第4話 『もう誘ってこないで』
「ごめん! 予定入ってるの忘れてた!」
……は?
当日ドタキャン……。
何の悪びれもなく平然としている凛に対し、胸の奥から黒い苛立ちがフツフツと湧き上がってくる。
だが、ここで感情を爆発させてはいけない。
……凛にだって、急な事情があるのかもしれないのだから。
俺は必死に冷静さを装い、言葉を絞り出した。
「それって、俺との予定より大事なこと?」
「それは……」
どうせ神宮寺たちから誘われて、そっちを優先したくなったのだろう。
――九年という歳月をかけて積み上げてきた関係が、高校に入って出会ったばかりのクラスメイトにあっさりと負けたのだ。
そう言われた気がして、惨めさと虚しさ、そして強烈な怒りが交錯する。
……もう、いいや。
また今度にしよう。
凛がそれを望むなら仕方がない。
そう自分に言い聞かせ、『分かった』と諦めの返事をしようとした――その時。
「名前、何だっけ? まあいいや。君は凛の何なの?」
神宮寺だ。
(……こっちが聞きてぇよ。お前こそ凛の何なんだよ)
ヤツは露骨にしかめっ面をこちらへ向けながら、当然のような顔で凛のすぐ隣へと歩み寄ってきた。
「今日は俺らで凛の誕生日を祝うことになってんだよ。君がなんなのか知らないけどさ、しつこく誘うのはやめてくんね?」
……しつこく誘う? どういうことだよ。
言われている意味が理解できず、俺はぽかんと口を開けて固まってしまった。
すると、凛が焦ったように声を上げる。
「ちょっと! 拓海くん!?」
「こういうのはさ、はっきり言わないとしつこく誘ってくるんだって。凛もさっき言ってただろ。『しつこく誘ってくる人がいる』って。こいつのことだろ?」
……え?
凛が言っていた……?
衝撃のあまり言葉を失った。
俺と過ごす時間を、そんな風に嫌がっていたなんて。
神宮寺は嘲笑うような視線を向けたまま、畳みかける。
「凛も自分の口ではっきり言った方がいいぜ。『もう誘ってこないで』ってさ」
神宮寺のその言葉を聞いた瞬間、ゾワリと全身に血の気が引くような凄まじい悪寒が走った。
うまく言語化できないが――『絶対に聞いてはいけない』と、本能が言っている。
俺の心は凛の口からその決定的な拒絶を聞く準備なんて何一つできていない。
――逃げ出したい。
今すぐこの場から消え去りたい。
けれど、金縛りにでも遭ったかのように足が床に貼り付き、指一つ動かせない。
(……聞きたくない)
俺は凛の顔を直視することができず、視線を泳がせた。
視界の端で、凛がゆっくりとこちらへ向き直るのが分かった。
そして彼女は胸の前で両手を合わせて小首をかしげる仕草で、申し訳なさそうに言い放つ。
「ごめんね。……もう誘ってこないで」
その時、俺はなぜか吸い込まれるように凛の顔を見てしまった。
……いつもの顔だ。
ドクン、と心臓が跳ね上がると同時に視界が真っ白にブレていき、足元が浮き立つような感覚に襲われる。
それからの記憶は、酷く曖昧だ。
確か……おぼつかない足取りで保健室へと逃げ込み、そのまま早退の許可をもらったはず。
家に帰り着いた俺は、制服を着替える気力すらなく自室のベッドへ倒れ込み、気絶するように意識を手放した。
◇
「……昼過ぎか。だいぶ寝ちゃってたな……」
時刻は十三時を過ぎていた。
朝一番で学校を早退した俺は、帰宅してから昼過ぎまで死んだように眠りこけていたらしい。
「はあ……」
重たい溜め息を吐き出し、胸のつかえを逃がそうと朝の記憶を静かに辿り始める。
(……凛と公園で別れて、伊藤さんと一緒に登校して……教室で……)
教室での出来事が脳裏に鮮明に蘇った途端――。
「オエッ……! うっ……!」
強烈な吐き気と、身の毛がよだつような猛烈な悪寒が突如として全身を襲った。
これまで生きてきて味わったことのない不快感が、電流となって脳から指先までを駆け巡る。
その瞬間、あの凶悪なセリフが脳内で恐ろしい呪いとなって連呼され始めた。
『もう誘ってこないで』
『もう誘ってこないで』
『もう誘ってこないで』
『もう誘ってこないで』
凛の澄んだ声が、神宮寺の嘲笑が、頭の中で何度も何度も狂ったように再生される。
それは最悪なトリガーとなり、過去のトラウマを容赦なく引きずり出した。
幼い頃、実の両親が別れ際に幼い俺へ投げつけた、あの冷酷な拒絶の言葉。
凛からの拒絶と昔のトラウマが重なり合い、悪魔の合唱のように耳元で渦を巻く。
『ごめんね……お母さん、もうあの人に疲れた』
『もうお前を息子だと思えなくなったんだ』
実の父親と母親が言い放った絶望の言葉。
そして、凛に拒絶された言葉。
『もう誘ってこないで』
『もうあの人に疲れた』
『もうお前を息子だと思えなくなった』
『もう誘ってこないで』『もう誘ってこないで』『もう誘ってこないで』——。
言葉と言葉が複雑に交差し、反響し合い、脳を直接焼き切るようにリフレインする。
「うああああああぁぁぁッ!」
頭を叩き割られるような激痛が走り、俺は両手で必死に耳を塞いでベッドの上で転がり回った。
全身がガクガクと激しく痙攣し、上手く空気を吸い込むことができない。
「はぁ……はぁ……っ、はぁ……っ!」
(なんだこれ……嫌だ、怖い)
精神を激しく削り取る苛烈なオーバーヒートに耐えきれず、視界はついに真っ暗に染まり、再び意識を失った。
……目が覚めた時、あんなに騒がしく脳内で響き渡っていた声はいつの間にか止んでいた。
フラフラと浴室へ移動すると、寝汗でぐっしょりと湿った制服のワイシャツを脱ぎ捨てて洗濯かごに放り込み、冷たいシャワーを頭から浴びた。
肌にへばりつく嫌な汗を洗い流し、リビングへ向かうと冷蔵庫の麦茶を喉へ流し込む。
そのままソファに倒れ込み、呆然と天井を見つめた。
「そういえば、伊藤さんのあの顔……」
俺の想いが伝われば、何かが変わると信じていた。
茜や伊藤さんにまで協力してもらって、必死に準備して……。
……その結果がクラス全員の前であんな惨めな晒し者になり、伊藤さんにまであんな辛そうな顔をさせて……。
「……ほんと気持ち悪いな、俺」
全部、俺の勘違いだったんだ。
凛と俺の間には、特別なものなんて最初から何もなかった。
底なしの失意に沈んでいた、その時――。
――ピンポーン。
唐突に、静まり返った家にインターホンが響き渡った。
「……誰?」
重い体を起こし、インターホンの液晶モニターに視線を向ける。
そこに映し出されていたのは――。
――夏野凛だった。
(うっ……!!)
画面に映る彼女の姿を認識した瞬間、胸を刃物で刺されたかのような激烈な発作が襲ってきた。
先ほど脳裏を支配した言葉や表情、そして親からのトラウマが凄まじい濁流となって脳内を荒らし始める。
俺は喉をヒューヒューと鳴らしながら酷い過呼吸を起こし、居留守を使うため息を殺してソファの陰に身を潜めた。
その後も、何度もしつこくインターホンが鳴らされ、玄関のドアノブがガチャガチャと音を立てる。
幸いにもドアの鍵をかけていたため中に入られることはなく、やがて彼女の気配は消えた。
はあ……。やっと行ったか。
完全に気配が消えたことを確認し、俺はその場に崩れ落ちた。
あの瞬間の冷酷な言葉と視線――ほんの少し思い出そうとするだけで、胃の奥を雑巾のように絞られる不快感と、ドロドロとした苛烈な自己嫌悪が押し寄せてくる。
まさか、幼馴染である凛の顔を見ること自体が、これほどの恐怖に変わるとは思いもしなかった。
荒い呼吸を必死に整えながら、壁の時計に目をやる。
「……そろそろ茜が帰って来る時間だな」
茜にだけは、絶対に余計な心配をかけたくない。
だが、いまの俺はあまりにも脆すぎる。
ほんの些細なきっかけ一つで、またあの地獄のような発作を引き起こしかねない。
今日は茜と顔を合わせないよう、自室に引きこもって過ごそう。
夕飯を喉に通せるような精神状態でもないから、丁度いい。
俺は自室へと戻った。
明日の準備をしようと鞄のチャックを開けると、渡せなかった凛へのプレゼントが嫌でも視界に入る。
サテン調のリボンで飾られた、お洒落で綺麗な化粧箱。
今朝、家を出る瞬間までは俺の胸を弾ませてくれていた希望の象徴。
それが今となっては、自分の愚かさと惨めさを冷酷に突きつける存在となっていた。
今すぐにでもゴミ箱に投げ捨ててしまいたかったが、これは伊藤さんのお母さんが心を込めて作ってくれた作品だ。
そんな無礼な真似ができるはずもない。
俺はその化粧箱を、見えないようにクローゼットの暗闇の奥深くへと押し込んだ。
そのままベッドへと倒れ込み、突っ伏したまま思考を停止させて天井のシミをぼんやりと追う。
——ブッブーッ。
シーツ越しに頬へ伝わるダイレクトな振動に、ハッと正気に戻る。
シーツの上に転がしていたスマホの通知音だった。
(……ん?)
手を伸ばしてスマホを拾い上げ、画面を点灯させる。
画面には、凛からの大量のメッセージと着信履歴がズラリと並んでいた。
そして、伊藤さんからのメッセージも届いている。
俺は恐ろしくなり、躊躇なく凛のアカウントをブロックしてこれまでのトーク履歴もすべて削除した。
……あの恐怖の発作を防ぐための自衛だ。
今の俺には、彼女を連想させる一切の要素を遮断する必要があった。
続いて、伊藤さんからのメッセージを開く。
『左条くん、大丈夫……?』
あんな惨めな醜態を晒した俺のことを、彼女はまだ心配してくれているのか。
画面をタップし、震える指で不器用に応答を入力して送信する。
『大丈夫、心配してくれてありがとう』
……明日から、どうすればいいんだろう。
学校、行きたくないな。
「あー、もう何もかもが嫌になる……」
時刻はまだ十八時を回ったところで、眠るには早すぎる時間だ。
けれど、魂まで擦り減った俺は、『このまま二度と目を覚まさなければいいのに』という呪いのような言葉を胸の奥で吐き捨てながら、重い瞼を閉じたのだった。
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