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恋愛小説のはずでした 2

妹を泣かせないために、私が泣くのは終わりです

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/19

「イゼル、そんなふうに泣くな。ミレーヌが困っているだろう」


 父にそう言われて、私は濡れた頬を手で押さえた。

 向かいの長椅子では、妹が私の婚約者に肩を抱かれている。ミレーヌの目元にも涙が浮かんでいたけれど、そちらにはディディエが手巾を差し出した。

 私の手巾は、二階の部屋にあった。彼が訪ねてきたと聞いて、急いで下りてきたから。


「すまない、イゼル。君を傷つけたいわけではなかったんだ。ただ、ミレーヌといると、自然に笑えるようになって……」


 つい今しがた、彼は私との婚約を解消したいと言った。代わりに妹と結婚したい、と。

 来春には、東の館でこの人の妻として暮らすはずだった。新居の食器を選ぶたびに、朝はどんなものを食べるのか、寝坊をしたら笑われるだろうかと考えていた。そのどれもが、向かいに座る妹の暮らしになる。

 息を吸おうとすると喉が痛んだ。けれどディディエは、私が何か言う前に妹の肩を撫でた。


「お姉様、ごめんなさい。いけないとは思ったの。でも、好きになってしまったのよ」

「いつから……?」


 妹は彼を見上げ、彼は私の父を見た。誰から話すのが一番穏便か、相談しているようだった。

 父が小さく咳払いをする。


「半年前から、互いに気持ちが通じていたそうだ。だが、過ぎたことを責めても仕方がない。幸い、両家の縁が切れるわけではないのだしな」


 半年前。

 ディディエに頼まれて、妹を町の音楽会へ一緒に連れていった頃だ。まだ社交に慣れないミレーヌが退屈しないようにと、彼は何度も話しかけてくれた。優しい人を好きになったと思っていた。

 その後、私が帰ったあとにも二人は会っていたのだろうか。病気で訪問できないと届いた手紙の日にも。


「私には、ずっと何も言わずに?」

「言い出す機会を探していたんだ。君は何事も真面目に受け止めるから」


 ディディエの声には、私をなだめるような響きがあった。

 真面目に受け止めた。婚約を、結婚の約束を、彼が手を握ってくれたことを。そうしなければよかったのだろうか。

 涙が顎から落ち、膝の上の手を濡らした。


「お姉様が泣いていらしたら、私、どうしたらいいの」


 ミレーヌが顔を覆った。ディディエは慌てて、君は悪くないと囁く。父は私に向かって手のひらを下げ、落ち着くよう促した。

 胸の奥に、涙とは別の熱いものがこみ上げた。


「私が泣くのも、いけないのですか」

「そうは言っていない。ただ、妹にもつらい思いをさせるなと言っているんだ」


 私は父を見た。妻を亡くしてから、家の中で誰かが泣くたびに困った顔をしていた人。私が妹を慰めると、ほっとして書斎へ戻っていった人。

 母の葬儀の夜もそうだった。泣きじゃくるミレーヌを抱いている間、私は声を出して泣けなかった。父は翌朝、「お前がしっかりしてくれて助かった」と頭を撫でてくれた。

 あの手がもう一度欲しくて、私はずいぶん長く、しっかりした姉でいた。


「明日はヴァラン伯爵がいらっしゃる」


 父は机から一枚の紙を取り、私の前へ置いた。筆跡は父のものだった。


「ディディエ君から話は通してある。お前からも、これを書き写して署名しておきなさい。親戚方への挨拶状にも同じ説明を使う」


 私とディディエは、互いの幸せを願って婚約を解消した。その後、彼と妹が心を通わせ、私は二人の結婚を喜んでいる。

 並んでいたのは、知らない私の気持ちだった。


「解消したのが先だと、伯爵様にお話ししたの?」


 ディディエに尋ねると、彼は一度唇を結んだ。


「順序を細かく説明すれば、父も必要以上に気を悪くする。明日きちんと話がつけば、結果は同じだろう」

「お姉様が祝ってくださったら、誰も悪く言わないわ。私たち、これからも仲のよい姉妹でいられるでしょう?」


 妹はようやく私を見た。涙の残る目には、期待があった。

 私が頷けば、父は先方に頭を下げずに済む。ディディエは父親に嘘を知られず、ミレーヌは姉を傷つけた花嫁にならずに済む。

 そのために、私は昨日まで楽しみにしていた結婚を、自分から喜んで手放したことにされる。


「書きません」


 紙を返すと、父は受け取らなかった。机の端から落ちそうになったそれを、私は平らに置き直した。


「イゼル。今は気が昂っているのだろうが、家族のことだぞ」

「私も家族です」


 大きな声が出た。父も妹も、驚いて私を見る。

 やっと見た、と思ったら、ますます腹が立った。


「私も、お父様の娘です。結婚するつもりだった人に、妹が好きだと言われたのです。それなのに、どうして私が二人を安心させなければいけないの」


 ディディエが立ち上がりかけた。差し出された手を見て、私は自分の手を膝の下へ隠した。今触れられたら、まだすがってしまいそうで、それがたまらなく嫌だった。


「明日、私から伯爵様にお話しします。この文章は使わないでください」


 立ち上がった拍子に、椅子が床を擦った。妹が肩を揺らし、父はまた私をたしなめようと口を開く。

 私は聞かずに部屋を出た。階段の途中で膝が震え、手すりにすがったけれど、戻りはしなかった。


* * *


 部屋の棚には、白い陶器の小さな鳥が二羽並んでいた。

 婚約が決まった日に、町の市で買ったものだ。新居の窓辺へ置きたいと言うと、ディディエは「君らしいね」と笑った。私はその声まで覚えている。

 一羽を包みかけて、手が止まった。二羽を引き離すのが妙に悲しくて、結局、両方を同じ布にくるんだ。

 鳥にまで別れてもらうことはない。


 旅鞄に服と本を詰め、机の引き出しから預り証を出した。母が遺した貸家一軒の賃料は、成人した去年から私が受け取っている。屋敷を構えられるほどではないが、部屋を借り、食べていくことはできる。

 これまで貯めてきた分は、新居で何か必要になった時のためにと思っていた。

 もう、私に必要なもののために使おう。


 便箋を探すと、従姉のロザリーから届いた手紙が出てきた。町の陶工が、素人にも器作りを教えてくれるらしい。一緒に行こう、と少し癖のある文字で書いてある。

 私は婚礼の準備があるからと断った。あの日はミレーヌに、式で着るドレスを選んでほしいとも頼まれていたのだ。

 今思えば、私の結婚式に着るつもりがあったのかさえ、分からない。


 ロザリーは二年前に夫を亡くし、ここから馬車で二時間ほどの町に住んでいる。余っている客間を貸してほしい。家を出たい。賃料も払いたい。

 事情を書こうとしたら、便箋に雫が落ちた。

 ディディエが好きだった、と書いたところで、しばらく先へ進めなくなった。


 彼が明日、間違いだったと言ってくれたら。

 考えただけで、馬鹿みたいに胸が痛んだ。その言葉が欲しい自分が、まだいた。

 けれど彼の隣には、泣くたび私が譲るのを待つ妹がいる。父もいる。私が戻れば、きっと三人とも安心するだろう。誰にも怒らず、傷ついたことを忘れたふりをする私を。

 私はその中へ、帰りたくなかった。


 濡れたところを避けて、手紙を最後まで書いた。夕方のうちに使いへ託し、翌日の午後に馬車を一台借りる手配も頼んだ。返事が来るまで、荷造りを続けることにした。

 夜、父が扉の外から声をかけた。


「一晩よく考えなさい。お前は物分かりのよい子だったはずだ」


 返事はしなかった。

 考えれば考えるほど、あの紙にだけは名前を書けなかった。


* * *


 翌朝、ヴァラン伯爵は私を見るなり、気遣うように会釈した。


「イゼル嬢。先に私へ相談してくれればよかったのだが、息子から二人で決めたことだと聞いたのでね。互いに納得した別れなら、私から引き留めることもできない」


 私は父の隣へ座らず、一つ空いていた肘掛け椅子を選んだ。ディディエと妹の両方が、よく見える場所だった。


「その説明は、事実と違います。私が婚約を解消したいと言われたのは、昨日です。妹とのことを聞いたのも、昨日でした」


 伯爵は息子へ目を向けた。ディディエが答えるより早く、父が笑い声を挟んだ。


「娘も少し動揺しておりまして。気持ちが落ち着けば、二人のために――」

「私の返事を、先に決めないでください」


 父の笑いが途切れた。

 昨夜、何度も口の中で練習したのに、声は震えた。それでも言えた。私は膝に置いた手を握り、伯爵を見た。


「ディディエ様とミレーヌは、半年前からお付き合いしていたそうです。私は昨日まで、来春に彼と結婚するつもりでおりました」

「ディディエ。それは本当か」


 伯爵は、私の顔をうかがっていた息子を名指しした。ディディエは妹の横で身を起こす。


「イゼルを傷つけまいとして、伝えるのが遅くなったのです。気持ちばかりは、どうにもならず……」

「私へは、先月、双方納得のうえで解消したと言ったな」


 部屋が静かになった。壁時計の音がやけに近かった。

 ディディエは自分の父親を見て、それから私を見た。いつものように、私が間へ入るのを待っていた。彼が訪問の約束を忘れた時にも、贈り物を取り違えた時にも、私は父に「私がそうお願いしたのです」と言ってきた。

 今日は何も言わず、彼の返事を待った。


「……先にお許しを頂きたかったのです。イゼルも、最後には分かってくれると思いました」


 ミレーヌが彼の袖を掴んだ。昨日、私を置き去りにして寄り添っていた二人が、今は私の顔をうかがっている。

 助けてやりたくはなかった。それを恥ずかしいとも思わなかった。


「イゼル嬢、息子に代わってお詫びする。望むなら、従来の婚約を維持する方向で話し合いを――」

「いいえ。婚約は解消してください」


 言葉にすると胸が痛んだ。来春の窓辺も、彼と並んで選んだ食器も、自分で諦めるのだ。

 けれど、妹を抱いて私に我慢を求めた人と、これから何十年も暮らしたくはなかった。


「そのうえで、理由を正しくお伝えください。私との婚約中に、お二人がお付き合いを始めたからです。先に円満に別れたのではありません。私は二人を祝福してもいません」

「そこまで言わなくてもいいだろう、イゼル」


 ディディエが身を乗り出した。


「理由を広めたら、ミレーヌが何を言われるか。君も知っているだろう、噂をする人間は容赦がないんだ」

「私が噂になるのは、構わないの?」


 彼は言いかけた口を閉じた。


「婚約者を妹に譲って平気だった姉だと、笑う方もいるでしょう。私には別に好きな人がいたのだと、勝手に考える方もいるでしょう。あなたたちのために、私が黙って引き受けるの?」


 昨日の紙が、机の上にあった。父が用意していたのだ。

 私はそれを取り、伯爵の前へ置いた。署名欄は空白のままだった。


「私はこれを書くように言われました。こんな気持ちではないと、昨日もお伝えしました」


 伯爵が読み終える前に、父の顔が赤くなった。


「家族の中の話を、わざわざお見せすることはない。妹の将来もあるのだぞ」

「私の将来は、昨日なくなってもよかったのに?」


 父は眉を寄せた。言い過ぎだと言おうとしているのが分かった。

 でも、言い過ぎたのではない。今まで言わなかっただけだ。


「結婚できないことだけではありません。私は、好きな人と暮らすのを楽しみにしていたのです。お父様もご存じだったでしょう。私が食器の見本を持ってきた時、場所を取るから片づけなさいとおっしゃったでしょう」


 涙が出た。今度は手巾を持っていたけれど、取り出すのが遅れた。


「一度でも、つらいかと聞いてほしかった。ミレーヌの心配をする前に、私が泣いているのを見てほしかった!」


 最後は声が掠れた。伯爵が目を伏せ、ディディエは座り直した。父だけが、困ったように私を見ていた。

 その顔に、また妹を慰めるよう頼まれるのだと思った。


「お姉様、お願い。私だって、こんなふうになるとは思わなかったの」


 ミレーヌが長椅子から立ち、私のところへ来た。昔、壊してしまった玩具を隠してほしいと頼みに来た時と同じ、鼻にかかった声だった。


「私が悪かったわ。謝るから、伯爵様にはもう気にしていないとおっしゃって。お姉様の言うことなら、きっと聞いてくださるもの」


 袖へ伸びてきた手を、私は避けた。妹は宙に残った指を見て、傷ついたように唇を歪める。


「謝るのと引き換えに、嘘をついてほしいのね」

「嘘だなんて。これから、そうなれるでしょう。私たちのために、少しだけ……」

「なれないわ。あなたが私の婚約者と会っていた半年間、私は何も知らずに、あなたの相談に乗っていた。私が選んだリボンをつけて、彼に会いに行った日もあったのね」


 ミレーヌは「あのリボンは」と言いかけて、口をつぐんだ。私は色まで覚えていた。妹が喜んだから、同じ色の髪飾りも探してやった。

 胸が痛いのに、言葉は止まらなかった。


「あなたに、幸せになってほしかったのよ。それなのに、私から奪っておいて、祝ってくれと言うの? 私はそんな姉にはなれない」

「では、私たちが不幸になればいいの?」


 ミレーヌの声が尖った。父がその名を呼び、妹は慌てて俯いたけれど、私は聞こえなかったふりをしなかった。


「昨日は、そう思ったわ。私と同じくらい泣けばいいと思った。今も、あなたのために嘘をついてあげたいとは思わない」


 妹が後ずさった。

 こんなことを言う姉が、自分にもいるのだと初めて知ったようだった。


「イゼル、ミレーヌを責めるのはやめてくれ。最初に気持ちを伝えられた時、僕が断ればよかったのだから」


 ディディエの言葉に、妹が振り向いた。彼は気づかず、私に向かって説明を続けようとする。


「最初に言ったのがどちらでも、あなたが会い続けたのでしょう。私には、あなたにしか守れない約束があったのよ」


 私は指輪を外した。昨夜、何度やっても途中で止まったのに、今は最後まで抜けた。

 机へ置くと、小さな音がした。ディディエの視線がそこに落ちたまま、戻らなくなった。


 伯爵が、署名のない紙を父へ返した。


「この説明は使えません。既に私が知らせた親戚には、息子の説明が事実と違っていたと訂正します。婚約解消の通知も、イゼル嬢のお話に沿って出しましょう」


 父は紙を受け取ったまま、伯爵を見た。


「ですが、次の婚礼まで取りやめる必要は。両家の間で話がつけば、花嫁の名を替えるだけで準備は――」

「私が費用を出すのは、息子が誠実に事情を話したからという前提でした。新居の支度も、来春の婚礼も、このままは進められません」


 妹が小さく息を吸った。自分が住むつもりだった家の話になって、顔を上げた。

 ディディエは父へ近づき、声を落とす。


「父上。もうミレーヌには、東の館を使えると話してしまっています」

「お前自身の館ではない。私へ嘘をついて得た許しだと、今認めたばかりだろう」


 伯爵は息子を座らせず、立ったまま説明を聞かせた。家の費用で新居を整える手配は今日止める。婚礼について改めて相談するなら、二人で事実を話し、費用も含めて最初から考えること。

 父が間へ入ろうとしたが、伯爵は、まず自分の息子と話すと言って退けた。


「イゼル。君からも、そこまでは望んでいないと言ってくれないか」


 ディディエはまた私を頼った。私は自分の指輪を見て、それから彼を見た。


「望んでいないことは、もう自分でお伝えしました。あなたがどうしたいかは、あなたがお話しください」


 彼は指輪へ手を伸ばし、拾い上げた。


「こんなふうに終わるとは思わなかった。君とは、穏やかに話ができると思っていたんだ」

「私が我慢すれば、穏やかだったのでしょうね」


 声がまた震えた。悔しくて、まだ好きだった自分にも腹が立って、泣きやんだ顔では言えなかった。


「もうしません。婚約も、あなたの代わりに謝ることも、終わりです」


 ディディエは指輪を握った。ミレーヌは隣に立っていたけれど、先ほどのようには彼の腕を取らなかった。

 私は伯爵に、婚約解消の書面と通知の案文を、今後は自分にも直接送ってほしいと頼んだ。宛先を伝え、席を立つ。父は知らない住所を聞いて、初めて私の荷造りに気づいたようだった。


* * *


 ロザリーの返事は、朝のうちに届いていた。

 客間は空いている。まず来てほしい。賃料は実際に部屋を見てから相談しよう。最後に、食べられそうなものがあれば使いに伝えて、と書いてあった。

 私は温かいスープがいいと頼んだ。何も喉を通らない気がしていたのに、書いているうちに、少しだけ飲みたくなった。


 午後、旅鞄を玄関へ運ぶと、父と妹が追ってきた。ディディエは、伯爵に連れられて先に帰っている。


「どこへ行くつもりだ。あれだけ場を荒らして、家のことは放り出すのか」

「ロザリーのところです。お部屋を借りて、その先は自分で決めます」


 父は私の鞄を見た。思っていたよりも少ない荷物だったのか、少し口をつぐむ。


「今出ていくなら、勝手に戻ってこられると思うな。父親にあのような口を利いて、謝りもせずに」


 足が止まった。子供の頃から、父に嫌われるのが怖かった。母までいなくなってからは、なおさらだった。

 ここでごめんなさいと言えば、父はまだ許してくれるかもしれない。

 私は鞄の持ち手を握り直した。


「私が傷ついたと言ったことを、謝るつもりはありません」


 父の目が細くなった。


「ミレーヌのことはどうする。姉のお前が出ていけば、なおさら不仲を疑われるだろう」

「疑われるのが嫌なら、私がつらかった時に、一度くらい味方をしてほしかったです」


 言ったあとで、胸の奥がひどく寂しくなった。

 父の顔を見たくなくなったけれど、最後まで見ていた。父は私の目ではなく、後ろに控える使用人たちを見た。ここでは話すなと、その視線が言っていた。

 いつか、私のことだけを考えてくれる。その期待も、置いていこうと思った。


「お姉様。せめて、ディディエ様のお父様にもう一度お手紙を書いて。私、東の館に住めなくなるなんて……」


 ミレーヌは途中で言葉を止めた。私の顔を見て、頼み方を間違えたと気づいたのだろう。


「私たち、喧嘩したままなんて嫌でしょう。お姉様までいなくなったら、私、誰に相談すればいいの」


 妹の目から涙が落ちた。

 その頬を拭こうとした自分の手に気づき、私は鞄へ戻した。昨日の私は、手巾すら持っていなかった。あの時、この子はディディエの腕の中にいた。


「妹を泣かせないために、私が泣くのは終わりです」


 ミレーヌの涙は止まらなかった。私の目も熱くなった。

 それでも、代わりに何かしてやるとは言わなかった。


「今度は、自分で相談して。あなたが一緒に生きたいと選んだ人と」


 玄関の外には、私が借りた馬車が待っていた。

 御者に鞄を預け、乗り込む。父が私の名を呼んだ。次に何を命じるのか、聞き終えるまで待つ癖がついていたけれど、今日は御者へ出発を頼んだ。

 門を抜ける時、私は窓から家を見た。妹は父の袖を掴んでいた。父はその手を持て余したまま、遠ざかる馬車を見ていた。


* * *


 ロザリーの家では、客間に入るなり泣いてしまった。

 用意してくれたスープの匂いがして、寝台の上に清潔な毛布があって、何もかもありがたいのに、どうしても悲しかった。


「まだ好きだったの。あんなことを言われたのに、昨日までは、戻ってきてほしいと思っていたのよ」


 ロザリーは長椅子の端を空け、私を隣へ座らせた。


「それは、昨日まで結婚するつもりだったのだもの。つらいわよ。スープは後で温め直すから、今はそのままでいいわ」


 私は彼女の肩を借り、声を出して泣いた。途中でひどい悪口も言った。ロザリーは叱らず、ときどき手巾を取り替えてくれた。

 泣き疲れた頃には、スープを一杯飲めた。


 翌日も、次の日も、ふとした時に悲しくなった。それでも、庭の花が綺麗だと思う時間や、ロザリーの飼い猫に膝を占領されて動けなくなる時間が、少しずつ増えた。

 四日目の朝、私はあの手紙を食卓に持っていった。


「陶工のところへ行くお話、まだ間に合う?」

「もちろん。来週の水曜に教えてもらうつもりだけれど、イゼルも?」

「行きたい。今度は、私の器を作りたいの」


 自分で陶工へ申し込みの手紙を書き、机の暦に印をつけた。

 誰かの支度をする日でも、訪問を待つ日でもない。私が楽しみに待つ水曜日だった。


 工房では、袖をまくったところで既に胸が躍った。水で湿らせた粘土は、思っていたより冷たく、指を押し込むと素直にへこんだ。

 素直だったのは、そこまでだった。


「おかしいわ。丸くしたつもりなのに、こちらばかり低いの」


 私が器を持ち上げると、ロザリーは自分のものをそっと台の奥へ押した。

 それを見逃さず覗き込む。彼女の器には大きな取っ手がついていた。器よりも、取っ手のほうが立派だった。


「それ、持ち上げたら取っ手だけ取れない?」

「取れないように大きくしたのよ」


 工房の主人が、二つを見比べた。


「取っ手は少し軽くしましょうか。こちらは、もう少し縁を揃えれば、ちゃんとお使いになれますよ」


 ロザリーが真剣な顔で取っ手を削り始めたので、私はとうとう吹き出した。釣られた彼女も笑い、指についた粘土を自分の頬につけてしまう。

 私の器はひしゃげたままなのに、楽しかった。誰かへ贈るには上手でなくてはと、先回りして心配する必要もなかった。


 焼き上がりを待つ間に、婚約解消の書面が届いた。理由に嘘がないことを確かめて署名し、返送すると、伯爵から親戚への訂正も済ませたと知らせが来た。

 父の手紙には、そろそろ冷静になっただろうと書かれていた。私は返事に、自分の部屋を借りてしばらくこちらで暮らすことと、ディディエの婚約者にも、妹のために何でも引き受ける姉にも戻らないことを書いた。

 書き終えたあと、少し泣いた。それでも、返事を鞄に入れて自分で出しに行った。


 ひと月後、焼き上がった器を受け取った。

 私の器は、少し傾いている。好きな青を選んだつもりが、窯から出てきた色はところどころ深く、底には湖のように濃い青が溜まっていた。

 ロザリーの器は、取っ手を小さくしたおかげで、無事に持ち上がった。


 その翌朝、新しく借りた部屋の窓辺へ、白い鳥を二羽並べた。棚へ青い器を置くと、朝の光を受けて、底の色が明るく見えた。

 まだ綺麗に笑えない日もあるだろう。でも、今日の器を見た時の嬉しさまで、誰かのために引っ込めなくてよかった。


「次は何を作る?」


 荷解きを手伝ってくれたロザリーが尋ねた。

 私は青い器を両手で持った。傾いた縁に親指が当たり、工房で笑った時のことを思い出す。


「大きなお皿。焼き菓子がたくさん載るものがいいわ」

「では、私は小さな取っ手の水差しにする」


 小さな、と念を押す声に、また笑ってしまった。

 窓を開けると、町のパン屋から甘い匂いが届いた。お皿が焼き上がるまで待たなくても、今日の器に載るものなら買いに行ける。


「ロザリー、出かけましょう。私、あそこのお菓子を食べてみたかったの」


 青い器を棚へ戻し、私は自分の財布を取った。

お読みいただきありがとうございます。


大変ご好評いただきましたので、連載版を公開しました。

1〜4話は本短篇と同内容となるため、5話からお読みいただければと思います。

下記リンクかシリーズからどうぞ。


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