第8話 石蕗診療所②
「そいつは良かった。でも、油断するんじゃないよ。急性アニムス激化症候群は、こじれて慢性化することも多いからね。それまで安定していても、アニムスはある日突然、不安定になる事もある。そうなったら、今まで助けられてた力に苦しめられることになるかもしれないんだ。
もっとも……それには個人差があるからね。絶対にそうなると決まっているわけではないし、どうなるかは誰にも分からない。
それでも、用心するに越したことはないよ。特にお前達――《死刑執行人》は己の力を過信しすぎる傾向がある。何かあった時の為に、アニムス抑制剤は常備しておくといい」
「……はい」
深雪が大人しく頷くと、石蕗は「いい返事だ」と、ニッと笑う。
「よし、これでしばらく様子を見よう」
花凛への処置を終えた石蕗は、明るい声でそう言ったが、心なしか表情は厳しかった。それは決して気のせいではなかったようで、石蕗は流星やオリヴィエ、深雪に対し、病室の外に出るよう目配せする。
それには俊哉は含まれていない。彼にはまだ知らせたくない事なのだろう。
俊哉はといえば、花凛の傍で椅子に腰かけ、彼女の右手を両手で握りしめている。その俊哉をその場に残し、深雪たちは石蕗と共にそっと花凛のベッドを離れた。
「それで……花凛の様子はどうなのですか?」
廊下に出、病室の扉を閉めると同時に、オリヴィエが石蕗に詰め寄った。石蕗は病室の方に視線をやり、声を潜める。
「はっきり言って、良くないね。さっき簡易装置でアニムス値を測定してみたが、あり得ないほど数値が上昇している。端的に言うと、彼女はすでにアニムス抑制剤が効かない段階に入っているんだ。もちろんできるだけのことはするが、このままでは《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》に指定される恐れも覚悟しなければならないだろう」
「そんな……何てこと……!」
オリヴィエはひどくショックを受けたようだった。狼狽し、手で口元を手で覆っている。オリヴィエだけではない。流星や石蕗も表情は一様に硬く、診療所の廊下には、ずしりとした重たい空気が流れる。
花凛はよほど悪いのだろうか。《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》という単語の意味がよく分からないので、彼女の病状が、どの程度、深刻なのかぴんと来ない。
「《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》……って、何?」
深雪は隣に立つ流星に、小声で尋ねてみた。流星もまたオリヴィエと同じく、厳しい表情で腕組みをし、宙を睨むようにしている。
「お前、アニムスを暴走させて死んでいくゴーストを見たことがあるか?」
「い、いや……」
「凄惨なもんだ。本人はもう殆ど意識がないのに、肉体は活動する限り、アニムスを暴走させ続ける。周囲を容赦なく巻き込み、多大なダメージを与え続けるが、誰もそれを止められる者はいない。最早、それそのものが一つの災害みたいなもんだ。止めるには暴走したゴーストの生命活動を止めるしかないが、それがまた容易なことじゃない。
だから、そういった状態に陥る危険性の高いゴーストは《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》に指定されるんだ。ただ、言葉こそ違えど、扱いはほぼ《リスト入り》と変わらない。厄介なことになる前に消しちまおうって寸法さ」
深雪はその時になって、その場にいる皆が表情を曇らせた理由をようやく理解する。
「つまり、あの子……死ぬの……?」
茫然として呟くと、石蕗が控えめに頷いた。
「《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》に指定されれば、その時点でどこぞの《死刑執行人》に命の火を刈り取られることになるだろう。そうでなくとも、あの状態では長くはもつまい。例えもったとしても、あと半年ほどだろうな……」
「ああ、花凛……!」
オリヴィエは、それ以上、耐えられないという風に項垂れ、目元を片手で覆ってしまった。流星が励ますようにオリヴィエの肩を叩くが、その顔も花凛や俊哉に対する憐憫の情で溢れている。
(そんな……まだ子供なのに……!)
深雪は衝撃のあまり、言葉もなかった。
折角、花凛を助けられたのに、彼女の前途には苦難の道しか残されていない。頼みの綱であるアニムス抑制剤も、もはや彼女の体調を何ら改善させはしないのだ。
彼女の命は、もう長くない。アニムスの暴走を治療する方法も残されていない。そして、その厳しい現実は、俊弥にも容赦なく突きつけられるだろう。幼い少年少女の背負わされたその運命は、あまりに酷としか言いようがなかった。
何とかして、助けられないのだろうか。何をしても無駄だと、諦めるしかないのだろうか。絶望的なこの状況の中に、少しでも、希望を見出すことはできないのだろうか。
(いや、俺の力なら……《ランドマイン》じゃない、もう一つの力なら、きっとそれができる……‼)
アニムスの暴走が――強すぎる異能力の存在が原因で、生命の維持が脅かされるのなら、その力を根こそぎ断てばいい。花凛をゴーストから人間に戻すことができたなら、それが適うのではないか。
(あの二人を見てると、昔の友達を思い出す。俺の大切な……一番大切だった《仲間》たちの事を……。だからこそ、何とかしてやりたい。俺には花凛たちの状況を変える力があるんだから……‼)
深雪は唇を引き結んだ。そう、あの能力は、このような時の為に存在するのではないか。いや、今このような時こそ、使うべきなのではないか。
《ウロボロス》の時は何もできず、自分ですべてを破壊してしまった。
だが、今は違うのだ。
深雪の持つ第二の能力――ゴーストを人へと戻す力には、まだ分からないことも多い。今まで二度ほどしか使ったことが無いし、平時には使おうと思っても、反応すらしないことも多い。
けれど、今ならそれを発動させることができる気がした。体全体が熱を帯び、特に右肩からその先が、ぐらぐらと沸騰するほど激しいエネルギーを放出している。しかし、頭の芯は自分でも驚くほどすっと冷えていく。
いつもの、あの感覚だ。
右手を持ち上げ、その掌を開くと、いつものように中央が真っ白い光を放ち、それが放射状に広がる赤い痣に沿って溢れ出していた。つい先ほどまでは何の変化もなかったのに、深雪の花凛を助け出したいという感情に反応したのだろうか。まるで、早くアニムスを使ってくれと言わんばかりに、力がみなぎってくるのを感じる。
(よし、いける……!)
深雪は右手を握りしめた。すると力の奔流に抗えず、拳が小刻みに震える。そうする間にも、右腕に走った赤痣を白い光が埋め尽くしていく。静かな興奮が深雪の体の内を満たした。それに導かれるようにして、深雪は花凛の運び込まれた病室へと歩き出す。
「深雪……?」
「どうした?」
オリヴィエと流星がそれに気づき、訝しげにその背中を見つめる。しかし深雪は二人の声に振り向くことなく、病室の扉を開けた。そして、躊躇なくその中へと足を踏み入れる。
部屋の中には四床のベッドがあり、花凛の寝かされたベッドは入って右側の一番奥、窓際にあった。
花凛は点滴をうちながら眠っている。その顔色は悪く、息も苦しそうだ。運び込まれた時よりは幾分、ましになっているが、あまり良い状態とは言えないのは確実だった。
アニムス抑制剤を投与にしても《マグネティク・フィールド》を完全に抑え込むことができないのか、胸元で組まれた手には、クリップやボールペンといった、鉄を含む製品がくっついている。それらはボウリング場での鉄くずと同じく、放射状に逆立っていた。
傍には俊弥が心配そうに付き添っている。俊哉は花凛の病状をまだ石蕗から聞かされていない。それでも、彼女の状態が芳しくないことが苦しそうな寝顔から分かるのだろう。その顔には、これから花凛はどうなるのだろうという不安と恐怖が、色濃く表れているような気がした。
深雪は俊哉に、なるだけ抑えた口調で声をかける。
「俊哉、話がある」
俊弥は深雪が突然、部屋に入って来たのに気づいて、驚いたように目を見開いた。
「こ……今度は何だよ……?」
深雪はその声には答えず、まっすぐ花凛のもとに向かう。俊哉は椅子から立ち上がってそれを遮ろうとしたが、深雪の雰囲気が変化しているのを察したのか、戸惑いを滲ませた。そしてすぐに、深雪の右手が異常なほどの白光を放っているの気付き、しきりとそれを気にしている。
しかし深雪はそれには構わず、まっすぐ花凛に視線をやったままだ。
「……俊弥。花凛はこのままでは、もう長くは生きられない。……気づいてるんだろ?」
「そ、それはっ……!」
俊弥は反論しかけ、口をパクパクと動かしたが、やがて苦しそうに表情を歪ませて唇を噛み締めた。そして、肺の底から絞り出すかのような、悲痛な声音で叫んだ。
「だったら……どうだって言うんだよ!? 俺は無力だ……言われなくたって、分かってる! 花凛の状態が日に日に悪化するのを、ただ見ているしかなくて……何とかして調達してきたアニムス抑制剤は、症状を改善させるどころかより悪化させることしかなくて……‼
俺たちには……俺にはもう、他に何も……‼」
深雪は花凛に注いでいた視線を上げ、きっと俊哉を見つめた。
「いや……まだある。方法はあるんだ」
「何言って……?」
「でも、その方法を使ったら、花凛はゴーストでなくなってしまうんだ。俊弥とも、今までの関係ではいられないかもしれない。……だから、約束して欲しいんだ。花凛がもし、以前とは違う存在になったとしても……人間になったとしても、今までと変わらずにそばにいると」
深雪としては、それが最も気がかりだった。俊哉のアニムスが何であるのかは分からない。だが、オリヴィエの話だと、彼もゴーストなのだろう。花凛と俊哉は、おそらく互いにゴーストだからこそ、良好な関係を続けてこられた。
もし花凛が人に戻って、その関係が崩れてしまっては、元も子もない。
俊哉は半信半疑の様子で深雪の言葉を聞いていたが、深雪の放つ先ほどとは違う空気――ある種、何かを超越したような、絶対的な支配者にも似たそれに気圧され、疑問を呑み込んでごにょごにょと口籠った。
「よく……分かんねえけど。俺が花凛とずっと一緒だったのは、花凛がゴーストだったからじゃない。その……か、花凛でなきゃ、駄目だったからだ!」
深雪に挑みかかるようにして言い切った俊哉は、しかしすぐに己の発言の意味に気づき、顔をゆでだこのように真っ赤にする。そして、その照れ隠しに再び深雪を睨んだ。
「な、何だよ……文句あんのかよ?」
「いや。それを聞いて安心したよ」
俊哉のさまを微笑ましく思いこそすれ、非難などするわけが無い。彼が花凛に抱いている感情は、単に好き嫌いを超えた、特別なものなのだ。それは今までの俊哉の言動からもよく分かる。
実際には、花凛が本当人間に戻ったら戻ったで、新たな困難が二人を待ち受けている事だろう。でも、俊哉のこの気持ちがある限り、きっと乗り越えられる。この二人なら大丈夫だ。少なくとも、深雪はそう判断した。
深雪は静かに目を閉じる。それと同時に、右腕全体を縦横無尽に走る白光が、その強さをぐんと増した。右手が眩いほどの光に包まれ、肉体としての輪郭を徐々に失っていく。そして、その光が右肩のあたりで爆発したように膨らむと、幾筋も放射状に広がって、鳥の翼のような形状になる。
病室は深雪の腕から溢れ出す白光によって、激しく荒れ狂った。他のベッドや収納棚、かなりの重量がある筈のそれらが、ガタガタと小刻みに振動し、或いはカーテンやシーツが捲れあがって、激しく舞い踊る。
「な……!?」
俊哉は絶句し固まった。あまりに予期せぬ光景に、花凛を守ろうと動き出すことすら忘れてしまったようだった。
硬直したのは俊哉だけではない。
「深雪! 一体、何を……!?」
「あれは……マリアが言ってたやつか……? ゴーストを人間に戻すっていう、深雪の第二の能力……‼」
病室の入り口で成り行きを見守っていたオリヴィエと流星もまた、想定外の事態に息を詰め、半ば呆然として白光を眺めていた。
深雪が何を起こそうとしているのか、それを止めるべきか否か。初めて目にする現象に、判断を下しかねているようだ。
周囲の動揺をよそに、深雪は花凛のベッドのすぐそばに立ち、見開いた瞳孔をただ一心に彼女へと向ける。やがて花凛は、騒然とする病室の物音で意識を取り戻した。そしてうっすらと目を開くと、傍らに立つ深雪へと弱々しい視線を向けた。
「真っ白い、翼……あなたは、天使……?」
「天使じゃないよ。でも……君を病気から解放することはできる」
深雪が答えると、花凛は悲しげに微笑んだ。
「そんな……無理しなくていいよ。体はどんどん弱っていくのに、アニムスは逆に強くなってる。私の病気はもう治らない。体がアニムスに耐えられないの。そんなの……とっくに知ってた」
そう吐露する花凛の瞳には、痛い痛しいほどの諦めと覚悟が浮かんでいた。彼女は自分がそう長くは生きられないのだという事を、既に知っているのだろう。誰かが教えたからではない。おそらく、己の体調からそれを感じ取っていたのだろう。
深雪は、白光に支配された右手に代わり、自由な左手を握りしめた。やはり、今この力を使うべきだ。今使わずして、いつ使うというのか。
「確かに、君はゴーストのままじゃ生きられない。だから人間になるんだ。人間にはアニムスがない。アニムスの暴走も起きようがないだろ?」
「でも、そんなこと……できるの?」
「ああ。後は君の選択次第だ。このままゴーストとして生を終えるのか、それとも人間として生き続けるか。花凛はどっちを望むんだ?」
その質問は深雪にとって重要だった。これまで二度ほどこの能力を使ったことがあるが、人間に戻ったゴーストはいずれも激しい衝撃を受けたようだった。深雪がいくら花凛を人間に戻したいと思っていても、花凛がそれを望んでいなければ意味がない。
だがそれは深雪の杞憂だったようだ。花凛は何かに縋るようにして叫んだ。
「私……生きたい……! まだやりたいことが……やってない事がいっぱいあるの! 人間になったとしても……他の何になってしまったとしても、生きたい! 生き続けたいよ……‼」
花凛の両目から涙がどっと流れ、頬を濡らす。顔をくしゃくしゃにして、大きく嗚咽を上げながら。その姿は、紛れもなく生への渇望に溢れていた。
「ほんとは、怖かったの……このまま、苦しんで、苦しんで……いつか死んじゃうんだって、そのことが怖くて仕方なかったの……‼」
今まではその感情を表に出すことができず、押さえつけていたのだろう。花凛が不安や苦悩を訴えれば、俊哉を余計に苦しめてしまう。ただでさえ幼い少年少女には、背負い難い困難なのだ。俊哉のことを大切に想うからこそ、言い出すことができなかったのだろう。
「うん、分かった。……待ってて」
深雪は、熱の奔流を放ち続ける右の掌を、花凛の顔にそっと被せる。すると、花凛の全身も光を放ち始めた。
そしてその光は深雪の右手の内に収束していくと、腕を伝って肩へと移動し、そこから延びる翼から空中へと放出される。その様はまるで、花凛の中で荒れ狂うアニムスを深雪の右手が吸い取り、開放しているようでもあった。
病室の中は更に轟轟と音を立てて吹き荒び、白い光が稲光のように鋭い閃光を放つ。暴風雨のさなかにいるような、凄まじい有様だ。
「ああ……ああああああっ……‼」
花凛の口から絶叫が迸る。それを耳にした俊哉が、深雪の背後から不安そうに声を張り上げた。
「花凛! 花凛‼ おい、大丈夫なのかよ!?」
「大丈……夫……あと、もう少し……‼」
一際、爆発したかのような強い発光が起こった。
次の瞬間、深雪の腕から伸びた翼が、ガラスのようにパキンと音を立てて割れ、空中に霧散していく。
同時に病室に吹き荒れていた光の嵐も、深雪の腕を駆け巡っていた白光も、すべてが電気を消したかの如くぱたりと消滅する。全てを終えた深雪は力尽き、がくりと花凛のベッドの脇で膝をついた。
「お、おい……!?」
ぎょっとした俊哉は、深雪へと近寄ろうとして、ふと足を止めた。そして、大きく目を見開く。
少年の眼前で、花凛はベッドの上に起き上がっていた。
先ほどまで土気色だった顔色は、別人化と見紛うほど血色が良くなっている。
「花凛! 起き上がって大丈夫か?」
「俊哉……私、何だか変なの。体がすごく軽い……生き返ったみたい」
駆け寄ってくる俊哉に対し、花凛は両手を持ち上げ、それを開いたり閉じたりして見せた。すると、先ほどまで彼女の手にくっついていたボールペンやクリップが、ぱらぱらとベッドの上に落ちていく。
「《マグネティク・フィールド》が……!」
俊哉だけでなく、オリヴィエや流星も、驚愕でそれ以上、言葉にならないようだ。
「邪魔だよ、そこをどきな!」
石蕗の動きはさすがに迅速だった。部屋の入り口を塞ぐ流星とオリヴィエを一喝して押しのけると、部屋にモニター付きの見慣れない機材を持ち込む。
そこから伸びる、いくつかの電極を花凛に断って彼女の腕や胸部にくっつけると、モニターの電源を入れて作動させた。




