第一話 雪の国
ここは、雪の国ハクレイン。
その西部に広がる工業街の一角で石と石がぶつかる硬い音が響いていた。
削られた石材を抱え、荷車まで運ぶ。
それを何度も繰り返すのが、カイル・レヴナードに与えられた仕事だった。
雪のように白い髪に、白い瞳。
額に滲んだ汗を袖で拭い、カイルは次の石材へと手を伸ばす。
周囲でも、同じ白い髪をした者達が黙々と石材を運んでいた。
屈強な男もいれば、腰の曲がった老人もいる。
そして――
「よいしょ……っ」
少し離れたところでは、まだ幼さの残る少年が自分の身体には大きすぎる石材を抱え上げていた。
腕いっぱいに石を抱え、ふらつきながら一歩、また一歩。
カイルはその姿を横目で見ていたその直後だった。
「あっ――」
少年の足がもつれ、傾いた身体から石材が滑り落ちる。
ゴンッ、と。
鈍い音を立てて、石材が地面へ落ち少年も尻餅をつく。
「……っ」
落ちた石材も、角がわずかに欠けた程度だった。
その瞬間、周囲から音が消えた。
誰も少年を助け起こさず、落ちた石材へも手を伸ばさない。
ただ、作業に失敗した少年の方向を見ていた。
その時、こちらへ近づいてくる男がいた。
隣国フレイ・ガルドから派遣され、この工場を取り仕切っている男。
ヴァルク・ハイゼン。
その姿を見た瞬間、地面に座り込んでいた少年の顔から血の気が引いた。
「……ご、ごめんなさい」
少年からは反射的に謝罪の声が漏れる。
だが、ヴァルクは何も言わずに、地面に落ちた石材と欠けた角を見つめていた。
「僕です」
ヴァルクの視線が、ゆっくりとカイルへ向く。
「……何?」
「その石材を落としたのは、僕です」
カイルはそう言って、ヴァルクの前に出た。
誰が石材を落としたのか。そんなことは、見れば分かる。
それでもヴァルクは問いたださなかった。
「そうか。なら、お前が来い」
「はい」
ヴァルクが背を向け、カイルもその後を追おうとしたその時だった。
「カイル……」
呼び止める声に、カイルは足を止めた。
傍まで来ていたのは、カイルより頭一つほど背の低い、がっしりとした体格の男だった。
トルガ。
この石材工場で働くドワーフの一人だ。
ドワーフは、人間よりも小柄ながら頑丈な身体を持ち、石や鉱石の扱いに長けた種族だった。古くから鍛冶や加工の技術を磨き、そして七色の中で唯一、橙色だけは彼らにしか宿らない。
それはトルガも例外ではない。
本来なら、その髪も瞳も橙色をしている。
もっとも、幼い頃から色を見分けることのできないカイルの目にはどちらも白く映っているのだが。
そのトルガが、心配そうにカイルを見上げている。
トルガはカイルが十歳の頃から、この工場で六年間ずっと面倒を見てくれている男だった。
「カイル……」
トルガはもう一度名前を呼び、何かを言いたそうにしている。
カイルはそんなトルガを見て、両手にはめていた作業用の手袋を外した。
「これ、お願いします。大切な物なんで、汚されたくないんですよね」
差し出された手袋を、トルガが黙って受け取った。
カイルはその顔を見て、ふっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
それだけ言って、再びヴァルクへと向き直る。
トルガは何も言えなかった。
ただ、手袋を握りしめたまま、カイルの背中を見送ることしかできなかった。
※
作業場からは少し離れているものの、石を削る音や荷車の軋む音はまだ遠くに聞こえてくる。
「そこに立て」
ヴァルクが顎で示した先には、資材を吊り上げるための太い横木があった。
カイルがその下へ立つと、護衛の男達が左右から近づいてくる。
「腕を広げろ」
言われるまま、カイルは両腕を左右へ広げ、手首に縄が巻きつけられる。
何重にもきつく巻かれた縄は、そのまま頭上の横木へと伸びていった。
左右から縄を引かれ、カイルの両腕が斜め上へ持ち上がる。
足こそ地面についている。
だが、腕を下ろすことも、身体を丸めることもできない状況だった。
その様子を見て、ヴァルクが鼻で笑う。
「ガキ一人庇って、随分と偉くなったもんだな。俺達と同じ人間にでもなったつもりか? そういや、お前ら白は俺達を色付きって呼ぶんだったな」
ヴァルクは鞭を手に取り、口元を歪める。
「なぁ、白」
色付き。
それは、白の民が七色のいずれかの祝福を受ける者達を敬意と皮肉を込めて呼ぶ言葉だ。
遥か昔、世界が真っ黒な水に覆われていた頃、その光景を目の当たりにしたノア様は深く嘆き、悲しんだという。
そして世界へ七色の祝福を与えた。
創造主ノア様がもたらした七色は――赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
人は皆、その七色のいずれかを宿して生まれる。
なら、僕達は――?
白。
ノア様の七色を一つとして宿さず、祝福も力も持たない白の民を蔑むもう一つの呼び名。
七色を持たない。力も持たない。
だから、こうして憂さ晴らしに使われようが誰も何も言わない。
七色の民がやりたがらない仕事を回されても、それを拒むことすらできない。
それが、僕達――白の民だった。
「庇いたきゃ、好きなだけ庇えばいい。その分、お前が受けりゃ済む話だからな!」
ヴァルクが鞭を持ち上げ、カイルの背中を打つ。
「っ……!」
鋭い痛みに、カイルは奥歯を噛み締めた。
昔は、白に生まれたことを恨んだこともあった。
どうして自分達だけなのかと、何度も考えた。
けれど、今はもう考えない。
考えたところで、何も変わらないと知ってしまったからだ。
再び、ヴァルクの鞭がカイルの背中を打ち思わず声が漏れる。
だが、痛みの中でカイルが真っ先に浮かんだのは先ほどの少年だった。
あの子には、こんなことを考えてほしくない。
どうして白に生まれたのかなんて。
だから――これでよかった。
あの子がここに立ち、そんな考えにならずに済むのなら、それでいい。
何度目かの鞭がカイルの背中を打った時、ヴァルクの手が止まった。
すでに背中のいくつもの傷から血が滲み、足元には赤い雫がいくつも落ちていた。
ヴァルクはそんなカイルの姿を眺めると、呆れたように鼻を鳴らした。
「おいおい、こんなんで汚ねぇ血なんか流すなよ。白風情が」
鞭の先を床へ垂らしながら、ヴァルクがゆっくりとカイルへ近づいてくる。
「……で、アリアの件はどうなった? 何度も言ってるだろ。俺との間を取り持てって」
そう言いながら、ヴァルクはカイルの顔を無理やり上げた。
「お前が一言、話を通せばいいだけだ。そうすりゃ――今すぐやめてやるよ」
カイルはしばらく黙っていた。
「本人が嫌だと言っているので、もう関わらないでください」
カイルは淡々と答え、その返答にヴァルクの表情から笑みが消える。
「……あ?」
「だから、アリアさんが嫌だと言ってるんですよ、色付き」
カイルは口を歪めながら、ヴァルクの顔を見返した次の瞬間。
「調子に乗るなよ!」
鞭が強く振り抜かれ、先ほどまでとは比べものにならない衝撃が背中を打つ。
「ぐっ……!」
布の裂ける音がして、血の滲んでいた服が大きく裂けた。
カイルの白い背中にあったのは、今ついた傷だけではなかった。
薄れかけたもの。まだ赤みの残るもの。
カイルの背中には幾筋もの鞭痕があちこちに残っていた。
ヴァルクはしばらくカイルを睨んでいたが、やがて何かを思い出したように鞭を下ろした。
「……そういや、明日からまた一人来るんだったな。確か、ルカとかいうガキだったか?」
その名前が出た瞬間、カイルの表情が変わった。
「お前がいつまでも言うこと聞かねえなら――次からは、そいつにでも代わってもらうか?」
「……やめろ。ルカには手を出すな」
ヴァルクが一瞬、目を丸くする。
それから、面白いものでも見つけたように笑った。
「なんだ。お前、そんな顔もできんじゃねえか」
「ルカには関係ないだろ」
「関係あるかどうかは俺が決めるんだよ! お前の代わりなんて、白ならいくらでもいるんだからな」
その言葉を聞いた瞬間、カイルの中で何かが切れた。
「ふざけるな!」
吊り上げられた両腕を無理やり動かし、縄が手首へ深く食い込む。
「ルカには手を出すな! 手を出したら――お前を殺してやる!!」
カイルはヴァルクを睨みつける。
次の瞬間、また鞭が振り抜かれた。
「ぐっ……!」
鋭い衝撃に身体が跳ねる。
もう一度。さらにもう一度、鞭がカイルの背中を打つ。
「さっきまで大人しくしてたくせに、随分と威勢が良くなったじゃねえか!」
「……ルカには……手を、出すな……!」
息を切らしながら、カイルは言葉を絞り出した。
あの子にだけは、絶対に同じ目には遭わせない。
カイルはただ、それだけを譲ることができなかった。
それから何度、鞭を受けただろう。やがて、ヴァルクの手が止まった。
「……今日はこのくらいにしといてやるよ」
ヴァルクの護衛の男達が縄を解き、張り詰めていた両腕が一気に落ちた。
足を踏み出した瞬間、背中の傷がずきりと疼く。
「っ……」
カイルは一度だけ顔を歪め、資材置き場を後にした。
作業場へ戻った時に真っ先に傍に近づいて来たのはトルガだった。
「カイル!」
駆け寄ってきたトルガは、裂けた服とその奥から覗く傷を見て顔を強張らせる。
「お前……」
カイルはそんなトルガを見て、少しだけ表情を緩めた。
「……大丈夫ですよ」
そして、トルガの手元へ視線を落とす。
「それより、手袋。ありがとうございます!」
その声に、ようやくいつものカイルが少しだけ戻る。
トルガは何も言わず、そんなカイルを見つめていた。
「そんなことよりトルガさん!」
「ん?」
「今日、孤児院に来ませんか?」
「……なんで俺が」
「今日はルカの誕生日なんです。十歳になったんですよ」
「あのチビがもう十か」
トルガはカイルが加工場で働き始めた頃から、孤児院の者達を気にかけている。
それでも、ドワーフである自分がそこに居て良いのかと、どこか引け目を感じているらしい。
「だからって、俺が行く理由にはならねえだろ」
カイルはその答えを予想していたのか、わずかに口元を緩めて何かを企むように少し身を屈めてトルガの顔を覗き込んだ。
「そうですか? アリアさんもトルガさんが来たら喜ぶと思うんだけどなぁ」
「なっ……!」
橙色の髪の隙間から覗く耳が、わずかに赤く染まった。カイルは知っているのだ。
トルガがアリアに惚れていることを。だからこそ、わざとアリアの名前を持ち出した。
「べ、別にアリアがどうとかじゃねえ! でも、ルカが十歳なるってんなら祝いにいってやらんとな!」
「はいはい」
「なんだその返事は!」
思わずカイルが笑うと、トルガはますます不機嫌そうに眉を寄せた。
「それと、明日からはルカもここで働くことになってます」
「……明日から?」
「はい。僕と同じ加工場です」
そう答えるカイルの声は、どこか嬉しそうだった。
ハクレインでは、十歳になれば働きに出る。それは決して珍しいことではない。
カイル自身もそうだった。
十歳になった翌日からこの加工場へ通い始め、それから六年。
だからカイルにとって、ルカが働き始めることも特別なことではなかった。
むしろ、これからは同じ場所で働けると少し楽しみに思っていた。
「そうか……あいつも働く歳になったか」
トルガはぽつりと呟くと、しばらく深刻そうな顔で腕を組んだ。
「……まあ、明日ここに来たら、俺もちゃんと見てやる」
「ありがとうございます」
「礼なんざいらねえよ。ほら、さっさと帰り支度しろ」
「はい」
そう言ってトルガは腕を解き、帰り支度を始めた。カイルもそれに続く。やがて二人は支度を済ませると、その日の賃金を受け取った。
カイルは掌に落とされた硬貨を確かめると、懐から一枚の紙を取り出した。
「僕は買い物してから帰ります。トルガさんは先に孤児院へ行っててください」
「お前は来ねえのか?」
「行きますよ。アリアさんに、誕生日の食材を買ってくるよう頼まれてるんです」
「そうか」
「孤児院までの道は分かりますよね?」
「何回行ってると思ってんだ。さっさと買ってこい」
「分かりました。じゃあ、先にお願いします」
「おう」
トルガと別れ、カイルは工業街を後にした。
降り続く雪の中、仕事帰りの人々が行き交う通りを抜け、アリアに頼まれた買い物を済ませるため市場へと向かう。
買い物を済ませて孤児院へ帰れば、アリアや子供達、それにトルガも交えて、ささやかな誕生日会が始まる。
そして明日からは、今までとは少しだけ違う日常が始まる。
カイルは、それを楽しみにしていた。
――この時はまだ、その日常が当たり前に訪れるものだと信じていたのだから。




