終わり。そしてまたーー
それから奇妙なことが起きるようになった。
俺の貯金が減っている。――原因は自明だ。
「お、おい……。本当にいいのかよっ」
顔を赤くしながら試着室のカーテンに手をかけて、こちらをのぞき込むイズミ。
あの奇妙な出会いから二週間近く経った。――あの日の翌日、仕事帰り。玄関に彼女が三角座りで待ち伏せをしていたのは、かなり心臓に悪かった。それから六回は会ったが、彼女は相も変わらず小汚らしい格好か、俺があげたサイズの合わないぶかぶかの格好か。――だから彼女を服屋に連れて行った。靴屋に連れて行った。鞄も買ってあげた。
そして今は、おしゃれ着を試着してもらっている。生まれて初めて見る民族衣装のように、ひらりひらりと翻してはきゃっきゃと大騒ぎ。胸元にあてがってくるくると回る。彼女は無意識にそんな仕草をしているのか。だとしたら、相当な小悪魔である。しかも無自覚。質が悪いことこの上ない。
しゃーっと音がして、試着室のカーテンが開く。着替えを終えた彼女が出てきた。何度か飯を食わせて、少しは肉付きが良くなったが、相も変わらず細っこい身体。その肢体を覆うのは、若草色のワンピース。上半身にはラインが入ってあり、胸元のふくらみと腰のくびれが強調、ないしは演出されるようになっている。プリーツが施され、膝下まで覆う長めのスカート部。金色に輝くリングの飾りが目立つ、ミルキーブラウンの革製ベルトがアクセントだ。
もじもじと肩を震わせながら、きまり悪そうにしている彼女。いつもの粗暴な言葉遣いと対照的で、正直ぐっと来た。彼女は頻りに申し訳なさそうな顔をするが、男という生き物は、買うと決めたものを断られる方が機嫌が悪くなるのである。
パンプスとレースソックスを合わせて一万強した。痛い出費だ。それでも店員の話によれば安いらしい。男でも上物のジャケットなどを買えばそんな値段はするが、俺には馴染みのない世界だ。
ほの紅く色づいた頬。ひらひらとスカートの裾を舞い踊らせながら、こつこつとアスファルトを打つパンプス。彼女をはべらせて渋谷の街を歩くのは心地が良かった。――少し大人っぽくも見える。今の彼女ならば、同僚に紹介してもいいだろうか。いいやそれはない。彼女は女子高生なのだから。思えばなぜ、こいつは俺に飽きもせずに付きまとっているのだろう。買ってあげたものはあれど、飯以外にせがまれたものはない。
渋谷109前スクランブル交差点。有象無象の人の波に揉まれながら、俺の頭の中も錯綜していた。
もやもやしているところで背後でどさっと鈍い音がした。イズミが倒れていた。
「だ、大丈夫かっ」
「ご、ごめん。パンプスにヒールがついてて」
尻餅をついて道路の真ん中で倒れていた彼女。ヒールは低く控えめなものだったが、普段からぺしゃんこに潰れたスニーカーを履いている彼女からすれば、慣れないものだったに違いない。それに、この人の波が前後左右から押し寄せる忙しい渋谷のど真ん中だ。――彼女から注意をそらした俺が悪かった。俺は、彼女の手首を掴んだ。
立ち上がるや否や、彼女は俺の手首を手繰り寄せて、線の細い柔らかな指で掴んできた。手首に感じる彼女の体温。俺はぞくぞくっと背中の毛が逆立つのを感じた。
対岸、渋谷駅に渡ったところで、形勢逆転。今度は、彼女が俺の手を引いた。109MEN’SとTSUTAYAの間、――渋谷公園通りへと案内された。キャラクターグッズ店、ショッピングモール、大型雑貨店。あてのないそぞろ歩き。彼女は興味の赴くままに俺の手を引いた。何を買うわけでもなく、商品を手にとっては、はにかんだり。値段を見てびっくりしたり。
ドライな見方をすれば、時間の浪費かもしれない。けれど、まるで彼女が俺の心に水を注ぐかのように、彼女が存在するだけで満たされるものがあった。――きっと彼女はそれを意図していないだろうが。
気づけば「ずっと、こんな関係が続けば――」、そんな世迷言が俺の脳内を支配していた。
*****
具体的にはいつからか分からない。
彼女の態度が変わった気がする。――まずは、俺に対する言葉遣いが丁寧語になった。どこかちくちくとした感触だった。出会った頃は刺々しい印象を彼女から感じていたのに。
呼び方も変わった。俺は変わらず彼女を「イズミ」と下の名で呼んでいたが、彼女は俺を「西野さん」と上の名前に、しかも‘さん’付けで呼ぶようになった。あのずけずけとした無遠慮な距離感が、大分に離れてしまった印象だ。冷静に考えれば正しい言葉遣いになっただけなのだが、俺は一抹の寂しさを感じていた。――ただ、それをとやかく言うことはしなかった。
俺は彼女より、十歳以上も年上だ。
俺は社会人で、彼女は女子高生だ。
だから、間違いではない。彼女が俺のことを名字に‘さん’付けで呼ぶことも。丁寧語で話すことも。
大学生時代から自炊をしていた俺は、人並みに料理はできる。彼女に食わせた料理は、何もフレンチトーストだけではない。
対して彼女は、料理の腕はからっきしだ。ガラにもなくもじもじしながら、「料理を教えて欲しい」といってきた彼女。卵もろくに割れず、焦げあがった不格好な出汁巻き卵ができた。俺は笑っていたが、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。きっとあの顔は、俺に料理の下手さ加減を小馬鹿にされて、いじけたとかじゃない。――じゃあ、なぜそうと俺は気づいてしまうのか。
そんなもやもやが大分に溜まってきたころだった。
「今日は何を教えてくれるんですか?」
いつしか、俺は彼女に勉強と花嫁修業を仕込むようになっていた。花嫁修業は出汁巻き卵を教えた延長線みたいなものだ。ラインで会話をしながら予定を調整する。これが彼女に会うための口実になっている節もある。
「今日は肉じゃがかな。男のハートを掴むのにお誂え向きだな」
「誰に言ってんですかっ」
ジョークを飛ばすと彼女は笑ってくれた。――このジョークを言った意図は、自分でも分からない。
ピーラーでじゃが芋と人参の皮を剥き、火が通りやすい大きさに切る。タマネギもざく切りにする。――彼女の包丁を扱う手つきは、最初は危なっかしかったが今ではだいぶ上達した。
フライパンに油をひき、イズミが下ごしらえを済ます間に、牛肉を炒める。少し赤い部分を残しておくと、あとでじゃが芋や人参と一緒に炒めるときに、火が通りすぎることがない。塩コショウで下味をつけた牛肉から、香ばしい匂いがしてきた。こげ茶の部分と、鮮やかな赤身の部分が混じるようになると、一度フライパンから肉を引き上げる。
イズミの下ごしらえが終わった。いい塩梅に肉の油が残ったところにさらに油を足してから、玉ねぎを炒める。飴色に色づいて透き通るのを待つ。続いてじゃが芋、人参も加える。食材に含まれる水分が油で飛ぶ、じゅっじゅっという音が心地よい。
「もう、美味しそう」
炒めベラで具剤を混ぜながら、イズミは呟いた。口からぼそりと本能のままにこぼれ出た言葉だ。――同感だ。
本来は砂糖と醤油、塩、みりんで煮汁をつくるが、すき焼きの割り下で楽をする。隠し味にオイスターソースを使うと味に深みが出る。あとは割り下だけでは甘すぎるので、出汁つゆで香りづけをしながら調節する。最後に炒めた肉をもう一度投入し、今度は火が通るまでじっくりと炒める。
「よし、出来たなっ」
今日の昼飯だ。ちょうどタイミングを合わせて炊き上がるようにした炊飯器を開けると、湯気とともにてらてらと部屋の灯りを反射する白飯。鼻孔を突き抜けるほのかに甘い香りに、ふたりしてごくりと喉を鳴らす。
イズミがやけに大きなどんぶり鉢を手に取る。あまり彼女が食欲旺盛だと思ったことはないが。
「ちょっと行儀が悪いですけど、ごはんに乗せたいなあって――」
これには俺も賛同した。ちょうど煮汁も多めの仕上がり。この煮汁を熱々のごはんにかけなければ、日本庶民の風上にも置けないというものだ。
座卓につき、完成した肉じゃが丼をふたりして食す。甘辛くて深みのある味わいの煮汁のかかったご飯が、ほろほろと口の中で解ける。ほどよく食感の残った玉ねぎとほっくほくのじゃが芋。青臭さが消えて、甘みを主張する人参。どれを取っても申し分のない出来栄え。
「美味しいっ」
ふたりの声が合わさって、互いに顔を見合わせて笑った。
ちょっと前まで感じていた、あのもやもやはどこかへと吹き飛んでいた――はずだった。
昼食を済ませた後、彼女はどこか思いつめたような顔をしていた。
「――いいんですかね。私」
「なにがだ? イズミ」
柄にもないしおらしい表情と声色。いや、あくまで‘柄’というのは、初めて会った頃の彼女の態度を指すもので、今よりももっと前から、変化に気づいていたのかもしれない。
「私、もうずっと、西野さんにもらってばかりじゃないですか」
声が震えている。
「そんな気負わなくてもいいよ。俺が楽しくてやってるんだ」
「知ってるでしょ。私のお父さんのこと。――働きもしないでお酒飲んでばっか。たばこ臭くて、外に出ると決まってパチンコ打って、あまつさえ私のバイト代にまで手を付けようとするし」
肩ががくがくと震えて、声は次第に泣きはらして、へしゃがれたものになっていった。俺は自分が無意識のうちに聴覚をシャットアウトしているのを感じた。彼女は、俺の聞きたくないことを言うのだろう。そんな予感が、俺の鼓膜の上に覆いかぶさった。
「きっと、私――、このままじゃ、西野さんの重荷になってしまう」
言わないでくれ。そんな言葉、言わないでくれ。
たとえ、それが真実でも――
「そんなこと言うなっ」
「西野さんのために言ってるんです。西野さんがどうしたいとかじゃなく、もう――ダメなんです。私、これ以上一緒にいたら、自分で自分を許せなくなるんです」
もともと俺を‘エロおやじ’と罵っていた時から感じていた眼力の強さは、俺から反論する術を奪っていた。俺は洗いものの終わったシンクの縁を握り締め、かろうじて立っているような状態だった。うつむいた顔面から、彼女は視線で突いてくる。
次の瞬間、彼女はゆらりゆらりと俺に迫ってきた。冷たく得体の知れない気配を漂わせて、線の細い右手を俺の太ももからへそへ、右の乳頭を通って鎖骨へと這わせた。――異様な冷たさが彼女の手を通して感じられる。背中を虫が這いまわるような感触に襲われ、俺は圧倒的な体格差を覆すほどの彼女の気迫に後ずさりをするしかなかった。その勢いで俺は、リビングと廊下の間の段差に脚を取られて尻餅をつく。彼女と視線の高さがあった瞬間に、彼女は俺の身体に馬乗りになってまたがった。
彼女の体重は、五十キロもなかったんじゃないかと思う。小柄な上に、細っこいだけの身体だ。だけど、その時の彼女は鉛の塊のように重く、俺は床に押さえつけられたまま微動だに出来なかった。
そして、彼女は俺の右手を掴んでゆっくりと、自分の右胸に当てがった。当然ながら、乳房だ。控えめな膨らみの柔らかな感触が、俺の手のひらにまとわりついた。――だけどその右の手を握り締めようとは思わない。
彼女は覆いかぶさり、俺の身体の上を這いながら、自分の唇を俺の唇に重ねようとした。そこで俺は怖くなり、恐れのままに彼女を跳ねのけた。途端に、非力にも床に尻餅をついて、投げ出される彼女。
「お、おい。大丈夫か――」
「なんで……突き放すんですか……」
「……なんでこんなこと」
「ダメですかっ! こんなくらいしか、返せない私じゃダメですかっ! ダメってことですよねっ! ――それで……いいんです……。私なんかが、西野さんの未来を奪っていいはずないんです」
彼女が自身の貞操を捧げようとした真意を理解するのに、時間がかかった。どうやら俺たちは、来るところまで来てしまったようだった。――空しい。進みすぎた関係が、自壊していくなんて。
俺たちはいつからか、自分たちが間違っているなどと言う観念にとらわれて、互いに互いの首を絞めていた。その種が分かっても、俺にも彼女にも言葉は見つからない。――見つからないからこそ、彼女はあんな行動に出たのだろう。そこまで分かってしまう自分の頭を、俺はひたすらに呪った。
「今までありがとうございました。さようなら」
苦虫をかみつぶしたような顔で彼女が呟く玄関口。――俺には、自分の未来を全て投げ打って彼女を傍に置いておくだけの勇気がなかった。
俺は社会人。彼女は女子高生。十歳以上はちがう歳の差。自覚していたふたりの歪さを全て、自分の意気地なしの言い訳にした。
彼女が視界から消えた瞬間、ごぽりと泡がはじける音がした。俺の器の底に穴が開いた。俺の中に満たされた何かが、じょぼじょぼと音を立てて、どこかへ流れていくのを感じる。俺は自重を支えきれず、ずり落ちて玄関口に座り込んだ。
君は栓を抜いた。
――ほどなくして、彼女から手紙が届いた。あれからラインやメールを送ったこともあったが、帰って来ていない。その返事はそこにあった。
》
西野悟様
お元気でしょうか。私は、元気でやっています。それだけは心配なさらないでください。メールもラインも拝見しましたが、残念ながらお会いすることはできません。私と西野さんはきっと、出会うべきではなかったんだと思います。ネットカフェで家出中の私に出くわさなければ、きっとあんなこともなかったんだと思います。
でも、やっぱり私はそう言って済ましてはいけないほどのものを、西野さんからもらいました。勉強の仕方、二次関数や、すっかり忘れてしまった古文まで私のために復習して教えてくれましたよね。料理の仕方も。おかげさまで私も包丁の扱いには慣れました。古い音楽や古い映画も教えてもらいました。――西野さんに趣味が似てしまいました(笑)。
西野さんのおかげで少しは真人間になれた気がします。本当にありがとうございます。
いろいろ失礼なことも言ってしまいました。ごめんなさい。お礼を言った回数も少なかったと思います。ごめんなさい。でも、西野さんと過ごしている時は、私、とっても楽しかったです。
最後にもう一度。本当にありがとうございます。
才賀泉美より
P.S.あたしなんかでつまづいてんじゃねえよ。婚期逃すぞ、おっさん。
》
最後に懐かしい口調と呼び名があった。
「――クソガキがっ」
吐き捨てるようにつぶやいて、俺はたまらず家を出た。――真昼間だろうが関係ない。どうしようもなく飲みたい気分だった。
渋谷、キャットストリート沿いにある一軒のバーに入った。とびきり苦い黒ビールが飲みたかった。通りに面した入り口まで伸びるカウンターがあるだけの簡素なつくり。入るとパーシー・スレッジの‘男が女を愛する時’が流れていた。――今はなんとも聞きたくない曲だ。
つきだしのナッツを貪りながら、インペリアルスタウトを頼んだ。芳醇で濃厚な香りを漂わせる黒い液体がロンググラスに注がれる。純白の泡と漆黒のコントラストが美しい。それを喉に迎え入れたところで曲が変わった。――‘エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ’。どうしてこうも、ばつの悪い選曲が続くのか。恋に溺れる男の盲目さを歌った曲のあとは、彼女との思い出を逆なでする曲だ。
俺は、曲から逃げるように視線を窓の外へと向けた。外は相変わらず人の流れが激しい。――ここらへんもイズミと歩いたっけ。ああ、ダメだ。どうせなら、もっと遠くに出るべきだった。
心の中で悪態をついたとき、やけに目に焼き付くように映るひとりの影があった。その女は、まだあどけない面影を後ろ姿に宿している。肩口まで伸ばした黒髪。見覚えのある黄ばんだ白のトレーナー。くすんだチェック柄のプリーツスカート。泥だらけの、潰れたスニーカー。
「すまん、これ。会計」
一口つけただけのインペリアルスタウトの支払いに目を丸くしている店員には目もくれず、俺はその面影に向かって走り出した。
俺の頭の中には、あの曲の一節が浮かんでいた。
‘そう、どんな隔たりでも、俺と君との間を妨げることはできない’
「イズミっ!!!」
――その声に彼女は振り向いた。
こちらは、たこす様との共同企画、『無茶ぶりカップリング恋愛小説~奇妙なふたり~』の一環として書き上げました。
企画内容:(以下、敬称略)こちらは、「FELLOW」と「たこす」による、互いにカップルの性格や設定を無茶ぶりし合い、単話完結形式の恋愛小説を書いて、鍛錬しながらキャッキャウフフしようという企画でございます。同名の連載小説が、「FELLOW」と「たこす」両者のマイページに掲載され、「FELLOW」は「たこす」から、「たこす」は「FELLOW」から受けた、“カップルの性格や設定の指定(無茶ぶり)”をもとに書いた物語を、それぞれのマイページに掲載します。両者の鍛錬とともに、読者の皆様にとっても両者の作風を知っていただく機会となれば幸いでございます。尚、更新は不定期でございます。ご了承お願いします。各話1500~15000字で完結。
たこす様からいただいたお題(無茶ぶり)は、「社会人男性×女子高生」です。
たこす様に回したお題は、「人外×人外」です。
たこす様の作品はこちら。
「ケモ耳カップルのとある一日」
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