第7話 石蕗診療所①
つまり、その桁外れの回復力も、《スティグマ》の能力の一環という事なのだろう。ただ、両手の甲にある十字の傷だけは、決して治ることはないようだ。血でどす黒く染まり、かさぶたになることもなく、そのままになっている。
(《スティグマ》……か。味方だったら心強いけど、敵に回ったら厄介だな……)
《スティグマ》というアニムスそのものが汎用性の高い能力であるが、オリヴィエ自身にも治癒力が高く、少々痛めつけただけではすぐに回復してしまう。
しかも、オリヴィエは幼いころにゴーストになったと言っていた。この金髪碧眼の神父はゴーストとなってから長く、それ故にアニムスを自分の手足のように使いこなすことができるのだ。欠点があったとしても、それをカバーする手法も編み出していることだろう。
(いや、そういう風に考えるのはよそう。オリヴィエは良い奴だ。『敵』なんかじゃない)
相手が例えゴーストであろうとも、理解し合いたい。そう思ってはいても、いざそのアニムスを目の当たりにすると、殆ど反射的にその長短を分析してしまう。
自分のアニムスとの相性や、どうしたらいざというときにその脅威を削げるかなど、そういったことを考えてしまうのだ。
そんな自分に嫌気がさすと同時に、それがゴーストの本能なのかもしれないとも思ってしまう。相手のアニムスの弱点を探り、僅かでも己が優位に立つ方法を考えることが、すなわち『生存競争』に打ち勝つことでもあるのだ。
(本能からは逃げられない……でも、それに囚われるのはただの獣だ)
誰だって生存競争には負けたくないだろう。どんな手を使ってでも生き延びてやる。そう思うのが普通だ。けれど、いつまでも本能と感覚で判断していたら、それはただの獣ではないか。
それを踏まえた上で次のステージに向かわなければ――それができるという事が『人』である事ではないのかと、深雪はそう思うのだ。
(……ともかくこれで一件落着だ)
後は花凛に治療を施すだけ――深雪はそう思ったのだが、流星とオリヴィエはそう思っていないようだった。それが証拠に、二人の表情はひどく険しいままだ。
特に流星は、何かに怒っているようにも感じる。戸惑う深雪の前で、流星は鋭く問いを発した。
「俊弥、聞きたいことがある。ひょっとして、花凛は《劣化剤》を使ったんじゃないのか?」
(劣化剤……?)
耳慣れない単語に深雪は眉根を寄せる。一方、俊弥はそう指摘された途端、真っ青になってびくりと体を震わせ、そのまま硬直してしまった。
「劣化剤って、何?」
厳しい表情の流星のオリヴィエに、深雪は内心でたじろぎつつも尋ねた。すると、流星の瞳に宿る憤怒が殊更に強まったような気がした。
「その名の通り、低品質のアニムス抑制剤の事だよ。アニムス抑制剤はゴーストにとっちゃ生命線だ。質のいいものは高値で取引される。あまりにも高値なんで、手が出ないって奴も多い。ネットでは卒倒しそうなほどの高値で転売され、とても必要な奴に必要なものが行き渡るような状況じゃないんだ。だから、劣化モノに手を出す奴も多い。その方がいくらかは安いからな。
ただ、悪質なものだと、ただの生理食塩水に着色したものをアニムス抑制剤だと言って売ってるなんてこともある。更に厄介なのがアニムス抑制剤にあれこれと混合してある悪質なヤツだ。例えば……覚せい剤とか大麻、合成麻薬だとかが、な」
「……!」
ぎょっと表情を強張らせる深雪に、流星はなおも説明する。
「少し前に《Heaven》って流行っただろ。今は《Ciel》とか《Caelum》か? ああいうのも広義の意味でいうと、劣化剤の一つってことになる」
「花凛のアニムスは、この場の金属を全て吸い寄せるほど強いものでは無かったはず……それに、精神状態も異常なほど錯乱していました。ただ力の制御が出来なかったというには不自然です」
オリヴィエの口調にも憂いが滲んでいる。何故あなた達がこんなことを――そんな悲しみと失望を俊哉に向けているのが深雪にもひしひしと伝わってくる。
流星の叱責よりオリヴィエの信頼を損なったことの方がショックだったのだろう、俊哉はひどく落ち込んだ様子で、喉を詰まらせた。
「ごめんなさい……でも仕方なかったんだ! 俺達の収入じゃ純度の高いアニムス抑制剤は手に入らない……だから……!
……ここ一、二年、花凛のアニムスは孤児院にいた頃よりずっと不安定になり始めてて、飲食店の仕事を休むことも増えてた。花凛の磁場に反応してスプーンとか食器とか体にくっついたり、鍋がひっくり返ったりしてさ。店長にもしょっちゅう怒られてて……。さっきみたいにひどくは無かったけど、それでもこのまま仕事を休み続けたら家賃が払えなくなって困るって、悩んでるみたいだった。
そんな時、俺が働いてる工事現場で知り合った同僚から聞いたんだ。最近、抑制剤の良いのが出回ってるって……安い割にすげえ効果があるし、幻覚症状がちょこっと出るけど、気を付けて使えば影響は最小限に抑えられる。大丈夫、みんな使ってるからって、そういう風に聞いて、花凛が試してみたいって言ったんだ」
二人とも、《Ciel》に対する警戒心が無かったわけではないのだという。けれど、仕事が無くなってしまうかもしれないという恐怖、そしてみんな使っているという安心感で、一度だけ試してみようということになったらしい。
「それで粗悪品を掴まされたってワケか……。他人の弱みにつけ込んで劣化モノを売りつける、悪質な連中も少なくないからな。使ったのは何て薬だ?」
「さっき赤神さんが言ってたやつだったと思う。確か……《Ciel》とかって……」
流星は大きく溜息をついた。
俊哉たちにも同情すべき点はある。最も赦せないのは、困っている俊哉たちにつけ込み、《Ciel》を売りつけた連中だ。
流星もそう思ったのか、先ほど見せた激しい怒りは少し収まったようだった。今は、沈痛な面持ちで、俊哉と花凛を見つめている。
オリヴィエもまた、うずくまって嗚咽を漏らす俊弥の背中を労るかのように、ゆっくりと撫でた。
「俊弥……そういう時は孤児院を頼っていいのですよ」
「でも……孤児院にも、アニムス抑制剤を必要としている子供は大勢いるでしょ? 俺達がそれを使えば、その分、誰かの《アニムス抑制剤》が奪われてしまう。花凛が、世話になった孤児院に、これ以上、迷惑はかけられないって……‼」
「俊弥……」
きっと、俊哉と花凛が二人だけ何とかしようとしたのは、孤児院に対する二人なりのけじめだったのだろう。いつまでも善意に甘え、頼りきりになるわけにはいかない――その責任感が、結果的に《Ciel》に手を出させることになってしまったのだ。
オリヴィエは唇をぎゅっと噛んで、俯いた俊弥の頭を抱きしめる。その姿は俊哉を慰めているようにも見えたし、或いはどうしてその事に気付いてやれなかったのかと、己を責めているようでもあった。
深雪は離れた場所でその様子を見つめていた。花凛や俊哉のことを気の毒だと思う一方で、《Ciel》の事に考えが及ぶと、寒々しく陰鬱な感覚に襲われる。
この街には確かに格差がある。ゴーストと人間の間にも勿論あるが、それだけではない。ゴーストとゴーストの間にも厳然たる格差が存在するのだ。
アニムスの強弱による格差が経済格差となり、生命の格差へと繋がっていく。強者は弱者から毟り取り、手にした富でアニムス抑制剤、つまり生命を買うことができる。だが、少しでもそのレールから外れた者は、どんな理由があろうと容赦なくふるいにかけられ脱落していくのだ。
誰が悪いのか、何故こうなったのかは分からない。ただ、確実に格差は生まれ、弱肉強食のルールが我が物顔で跋扈している。強者が当然の様に、何の疑いも無く生を謳歌し、気づきもしないところで弱者を踏みつける世界の構図がここにもある。
そして弱者は弱者同志、喰らいあうしかない。少しでも己の方が有利な立場に立てる様に。
そしてそれらは、監獄都市《東京》の抱える歪みの、ごく一端にしか過ぎないのだ。
「……とにかく、花凛を安全な場所に運ぼう。酷い外傷も多いし、医者にも見てもらった方がいい」
そう言って、早くも崩れかかったボウリング場から撤退する構えを見せる流星に、深雪は「どうするの?」と尋ねる。
「石蕗のところへ連れて行くのがいいだろう。あの先生はおっかねえ性格してるが、腕は確かだし、何だかんだで面倒見はいいからな」
「あ……あの! 俺も一緒に行っていいですか!?」
俊哉は、若干ためらいながらも、強い決意を両目に浮かべて言った。駄目だと言われても、絶対について行く――そんな様相だ。それを見たオリヴィエは、ふわりとほほ笑む。
「もちろんですよ。あなたの付き添いがあれば、花凛も心強いでしょう」
「……うん!」
硬かった俊哉の表情は、その瞬間にぱっと弾けたように明るくなる。どうやら、花凛の事となると、途端に心配性で世話焼きになるようだった。俊弥が深雪に良い感情を抱いていないのは、うんざりするほどよく分かるが、それでも俊弥のことを嫌いになれないのは、花凛に接する時の態度を見れば基本的には良い奴なのだという事が伝わってくるからだ。
(何か、《ウロボロス》にいた頃のことを思い出すんだよな……)
かつて所属していたチーム、深雪が家族のように慕っていた《ウロボロス》は、ちょうど俊哉や花凛くらいの少年少女が集まってできたチームだった。
特にチームができたばかりの頃は、みな互いに支え合い、励まし合っていた。だから、俊哉と花凛を見ていると、どうしてもあの頃の仲間たちを思い出してしまう。
(俺が……あいつらの未来を根こそぎ奪ったんだ)
最初は、あまりにも重いその事実が耐えられなかった。自らの事として直視できず、自分の殻に逃げ込んで、ぶるぶると震えていた。事が起こったあの日のことを、思い出すだけで発狂しそうだった。
今もおそらく、それほど変わってはいない。でも、感情的には、少しずつ落ち着いて向き合えるようになってきたと思う。
自分のことしたことに対して、何をすべきか、どう罪を償ったらいいのか。何をしたら赦されるのか。深雪はいつも考える。でも、答えはまだ分からない。六道ならそれを知っているような気もしたが、彼が深雪を直接、自らの手で罰するつもりは無いようだ。
(ひょっとしたら……俺が花凛を助けなきゃって思ったのは、罪滅ぼしの代わりだったのかもな……)
鉄くずの下から、彼女の小さな体が現れたのを目にした瞬間、何とかして助けてあげたいと強く思っていた。彼女の姿を見て、無意識のうちに《ウロボロス》の事を思い出していたのかもしれない。だから、どうしても他人事だとは思えなかったのだ。
磁気嵐の吹き荒ぶ中で、《ランドマイン》による爆音で気絶させるなどという無茶な作戦を実行しようと思ったのも、それが理由の一つでもあっただろう。俊哉の横暴な憎まれ口を聞かされても、あの少年のことを心から嫌悪することができなかったのも、おそらく同じ理由だ。
《ウロボロス》にまつわる過去に対して、どう償えばいいのかは分からない。けれど、その過去が今の深雪を突き動かしているのは、紛れもない事実だった。
流星が深雪達を連れて向かったのは、山の手通りの近くにある、古い雑居ビルの前だった。都庁が近いせいか、その一帯は大きなビルも比較的よく残っている。雑居ビル一階の壁に貼り付けてあるプレート看板を見ると、一階に『のざき薬局』、二階に『石蕗診療所』とあった。
その看板を見るに、一階はどうやらドラッグストアのようだ。だが、間口が狭い上に、商品が床から天井までびっしりと積み上げられ、入口にあるものは何年そこにあるのか、パッケージが完全に日焼けしている。
薄暗い店内を覗いてみると、客の姿はなく、店舗の奥の方にレジが見えたが、ダークファンタジーに出てくる小人のような老人が、ぎろりとこちらを睨み返してきた。
(ひええ、おっかねえ……本当にここ、ただのドラッグストアか……?)
この《監獄都市》はその特異性もあってか、この街ならではの職業も多い。潰れかけそうな駄菓子屋に手りゅう弾が置いてあることもある。だからこのドラッグストアが裏で何を売っていてもおかしくはない。
そのドラッグストアの隣に、二階へと上がる階段とエレベーターが設置してある。エレベーターは古いながらも何とか稼働していて、深雪たちは花凛を抱えたままそのエレベーターに乗り込むと、ビルの二階へと向かった。
チン、と音がして扉が開いたその先は、下のドラッグストアとは真逆の、小ざっぱりとして清潔な空間が広がっていた。
清掃の行き届いた廊下には、ソファや観葉植物が置いてあって待合室となっている。その向こうにはいくつか扉があって、そこが診察室や処置室となっているようだ。
流星は、入ってすぐ右手にある小さな受付に向かった。すると痩せぎすの眼鏡をかけた中年女性が顔を出し、二言三言、流星と言葉を交わす。
そして数分後、診察室の扉が開き、中から顔を出したのは、白衣を纏った女性医師だった。彼女がこの診療所の主、石蕗麗だ。
だが、二十代中ごろの彼女は、派手なメイクにタイトなミニスカート、胸元が起きく開いたシャツと、白衣を着ていなければとても医者だとは分からない。
「……その子だね、患者は? こっちの病室に運びな」
石蕗はぐったりとした花凛の姿を見るや否や、そう指示を飛ばした。花凛は意識がなく、顔色も土気色だ。具合が悪いことが一目瞭然で、すぐに患者だと分かったのだろう。
既に何度もここを訪れたことがあるのだろう、流星が勝手知ったるといった様子で扉の一つを開けると、オリヴィエが花凛を抱きかかえてその中に運び、ベッドに寝かせる。すると間を置かずして石蕗が医療品を載せたカーゴを押して運び込み、花凛の診断と治療に取り掛かる。
深雪と俊哉は石蕗の邪魔にならないように、ベッドから離れてそれを見つめていた。俊哉は花凛のことが心配でならないらしく、先ほどから一言も発することなく、歯を食いしばって花凛に視線を注いでいる。
「何か、学校の保健室を思い出すな……」
深雪が診療所を見回しながら小声で呟くと、流星が「確かにな」と相槌を打つ。
「ここ《監獄都市》じゃ、総合病院みたいなでかい病院は経営が成り立たない。だから殆どがこういうこじんまりとした個人病院や診察所ばかりだ。……おまけに営業許可も下りないところが多いから、大抵が無許可営業の闇医者扱いだしな」
「その闇医者にこの間十針も縫ってもらったのは。どこの誰だっけ?」
花凛にアニムス抑制剤を投与するのだろう、点滴の処置を施しながら、石蕗がぶっきらぼうな口調で突っこんだ。もっとも、彼女はいつも男勝りな口調なので、特に気分を害したというわけではないようだが。
「うちはゴースト専門でやってるってだけだ。それに許可を出さないのは行政の単なる怠慢ってもんだろが」
「分かってるって、石蕗先生。そう怒んないでよ、きれいな顔が台無しだぞ?」
流星が軽口を叩くと、石蕗はクランプで点滴の落下速度を調整しながら、皮肉を込めた口調で返した。
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。脇腹の傷縫われる時にギャーギャー喚いてた坊やのセリフとは思えないね!」
「そうなの?」
深雪が尋ねると、流星はその時のことを思い出したのか、やけに遠い目をした。
「いやあ、あの時は参った、参った。けっこーな感じでグズグズに腫れ上がった傷口を容赦なく乱暴に縫い合わせてくれちゃってさ。あの時ほど麻酔は無力なんだって思い知らされた事はなかったわー」
「まあ、そういう体質の奴は時たまいるね。けど、大袈裟に騒ぎすぎなんだよ、麻酔が効かないくらいでさ。……って言っても、そっちの神父さんみたいに、全部、自己治癒力でなんとかしちゃって、きれいさっぱり何にも処置が要らないってのも、こっちとしてはつまんないけどね」
「それはどうも……申し訳ありません」
オリヴィエは困ったような顔をして微笑んだ。花凛を救出する際に負った傷は、今や全て塞がってしまい、手にもいつもの白い手袋を嵌めている。神父服があちこち綻んでいる以外は、いつもと全く変わりがない。
(あれから三十分ほどしかたっていないのに)
その治癒力の高さには、改めて驚かされるばかりだ。
「まあとにかく、この先生は人間なのにゴーストを専門に診てくれる、有難くて頼もしいお医者さんってことだ」
流星がどこか茶化したように説明すると、石蕗はこれでもかと不機嫌そうに毒づいた。
「それ以上何か言ったら、腹の傷口だけじゃなく、そのふざけた口も縫い合わせるよ!」
次いで石蕗は、深雪へと目を止めた。
「……元気になったみたいだね。あれから調子はどうだい?」
かつて深雪は、突発的なアニムスの暴走を引き起こし、倒れたことがある。その際、治療を施してくれたのが石蕗だったのだ。
「あ……はい。普通にいいです」




