勝頼の行動
やんごとなきお方は心優しかったと考えます。
武田勝頼達は、松永久秀により京の都での礼儀作法の指南を日々受けながら、御所の警備や、都の治安維持を行っていた。
これにより、武田勝頼と武田軍は都での人気がうなぎ登りであった。
今では武田兵を見ると子供までが手を振ってくれるほどだ。
しかし、京の都の華やかさとその闇に勝頼は心を痛めていた。
その想いは、北条氏康や山県昌景達も一緒であった。
都の中心部を少し出ると、そこは戦乱の跡が今もそのままになっており、瓦礫の山や、そのまま放置された屍、孤児や浮浪者で溢れておりそこはこの世の地獄であった。
武田勝頼は、近隣の寺社が、金を蓄え、肉や酒を貪り、女を抱き、僧兵で武装しているのを知っていた為、歯軋りをしながら吐き捨てるように呟く。
「何が神や仏だ!自分達はのうのうと暮らし、民への救済は無い…腐っておる!」
全ての寺社が悪い訳ではなかったが、堕落した寺社が多いのもまた事実であった…
そんな中で、待ちに待った者達が京の都に到着した。
武田典厩信繁と補給物資を運んできた信濃勢500である。
武田勝頼は満面の笑みで武田典厩信繁を迎えた。北条氏康も勝頼以上の満面の笑みだ。
京の都に来てから、勝頼達の拠点にしている屋敷には、公家や有力商人、僧侶や神官、武家の者など様々な者が毎日、引っ切り無しに訪れており、それらの対応を北条氏康と真田昌幸が行なっていた。
武田勝頼は近衛前久や松永久秀等と連日打ち合わせや正式な場への顔出しをしている。
山県昌景は、御所の警備や治安維持の責任者だ。上泉信綱は勝頼の警護や、仕官を求めてやってくる者の審査の責任者をしている。
武田勝頼には松永久秀より、彼の嫡男である松永久通をつけて貰っていたので都で何かやる際には重宝していた。
武田勝頼は松永久通を使い浪人や付近の堕落していない僧侶達を集めた。
彼らに行わせたのは京の郊外の瓦礫の除去に、屍の火葬、そして埋葬であった。
伝染病や悪臭の元になっている為、効率的にまとめて火葬にしていく方法だ。
供養は宗派を問わずに僧侶達に任せる。
そして叔父である武田典厩信繁には炊き出しと、北条氏康の補助を頼んだ。
武田勝頼は流石に米ばかりという訳にはいかないが、蕎麦や麦、さつまいもや粟や稗なども使い、武田兵には皆武田菱の旗指物をつけさせて味噌で煮た雑炊を毎日炊き出したのである。
武田家秘伝の甲州味噌の味は日の本一番だと勝頼は自負している。
そしてこれは、武田勝頼と武田軍が京の都を去る日まで続けられることになる。
この武田勝頼の行動は、京の都だけでなく全国にも伝わり勝頼の名声が高まることになるのを本人は知らなかった。
武田勝頼は大々的に宣伝もした。身分を問わず、孤児や浮浪者、老人や女子も江戸の町に来れば仕事と住む場所と食べ物を与えると近隣に触れて回った。
これにより何万もの人々が江戸の町の開発の為に移住することになる。
無論噂は噂を呼び、全国から江戸や小田原に人が集まることになるのだが…
助五郎にも頼んでおいたことがある。それは鍛治職人を中心に、様々な職人集団に優遇するので江戸や小田原に移住する者を集めて欲しいとのことだ。
そして、これも上手くいき江戸の開発や小田原の発展に大いに役に立つことになる。
関白近衛前久は勿論だが、武田勝頼のここまでの行動に甚く感動し、彼に何か報いたいと思っていた人物が2人いた。
やんごとなきお方である帝に、足利幕府13代将軍足利義輝である。
武田勝頼は今回の上洛でじきにこのやんごとなきお方達に目通りをする事になるのだが、そこで勝頼に何が待っているかは知る由もない。
一つだけ言えることは、両名とも民や都、日の本のことを常に憂いており、武田勝頼が今回実行してくれた事は、自分達が常々思っていた事であり財力や力が無い為に出来なかった事である。
自分達がやりたくても出来なかったことを実現した武田勝頼を良く思うのは当然のことであった。
荒れ果てた京の都は思ってる以上に状況は悪かったと考えます。公家達が各地に散らばるほどですしね。勝頼は畿内で影響力が強いわけでない為、今できることを行います。たとえ偽善と言われようとも…




