第30話 凛の手を引く神宮寺【※前書きに大事なお知らせを記載しています】
諸事情によりしばらく休載します。
11月の後半から復帰するので待っていただけると幸いです。
翌朝。
教室の扉を開けた瞬間、俺は異様な空気を感じ取った。
いつもなら、朝の教室には他愛のない雑談や笑い声が飛び交っている。友人同士で昨日の出来事を話したり、眠そうに机へ突っ伏したり、登校してきたばかりの生徒たちがそれぞれの時間を過ごしているはずだった。
けれど、今日は違った。
教室のあちこちで人が集まり、何やら小声で話している。普段よりも明らかにざわついていて、誰もが何かを気にするように同じ方向へ視線を向けていた。
その視線の先にいたのは――。
「凛?」
俺は思わず足を止めた。
凛は自分の席で俯いたまま呆然と立ちすくんでいた。
肩まで伸びた髪が頬にかかり、表情はよく見えない。
けれど、その背中はいつもよりずっと小さく見えた。
そして、凛の机の上には……。
「え……」
思わず声が漏れる。
そこに置かれていたのは……一つの財布だった。
いや、正確には財布だったもの、と言った方がいいのかもしれない。
表面の革はあちこち切り裂かれ、縫い目はほつれ、小銭入れの部分も無残に破られている。カードを入れる部分も引き裂かれ、内側の布地がむき出しになっていた。
見覚えがある。
――あれは、凛の財布だ。
以前、凛が親からもらったものだと嬉しそうに話していたことがある。
長い間使い続けているらしく少し傷んだ部分もあったけれど、それでも大切に扱っていた。
俺はそのことを覚えている。
だからこそ、目の前の光景がすぐには理解できなかった。
胸の奥が、嫌な音を立てた気がする。
隣にいた茉莉も、言葉を失っていた。
普段なら何が起きても冷静に状況を見極めようとする茉莉が、目を見開いたまま凛の机を見つめている。その隣の伊藤さんも同じだ。
「何だよあれ……」
俺は近くにいたクラスメイトに声をかけた。
「え? ああ、あれは……」
そいつは、気まずそうに凛の方へ視線を向けて口を開く。
「朝、教室に来たら机の上に置いてあったらしいんだよ。最初は何かと思ったけど、夏野の財布だったみたいで……」
「机の上に?」
「そう。誰が置いたのかは分からないけど……」
俺はもう一度、凛の机に目を向ける。
……昨日、凛は下駄箱で落書きされたスリッパを見つめていた。
あの時も肩を震わせながら俺の助けを拒んでいた。
そして今日はこれだ。
財布がいつ盗まれたのかは分からない。
昨日のうちに鞄から抜き取られていたのかもしれないし、もっと前からかもしれない。
少なくとも誰かが凛の大切なものを奪い、こんな姿にして……わざわざ机の上に置いたという事実だけがそこにあった。
「……っ!」
ぎゅっと拳に力が入る。
いったい何を考えてるんだ……。
なぜここまでする必要があるのか、俺には全く理解できない。
頭の中でぐるぐると怒りが渦巻く間にも、教室のざわめきは収まらない。
「さすがにやりすぎじゃない?」
「自分で招いたことなんじゃ……」
「いやでも、これはちょっと……」
同情とも非難ともつかない声が、あちこちから聞こえてくる。
同情とも非難ともつかない無責任な声が、あちこちから聞こえてくる。
誰もがこの悲惨な光景に目を見張っていた。
だけど、誰も凛に声をかけようとはしない。
……そのざわめきの中心で、凛はただポツンと俯いていた。
顔を上げることも、誰かに助けを求めることもない。
机の上に置かれた財布をじっと見つめているのか、それとも意識をどこか遠くに飛ばしているのか。
今の凛が何を考えているのか、俺には分からなかった。
「……凛さん」
葉月が一歩踏み出そうとする。
しかしあまりに痛々しい凛の様子を見て、思わず足を止めてしまう。
隣にいる茉莉も唇をぎゅっと結び、ただ凛の方を見つめている。
二人とも、今の凛になんて声をかければいいのか分からないのだろう。
それは俺だって同じだった。
いったい何を言えばいい?
『大丈夫か?』なんて、そんな白々しいことを聞けばいいのか?
『誰がやったんだ』と、怒りに任せて問い詰めればいいのか?
どんな言葉をかけたって、今の凛の心には届くはずがない。
その時だった。
凛がゆっくりと俯いたまま手を伸ばす。
机の上にある財布を、両手でそっと持ち上げた。
……切り裂かれた革の部分に触れた指先が、小さく震えている。
凛は何も言わず、ただ無残に切り裂かれた財布をじっと眺めている。
それから、静かに鞄を開けて財布を中に押し込む。
まるで、これ以上誰にも見られたくないとでもいうように。
「……夏野さん?」
誰かが遠慮がちに声をかけるが、凛はぴくりとも反応しない。
ガタッと椅子を引く音が、静まり返った教室に重く響いた。
凛は鞄を手に取ると、そのまま立ち上がる。
そして、教室の出口に向かって静かに歩き出した。
今にも壊れて消えてしまいそうな脆い背中だ。
「待って」
その声と同時に、凛の手を一人の男が掴んだ。
「大丈夫?」
――神宮寺だ。
いつの間に近づいたのか、心配そうな顔をして凛の手を握りしめる。
「こんな……つらいよな」
落ち着いたトーンのどこまでも優しい声だった。
神宮寺は凛の顔を覗き込むようにして、さらに言葉を重ねる。
「とりあえず、一回ここから離れよう。俺が話を聞くから」
凛は俯いたまま、何も答えない。
それでも神宮寺は、掴んだ手を離そうとしなかった。
「ほら、行こう」
そう言って、神宮寺は優しく凛の手を引っ張る。
凛は抗うこともなく、連れられるまま足を進めた。
二人の後ろ姿が、廊下の奥へと小さくなっていく。
(うそだろ……まじかよ)
俺は去っていくその背中をただ見つめながら、あることを考えていた。
このまま行かせたくはない。
でも凛は俺の手を拒む……。
――これは、俺が行ってもいいやつなのか?
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