第2話 異常気象②
すると、それが思いもよらぬ効果をもたらした。それまでふてぶてしく反っくり返っていいたマリアが、ムキーッと腹を立て始めたのだ。
「何なの深雪っち、その生暖かい目は!? そういうの、一番ムカつくのよ‼」
どうやら、そういった同情めいたリアクションを取られるのが、マリアは何よりも嫌いらしい。別に狙って言ったわけではないが、地団太を踏むマスコットを見ていると、何だか少しだけ溜飲が下がる気がする。――マリアには非常に申し訳ないが。
「でも……ちょっとだけ安心したよ。俺、マリアに完全に嫌われたんだと思ってた」
先日の少女連続猟奇殺人事件の際には、マリアと意見が衝突し、彼女からひどく手厳しい言葉をぶつけられることもあった。てっきり嫌われたのかと思っていたが、今ではマリアも元通りに接してくる。本当に嫌われたなら、口をきいたりしないだろう。
するとマリアは、にやりとした笑みと共に、挑発的な視線をこちらへ向けた。
「あら、あたし言ったはずよ。こっちの邪魔をするなら、その時は容赦しないって。深雪っちは深雪っちらしく、『自分には何もできない』とか言って、そのまま大人しくしていれば、それでいいのよ」
その言葉の中には、深雪に対する嫌味や棘も多分に含まれていたが、深雪はやんわりとそれに反論した。
「まあ、俺にできることがまだまだ少ないのは事実だけど……だからって大人しくしているつもりは無いよ」
何もしない――そういう選択肢も、あるにはあるだろう。だが深雪は、行動を起こせる状態であるにも関わらずに何もせず、後でそれを悔やみ続けるなどという選択はしたくなかった。
もちろん、行動を起こせばそれでいいというわけではない。誰が見ても明確な無謀や無鉄砲は、迷惑以外の何ものでもないからだ。だが、自分が動くことで何かが変わるかもしれないという希望は、完全に捨て去ってしまいたくなかったし、何より自分に無様な言い訳をし続けたくないと、そう思っていた。
ところがマリアは、あんたの都合なんて知ったことじゃないと、目を吊り上げる。
「ちょっとあたしの言う事、聞いてなかったわけ? 余計なことしないでって言ったの、分かんなかった?」
「マリアの邪魔にならなきゃいいんだろ? 分かってるって」
深雪は自信たっぷり、笑顔でそう答えたというのに、マリアは何故だか余計に怒りを強めてしまった。
「分かってないわよ! あんたみたいなタイプの人間はね、地雷を踏んだのにも気が付かずに、バカスカ自爆しまくった挙句、さも当然のように周囲の人間をも巻き込んでいくのよ! だから、なーんもしないのが一番なの‼」
「大丈夫だって。俺のアニムス《ランドマイン》だし、地雷には慣れてる……」
「そーいう意味じゃない‼」
「もう、喧嘩は駄目だってば!」
憤怒の形相で深雪に食ってかかるマリアに対し、シロは頬を膨らませ、先ほどよりも強い口調でそれを制した。そして、次に真顔になってマリアに問いかける。
「それより……行き違いって、どういう事なの?」
それで深雪も、そういえば、もともと気候の話をしていたんだっけ、と思い出す。今の《監獄都市》の気候を寒すぎると感じる深雪と、普通だというシロ。両者の感覚の行き違いは、何が原因なのか。
話が途中で脱線してしまい、マリアもその話題をすっかり忘れていたのだろう。小さな両手をポンと打ち、「ああ、そうそう。そんな話、してたっけ?」と、たった今、思い出したかのように付け加える。
「……この《監獄都市》だけ、他の列島にある都市とは違って気温が恐ろしく低いって言うのは事実よ。年中うす寒くて、六月でも絶対に蒸し暑くなんないし、それどころか真夏でも雪が降ることがあるくらい。東京湾の水温も、浦賀水道の辺りでがくんと下がるらしいしね」
「《東京》の中だけ……? 原因は何なんだ?」
《監獄都市》の中だけがそうなのだというなら、地球規模の異常気象ではないということになる。では一体、何が原因なのか。 ところが、マリアの反応はすぐれない。彼女の説明も急に歯切れが悪くなってしまった。
「それがよく分かってないのよ。でも、一説には《関東大外殻》のせいじゃないかって噂がある。《壁》の外側と内側で、全然気象が違うという話もあるわ。外側では台風でも、内側はカラッと晴れて晴天……みたいにね」
「《壁》が……? 確かに《関東大外殻》は不気味だったけど、でも《壁》は所詮、ただの《壁》じゃないの? 気象にまで影響を与えるとは考えにくいけど……」
「ま、理論的にはそうよねー。あくまで、噂よウワサ! でもまあ、原因がはっきりしないって言うのも事実なんだけど……」
深雪はますます混乱した。例えば、山岳や山脈といった大きな地形が天気に影響を及ぼすことは珍しくない。だが、この《監獄都市》をぐるりと囲んでいる、万里の長城のような長大な《壁》――《関東大外殻》は、そこまで巨大だというわけではないのだ。高さにしても、せいぜい二百メートルほどしかない。建造物としては十分巨大だが、それで天候が左右されるとは思えない。
(原因は分からないけど……ともかく、《監獄都市》の中だけ特殊な気候だという事は確かみたいだ)
シロは《壁》の外に出たことがない。だから、この《監獄都市》の中の気候がおかしいという事を知らなかったのだろう。もしかしたら、梅雨や真夏といったものも、知らないのかもしれない。
(いつかはシロを壁の外に連れて行ってあげたいな)
深雪は、そう思わずにはいられなかった。《関東大外殻》から出ることのできない彼女を、特別可哀想だというつもりは無い。シロにはシロの生活があるし、彼女はそれをとても大事にしている。けれど、外の世界の広さや多様性、或いは新鮮な驚きが山ほどあるのだという事も、同時に体験させてあげられたら、とも思ってしまう。
もっとも、今の状況ではそれがいつになるかなど想像もできないのが、残念極まりないのだが。
一方ウサギの姿をしたマリアは、うひひひひ、と気味の悪い薄笑いを浮かべながら、深雪の方へと身を乗り出してくる。
「他にも《壁》に関してはいろいろな噂があるわよ。……聞きたい?」
「え、うん……まあ」
聞きたいような聞きたくないような、微妙な心境だったが、マリアは構わず芝居がかった大袈裟な口調で話し続ける。
「深夜零時に、《関東大外殻》の傍に行くと……聞こえるんですって。若い女性のすすり泣く声が……!」
「……はあ!?」
深雪はつい素っ頓狂な声を出してしまうが、マリアはしごく真面目だった。
「他にも、《関東大外殻》の周囲では不可解なことが頻発しているらしいの。ついさっきまでそこにいた筈の人が突然消えたり、逆に誰もいない筈なのに、人影が急に現れたり……‼」
「シロも聞いたことあるよ! 《壁》の近くにはこわーい幽霊が出るから、近づいちゃ駄目なんだって」
何故だかシロも嬉しそうに口を挟む。そのノリに、深雪もすっかり肩の力が抜けてしまった。
「ははは、何だか学校の怪談レベルだな……。っていうか意外。マリアって、そういうオカルトネタって信じてるんだ?」
「うーん、信じてるって言うのとはちょっと違うわね。あたしが興味あるのは、どうしてそんな噂が飛び出してきたかっていう事の方」
「どういう事? 幽霊はいないの?」
気のせいか、シロは若干、残念そうだ。それに対しマリアは小さく肩を竦めたのだった。
「ま、実在したら面白いとは思うけどね。火のないところに煙は立たずっていうでしょ? もしかしたら、噂の裏で何かが実際に起こっているのかもしれない。それに背びれ尾びれがついて、オカルト話になって広まっている可能性はある」
「つまり……《壁》の周囲で人が消えているのは、誰かが壁の向こうに『脱獄』している可能性があるってことか?」
深雪は思わず呟いていた。人が消えたというのは、その場からいなくなったということだろう。いなくなった人はどこへ行ってしまったのか。ひょっとしたら、《壁》を越えて行ったのではないかと思いついたのだ。
マリアもまた、同様に見当を付けているようだった。
「ま、そういう事になるかしらね。 『幽霊が出るから近づくな』って言うのは、その現場を他の誰かに見られたくないからでしょうしね」
彼女の口ぶりには、どこか人ごとのような軽薄さがあり、深雪は思わず眉を顰める。
「それって、放っておいていいの?」
「今のトコはね。事件にも優先順位ってものがあるし。どの道、ゴーストは《壁》を超えられないしね」
「え、そうなのか?」
「そうよん。《関東大外殻》にはあらゆる場所にアニムスの感知センサーが取り付けてあって、アニムスを持った者――つまりゴーストが近づくと、数万ボルトの電流が壁の表面に炸裂する仕様になってるの。つまり、ゴーストは絶対にあの壁を乗り越えることができないってわけ。
勿論、下に穴を掘ることも、直接破壊することもできない。あれだけ分厚い壁だから、ちょっとやそっと傷つけたり、穴を掘ったりしたくらいじゃどうにもならないのよ。何か所か《壁》の中に関所があるんだけど、そこも警備隊が見張ってるから通り抜けられない。結果として、難攻不落の城塞と化しているというわけ。実際、今のところゴーストの『脱獄犯』は一人もいないって話よ」
深雪は以前、オリヴィエの孤児院を訪れた時に偶然目にした、《関東大外殻》の異様な佇まいを思い出していた。
「《関東大外殻》……か。一体何でできてるんだ、あれ? コンクリートじゃないよね?」
石材とも金属とも違う、赤黒い色をした巨大な壁。その独特の質感は、まるで見ようによっては、生き物の血を塗り固めて作ったようにも見えた。それがビルとビルの合間から顔を覗かせるさまは異様という他なく、背筋が妙に冷え冷えとしたことを覚えている。
あれが何なのか、深雪には全く想像もつかない。何か理由があって彩色が施されているだけなのか、それとも新たに生み出された新素材なのか。マリアなら何か知っているのではないかとそう期待したのだが、予想に反し、マリアは腕組みをして、うーんと唸り声をあげたのだった。
「そこが謎なのよ。新素材とは言われているけれど、その成分が何でできてるのか今もって不明。建設時期についても様々な逸話があるわ。最初は三年がかりの予定だったけど、実際はその半分以下で完成した……とかね」
「それ、本当なの?」
「さあ? でも、不可解なことが多いのは確かね。この《監獄都市》の最大の謎……それが案外、あの《関東大外殻》なのかも」
そんな言葉がマリアの口から飛び出すとは思ってもみなかったので、深雪は内心でひどく驚いた。マリアは知識欲が旺盛だが、同時に負けず嫌いでもある。自分の知らない情報があるという事に憤りを覚える性格で、気になったことは徹底的に調べ上げ、どんな手を使っても暴いてしまうのだ。
そんな彼女が謎だと言うのだから、本当に情報がないのだろうか。いや、それとも単純に興味がないというだけか。
(マリアって見るからに、選り好みが激しそうだもんなあ……)
情報屋を自称するマリアは、他人の弱みを握るのが大好きだ。もはや生き甲斐にしていると言ってもいい。そんな彼女にとって、《関東大外殻》が何でできているかなど、知っても何の得にもなりはしない、どうでもいい雑学なのかもしれない。
現に今もマリアは、世間話のような緩いノリで説明を続けている。
「まあ、ゴーストの『脱獄犯』がいないって言うのも、そんな不気味な建築物を敢えて乗り超えて外に出ようっていうバカもいないっていうのが正直なとこなのかもね。どうせ苦労して乗り越えても、すぐさま《壁》の中に『強制送還』されちゃうわけだし」
「でも、《仲介屋》の中には、ゴーストを《壁》の外に出す人たちもいるって……」
深雪は、先日聞きかじった情報を思い出していた。《監獄都市》は特殊な街だ。だから、《監獄都市》ならではの職業がいくつか存在する。外の品を独自に《壁》の中へ運び込む《仲介屋》もその一つだ。中には人の輸送を請け負うところもあるらしいが、ばれたら《リスト登録》されることもあるほどの重罪なのだという。
すると、マリアは得意げに、ぴっと人差し指を立てて言った。
「は~い、深雪くん。《東京》の周囲をぐるりと取り囲んでいる《関東大外殻》が、ぶっつん途切れている場所が、一つだけあります。それはどこでしょう?」
「ええと……もしかして東京湾の海上?」
「ピンポン、ピンポ~ン! そゆこと。深雪っちも囚人護送船で《監獄都市》に収監されたでしょ? 『脱獄』するには、ほぼもれなく海上ルートを使用するしかないのよ」
えへん、と言い切るマリアだったが、深雪はどうにも腑に落ちない。
「でもさっき、誰かが《壁》を乗り越えてるって……」
「そう。だから消去法で行くと、幽霊の正体はゴーストではない別の誰か……ってことになっちゃうわね」
深雪は息を呑んだ。そこでようやく、マリアの言わんとしていることが分かったのだ。
「もしかして、普通の人間が《壁》を……!? でも、人はゴーストと違って、移動は自由だって聞いたけど……」
わざわざ、あの高い壁を登って越えなくても、彼らは関所を通って出入りが自由なのではないか。そう思ったのだが、マリアによってその疑問を軽々と往なされてしまった。
「だから、きっと人に知られちゃマズい何かをしてるんでしょ。関所も堂々と通れないような、何かをね」
何か良からぬこと――つまり、犯罪行為を、だ。
「不穏だな……」
深雪は腕組みをして唸った。あの高い壁を潜るのではなく、よじ登っているのだ。何か余程あくどいことが、水面下で行われているに違いない。
「なんせ、《監獄都市》の中だもの。ここでは平穏なんて、表面だけの張りぼてなのよ」
マリアは事も無げにそう答えた。
(ひょっとして、今、流星たちが調べてるっていう《Ciel》って薬物と関係あるのかな……)
深雪はふとそう思いつく。《Ciel》というのは、一か月ほど前からゴーストの間で流行っている、危険薬物の名だ。中毒症状を起こし、正気を失ったゴーストが衝突し、抗争へと発展しているケースも増えているらしく、看過することのできない事態にまで発展しているのだという。
マリアが《壁》の事を話している時の口調は、確かにぞんざいだったっものの、かなり確証の高い情報を掴んでいるようでもあった。そうでなければ、不確実性の高い『幽霊』の噂話など、決して軽々しくしたりしないだろう。
(そういえば……その《壁》を通り抜けているっていう『幽霊』って奴の事、マリアは人ともゴーストだとも断定しなかったな……)
消去法でいけば、ゴーストではない誰かだ――と、そういう表現はしたものの、意識的に明言は避けたような節がある。そこまではまだ、特定が済んでいないということなのだろうか。それとも、真実を口に出せない事情でもあるのか。
そもそも、人間がゴーストを裁くことができないように、ゴーストもまた人間には容易に手を出すことができない。だから、《壁抜け》をしている相手が人間であるなら、ゴーストである深雪たちには手出しできないだろう。
それが原因なのか、それとも他に何か思惑があるのか。今のところ、マリアたちが《壁抜け》に対して動き出す予定はないようだが、《Ciel》の供給源を探っていけば、『幽霊』の正体も分かるのだろうか。
思惑に耽る深雪をよそに、マリアは「ああ、そうそう」と呑気な声を上げた。
「すーっかり忘れてたけど、こっちが本題なのよ。海ちゃんから二人に伝言を頼まれてるわよ」
「琴原さんから?」
深雪とシロは顔を見合わせる。一体、何の用だろうか。互いに心当たりがない。そんな二人に、ずんぐり体型のウサギのマスコットは、何故だかとても偉そうにたっぷり間を取ると、こう告げたのだった。
「『もし良かったら、これからお昼をご一緒しませんか?』……ですって」
琴原海は、東雲探偵事務所で事務員をしている、元女子高生だ。どうやらお嬢様校に通っていたらしく、おしとやかで品が良く、よく気の利く子だ。
彼女は深雪とちょうど同じ時期にこの《監獄都市》へとやって来た。そのせいか、どうも全くの他人とは思えない。同じ事務所に在籍していることもあり、互いに相談に乗ったり、声を掛け合ったりして、何かと親しくしていた。
そんな明るくて心優しい彼女であったが、過去に《監獄都市》内で凄惨な事件に巻き込まれて以降、トラウマで外出することができなくなってしまった。事務所の外に出ようとすると、通り魔に襲われた記憶がフラッシュバックして、パニックと呼吸困難を引き起こしてしまう。
だから、彼女はいつも事務所の中で過ごし、滅多なことでは外に出ない。その為、《監獄都市》での知り合いがとても少ないのだ。
だから、深雪とシロは、海が寂しくないように、食事などを誘われた時にはなるだけ一緒に過ごすことにしていた。




