第44話 過去を知る者④
その直後、義手から溢れだした凍気が、地面に走った亀裂を接着剤のように繋いでいった。低い地鳴りをたてて崩壊する寸前だった坂本の足場は、寸手のところで状態を維持したのだった。
あと数秒でも《ヴァイス・ブリザード》の発動が遅れていたなら、坂本は今頃、瓦礫もろとも、地下へと真っ逆さまだったろう。
「……そうきたか」
小さく呟く深雪に対し、坂本はニヤリと笑みを返す。優越感と侮蔑に満ちた、不快な嘲笑だ。
「まったく……骨の髄まで偽善者だよ、お前は。……だが、忘れるな。……俺は諦めない。お前が生きている限り、どこまでも追っていく! どこまでも……な‼」
坂本は義手で作った拳をもう一つの掌に叩きつける。両肩の筋肉が山のように盛り上がり、がしゃん、と金属の擦れる甲高い音が乱暴に響いた。
深雪はどこか冷ややかにそれを見つめていた。決して逃げないと腹を括ったせいだろうか。坂本の威嚇を浴びても、さして危険だとも、恐ろしいとも思わなかった。
「……悪いけど、俺はお前に大人しく殺されるつもりはない」
「はん? 抵抗することができない……の、間違いじゃねえのか? 俺が怖いんだろ? 生まれたてのヒヨコみたいに、ビビっちまって反撃もできねえんだろ‼」
坂本は、ひゃひゃひゃ、と下卑た笑い声を立てる。
「好きに言えよ。だけど……そっちこそ、見苦しい言い訳は止めたらどうだ?」
「何だと……!?」
不快な笑みをすっと引っ込め、坂本はぎろりとこちらを睨みつける。だが、深雪は怯むことなく冷徹に続けた。
「お前は俺の目の前で田中を殺した。随分、手慣れた様子だったよな? 他にも、何人も殺ってるんだろ。それが全部、仕方のないことだとは言わせないぞ」
「へっ……だから言ったじゃねーか、そうさせたのは、全部お前の過去の行いのせいだってよ! この世界はな、ゴーストになった瞬間に真っ当な人生は歩めないようにできてるんだ。お前らのせいでできた、あの《壁》のおかげでな!」
言葉とは裏腹に、坂本はへらへらとした、反吐の出るような表情を浮かべていた。
それが、坂本の全てを物語っていた。口ではもっともらしいことを言っているが、その実態は、己の欲望のままに行動する魑魅魍魎そのものだ。他者を傷つけ、強奪することに何の躊躇いもない一方で、都合の悪い部分は他人のせいにしている。深雪をしつこく付け狙うのも、当初睨んだ通り、汚名を挽回したいという己の欲望を叶えるために過ぎないのだ。
その歪んだ本心に表面だけ飾り立て、理論武装をしている。だが、それも所詮は不格好な張りぼてに過ぎない。
電撃のような怒りが全身を貫いた。頭の芯がびりびりと痺おれ、激しい熱を帯びる。一瞬でもこんな奴の主張を正しいかもしれないと思った自分に、虫唾が走った。自分の弱みをうまく突かれたのだと思うと、余計に腹が立つ。
このまま坂本を放置しては置けない。放っておいたら、いくらでも悪事を重ねるだろう。その度にあれが悪い、これが悪いと言い訳を重ね、決して己の行動を顧みることはない。そして、生きている限り――力がある限り、改心することは決してないのだ。
それはやがて、強い憤りへと姿を変えた。シロや自分のためだけではない。こんな悪党を我が物顔でのさばらせてはいけない。坂本が愉悦に頬を歪ませる度に、誰かが苦しみ、涙を落とす。そして坂本自身は、それを決して一顧だにしたりはしないのだから。
坂本がアニムスを持ち続ける限り、その惨劇を根絶させることはできないだろう。
全身に燃えたぎった血が駆け巡った。右手の掌が、夥しい熱を帯び始める。それは人の体温を超え、尚もとめどなく上昇し続ける。
「だったら……ゴーストじゃなくなったら、殺人はやめるのか?」
体の発する熱量とは真逆に、自分でも背筋がぞっとするほどの冷淡な声音だった。
「あん……?」
深雪の変化を察したのだろう、怪訝そうに眉根を寄せる坂本に、再び質問を浴びせる。
「人間になったら、真っ当な人生に戻るのか」
「はっ、何、言ってんだてめえ? ゴーストが人間に戻るワケ……」
「……戻るんだよ」
「は? おい、どうした? 恐怖で頭がいかれたか?」
「お前はゴーストになるべきじゃなかった。力を得てはいけなかったんだ!」
言葉は叫びとなり、喉の奥から迸った。
間髪置かず、右手の熱が沸点に達し、爆発を起こす。そして、掌から腕にかけ、肩まで伸びていた、亀裂のような赤い筋――それに沿って、眩い白光が走った。莫大な熱を帯びた光の本流は、深雪の肩のあたりで大きく膨らむと、天に向かって放射状に大きく広がる。その様はまるで、若鳥が今にも大空へ飛び立たんと、翼を広げたようでもあった。純白の光は、どこか神々しささえ感じさせる。
どうどうと、耳の奥で低い地鳴りが響いた。それが心臓の鼓動だと気づくのに時間はかからなかった。全身が火を噴いたように熱い。計り知れないほどの巨大な力が、心の臓から毛細血管に至るまで、全ての血管を余すところなく駆け巡る。その前では、理性など成す術もなく弾け飛んでいきそうだった。鮮烈な白光を放ち続ける右腕を、ぎりぎりの部分で意識を保ち、何とか繋ぎ止める。
だがそれでも、初めてこの力が顕在化した時に比べると、幾分、冷静だった。両眼を大きく見開くと、ドロドロに溶けたマグマのような瞳孔を坂本へと向けた。
「な……んだ、こりゃ……!?」
坂本は、深雪の変容を目にし、ごくりと喉を鳴らして後ずさりした。凶悪そうな眼は驚きに見開かれている。何が起こっているのか理解できずに、軽いパニックを起こしているのだろう。
深雪はそれを冷めた感情でもって眺めていた。体には蒸発しそうなほどの熱量が、波となって押し寄せているのに、頭の芯は流氷の塊でもぶち込んだかのように冷め切っている。その温度差は、どんどん広がるばかりだ。
深雪は坂本へ向かって右足を一歩踏み出す。坂本は本能的に恐怖を感じたのか、顔を引き攣らせて、一歩、後退した。今度は左足を踏み込むと、坂本もやはり後退する。
あれほど攻撃性に満ちた言動を繰り返していた坂本は、今や完全に逃げ腰だった。深雪の発する得体のしれない『力』を前に、自分がすっかり委縮してしまっているのだと、自覚する余裕すらないようだ。
「お前には、そのアニムスは過ぎた代物だ。だから……俺がお前を人間に戻す!」
深雪の発した言葉に、坂本はようやく、はっと我を取り戻す。こいつだけには負けてはなるまいと、辛うじてプライドだけで自我を取り戻した――そんな様子だ。
「人間に戻す……だあ!? 舐めやがって、何様だ、てめえ!?」
坂本の表情は相変わらず強張ったままだった。だが、それでも深雪に負けたくない一心なのだろう、どすの効いた唸り声をあげ、精一杯の虚勢を張って見せる。
「何様も何も、言葉通りの意味だ。……来いよ。俺をぶっ殺すんだろ。やってみろよ」
安い挑発だったが、混乱の只中にある坂本には効果てきめんだったようだ。鬼のような形相を浮かべると、再び剣呑な殺気を取り戻す。
だが、それでもさすがに、先ほどまでのように、感情任せに殴りかかっては来ない。深雪の右腕を流れ、肩のあたりから翼のように広がる光の奔流は、激しさを増すばかりだ。月が傾き、廃墟の街はますます闇の濃度を深めるが、深雪と坂本の周囲だけは昼間のように明るい。さすがの坂本も、それを警戒する理性は残っているのだろう。
「う……この……!」
深雪に飛び掛かって、ズタズタに引き裂いてやりたい。だが、この現状では下手に手出しもできない。坂本がそれを、歯噛みをして悔しがっているのが分かった。ただ、顔を渋面に歪ませつつも、決して深雪には近づいてこない。
深雪は、それに対し、どこか高いところから見下ろすような心境で、静かに告げた。
「来いよ。それとも……俺が怖いのか?」
更なる挑発。禿頭のこめかみに、ビキッとひびが入る。
短気でプライドの高い坂本のことだ。怒りの沸点は、恐ろしく低い。どれだけ安っぽい挑発であろうと、それを聞き流すような耐性は備わっていないのだ。
深雪へ接近することに対する躊躇は未だに見られるが、それでも機械化した右腕を振り上げ、こちらに猛然と突っ込んでくる。
「吠えてんじゃねーぞ、このクソ野郎がぁぁぁぁぁ‼」
鋭利な金属の手甲が、舌なめずりをするかのようにぎらりと狂暴な光を帯び、深雪へと襲い掛かってくる。一歩踏み出せば恐怖はどこかに行ってしまったらしく、坂本の顔はこれまで以上に本気だ。
しかし、それを真正面から受けても、深雪は何も感じなかった。自分でも不思議に思うほど冷静で、これからどうすべきなのか、どうなっていくのか、手に取るように分かった。
「クソ野郎はお互い様だろ」
深雪は、そう吐き捨てると、光で変形した右手を翳す。
坂本の突き出した右手が、深雪の右手と交差し、接触した。だがその刹那、触れ合った部分から火の粉が吹き上がる。そして深雪の放つ熱に耐えきれなくなった坂本の機械義手が、一瞬にして融解し、ぐしゃっと崩壊した。ものものしい外側の装甲が剥がれ、内部の繊細な機械部品が顕わになる。
「な、何!?」
坂本はぎょっとし、瞠目した。しかし、一度ついた勢いは簡単には削がれない。
「これで正真正銘、最後だ‼」
深雪は叫ぶと、機械義手を破壊し、尚も苛烈な光を放つ己の右腕を、そのまま坂本の顔面に叩きつけた。右腕を這い回る白光が、ひと際、大きくうねりを上げた。深雪の掌から坂本の顔、首筋や胸、胴体へと、光はどんどん侵食していく。そして坂本の中から『何か』を吸い上げると、深雪の腕を経由し、肩から上空へと延びる光の翼へと伝って、空気中へと放出される。
その様はまるで、坂本の中に溜まった毒気を吸い上げ、浄化して空中に放出しているかのようでもあった。翼の先端から放たれる光の欠片がさらに細かい粒子となり、砂金のように儚く輝いている。
「あ……うあ……ああああああああああああああああああ!?」
坂本は悲鳴じみた絶叫を上げた。深雪の腕を払うこともなければ、逃れる素振りすらもない。荒れ狂うエネルギーの激流に、抵抗することすらできず、翻弄されているのだ。
やがて白光が放出され尽くすと、深雪の肩から延びる翼は、ガラスの砕け散るような乾いた音を立てて、役目を終えたとばかりに空中に霧散する。鮮麗なる光は輝きを失い、その場に濃い闇が戻ってきた。
それと同時に坂本は力尽き、ガクッとその場に膝を折った。先刻まで禍々しいほどの殺気に満ちていた顔は、憑き物が落ちたかのように力なく弛緩し、すっかり呆けていた。
一方の深雪も完全に力を使い果たし、脱力しきっていた。足元がふらふらと覚束なくなるほどだ。
「ユキ!」
離れたところで深雪と坂本の様子を見つめていたシロが、心配そうな表情で深雪の元に駆け寄ってくる。そして、左右に傾ぐ深雪の体を支えた。
「ユキ、大丈夫?」
「ああ。シロも怪我、無いか?」
「うん!」
「そっか。……ありがとな、来てくれて」
両肩に疲労が圧し掛かってくるが、何とかそれを振り払い、シロに笑って見せた。するとシロもぱっと嬉しそうな顔になる。
「ユキ……! シロもね、ユキが無事ですっごく嬉しい‼」
その弾けるような眩い笑顔を目にするうちに、不意に体の奥底から感情の塊が溢れ出してきて、泣きたいような叫び出したいような、奇妙な感覚に捉われた。
自分にはまだまだ、出来ないことの方が多い。でも、シロを守りたいというその意志は貫き通すことができた。その結果がきっと、この笑顔なのだ。シロも深雪も、互いに並んで笑っていられる。その関係性を守り通すことができた。
深雪が坂本に敗北していたら、或いはシロが坂本を手にかけるような事態になっていたら。いずれにせよ、この笑顔はなかっただろう。鵜久森命の時のように、事件は解決したとしても、打ちのめされてしまっていたの違いない。
そう思ったら、唐突に、シロをぎゅっと抱きしめたい衝動に駆られた。でもそれをするのは恥ずかしいので、頭をそっと撫でてみる。嫌がられるかもと思ったが、シロにそのような気配はなく、静かに目を閉じる。頭頂の獣耳がひょこひょこと動いた。
自分でも気づかないうちに、ずいぶん時間が経ってしまっていたようだ。東の空が俄かに明るくなってきて、清涼な朝日が二人を包み込む。
ところが、その光景を面白くなさそうに眺める者がいた。坂本だ。まだ体に力が戻らないのか、その場に膝をついたまま呼吸も荒いが、深雪を睨む気力は残っているようで、刺々しい視線を送ってくる。
「お……前……俺に、何しやがった……!?」
「言っただろ、お前を人間に戻すって」
坂本のほうを振り返り、素っ気なく答えるが、坂本は到底、納得した風ではなかった。
「正気か!? そんな事、できるわけ……」
「だったら確かめてみろよ」
深雪が促すと、坂本は苦々しく目元を歪めた。
俺に偉そうに命令するな――言葉にされずとも、内心でそう悪態をついているのが伝わってくる。
だがそれでも、確かめずにはいられなかったのか。坂本は粉砕され、全く使い物にならなくなった右の機械義手の代わりに、左手を宙に掲げた。眉間に力を籠め、《ヴァイス・ブリザード》を発動させようと試みる。だが、坂本のアニムスが展開されることはなかった。三白眼の瞳孔も黒いままで、赤みを帯びることはない。
「ぐうう……‼」
坂本は焦燥を滲ませ、左手を拳にし、力を籠める。相当に力んでいるのだろう。額に玉のような大粒の汗が浮かび、二の腕の筋肉が、見る間に膨らんでいく。
だがそれでも、《ヴァイス・ブリザード》を発動させることはできなかったようだ。やがて、溜めていた息を大きく吐き出すと、途方に暮れた迷子の子供のように、力なく呟いた。
「おい、まさか……嘘だろ……!?」
《ディアブロ》の頭にまで登り詰めたのだという自信と自負にまみれた、尊大でふてぶてしい坂本一空の姿は、既にそこにはなかった。
あるのは、何の取柄もない、平凡でつまらないただ一人の男の姿のみだ。坂本はその事実が受け入れられず、ただひたすら、愕然として座り込んでいた。
その時、深雪は悟った。坂本もまた、鵜久森命と同様に、アニムスを己の拠り所にしていたのだということに。
坂本の傲岸不遜さも、陰湿なまでの凶悪さも、全ては《ヴァイス・ブリザード》があったからこそなのだろう。それを失った今、坂本は精神的にも肉体的にも守ってきた堅牢な鎧を剝ぎ取られ、もはや裸になったも同然だった。
しかし深雪は、到底それに同情する気にはなれなかった。アニムスがあったからこそ、坂本は誰憚ることなく悪事を繰り返したのだ。そのようなことに使う力なら、無いほうがましだ。
「行こう」
深雪はシロを連れて、坂本に背を向けた。するとシロは、戸惑ったように後ろを振り返る。
「ユキ、あの人……」
「いいんだ。放っておこう」
力尽きているのは深雪も同じだった。シロの支えがなければ両足が縺れ、転倒してしまうほどに、疲労困憊していた。これ以上、坂本に関わり合いになりたくなかったし、構ってやる余裕も正直なところなかった。
しかし、シロは尚も深雪の服の袖を引っ張ると、腰の日本刀へと手を伸ばす。
「このまま放っておけば、あの人、またきっとユキを襲うよ」
それはどうだろう。深雪は考えた。今のところ、坂本は完全に茫然自失の状態で、何かをしでかすようには見えない。アニムスを失ったショックのあまり、そんな気力も残っていないように見える。それでも時間がたてば、再び何もかも深雪のせいだと得意の逆恨みをするのだろうか。
坂本の性格を考えたなら、その可能性は十分あり得る。
ただ、シロの言うことも分からないではなかったが、坂本の命を絶つという選択肢は深雪には無かった。それでは、坂本を人間に戻した意味がなくなってしまう。
「……行こうか」
再度、促すと、今度はシロも坂本の方を振り返らなかった。日本刀に添えた手を放すと、それを深雪の胴体に回し、共に歩き始める。
すると突然、背後からヒステリックな絶叫が覆い被さってきた。
「どうすりゃいいんだよ!」
足を止め、僅かに振り向くと、坂本は再び悲痛な叫びを投げつける。
「俺はゴーストだ‼ 今更、人間に戻ったからって……これから、どうしろってんだよ!?」
坂本は、見るも無残な姿に様変わりしていた。げっそりと頬はこけて生気は失われ、竹のようにしなやかに反り返っていた体は、枯れ果てた古木のように縮んでしなびてしまっている。
アニムスを失ったのだという現実が徐々に浸透してきたのだろう。まるでその体が、一回りも二回りも小さくなってしまったようだった。
だがそれも、己の業が招いたことだ。確かにゴーストになり、《東京》に収監されたことに関して、坂本は被害者だったかもしれない。しかし、アニムスに依存し、それをさも自分が優れているかのように錯覚して、思いのままに暴力を振るったことは坂本の罪だ。
「……さあな。それくらい、自分で考えろ」
深雪は倦怠感の滲んだ声で答えた。
「それがお前に与えられた罰だ。これまで自分がしてきたことを後悔しながら……ずっと生き続けろ」




