第101話 閑話 選ばなかった自由
本編第43話、自由都市が「透明化」を乗り越えた夜の、小さな閑話です。
主人公アルトは、ほとんど出てきません。ただ、彼が置いていったものの話です。
基金の創設が決まったのは、日がすっかり落ちてからだった。
代表会の広間を出ると、廊下はまだざわめいていた。誰かが誰かを責め、誰かが誰かを宥めている。数日前と、声の質が違う。他人事の声ではなくなっていた。
私は、そのざわめきを背にして外へ出た。
*
高台に上がる。
自由都市が、灯りの海になって沈んでいた。
いつも通りの夜だ。市場の裏で誰かが値を叩き、酒場で誰かが笑い、路地で誰かが小銭を数えている。何ひとつ変わっていないように見える。
変わったのは、掲示板の前だった。
広場の壁には、まだあの紙が貼られている。三領と自由都市を結ぶ物流契約の、全文。私が公開を許した、あの契約書だ。数日前まで、あそこに立ち止まる者などいなかった。契約は代表が結ぶもので、市民は結果だけを受け取ればいい――それが、この街の自由だった。
今夜は、人が集まっている。指をさし、額を突き合わせ、声を荒らげている者もいる。
「読まれてるわね」
誰にともなく、私は呟いた。
*
自由とは、責任を引き受けない権利だ。
ずっと、そう思っていた。だからこの街は栄えた。誰も誰かの分まで背負わない。回る者だけが回り、回らない者は淘汰される。それを楽園と呼んで、私は代表の椅子に座ってきた。
あの男が来るまでは。
「見えない責任は、いつか誰かを潰す」
アルト・レインハルトは、そう言った。淡々と。声を荒らげもせず、脅しもせず、ただ事実を置くように。
私は言い返した。見える責任は、今すぐ誰かを潰すわ、と。契約を全部公開すれば、この街は責任の押しつけ合いで割れる。そう分かっていて、それでも私は公開を選んだ。
自由都市は、自由だから。
――ほんとうは、それだけではなかった気がする。
*
あの男は、剣を抜かなかった。
辺境で帝都の命令を無力化したときも、隣の領を巻き込んで制度圏を作りあげたときも、彼は誰も縛らなかった。ただ、仕組みを一枚めくって、皆の前に置いてみせる。あとは勝手に、人が動きだす。
制度で世界を殴る男。
私が付けた渾名だ。悪くない渾名だと思う。殴られた側が、痛みで目を覚ますのだから。
そして今夜、この街は自分で決めた。損害補償基金を作る、と。自由を、ほんの少しだけ重くする、と。誰かに命じられたのではない。掲示板の前で額を突き合わせた市民が、自分たちで引き受けた。
私は、間違っていたのだと思う。
自由は、責任を取らない権利だと思っていた。
――違った。責任を、選ばないだけだった。選ばないことも、ひとつの選択だと、気づかずにいただけ。
*
背後で、砂を踏む音がした。
振り向かなくても分かる。護衛でもない、契約執行官でもない。足音に、遠慮というものがない男。
「後悔しているのか」
アルトが、少し離れて立っていた。街を見下ろす目は、私と同じ方を向いている。
「してないわ」
私は笑った。
「自由が減ったのに?」
「減ってないもの。重くなっただけ。……あなたが言ったのよ。責任は、見えたほうがいいって」
彼は答えなかった。肯定も否定もしない。そういう男だ。
「ねえ」
私は、灯りから目を離さずに言った。
「次にあなたが来るとき、この街はもっと上手くやるわ。あなたに一枚めくられる前に、自分でめくって見せる」
しばらく、沈黙があった。
「約束は?」
「しないわよ。約束するのは、自由じゃないもの」
彼が、ほんの少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれない。分からない。
「楽しみにしている」
それだけ言って、気配が離れていく。引き止めはしなかった。引き止めるのは、この街のやり方ではない。
*
一人になった高台で、私はもう一度、灯りの海を見下ろした。
街は、まだざわめいている。責任の重さに、慣れないざわめきだ。けれど、その重さを誰かに押しつける声は、もうどこにもなかった。
嫌な男ね。
声に出さずに、私は呟いた。
人を支配せずに、街を変えていく。剣も持たず、命令もせず、ただ問いをひとつ置いていくだけで。
――半分は、褒め言葉よ。
残りの半分が何なのかは、次に彼が来るまでに、自分で決めることにした。それもきっと、自由というやつなのだろう。
本編第43話の夜の、別視点でした。
派手な事件は起きません。街がひとつ、少しだけ重くなっただけの話です。
本編の続きではなく、隙間の一夜です。この先の物語は、本編でご覧いただいたとおりに進みます。




