妹を泣かせないために、私が泣くのは終わりです
「イゼル、そんなふうに泣くな。ミレーヌが困っているだろう」
父にそう言われて、私は濡れた頬を手で押さえた。
向かいの長椅子では、妹が私の婚約者に肩を抱かれている。ミレーヌの目元にも涙が浮かんでいたけれど、そちらにはディディエが手巾を差し出した。
私の手巾は、二階の部屋にあった。彼が訪ねてきたと聞いて、急いで下りてきたから。
「すまない、イゼル。君を傷つけたいわけではなかったんだ。ただ、ミレーヌといると、自然に笑えるようになって……」
つい今しがた、彼は私との婚約を解消したいと言った。代わりに妹と結婚したい、と。
来春には、東の館でこの人の妻として暮らすはずだった。新居の食器を選ぶたびに、朝はどんなものを食べるのか、寝坊をしたら笑われるだろうかと考えていた。そのどれもが、向かいに座る妹の暮らしになる。
息を吸おうとすると喉が痛んだ。けれどディディエは、私が何か言う前に妹の肩を撫でた。
「お姉様、ごめんなさい。いけないとは思ったの。でも、好きになってしまったのよ」
「いつから……?」
妹は彼を見上げ、彼は私の父を見た。誰から話すのが一番穏便か、相談しているようだった。
父が小さく咳払いをする。
「半年前から、互いに気持ちが通じていたそうだ。だが、過ぎたことを責めても仕方がない。幸い、両家の縁が切れるわけではないのだしな」
半年前。
ディディエに頼まれて、妹を町の音楽会へ一緒に連れていった頃だ。まだ社交に慣れないミレーヌが退屈しないようにと、彼は何度も話しかけてくれた。優しい人を好きになったと思っていた。
その後、私が帰ったあとにも二人は会っていたのだろうか。病気で訪問できないと届いた手紙の日にも。
「私には、ずっと何も言わずに?」
「言い出す機会を探していたんだ。君は何事も真面目に受け止めるから」
ディディエの声には、私をなだめるような響きがあった。
真面目に受け止めた。婚約を、結婚の約束を、彼が手を握ってくれたことを。そうしなければよかったのだろうか。
涙が顎から落ち、膝の上の手を濡らした。
「お姉様が泣いていらしたら、私、どうしたらいいの」
ミレーヌが顔を覆った。ディディエは慌てて、君は悪くないと囁く。父は私に向かって手のひらを下げ、落ち着くよう促した。
胸の奥に、涙とは別の熱いものがこみ上げた。
「私が泣くのも、いけないのですか」
「そうは言っていない。ただ、妹にもつらい思いをさせるなと言っているんだ」
私は父を見た。妻を亡くしてから、家の中で誰かが泣くたびに困った顔をしていた人。私が妹を慰めると、ほっとして書斎へ戻っていった人。
母の葬儀の夜もそうだった。泣きじゃくるミレーヌを抱いている間、私は声を出して泣けなかった。父は翌朝、「お前がしっかりしてくれて助かった」と頭を撫でてくれた。
あの手がもう一度欲しくて、私はずいぶん長く、しっかりした姉でいた。
「明日はヴァラン伯爵がいらっしゃる」
父は机から一枚の紙を取り、私の前へ置いた。筆跡は父のものだった。
「ディディエ君から話は通してある。お前からも、これを書き写して署名しておきなさい。親戚方への挨拶状にも同じ説明を使う」
私とディディエは、互いの幸せを願って婚約を解消した。その後、彼と妹が心を通わせ、私は二人の結婚を喜んでいる。
並んでいたのは、知らない私の気持ちだった。
「解消したのが先だと、伯爵様にお話ししたの?」
ディディエに尋ねると、彼は一度唇を結んだ。
「順序を細かく説明すれば、父も必要以上に気を悪くする。明日きちんと話がつけば、結果は同じだろう」
「お姉様が祝ってくださったら、誰も悪く言わないわ。私たち、これからも仲のよい姉妹でいられるでしょう?」
妹はようやく私を見た。涙の残る目には、期待があった。
私が頷けば、父は先方に頭を下げずに済む。ディディエは父親に嘘を知られず、ミレーヌは姉を傷つけた花嫁にならずに済む。
そのために、私は昨日まで楽しみにしていた結婚を、自分から喜んで手放したことにされる。
「書きません」
紙を返すと、父は受け取らなかった。机の端から落ちそうになったそれを、私は平らに置き直した。
「イゼル。今は気が昂っているのだろうが、家族のことだぞ」
「私も家族です」
大きな声が出た。父も妹も、驚いて私を見る。
やっと見た、と思ったら、ますます腹が立った。
「私も、お父様の娘です。結婚するつもりだった人に、妹が好きだと言われたのです。それなのに、どうして私が二人を安心させなければいけないの」
ディディエが立ち上がりかけた。差し出された手を見て、私は自分の手を膝の下へ隠した。今触れられたら、まだすがってしまいそうで、それがたまらなく嫌だった。
「明日、私から伯爵様にお話しします。この文章は使わないでください」
立ち上がった拍子に、椅子が床を擦った。妹が肩を揺らし、父はまた私をたしなめようと口を開く。
私は聞かずに部屋を出た。階段の途中で膝が震え、手すりにすがったけれど、戻りはしなかった。
* * *
部屋の棚には、白い陶器の小さな鳥が二羽並んでいた。
婚約が決まった日に、町の市で買ったものだ。新居の窓辺へ置きたいと言うと、ディディエは「君らしいね」と笑った。私はその声まで覚えている。
一羽を包みかけて、手が止まった。二羽を引き離すのが妙に悲しくて、結局、両方を同じ布にくるんだ。
鳥にまで別れてもらうことはない。
旅鞄に服と本を詰め、机の引き出しから預り証を出した。母が遺した貸家一軒の賃料は、成人した去年から私が受け取っている。屋敷を構えられるほどではないが、部屋を借り、食べていくことはできる。
これまで貯めてきた分は、新居で何か必要になった時のためにと思っていた。
もう、私に必要なもののために使おう。
便箋を探すと、従姉のロザリーから届いた手紙が出てきた。町の陶工が、素人にも器作りを教えてくれるらしい。一緒に行こう、と少し癖のある文字で書いてある。
私は婚礼の準備があるからと断った。あの日はミレーヌに、式で着るドレスを選んでほしいとも頼まれていたのだ。
今思えば、私の結婚式に着るつもりがあったのかさえ、分からない。
ロザリーは二年前に夫を亡くし、ここから馬車で二時間ほどの町に住んでいる。余っている客間を貸してほしい。家を出たい。賃料も払いたい。
事情を書こうとしたら、便箋に雫が落ちた。
ディディエが好きだった、と書いたところで、しばらく先へ進めなくなった。
彼が明日、間違いだったと言ってくれたら。
考えただけで、馬鹿みたいに胸が痛んだ。その言葉が欲しい自分が、まだいた。
けれど彼の隣には、泣くたび私が譲るのを待つ妹がいる。父もいる。私が戻れば、きっと三人とも安心するだろう。誰にも怒らず、傷ついたことを忘れたふりをする私を。
私はその中へ、帰りたくなかった。
濡れたところを避けて、手紙を最後まで書いた。夕方のうちに使いへ託し、翌日の午後に馬車を一台借りる手配も頼んだ。返事が来るまで、荷造りを続けることにした。
夜、父が扉の外から声をかけた。
「一晩よく考えなさい。お前は物分かりのよい子だったはずだ」
返事はしなかった。
考えれば考えるほど、あの紙にだけは名前を書けなかった。
* * *
翌朝、ヴァラン伯爵は私を見るなり、気遣うように会釈した。
「イゼル嬢。先に私へ相談してくれればよかったのだが、息子から二人で決めたことだと聞いたのでね。互いに納得した別れなら、私から引き留めることもできない」
私は父の隣へ座らず、一つ空いていた肘掛け椅子を選んだ。ディディエと妹の両方が、よく見える場所だった。
「その説明は、事実と違います。私が婚約を解消したいと言われたのは、昨日です。妹とのことを聞いたのも、昨日でした」
伯爵は息子へ目を向けた。ディディエが答えるより早く、父が笑い声を挟んだ。
「娘も少し動揺しておりまして。気持ちが落ち着けば、二人のために――」
「私の返事を、先に決めないでください」
父の笑いが途切れた。
昨夜、何度も口の中で練習したのに、声は震えた。それでも言えた。私は膝に置いた手を握り、伯爵を見た。
「ディディエ様とミレーヌは、半年前からお付き合いしていたそうです。私は昨日まで、来春に彼と結婚するつもりでおりました」
「ディディエ。それは本当か」
伯爵は、私の顔をうかがっていた息子を名指しした。ディディエは妹の横で身を起こす。
「イゼルを傷つけまいとして、伝えるのが遅くなったのです。気持ちばかりは、どうにもならず……」
「私へは、先月、双方納得のうえで解消したと言ったな」
部屋が静かになった。壁時計の音がやけに近かった。
ディディエは自分の父親を見て、それから私を見た。いつものように、私が間へ入るのを待っていた。彼が訪問の約束を忘れた時にも、贈り物を取り違えた時にも、私は父に「私がそうお願いしたのです」と言ってきた。
今日は何も言わず、彼の返事を待った。
「……先にお許しを頂きたかったのです。イゼルも、最後には分かってくれると思いました」
ミレーヌが彼の袖を掴んだ。昨日、私を置き去りにして寄り添っていた二人が、今は私の顔をうかがっている。
助けてやりたくはなかった。それを恥ずかしいとも思わなかった。
「イゼル嬢、息子に代わってお詫びする。望むなら、従来の婚約を維持する方向で話し合いを――」
「いいえ。婚約は解消してください」
言葉にすると胸が痛んだ。来春の窓辺も、彼と並んで選んだ食器も、自分で諦めるのだ。
けれど、妹を抱いて私に我慢を求めた人と、これから何十年も暮らしたくはなかった。
「そのうえで、理由を正しくお伝えください。私との婚約中に、お二人がお付き合いを始めたからです。先に円満に別れたのではありません。私は二人を祝福してもいません」
「そこまで言わなくてもいいだろう、イゼル」
ディディエが身を乗り出した。
「理由を広めたら、ミレーヌが何を言われるか。君も知っているだろう、噂をする人間は容赦がないんだ」
「私が噂になるのは、構わないの?」
彼は言いかけた口を閉じた。
「婚約者を妹に譲って平気だった姉だと、笑う方もいるでしょう。私には別に好きな人がいたのだと、勝手に考える方もいるでしょう。あなたたちのために、私が黙って引き受けるの?」
昨日の紙が、机の上にあった。父が用意していたのだ。
私はそれを取り、伯爵の前へ置いた。署名欄は空白のままだった。
「私はこれを書くように言われました。こんな気持ちではないと、昨日もお伝えしました」
伯爵が読み終える前に、父の顔が赤くなった。
「家族の中の話を、わざわざお見せすることはない。妹の将来もあるのだぞ」
「私の将来は、昨日なくなってもよかったのに?」
父は眉を寄せた。言い過ぎだと言おうとしているのが分かった。
でも、言い過ぎたのではない。今まで言わなかっただけだ。
「結婚できないことだけではありません。私は、好きな人と暮らすのを楽しみにしていたのです。お父様もご存じだったでしょう。私が食器の見本を持ってきた時、場所を取るから片づけなさいとおっしゃったでしょう」
涙が出た。今度は手巾を持っていたけれど、取り出すのが遅れた。
「一度でも、つらいかと聞いてほしかった。ミレーヌの心配をする前に、私が泣いているのを見てほしかった!」
最後は声が掠れた。伯爵が目を伏せ、ディディエは座り直した。父だけが、困ったように私を見ていた。
その顔に、また妹を慰めるよう頼まれるのだと思った。
「お姉様、お願い。私だって、こんなふうになるとは思わなかったの」
ミレーヌが長椅子から立ち、私のところへ来た。昔、壊してしまった玩具を隠してほしいと頼みに来た時と同じ、鼻にかかった声だった。
「私が悪かったわ。謝るから、伯爵様にはもう気にしていないとおっしゃって。お姉様の言うことなら、きっと聞いてくださるもの」
袖へ伸びてきた手を、私は避けた。妹は宙に残った指を見て、傷ついたように唇を歪める。
「謝るのと引き換えに、嘘をついてほしいのね」
「嘘だなんて。これから、そうなれるでしょう。私たちのために、少しだけ……」
「なれないわ。あなたが私の婚約者と会っていた半年間、私は何も知らずに、あなたの相談に乗っていた。私が選んだリボンをつけて、彼に会いに行った日もあったのね」
ミレーヌは「あのリボンは」と言いかけて、口をつぐんだ。私は色まで覚えていた。妹が喜んだから、同じ色の髪飾りも探してやった。
胸が痛いのに、言葉は止まらなかった。
「あなたに、幸せになってほしかったのよ。それなのに、私から奪っておいて、祝ってくれと言うの? 私はそんな姉にはなれない」
「では、私たちが不幸になればいいの?」
ミレーヌの声が尖った。父がその名を呼び、妹は慌てて俯いたけれど、私は聞こえなかったふりをしなかった。
「昨日は、そう思ったわ。私と同じくらい泣けばいいと思った。今も、あなたのために嘘をついてあげたいとは思わない」
妹が後ずさった。
こんなことを言う姉が、自分にもいるのだと初めて知ったようだった。
「イゼル、ミレーヌを責めるのはやめてくれ。最初に気持ちを伝えられた時、僕が断ればよかったのだから」
ディディエの言葉に、妹が振り向いた。彼は気づかず、私に向かって説明を続けようとする。
「最初に言ったのがどちらでも、あなたが会い続けたのでしょう。私には、あなたにしか守れない約束があったのよ」
私は指輪を外した。昨夜、何度やっても途中で止まったのに、今は最後まで抜けた。
机へ置くと、小さな音がした。ディディエの視線がそこに落ちたまま、戻らなくなった。
伯爵が、署名のない紙を父へ返した。
「この説明は使えません。既に私が知らせた親戚には、息子の説明が事実と違っていたと訂正します。婚約解消の通知も、イゼル嬢のお話に沿って出しましょう」
父は紙を受け取ったまま、伯爵を見た。
「ですが、次の婚礼まで取りやめる必要は。両家の間で話がつけば、花嫁の名を替えるだけで準備は――」
「私が費用を出すのは、息子が誠実に事情を話したからという前提でした。新居の支度も、来春の婚礼も、このままは進められません」
妹が小さく息を吸った。自分が住むつもりだった家の話になって、顔を上げた。
ディディエは父へ近づき、声を落とす。
「父上。もうミレーヌには、東の館を使えると話してしまっています」
「お前自身の館ではない。私へ嘘をついて得た許しだと、今認めたばかりだろう」
伯爵は息子を座らせず、立ったまま説明を聞かせた。家の費用で新居を整える手配は今日止める。婚礼について改めて相談するなら、二人で事実を話し、費用も含めて最初から考えること。
父が間へ入ろうとしたが、伯爵は、まず自分の息子と話すと言って退けた。
「イゼル。君からも、そこまでは望んでいないと言ってくれないか」
ディディエはまた私を頼った。私は自分の指輪を見て、それから彼を見た。
「望んでいないことは、もう自分でお伝えしました。あなたがどうしたいかは、あなたがお話しください」
彼は指輪へ手を伸ばし、拾い上げた。
「こんなふうに終わるとは思わなかった。君とは、穏やかに話ができると思っていたんだ」
「私が我慢すれば、穏やかだったのでしょうね」
声がまた震えた。悔しくて、まだ好きだった自分にも腹が立って、泣きやんだ顔では言えなかった。
「もうしません。婚約も、あなたの代わりに謝ることも、終わりです」
ディディエは指輪を握った。ミレーヌは隣に立っていたけれど、先ほどのようには彼の腕を取らなかった。
私は伯爵に、婚約解消の書面と通知の案文を、今後は自分にも直接送ってほしいと頼んだ。宛先を伝え、席を立つ。父は知らない住所を聞いて、初めて私の荷造りに気づいたようだった。
* * *
ロザリーの返事は、朝のうちに届いていた。
客間は空いている。まず来てほしい。賃料は実際に部屋を見てから相談しよう。最後に、食べられそうなものがあれば使いに伝えて、と書いてあった。
私は温かいスープがいいと頼んだ。何も喉を通らない気がしていたのに、書いているうちに、少しだけ飲みたくなった。
午後、旅鞄を玄関へ運ぶと、父と妹が追ってきた。ディディエは、伯爵に連れられて先に帰っている。
「どこへ行くつもりだ。あれだけ場を荒らして、家のことは放り出すのか」
「ロザリーのところです。お部屋を借りて、その先は自分で決めます」
父は私の鞄を見た。思っていたよりも少ない荷物だったのか、少し口をつぐむ。
「今出ていくなら、勝手に戻ってこられると思うな。父親にあのような口を利いて、謝りもせずに」
足が止まった。子供の頃から、父に嫌われるのが怖かった。母までいなくなってからは、なおさらだった。
ここでごめんなさいと言えば、父はまだ許してくれるかもしれない。
私は鞄の持ち手を握り直した。
「私が傷ついたと言ったことを、謝るつもりはありません」
父の目が細くなった。
「ミレーヌのことはどうする。姉のお前が出ていけば、なおさら不仲を疑われるだろう」
「疑われるのが嫌なら、私がつらかった時に、一度くらい味方をしてほしかったです」
言ったあとで、胸の奥がひどく寂しくなった。
父の顔を見たくなくなったけれど、最後まで見ていた。父は私の目ではなく、後ろに控える使用人たちを見た。ここでは話すなと、その視線が言っていた。
いつか、私のことだけを考えてくれる。その期待も、置いていこうと思った。
「お姉様。せめて、ディディエ様のお父様にもう一度お手紙を書いて。私、東の館に住めなくなるなんて……」
ミレーヌは途中で言葉を止めた。私の顔を見て、頼み方を間違えたと気づいたのだろう。
「私たち、喧嘩したままなんて嫌でしょう。お姉様までいなくなったら、私、誰に相談すればいいの」
妹の目から涙が落ちた。
その頬を拭こうとした自分の手に気づき、私は鞄へ戻した。昨日の私は、手巾すら持っていなかった。あの時、この子はディディエの腕の中にいた。
「妹を泣かせないために、私が泣くのは終わりです」
ミレーヌの涙は止まらなかった。私の目も熱くなった。
それでも、代わりに何かしてやるとは言わなかった。
「今度は、自分で相談して。あなたが一緒に生きたいと選んだ人と」
玄関の外には、私が借りた馬車が待っていた。
御者に鞄を預け、乗り込む。父が私の名を呼んだ。次に何を命じるのか、聞き終えるまで待つ癖がついていたけれど、今日は御者へ出発を頼んだ。
門を抜ける時、私は窓から家を見た。妹は父の袖を掴んでいた。父はその手を持て余したまま、遠ざかる馬車を見ていた。
* * *
ロザリーの家では、客間に入るなり泣いてしまった。
用意してくれたスープの匂いがして、寝台の上に清潔な毛布があって、何もかもありがたいのに、どうしても悲しかった。
「まだ好きだったの。あんなことを言われたのに、昨日までは、戻ってきてほしいと思っていたのよ」
ロザリーは長椅子の端を空け、私を隣へ座らせた。
「それは、昨日まで結婚するつもりだったのだもの。つらいわよ。スープは後で温め直すから、今はそのままでいいわ」
私は彼女の肩を借り、声を出して泣いた。途中でひどい悪口も言った。ロザリーは叱らず、ときどき手巾を取り替えてくれた。
泣き疲れた頃には、スープを一杯飲めた。
翌日も、次の日も、ふとした時に悲しくなった。それでも、庭の花が綺麗だと思う時間や、ロザリーの飼い猫に膝を占領されて動けなくなる時間が、少しずつ増えた。
四日目の朝、私はあの手紙を食卓に持っていった。
「陶工のところへ行くお話、まだ間に合う?」
「もちろん。来週の水曜に教えてもらうつもりだけれど、イゼルも?」
「行きたい。今度は、私の器を作りたいの」
自分で陶工へ申し込みの手紙を書き、机の暦に印をつけた。
誰かの支度をする日でも、訪問を待つ日でもない。私が楽しみに待つ水曜日だった。
工房では、袖をまくったところで既に胸が躍った。水で湿らせた粘土は、思っていたより冷たく、指を押し込むと素直にへこんだ。
素直だったのは、そこまでだった。
「おかしいわ。丸くしたつもりなのに、こちらばかり低いの」
私が器を持ち上げると、ロザリーは自分のものをそっと台の奥へ押した。
それを見逃さず覗き込む。彼女の器には大きな取っ手がついていた。器よりも、取っ手のほうが立派だった。
「それ、持ち上げたら取っ手だけ取れない?」
「取れないように大きくしたのよ」
工房の主人が、二つを見比べた。
「取っ手は少し軽くしましょうか。こちらは、もう少し縁を揃えれば、ちゃんとお使いになれますよ」
ロザリーが真剣な顔で取っ手を削り始めたので、私はとうとう吹き出した。釣られた彼女も笑い、指についた粘土を自分の頬につけてしまう。
私の器はひしゃげたままなのに、楽しかった。誰かへ贈るには上手でなくてはと、先回りして心配する必要もなかった。
焼き上がりを待つ間に、婚約解消の書面が届いた。理由に嘘がないことを確かめて署名し、返送すると、伯爵から親戚への訂正も済ませたと知らせが来た。
父の手紙には、そろそろ冷静になっただろうと書かれていた。私は返事に、自分の部屋を借りてしばらくこちらで暮らすことと、ディディエの婚約者にも、妹のために何でも引き受ける姉にも戻らないことを書いた。
書き終えたあと、少し泣いた。それでも、返事を鞄に入れて自分で出しに行った。
ひと月後、焼き上がった器を受け取った。
私の器は、少し傾いている。好きな青を選んだつもりが、窯から出てきた色はところどころ深く、底には湖のように濃い青が溜まっていた。
ロザリーの器は、取っ手を小さくしたおかげで、無事に持ち上がった。
その翌朝、新しく借りた部屋の窓辺へ、白い鳥を二羽並べた。棚へ青い器を置くと、朝の光を受けて、底の色が明るく見えた。
まだ綺麗に笑えない日もあるだろう。でも、今日の器を見た時の嬉しさまで、誰かのために引っ込めなくてよかった。
「次は何を作る?」
荷解きを手伝ってくれたロザリーが尋ねた。
私は青い器を両手で持った。傾いた縁に親指が当たり、工房で笑った時のことを思い出す。
「大きなお皿。焼き菓子がたくさん載るものがいいわ」
「では、私は小さな取っ手の水差しにする」
小さな、と念を押す声に、また笑ってしまった。
窓を開けると、町のパン屋から甘い匂いが届いた。お皿が焼き上がるまで待たなくても、今日の器に載るものなら買いに行ける。
「ロザリー、出かけましょう。私、あそこのお菓子を食べてみたかったの」
青い器を棚へ戻し、私は自分の財布を取った。
お読みいただきありがとうございます。
大変ご好評いただきましたので、連載版を公開しました。
1〜4話は本短篇と同内容となるため、5話からお読みいただければと思います。
下記リンクかシリーズからどうぞ。
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