第47話 東雲六道
やはり計都は、こちらが《リスト登録》していないゴーストを殺したことを、何らかの手段を用いて既に把握しているようだ。
ただ、おそらく彼女は、六道たちがゴーストを殺害したことに激怒しているのではない。《収管庁》を軽んじたことに立腹しているのだ。
「……忘れるな。ゴーストはみな、この《壁》の中で、生かされているのだということを。貴様はただ、我々の敷いたレールの上を大人しく走っていれば良いのだ」
そして、禍々しいまでに妖艶な声で囁く。
「貴様の可愛い子飼いのゴーストたちを、《リスト登録》されたくはないだろう?」
張り詰めた沈黙。互いに、暫く無言だった。
これが計都の本性だ。女性だからと言って、物腰が柔らかであるとは限らない。むしろその性格は、並みの男性より苛烈だといってよく、時に恫喝し、脅しすらも用い、力づくで相手を捩じ伏せてきた。
そして、そのことに対して悔恨や恥じらいなどというものはない。
それが九曜計都という女なのだ。
だが、六道とて踏んできた場数の数なら決して負けていない。たっぷりと間を溜めた後、鷹揚に口を開いた。
「何のことだか、さっぱり分かりかねますな。長官殿こそ、少々、働きすぎでは?」
「……何?」
計都は今にも怒りを噴火させそうな唸り声を発する。しかし六道は反論する余地を一切与えず、畳みかけた。
「そういえば……丁度、良かった。こちらもお話差し上げなければならないことがあるのですよ。最近、《収管庁》のお役人の間では夜遊びが流行しているようですな。なに、《中立地帯》であればそれも良いのですがね。《新八洲特区》や《東京中華街》に頻繁に入り浸るのは些か問題があるのではないか……と」
「……!」
僅かに怯んだ計都に対し、今度は六道が重々しく囁く番だった。
「連中は非合法の闇組織です。……それを決してお忘れなきよう」
一度、傾いた組織は、なかなか立ち直ることができない。体質改善は容易ではなく、いかに激しい粛清を行ったとしても、気を抜けばすぐに腐敗に元通りだ。
《アラハバキ》や《レッド=ドラゴン》といった連中も、隙あらば《収管庁》の人間を取り込もうと手ぐすねを引いている。だから、余計に性質が悪い。
計都は、どうやら痛いところを突かれたようだった。もはや体裁を取り繕うことなく、不機嫌さを顕わにして吐き捨てる。
「それに関しては、こちらも把握している。お前は口を出さずとも良い。ともかく、私の在任中に、問題行動は断じて許さん。思い上がりは厳に慎むことだ。……君も、少しでも長生きしたいだろう?」
意味ありげな口調でそう締め括ると、計都は最後に、一切の感情を失した冷淡な声で一言、言い放った。
「今の『仕事』を続けたければ、己の身の程をわきまえろ。……話は以上だ」
そして言い終わると同時に、通信はブツンと一方的に切られたのだった。
部屋に静寂が戻ると共に、疲労がどっと押し寄せてきた。六道は椅子の背に体を深く沈め、我知らず呟いていた。
「やれやれ……これでは、一体どちらが闇組織だか分らんな」
一筋縄ではいかないと覚悟していても、真剣で斬り付け合うような会話はやはり神経をすり減らす。こちらも、何も怠惰で《リスト登録》をしなかったわけではないのだが、彼女にそれを訴えたところで意味などないことを、六道もよく知っている。
ただ、計都は口ではああ言ったが、彼女が東雲探偵事務所のゴーストを実際に《リスト登録》することはないと六道は考えていた。仮に犯人を取り逃がし、《新八洲特区》や《東京中華街》へと逃げ込まれたなら、苦境に立たされるのは《収管庁》も同じだ。面子を失うどころか、ただでさえ少ない支持や信頼が、ますます減少することとなる。こちらと敵対し、或いは気に食わないと排除することに、益などないことを計都自身も理解している筈だ。
とは言え、九曜計都が油断ならない相手であることに変わりはない。彼女を本気で怒らせたなら、どんな手を使ってでもこちらを潰そうと、牙を剥いて襲い掛かってくるだろう。今回のことは例外的とはいえ、やはり《リスト登録》を軽んじるべきではない。
もう二度と、眼前で仲間や部下を失うのはご免だ。
昔のことをふと思い出し、六道は遠い目をした。
東雲探偵事務所を立ち上げてからおよそ十年。両手の指では足りないほどの仲間と力を合わせ、凶悪ゴーストと戦ってきた。
根底にあったのは、少しでもこの街を良くしたいという強い思いだ。かつての首都としての繁栄を取り戻すことはできなくとも、せめて秩序だけは取り戻したい。普通の人が、普通に笑える、普通の街にしたい。そして、寝食を忘れ、共に奔走した。
その仲間も、今は一人として生き残ってはいないが。
いつの間にか自分が感傷に浸っていることに気づき、六道は苦笑した。ここのところ、昔のことを思い出すことが増えた。そういう時、否が応にも思い知らされる。自分がとうの昔に、役目を終えたがっているのだということに。
だが、まだ立ち止まるわけにはいかない。まだ、やらなければならないことが沢山ある。それを果たすまでは、後ろを振り返って過去を懐かしんでいる暇などないのだ。例え目の前に伸びるのが、他者によって半ば強制的に敷かれたレールだとしても、最後まで走り抜けるだけだ。
六道は重く沈殿した空気を振り払おうと、杖を突きつつ自室を後にした。
薄暗い無人の廊下を抜け、居間を覗く。
そこもやはり無人だったが、ふと台所のほうから軽やかな鼻歌が聞こえてきた。そちらへ移動すると、勝手口の戸が開いているのが見える。
その先に広がる中庭に、シロの姿があった。小さなじょうろを片手に、鉢植えに水を遣っている。鼻歌は彼女が歌っているものらしい。
中庭はこの洋館の中で最も日当たりの良い場所の一つだ。だが、そこに植物棚ができているとは知らなかった。三段に分かれた棚の中には、様々な色形をしたプランターや鉢が、所狭しと並んでいる。
「これは何という花だ?」
六道が声をかけると、シロは嬉しそうにこちらを振り返った。
「それはね、クレマチスっていうんだって」
「こっちは、シクラメンか」
すらっとした茎と鮮やかなピンク色の花をつけた鉢に目を遣ると、シロは「うん」と頷く。
「オルが持ってきてくれたんだよ」
そして、再びじょうろを傾け、残りの鉢に水遣りをする。淡く笑んだその横顔からは、彼女がどこか心を弾ませている様が見て取れた。六道は少々、意外に思ってそれを見つめた。シロはここ数日、元気がなかった。六道の前では気丈に振舞っていたし、何があったのか詳しく話すこともなかったが、どうやら雨宮深雪と喧嘩をしたものらしい。
それが、今日はすっかり機嫌が直っている。
「……何か良いことでもあったか?」
「えへへ……内緒!」
六道の問いにそう答えると、シロは鈴の音のような、高く澄んだ笑い声をあげる。六道は思わずそれに目を奪われた。春先の陽光のような笑顔を目にしていると、自ずと、彼女をここへ連れてきた当初のことを思い出す。
その頃のシロは六道を異常に警戒し、決して目を合わせようとはしなかった。心に傷を負った野生動物のように毛を逆立たせ、いつも何かに憤っていた。
彼女が、かつて所属していたゴーストのグループに戻りたがっていたのは明らかだったが、自分がチームにとって望ましい存在ではないということも同時に理解していたようだ。いつも窓際に腰かけ、ただじっと外を見つめていた。
根気よく接し続け、結局、ちゃんと言葉を交わせるようになるのに、半年かかった。それを思えば、こうやって穏やかに会話しているのは何だか奇跡のようにも思える。
やがて水をすっかり遣り終えたシロは、こちらを気遣うような視線を向ける。
「六道、お腹空いてない? シロ、ご飯を作る……のは無理だから、何か買ってくるよ」
「そうだな……」
しかし、六道はシロのその気遣いに、最後まで答えることはできなかった。
突如、心臓を襲った痛みは、体の内に配された内臓を、全て一息に押し潰してしまうほどの激烈さを伴った。さすがの六道もそれには耐えきれず、がくりと体が傾ぐ。愛用の杖がなかったなら、その場で昏倒していただろう。
「六道‼」
シロは真っ青になり、殆ど悲鳴に近い叫び声をあげた。
「……大……丈夫、だ」
六道はくぐもった声で何とかそう吐き出すと、懐から常時携帯しているプラスチックのボトルを取り出す。そして震える手で蓋を開けると、中から溢れて出た錠剤を無造作に掴み、口元へ運んだ。
この発作との付き合いも長くなるが、年々、症状は深刻になるばかりだ。それに比例し、薬の量も随分、増えた。正直、どれだけ服用しても、既に効き目は殆どない。それでもこうやって薬を飲むのは、習慣によるのと気休めが、半々くらいだ。
「シロ、お水汲んでくる!」
シロは台所に飛び込むと、急いでグラスに水を注ぎ、それを手にして戻ってきた。六道はそれを受け取ると、一気に半分ほどを飲み干す。しかし、痙攣を起こした胃がそれすらも受け付けず、途中で盛大にむせ返ってしまった。シロは隣でそれをはらはらしながら心配そうに見つめていたが、やがて小さく尋ねる。
「六道、このままどこかに行っちゃわないよね……?」
ややもすると途切れそうになる意識を何とか繋ぎ止め、全力をかけて頭をもたげると、六道はシロへと視線を向けた。シロは両目に大粒の涙を湛え、唇を震わせつつ、再び口を開く。
「シロたちを置いて……いなくなったりしないよね……!?」
今にも泣きだしそうなその顔を見ていると、そんなことはない、心配するなと言って安心させてやれたらどんなにか、と願わずにはいられない。だが、どんなに請おうと、それはあくまで願望であって、事実ではないのだ。一時の慰めのために、噓をつきたくはなかった。それはおそらく将来的に、彼女をさらに傷つけることになるだろうからだ。
「……シロ。人なみな、誰でも死ぬ」
六道は淡々と、無感情にそれを伝えた。彼女を過剰に傷つけないように――さりとて、冗談だと捉えられることもないように。
シロはその途端、くしゃっと顔を歪ませた。とうとう泣き出したかと思ったが、シロは寸手のところでぐっと唇を噛み締め、それを堪える。そして、そのまま六道の黒いスーツにすがりつき、顔を埋めた。
「……嘘。そんなの、嘘だよ。六道は強いもん。簡単に死んだりはしない……そうでしょ?」
それはとても小さな囁きだったが、先ほどまでの今にも泣きだしそうな様子とは違い、こちらを鼓舞するかのような、凛とした響きがあった。シロなりに、六道を励まそうとしているのだろう。
「……。ああ、そうだな。……その通りだ」
六道は、自由の利く方の手で、シロの頭をそっと撫でた。
シロの言う通りだ。体はとうにがたが来ていて、崩壊寸前だ。だがそれでも、弱気に捕らわれ前進を躊躇すべきではない。《中立地帯の死神》は、まだこの街に必要な存在なのだ。
例え、終わりがすぐそこまで忍び寄っているのだとしても。
暫くして、何とか発作は収まった。六道は尚も心配するシロを宥め、彼女の部屋へと戻す。
そして自らも自室へ戻ろうと、杖を突きつつ、事務所の廊下を進む。
その時、玄関のほうから足音が聞こえてきた。六道は立ち止まって、足音の主が姿を現すのを待つ。
雨宮深雪は、こちらに気づくと、微かに顔が強張らせるが、次の瞬間にはぐっと顎を引き、顔を引き締めた。
「……。今日は目を逸らさないんだな?」
六道は頬を吊り上げ、そう言った。雨宮深雪はまっすぐにこちらを見つめ、静かに答える。
「逃げないって……そう決めたんだ」
「……。いい心がけだ」
交わした言葉は、ただそれだけだった。二人はそのまま、無言ですれ違う。横目で様子を窺うと、深雪は一度も下を向くことなく、上を向いて歩き続けていた。
六道は何か眩しいものを見るかのようにして、それを見送った。ここに来て変わったのはシロだけではない。雨宮深雪も、随分、変わった。
二十年ぶりにその姿を目にした時、雨宮深雪は世界の全てと、何より自分自身に大きな恐れを抱いていて、見るに堪えないほど卑屈な目をしていた。《ウロボロス》を率いていた時の威風堂々とした姿を思うと、まるで同じ顔をした全くの別人のように感じたものだ。
彼は《ウロボロス》を壊滅へと陥れた張本人だ。それを当然と思う一方で、どこか失望している自分もいた。
だが、雨宮深雪は変わった。
と言っても、《ウロボロス》にいた時に戻ったというわけではない。
六道が《ウロボロス》に入った時、チームはすでに東京屈指の大所帯になっていた。あの頃の雨宮深雪の姿は、今でもよく覚えている。当時の彼は威圧と恐怖でチームのメンバーを支配していた。命令に逆らえばどうなるか。雨宮深雪が口を開くたび、チームには異常ともいえるほどの緊張が走った。
ただ、最後を除けば、悪いリーダーだったとは思わない。実際、暴走しがちだったチームをよく抑えていたと思う。しかし、それはどこか不自然で、歯車が噛み合っていないような妙なぎこちなさを伴っていた。本人としても相当に無理をし、虚勢を張っていたのだろう。今は、それと比べかなり肩の力が抜けているように感じる。
良い傾向だ、と六道は思う。
いや、そうでなければ困るのだ。
そうであればこそ、本人が望んでいないのを承知の上で、強引にこの事務所に引き摺り込んだのだから。
雨宮深雪はこれからも変化し続けていくだろう。時に柔軟に、時にしなやかに。時に毅然として困難な現実に立ち向かっていくだろう。終着点の見えている自分とは違い、彼の目の前には広々とした大海原が広がっている。
六道はそのことに、大きな満足感と、僅かばかりの嫉妬を覚えていた。




