかった。
(そりゃ、手当てが何もないよりは、ずっと良心的だってことは分かってるけど……)
居心地悪く、ごにょごにょと胸中で呟いていると、石蕗がくるりと体ごと深雪のへと向きを変えた。
急に改まって一体どうしたのかと驚いていると、石蕗は先ほどとは打って変わって真剣な面持ちになり、深雪の眼を正面から睨み据えて切り出した。




