プロローグ・覚醒
ちょっと重たい上に、ファンタジー要素が皆無なんですが、サスペンスや異能力ものが好きだよ……という方はご一読していただけたら幸いです。残酷描写が少々含まれますので、苦手という方はご注意ください。頑張りますので、よろしくお願いします!
―――雪だ。真っ白な雪の世界、その中にいる。
最初に思ったのは、その事だった。雪の降り積もった朝、しんしんと冷える窓の向こう。何となく、それを思い出したのだ。
今が丁度、寝起きだからかもしれない。或いは、体が凍えそうなほど冷え切ってしまっているからか。
やがて、覚醒したばかりのぼんやりとした意識が、少しずつはっきりしてくる。
視界が白い原因は、真上にあるライトのせいだと気づいた。強烈な白光には、どこか人工的な冷たさがある。どうやら、手術台のような硬質の台の上に寝かされているようだ。体がぐったりとして動かない。
(ここは……一体……? 俺は―――――――……)
ここはどこか。自分は何者か。存在しうる限りの、全ての記憶を辿ってみる。
名前は、雨宮深雪。十七歳。性別は男。東京の公立高校に通っていた。両親を含め、三人で都内の一軒家に暮らしている。
そこまで思い出し、不意に胸がずきりと痛んだ。何故だろう。思い出せない。家族はみな無事なのだろうか。姿が見えないが、どこにいるのだろう。
「……気が付いたかな」
唐突に、声が降ってきた。斜め上からだ。深雪は仰向けのまま、何とか視線を声のした方へと向ける。その時、始めてここがこじんまりとした部屋の中だという事に気づいた。そして、自分の他にも人がいるのだという事にも。
部屋は簡素で、余計なものは一切ない。幾つかの医療機器があるだけだ。
清潔に保たれた空気に、消毒薬の匂い。無機質な空間はどこか手術室に似ている。深雪が横になっている台は、どうやらその部屋の中央に設置してあるらしい。
だんだん体の感覚がはっきりしてきて、裸体の上に一枚、簡素な布がかけられているのだという事も分かる。口元を覆っているのは、おそらく酸素マスクだろう。静かな部屋の中で心電図モニターの音だけが妙に生々しく響いていた。それが自分のものだという実感は、いま一つ湧いてこなかった。
「雨宮深雪くん。聞こえるかい? 記憶はある? どこまで覚えてるのかな」
声はまたしても質問を繰り出す。深雪は、自分を見下ろす男へと視線を戻した。
真上のライトが逆光になっているためか、顏の細部はよく分からなかった。そもそもの印象が薄く、一見しただけでは年齢も分からない。眼鏡をかけ、白衣を纏っていて、いかにもどこかの研究者という風貌の男だった。口調も妙に抑揚がなく、平板だ。男の後ろには数人の似たような白衣の人物が見える。老若男女、どれも無表情にこちらを見ていた。
「――――――……」
深雪は男の問いに答えなかった。頭がぼんやりとして曖昧だったし、彼が何者なのか全く見当がつかなかったのだ。思い出せないというわけではない。彼とは全くの初対面だ。だが、研究者の男の方は何故だか深雪の事をよく知っているようだった。深雪の逡巡に構わず、男は続ける。
「ここは斑鳩科学研究センターだよ。君は今まで冷凍睡眠下の状態に置かれていたんだ。……思い出した?」
その言葉に深雪の体が微かに反応する。それを白衣の男は是ととったのか、話を続けた。
「君はこれから東京に戻る事になった。一週間後には出発する事になっている。それまでに、この世界の事を簡単に説明しよう」
深雪は何か喋ろうと、顎に力を込めた。だが、顎も舌も喉に至るまで、ガチガチに強張っていて、なかなか思い通りにいかない。暫くして、ようやく掠れた声が出た。
「あの……家族は今、どこに……?」
すると、妙な沈黙の後、白衣の男は口を開いた。
「さあ……残念だけど、少なくとも今すぐ連絡を取れる状況にはないね。――君が冷凍睡眠に入ってから、二十年が経過しているんだよ」
深雪は驚きと共に目を見開く。声はなおも続く。
「この二十年、全てが激変した。君の知っている世界は、もうどこにも無いんだよ。……それについては、追々話すことにしよう。まずは今日一日、ゆっくり回復に専念するといい」
深雪は目を瞬かせる。二十年――そんなにも。
途方もない時間のような気もしたが、実感は皆無だった。冷凍睡眠に入ってから一週間しか経っていないと説明されたとしても、おそらくあまり違いはないだろう。部屋の中にどこかその痕跡が無いかと探してみるが、簡素過ぎるこの空間にそれを見出すことは難しかった。
家族はどうなったのだろう。学校は、友人は。仲間たちは、どうなってしまったのだろう。
そこまで考えたところで、突然ぐいと意識が後方に引っ張られる感じがした。
(な、ん……だ……? 眠…………)
目覚めたばかりだというのに、脳や肉体は既に強い疲労を訴えていた。深雪は突如、襲い掛かってきた睡魔に全力で抵抗を試みる。だがそれも空しく、意識が引き摺り込まれる様に闇の底へと沈んでいく。
最後の力を振り絞って、ぐるりと眼球を動かすと、深雪に話しかけていた男の顔が目に入った。
(あ……れ……?)
事務的な口調で説明を続けていた彼の口元が、僅かに歪んで笑みを形作ったような気がした。強いライトの影になって、よく見えない。気のせいかもしれない。
遠のく視界の向こうで、男の声が最後に聞こえた。
「ようこそ、雨宮深雪くん。この無常で残酷な世界へ……――――!」
深雪は虚ろになる意識の中で、ぼんやりとその言葉を聞いていた。
それは決して、過去からの来訪者である深雪を歓迎し、祝福する声ではなかった。
まるで地獄へと引き摺り込もうとする、幽鬼の呪詛のようだった。