序章 ラヴィーネ・アーバンはお飾りの妻である
パイプオルガンの奏でる讃美歌が、不吉な不協和に聞こえた。
ヴェールの下の不明瞭な世界は、ラヴィーネを少しだけ安心させてくれる。目を開いても霧の中にいるように、外界の景色がぼやけている。
隣にいる男の顔も、よく見えない。今日からラヴィーネの夫になる人だ。
小柄なラヴィーネよりも、頭一つ分以上に身長が高い。品のよい婚礼着を着こむ体は、正装の上からでも鍛え抜かれていて立派だということがわかる。
月の光のような金の髪に、冷たい印象の碧眼。顔立ちは美しいが、その口元はむっつりと引き結ばれていて、隣に立っているだけでも身が引き締まるような威圧感がある。
ジェイセン・アーバン。アーバン騎士公爵と呼ばれる彼は、王国最強ともいわれている。魔物討伐で名を馳せている男だ。
アーバン公爵家当主であり、ウルブハウルズ騎士団を率いてリーディアス王国のどこへでも討伐に向かう──皆から尊敬と畏怖を向けられている人である。
そんな彼の妻に、なる。
ラヴィーネはまるで、夢の中にいるようだと思いながら、紅を塗られた唇を軽く噛んだ。
期待など、してはいけない。これはただの──政略結婚なのだから。
「お前のような女との子を、作る気はない」
そう彼は、エルーニャ伯爵家から来たばかりのラヴィーネに冷たく言った。
三日間馬車に揺られ続けたせいで疲弊していた体の中に、その言葉は乾いた音を立てて落ちていった。
予想は、していたことだった。だが、同時に期待もあった。
もしかしたら──ジェイセンはラヴィーネを『まとも』に、扱ってくれるのではないか。
噂などに惑わされずに、ラヴィーネを見てくれるのではないか、と。
そんなわけがないかと、ラヴィーネは心の中で呟いた。
指先が冷えて、喉が渇く。この美しい人が、エルーニャの蛇毒と呼ばれているラヴィーネに心を傾けてくれるはずがない。
そもそもジェイセンとは、女嫌いと名高い男だ。だからこそ、妹のアイビーは彼との結婚を嫌がった。
結婚の打診は、妹に来たものである。
『嫌よ! アーバン公爵って魔物殺しで、女嫌いなのでしょう!? 社交界にも顔を出さないし、領地は呪われていて魔物だらけだって聞いているわ。いくら公爵だからって、そんな人の元に嫁ぐのは絶対嫌!』
アーバン家からの手紙の内容について父から説明されて、アイビーは大声をあげて泣き出した。
アイビーはラヴィーネよりも一つ年下の十七歳。蜂蜜のような金の髪に青空のような瞳の可憐な顔立ちをしていて、皆が彼女を『エルーニャ家の麗しの天使』などと呼ぶ。
執務室に呼び出されたラヴィーネは、泣きじゃくるアイビーと彼女を庇う母、そして狼狽する父を静かに眺めていた。
次に何を言われるかは、予想がついている。
十八年間、エルーニャ伯爵家で育っているのだ。この家族の元で。
期待することはもうやめてしまった。ラヴィーネは嵐を耐えるようにただ静かに、いつも黙って立ち竦んでいる。
『それに、サイアス様だって私を好きだと言ってくださるわ! お姉様とは結婚したくないって!』
サイアスとは、ラヴィーネの婚約者である。
王都のタウンハウスで家が隣り合っていることから、幼馴染のように育ったゼアル侯爵家の次男だ。
エルーニャ伯爵家には子供がラヴィーネとアイビーの二人しかいない。
そのため長女のラヴィーネが婿をとり、伯爵家を継がせることが決まっていた。
しかし、サイアスはラヴィーネを嫌い、かなり前からアイビーと男女の関係になっていることを、ラヴィーネは知っていた。
悲しかったし、虚しかったが、ラヴィーネには諦めるという悪い癖がついている。
実の母に愛されていないことに気づいたときからずっと──ラヴィーネは、ただひたすらに、よくないことが自分の上を通り過ぎるのを待ち続けている。
『あなた、ラヴィーネを嫁がせればいいじゃない。この家にはアイビーが残って、サイアスさんがアイビーと結婚すれば、全て丸くおさまるわ。アーバン公爵は、我が家のお金が欲しいだけでしょう?」
『金……というよりは、麦だな。アーバン公爵領では不作が続いている。特に今年は、魔物による被害が多い。だから、エルーニャ家の麦の購入を望んでいるようだ』
『だったら、娘はどちらでもいいじゃない。ねぇ、ラヴィーネを嫁がせましょう。そのほうが、サイアスさんにとってもアイビーにとっても、幸せよ』
そして母にとっても──と、ラヴィーネは心の中で呟いた。
ラヴィーネに拒否権などあるはずもなく、アイビーとサイアスが婚約者になり、ラヴィーネはジェイセンに嫁ぐことになった。
手紙でそれを伝えたところ、公爵からの返事は『どちらの娘でもかまわない』ということだった。
だが結局、顔を合わせてみれば、彼は女が嫌いだからなのか、それともラヴィーネの悪評のせいなのかはわからないが、『血を残す気はない』と、素っ気なく言ったのだった。
ヴェールを一度もあげられることなく、婚礼が終わった。
参列している者たちはその違和感に気づいたのだろう『誓いの口づけもしなかった』と、密やかに噂をしていた。
エルーニャ伯爵家は、南方の肥沃な土地を領地に持つ、豊かな家である。
魔物の被害が少なく、安定的に良質な小麦がとれる。小麦だけではなく野菜も肉も魚もよく採れ、食料に困っているというアーバン公爵領からすれば、その優先的な交易件は喉から手が出るほどに欲しいものだろう。
それだけのために、評判の悪いラヴィーネを娶ったのだ。
挙式が終わったあと、一人きりの部屋でラヴィーネはぼんやりと夜空を見あげていた。
どこにいても、変わらない。場所が変わっただけで、ラヴィーネはいつも牢獄に閉じ込められている。
正妻の寝室として与えられた部屋は、豪華な調度品と清潔なベッドがある。だが、ただそれだけだ。
この部屋でジェイセンに愛される日がくることは、きっとないのだろう。
彼はラヴィーネ以外の誰かと子を作る。ラヴィーネはただここにいるだけだ。
それは、蛇毒だからである。
人のものを、すぐに欲しがる。
アイビーの恋人を奪った。
アイビーを苛めた。立場の低いものを差別する。人を人だと思わないような、最低な女。
高慢で、傲慢で、最低な伯爵令嬢──と、皆が、ラヴィーネを嫌う。
ラヴィーネはなにもしていない。ただアイビーが、そう皆に言うのだ。
母はそれを信じた。そして、ラヴィーネを嫌った。父もまた、母とアイビーを信じた。
エルーニャ家でラヴィーネは、いないものとして扱われていた。
何もしていないのに噂は広まり、やがて社交界の嫌われ者になった。ラヴィーネが嫌われれば嫌われるほどに、アイビーは皆に愛された。
アイビーの金の髪は太陽のよう。けれどラヴィーネの黒い髪は、まるで蛇だ。光を受けると金に見える赤褐色の瞳もまた、蛇のように見える。やがて、ラヴィーネはエルーニャ家の蛇毒と呼ばれるようになった。
もちろん、弁明したことはある。けれど両親さえ信じてくれないラヴィーネを、誰が信じてくれるというのだろう。
サイアスもラヴィーネを不気味だといって嫌っていた。
公爵家の慣れない冷たいベッドで眠れない夜を過ごしながら、ラヴィーネは、これは仕方のないことだと自分に言い聞かせ続けた。
ジェイセンに嫌われるのも、無理はない。彼はアイビーに求婚したのだ。
領地のために、仕方なくラヴィーネを娶っただけだ。
ラヴィーネは、お飾りの妻である──式の翌日から、そんな乾いた空気が公爵家には流れていた。使用人たちでさえ、ラヴィーネを杜撰に扱った。
生活には困らないが、誰もがラヴィーネを小馬鹿にしていた。侍女たちが朝の支度に訪れない日も多くあり、食事を忘れられることさえあった。
ラヴィーネは妻の寝室として与えられた部屋で、ジェイセンが訪れるようなこともないまま毎日を過ごした。
彼は多忙だ。ほとんど家にいない。家のことは家令に任せている。剣を持ち戦うのが彼の役目である。
ラヴィーネも公爵家の仕事をしたかったが、それもままならない。
流す涙も枯れたころ──アーバン公爵家に、王家から夜会の招待状が届いた。
「お一人で行かれるのですか、奥様」
「ええ。ジェイセン様はお忙しいでしょう。この半月は、家にお戻りにもならないわ。王妃様主催の夜会を断るのは不敬よ。アーバン公爵の妻として、顔だけでも出さないと」
「かえって評判をさげるのでは」
「……そうならないように、気をつけるわ」
侍女の嫌味に静かな口調で返して、ラヴィーネは公爵家から王都に向かった。
家令が護衛と侍女を手配してくれる。寡黙な男であり、彼もまたラヴィーネを嫌っているが、表立って意地の悪いことはしない。彼は日々忙しく、そんな暇はないのだろう。
王都のタウンハウスで一泊し、久々にドレスを着て過不足なく身支度を整えてから、夕闇の迫る中、馬車に揺られた。
「あら、お姉様! お久しぶりですね! 今日はお一人なのですか?」
夜会に顔を出したラヴィーネは、ある程度滞在をしたら帰ろうと考えながら壁の花になっていた。
一人きりで参加する者などまずいない。皆、婚約者や家族、夫婦などで参加している。
それぞれが知り合いを見つけて挨拶を交わす中、ラヴィーネは好奇の視線に晒されていたたまれない思いをしていた。
そんなラヴィーネを見つけて、美しく着飾ったアイビーがにこやかに近寄ってくる。
彼女はサイアスを連れている。彼の姿を見るのも久々だが、燃えるような赤毛の貴公子は、まるで番犬のようにアイビーに従っていた。
広間の貴族たちの視線が、ラヴィーネとアイビーに向いている。
蛇毒と、慈愛の天使である。その対決に、興味を持たない人間のほうが少ないだろう。
特に貴族たちは、いつも話題に飢えている。噂話は彼らの大好物の暇つぶしである。
「私に来た結婚の打診を無理やり奪ったのですから、よほど幸せなのでしょうと思っていたのに、可哀想なお姉様……ジェイセン様に嫌われておりますの?」
「無理やり奪ってなど……」
「奪ったでしょう、お忘れですか? ジェイセン様が私と結婚したいという手紙をくださったとき、お姉様は公爵夫人になるのは自分だといって、私を叩いたではないですか! 婚約者のサイアス様を捨てて、ジェイセン様の妻に……どうしても公爵夫人になりたかったのでしょう。でも、私はいいのです。だってサイアス様は私を愛してくださいますから……」
ラヴィーネの反論をかき消すように、アイビーが哀れな表情で、悲しみに浸るように口にする。
サイアスは敵意のある眼差しをラヴィーネに向けながら、アイビーを支えた。
皆が、口々にラヴィーネを非難する。あぁそうかと、ラヴィーネの心は暗く染まっていく。
半年間、ラヴィーネは公爵家を出ることがなかった。
その間に、アイビーは『姉は自分に来たジェイセンからの結婚の打診を奪い、サイアスを捨てた』と、皆に言いふらしていたのだ。
そこには真実など一つもないのに、サイアスもそれを信じている。
先に浮気をしていたというのに、ラヴィーネに捨てられたという事実は、サイアスに苛烈な憎しみを抱かせているようだった。
「最低な、蛇毒め。ジェイセン様から嫌われているのだろう、いい気味だ」
「サイアス様、そんなことを言ったらお姉様が可哀想です。公爵夫人でありながら、たった一人で夜会に顔を出すなんて、こんなに恥ずかしいことはないのですから……!」
ラヴィーネは、唇を噛んだ。
このままここにいれば、アーバン公爵家の名誉にも傷がつくだろう。
甘かったのだ。予想はできたはずだ。たとえ他家に嫁いでも、アイビーはラヴィーネを貶める。
そうすれば、自分はより一層愛されると、彼女は知っている。
「……っ、気分が悪いので、失礼するわ」
ただそれだけを口にすると、ラヴィーネは好奇と非難の視線に晒されながら、広間を出た。
皆の嘲笑が、嫌悪の視線がラヴィーネに絡みつき、広間から出ても背後から追いかけてくるように感じられる。
馬車に戻るために、城の大階段を降りている途中で、ラヴィーネは足をもつれさせた。
半年間の間に蓄積された疲労と、精神的な疲弊が限界を迎えていた。
(あぁ、落ちる……)
階段から転がり落ちて、硬い地面に叩きつけられる。
そんな恐怖が、ラヴィーネの体を包む。けれど、体勢を崩したラヴィーネの体は、大階段の上に宙に浮くように投げ出された。
「……っ、無事か、ラヴィ……っ」
ラヴィーネの体を、しっかりとした腕が受け止めている。
力強い体が、ラヴィーネの体を包み込む。予想していた衝撃が訪れないことに驚いて、ラヴィーネは大きく目を見開いた。
ラヴィーネの体を受け止めてくれたのは、ここにいるはずのない男。
半年もの間、まともに会話さえ交わしたことのない夫、ジェイセンだった。
だが、どこか違う。
ジェイセンのような顔をしているが──彼は、もっと年上に見える。
この人はいったい誰なのかと、ラヴィーネは唖然とその顔を見つめた。




