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案山子と修行

夜明け前。

砂族の里は、まだ眠っていた。

天幕の列も、武軍鶏の影も、霧の向こうにぼんやりと沈んでいる。

「……ミイナ殿。起きるでござる」

クロスケの声で、ミイナは目を覚ました。

外は暗い。空は群青色で、まだ太陽の気配すらない。

「……もう、朝?」

『否。朝になる前でござる』

ミイナは体を起こし、慌てて身支度を整えた。

昨日の疲れが、脚と背中に重く残っている。

天幕の外に出ると、空気は冷たかった。

砂は夜露を含み、裸足ではひやりとする。

クロスケは、里の外れ――

砂丘の手前で立っていた。

『まずは、ここでよい』

「……ここで、何をするの?」

クロスケは答えず、言った。

『立つでござる』

「……立つ?」

『左様。ただ、立つ』

ミイナはきょとんとする。

『足を肩幅に開くでござる』

『背を伸ばし、視線は前』

『腕は下ろし、力を抜く』

言われた通りにする。

『よい。そのまま動くな』

「……え?」

『夜明けまで、そのままでござる』

ミイナは思わず声を上げそうになったが、飲み込んだ。

砂の上に立つ。

ただ、それだけ。

最初は、何ともなかった。

だが、しばらくすると――

足の裏がじんじんと痺れ、ふくらはぎが張ってくる。

(……これ、キツい)

風が吹く。

砂が足首に当たり、冷たい。

武軍鶏の低い鳴き声が、遠くで響いた。

「……クロスケさん」

『何でござる』

「これって……意味、あるの?」

クロスケは、即答しなかった。

しばらくしてから、言う。

『ミイナ殿は、昨日言ったでござろう』

『置いていかれたくない、と』

「……うん」

『ならば、まず“正しい姿勢”と“動かぬこと”を覚えるでござる』

「姿勢……? 動かない……?」

『恐怖、疲労、焦り』

『それらが来た時、人はすぐ動きたくなる』

クロスケは、砂の上で微動だにしない。

『だが、戦場では――』

『動いた者から、崩れる』

ミイナは、唇を噛んだ。

足が、震え始めている。

『倒れてもよい』

『だが、倒れるまで立て』

空が、わずかに白み始めた。

その時――

ミイナの膝が、がくりと折れた。

砂の上に、片膝をつく。

「……っ!」

(……倒れるまで、立て)

ミイナは歯を食いしばり、もう一度立ち上がった。

足は震え、視界が揺れる。

だが――

それでも、立った。

クロスケは、その様子を黙って見ていた。

夜明けの光が、二人の影を砂の上に落とす。

『……よいでござる』

その一言で、ミイナの全身から力が抜けた。

「……はぁ……はぁ……」

砂の上に座り込み、息を整える。

クロスケは、ゆっくりと近づいた。

『まずは、正しい姿勢で立つ。これが、修行の始まりでござる』

ミイナは、汗と砂にまみれた顔で空を見上げた。

太陽が、昇り始めていた。

そして、日が昇ると水汲みと卵拾いが始まる。

ミイナの特訓の日々が、始まったのであった。 



翌々日も、夜明け前からミイナは立っていた。

『よし。形が出来てきたでござるな。筋が良いでござる』

「え? ありがとうございます」

『では、次。片足を上げよ』

「……え?」

『聞こえなかったでござるか? 片足で立つのでござる』

ミイナは、ゆっくりと右足を持ち上げた。

膝を軽く曲げ、太腿を上げる。

――安定している。

砂に沈む左足の感触も、まだ頼りになる。

体幹に力を入れ、肩の力を抜く。

(できる……)

最初の三十秒は、余裕だった。

呼吸も乱れない。

だが――

一分を過ぎたあたりから、違和感が生まれる。

左足の裏。

砂の沈み方が、ほんのわずかに変わった。

(……あれ?)

軸が、ずれる。

膝が内側に入るのを感じ、無意識に腰で調整する。

今度は、上半身がわずかに傾いた。

(だめ……動かしすぎ……)

呼吸が浅くなる。

力を入れ直そうとした瞬間、今まで使っていなかった筋肉が悲鳴を上げた。

太腿。

脇腹。

足首。

どこが、というより――

全部が、じわじわと重くなる。

(まだ、立てるのに……)

転びそうではない。

倒れる気配もない。

それなのに、苦しい。

時間だけが、確実に体力を削っていく。

肩が上がりそうになるのを抑え、顎を引く。

視線が揺れそうになるのを、必死に堪える。

砂の上に、汗が一滴落ちた。

三分。

足裏が、熱を持つ。

地面を「踏んでいる」のではなく、「耐えている」感覚。

(……これ、いつまで?)

訊きたくなった。

だが、口を開いた瞬間に軸が崩れる気がして、黙る。

クロスケは、何も言わない。

ただ、立っているミイナを見ている。

五分。

左足が、わずかに震え始めた。

目に見えない程度だが、本人にははっきり分かる。

(まずい……)

力を入れ直そうとして、気づく。

どこに力を入れればいいのかが、分からなくなっている。

これまで「なんとなく」で立っていた。

そのツケが、一気に押し寄せてきた。

十分。

足が重い。

倒れそうになる。

それでも――

「……っ」

声にならない息が漏れた瞬間、軸が一度、大きく揺れた。

ミイナは、ゆっくりと足を下ろした。

倒れなかった。

だが、限界だった。

息を整えながら、砂を踏みしめ直す。

「……思ったより……きつい……」

クロスケは、低く言った。

『そうでござろう』

『立つとは、止まることではない』

『常に、崩れそうになるものを、戻し続けることなのでござる』

ミイナは、その言葉を噛みしめる。

ただ立っていただけなのに。

ただ片足を上げただけなのに。

体も、心も、確かに削られていた。

『次は、反対の足でござる』

ミイナは、一瞬だけ目を閉じた。

逃げたいとは、思わなかった。


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