雑記
そろそろ、誰かが用意した居場所を求めるのではなく、自分で自分が必要な居場所を作るような年齢になってきたように思う。
ただ生きるだけであれば、それほど難しくない時代。ただ「まともに生きる」ことはひどく難しいし、それができたところで、その対価が十分とはとうてい思えない。
だから、まともじゃない生き方しかできない人間として、ある程度穏やかでいられるような居場所をずっと必要としていた。でもそれは、どこにもなかった。
作ろう。多分、僕にはその力がある。
僕は優しい人間ではないし、そうなりたいとも思っていない。優しさが僕を救い出したことはないからだ。
必要なのは優しさじゃない。むしろ、時には残酷さが必要だと思う。というか、残酷さの方がずっと優しさよりも必要だと思う。
ただ僕の言う残酷さというのは、暴力ではなく、あくまで言葉と知性の話だ。
ひどいことをしたり抑圧したりするのと、ただ遠くから言葉を並べるのでは全く話が違う。人はそれを「同じこと」にしようとするが、実際には全然違う。
確かに口はわざわいの元ではある。発言には気を配って、責任を持つように努めた方がいい。だが、暴力であったり抑圧は、そうした言葉によるものよりはるかに影響が強く、容易に人が死ぬ。
この世界は暴力と抑圧を中心にして回転している。
もっと美しい世界が好きだ。そういう世界を共有したい。
自分一人の殻にこもるくらいなら、限られた人間だけしか所属できないコミュニティを作った方がましだとは思う。
でも、と思う。自分がどんなコミュニティを作ったとしても、そこにいるメンバーをふと眺めた時に、吐き気を覚えてひとりきりになりたくなるだろうと。
コミュニティというのは、その長の趣味によって簡単にその成員を追放できるものではない。
自分に居場所がないことはもう十分すぎるほどわかってる。人と普通に関わることができないのも。
それができるようになるというのが今年の目標だったけれど、それは失敗に終わったと思う。
日に日に、人と関わるのが億劫になっていく。世間と自分との距離が、果てしないほど遠く感じる。
自分は人間として少しおかしい。もっとも、人間というのは種族として、少しおかしい生き物のようにも思えるけれど。
僕はきっと大人になれなかったのだろう。ずっと子供みたいな生き方を続けているから。
去勢されたオスの家猫を見ていると、自分によく似ていると思う。外の世界で、縄張り争いをしている普通のオス猫たちとは全然違う。でも、彼らの気持ちもわからないでもない。本来であれば、自分も彼らのように生きるか死ぬかの戦いをしなければならないのかもしれない、とも思う。でもそんなのは不可能で、毎日の餌には困らないのだから、適度に飼い主に甘えながら生きて、何もせずに死んでいけばいい。それ以外に道はない。それ以外の道はすべて、悲惨で不幸な道。
それは思い込みというよりも、どうしようもない現実。あぁそうだろう? お前もそう思うだろう?
人間の都合で飼われたペットたちは、彼らがどれだけ助けてと叫んでも、助ける者たちはいない。逃げ出せば、保健所に連れていかれて殺されるだけ。運よくもっといい飼い主に見つけられたとして、そこで得た幸福にどれだけの意味があるだろうか。
ペットだって苦悩する。奴隷が苦悩するように。
苦悩する権利だけは誰にも奪われないと、そういうふうに考えた者もいる。その瞬間だけ、この世のすべてのものよりも自由であり、尊厳を有していると考えた者もいる。いわゆる、考える葦というやつだ。




