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死者とラベンダー

どれほどの時が経ったのだろう。

時間の感覚は、完全に失われていた。

目を覚ましたとき、

ミイナはまず――音がしないことに気づいた。

風の音がない。

砂を踏む音も、遠くの獣の鳴き声もない。

自分の呼吸音すら、ひどく遠く感じられた。

ゆっくりと、まぶたを開く。

視界いっぱいに広がっていたのは、紫だった。

一面の花。

揺れもしない、ざわめきもしない、

ただ静かに咲き誇る紫の花畑。

見渡す限り、地平線まで続いている。

――夜だった。

空は深く沈んだ藍色に染まり、

雲ひとつない天頂には、満月が浮かんでいる。

異様なほど近く、

手を伸ばせば触れられてしまいそうな距離感だった。

月光は白く、冷たい。

まるで世界から、色と温度だけを奪ったかのようだった。

「……」

声を出しかけて、

ミイナは咄嗟に自分の口を押さえた。

――声を出してはいけない。

ハイランドの言葉が、はっきりと脳裏に蘇る。

心臓が、どくりと強く脈打つ。

(……ここ、は)

ゆっくりと上体を起こす。

身体は動いた。

痛みもなく、致命的な怪我もない。

だが――

それが、かえっておかしかった。

ミイナは、胸元に手を伸ばした。

そこにあるはずのもの。

冷たく、重みのある、黒い刻印石。

指先が、空を掴む。

(……ない)

首元。

服の内側。

何度も、確かめる。

――ない。

死者避けのお守りが、消えていた。

一気に血の気が引く。

(落とした……?

 それとも……)

考えかけて、ミイナは思考を止めた。

――感情を乱すな。

――考えすぎるな。

喉が、ひどく乾いている。

ミイナは、ゆっくりと立ち上がった。

その拍子に、足元の花を踏む。

ひんやりとした冷気が足を包み、

胸の奥が、ひやりと冷える。

ミイナは、ニコラス・ワイトマンの手記を思い出した。

――満月の夜に、屋敷が現れる。

そうだ。

屋敷を探そう。

死者が跋扈する丘を、当てもなく彷徨うよりは、

フィリアの屋敷の方が、きっと、安全なはずだ。

そう、自分に言い聞かせる。

ミイナは、紫の花が咲き誇る丘を、

満月に向かって歩き出した。



歩くこと数分。

景色は、一向に変わらなかった。

見渡す限り、紫。

どこまで行っても、ラベンダー畑が続いている。

月光に照らされた花々は揺れもせず、

ただ静かに咲き誇っていた。

その不変の光景に、

ミイナの胸に小さな不安が芽生え始めた、その時だった。

「おーい」

声が聞こえた。

遠くから呼ばれたようでもあり、

耳元で囁かれたようでもある――

距離の掴めない、不気味な声。

ミイナは、思わず振り返りそうになる。

だが、その瞬間、

ハイランドから教わった言葉が脳裏をよぎった。

(し、死者には二種類います。

 無害なゴーストと、悪霊レイスです。

 ですが……こちらからは区別できません。

 ですから、反応を示してはいけません)

そうだ。

仮に相手が悪霊だった場合、

気づかれた時点で終わりだ。

ミイナは、何も聞こえなかったふりをして歩き続けた。

しかし――

「おーい。そこのお嬢さん」

再び、声。

今度は、はっきりとミイナに向けられている。

ミイナは、歯を食いしばって無視を貫いた。

「もしかして迷子なのか?

 屋敷へ、連れて行ってやろうか?」

その言葉に、ミイナの足が止まる。

――屋敷。

悪霊が、屋敷に案内するだろうか?

それとも、善良なゴーストなのではないか。

このまま、当てもなく彷徨い続ける方が、

かえって危険なのではないだろうか。

ほんの一呼吸。

それだけの逡巡だった。

ミイナは、立ち止まり、意を決して振り返った。

「……案内してください!」

その瞬間だった。

声の質が、変わった。

ニタリ、と笑うような、粘ついたものへと。

「……なんだぁ……聞こえてるじゃないかぁ」

背筋を、冷たいものが走る。

ミイナの眼前に立っていたのは、

善良とは到底思えない存在だった。

黒いボロ切れを身に纏った骸骨。

霊体であることを示すように、身体は半透明で、

眼窩の奥の暗闇が、じっとミイナを見据えている。

「……お屋敷。案内してくれるんですよね?」

震える喉を抑え、ミイナは問いかけた。

「……いいとも。もちろん、案内してやるよ」

骸骨は、ゆっくりと口を開く。

「――お前を、死者にしてからなぁ!」

次の瞬間、骨ばった手がミイナの首へと伸びた。

ミイナは咄嗟に飛び退き、その手を躱す。

――悪霊レイスだ。

そう、確信した。

ミイナは腰のショートソードに手をかけ、抜刀の構えを取る。

重心を落とし、いつも通り、相手の思考を読もうと集中した。

《羨ましい。嫉ましい。

 なんで、お前だけ生きてるんだ。

 許せない。許せない。許せない。許せない。

 許せない。許せない。許せない。許せない。

 許せない。許せない。許せない。許せない。

 許せない。許せない。許せない。許せない――》

頭痛が走る。

あまりにも強烈な怨嗟。

これでは、思考を読み取ることなどできない。

再び、レイスがミイナへと手を伸ばす。

軌道は遅く、わかりやすい。

ミイナは抜刀し、首を斬り払う体勢を取った。

――だが。

刃は、そのまま、レイスの首をすり抜けた。

次の瞬間、

冷たい手が、ミイナの首を掴む。

締め上げられる感覚。

(……向こうからは、触れるんだ……)

必死にその手を外そうとするが、

ミイナの指は、レイスの腕をすり抜けるばかりだった。

「……すぐに、こっちへ連れてきてやるよ」

骸骨が、楽しげに囁く。

「ほら、仲間も……集まってきた」

ミイナは眼だけを動かし、周囲を見渡した。

どこからともなく現れる、レイス、レイス、レイス。

一人、二人、三人――

八人まで数えたところで、視界が暗くなり始める。

(このままじゃ……私……)

意識が遠のく。

(助けて――モノ!)

心の中で叫んだ、その瞬間。

「まぁ! まぁ! まぁ! まぁ!」

場違いなほど、呑気な声が響いた。

「あなたたち、おやめなさい」

空気が、変わる。

「その方は――私のお客様にします」

ミイナは、薄れゆく意識の中で、

その声を確かに聞いたのだった。


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