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大崎玄蕃と名を変え生き延びた武田勝頼の末裔の咆哮  作者: 吉良山猫
第4章小田原城編
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将軍足利義輝

武田勝頼は、実は知らずのうちに足利義輝にあっています。

武田勝頼は、室町幕府13代将軍である足利義輝に対して、銭5000貫、三方の上に甲州金、銀を一山、武田家の管轄内で自作した上物の太刀10振、短刀、清酒、いも焼酎、さつまいも、干し椎茸、越中産最上塩、熊の毛皮、熊の手、熊の胆、荒巻鮭を献上品として献上した。


それにより武田勝頼は、将軍足利義輝より将軍御所へと呼び出されていた。


その広間で将軍足利義輝を正面に左右には幕府の重臣が並び、武田勝頼、北条氏康、武田典厩信繁、山県昌景、上泉信綱は平伏していた。


「面を上げい」


武田勝頼は畏まりながらすぐには面を上げず見事な口上で挨拶を述べる。


その口上に、将軍足利義輝を始め幕臣達も驚いていた。


そして暫くして面を上げた武田勝頼はやや畏まりながらも、幕臣に促され献上品の品目や将軍や幕臣達の質問に答えていく。


古河公方を滅ぼした事について聞かれた際には流石の武田勝頼も肝を冷やしたが…杞憂であった。


京の足利義輝にとっては、古河公方は自身に逆らう者であり、血の繋がりがあると言う程度である。


遠い祖先を辿れば、源氏の者は大体が血の繋がりがあるのだが…


足利義輝にしてみれば公家衆もそうであるが、血縁者や管領家の血筋の者も皆信頼の置けない者達であった。


特に出家中の弟や親戚連中は油断がならないと思っていた。


自身が有力者達と対立すれば、直ぐにその者達を立てて首をすげ替えられるからである。


史実の足利義輝は、将軍である上にその権威を取り戻そうと奔走し、結果邪魔になり暗殺されている。


しかし、この時代の足利義輝は愚かではなかった。京の都から追放された際に諸国に足を伸ばし各地を見ていたからか、足利将軍家が過去の権威を取り戻すのは不可能であると理解していたのである。


将軍家としての名誉や格式の高い家柄としての威厳はあってもそれだけである…つまりは公家などと変わりがないと理解していた。


そこで、自身に何ができるか考えた足利義輝は、自身の出来ることの範囲で少しでも日の本を良くして民が安心して暮らせる世の中に近付けたいと考えていた。


その為、有力な大名や噂に名高い者などの情報に関して逐一集めていたのである。


武田勝頼に関しては、勝頼が海津城へ入城した頃から噂を聞きつけており、只者ではないと思った義輝は身分を偽り自身の目で見たいと思い何度か会いに行った程であった。


その時、四男である事や母親の出自により、武田家の通字である信を名乗ることを許されず、武田家中からは諏訪の者と軽んじられ、諏訪の者からは武田の者と忌み嫌われていたのを知っていた。


足利義輝は武田勝頼の能力を高く買っており、常日頃から何とか彼の能力を活かす機会を与えることは出来ないかと考えていた。


しかし、その武田勝頼が今や家督を継ぎ、上杉政虎を妻に迎え、甲斐、信濃、越中、武蔵、相模、伊豆、下野、上野、越後、その他の一部の地域に影響力を及ぼす程に成長したのである。


以前より考えていたあれ・・も今ならばより効果が期待でき、周りからの異論も抑えられると義輝は判断した。


足利義輝は、武田勝頼に何か望む物はないかと尋ねるも丁寧に辞退をされたのを受けて勝頼に褒美をとらすことを告げる。


足利義輝より武田勝頼に与えられた褒美は誰もが予想していなかったものであり、将軍として義輝が与えられるこれ以上ないものであった。


武田勝頼を将軍足利義輝の猶子・・としたのである。


そして、それを証明する書状を認め、足利家の名前とその家紋、旗を使用することを許したのである。


そして足利義輝は武田勝頼に「幕府の正式な役職ではないが関東での余の代理を任せる」と命じたのであった。


そして武田勝頼に一振りの太刀を授けた。それは足利義輝の愛刀の一つである天下五剣の一つ童子切安綱であった。


「この太刀に逆らう者には余に逆らう行為であると言う意味で其方に授ける」


足利義輝は武田勝頼を猶子にすることにより、出自に関しての勝頼の弱みを解消し、又、鎌倉府が行なっていた権限を持たせることにより、関東及び東国を平定する大義名分を与えたのであった。


武田勝頼が関東という畿内から離れた田舎に領地を持つことと、東北を攻める大義名分を与えたことにより、畿内の有力大名には言い訳もできる。


それに、畿内の有力大名達にとって関東は草ぼうぼうの田舎と言う認識であり、さらに未開の地と思っている東北に目を向けてくれるなら都合が良い。


いくら関東に領土があっても東北を平定するなど一生かけても不可能だと思っているのだから…


こうして武田勝頼は、将軍足利義輝との謁見を終えたのであった。

この時代の日本の中心、天下はあくまで畿内であり、交通事情が悪いこの時代において遠方の国は田舎であり下に見ています。

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