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ひいきすること

 死んでしまった人々にその借りを返すことはできない。


 私たちの先祖が生き残るために殺した人や見捨てた人たちは永遠に犠牲になった。感謝される者もいれば感謝されない者もいる。

 たくさんの動物たちが私たちが生きる糧になった。必要でないのに金になるからと大量に殺されて絶滅したものたちもいる。しかし、それを狩って売っていた人々の生活にとって、それが本当に必要でなかったと決めつけるのは短絡的ではあるまいか。

 いずれにせよ、私たちは生きるために多くのものたちを犠牲にしてきた。過去は変えられない。これから生まれる子供たちも、「生まれてくるのに必要であった過程」を振り返るのであれば、みな同じ「最低限度の罪」を抱えて生まれてくる。

 それを理不尽だというのは、むしろ因果や罪、責任というものに対する無感覚性がゆえなのではないかとも思うが、無感覚性は現代においてはむしろ長所なのではないかと皮肉抜きに私は思う。


 自分のために誰かを犠牲にすることは、別に何も無条件で悪いことではないし、必ずしも避けなくてはならないことではない。

 でもその事実が、誰かを助けても意味がないということを意味はしない。

 助けるというのは、言い換えれば選別である。人ひとりが助けられる人数には限りがあり、すべての行動には、その捨てられた無数の選択肢がある。

 誰かを助けるというのは、誰かを助けないと選択すること、ではない。あくまで、無数の助けられない人々の中から、何人かを選んで引っ張り上げる、というのがイメージとしては正しい。人を助けるというのはひいきをするというのとほぼ同義だ。

 だから、ひいきというものを悪いものだと考えることは、それ自体が生きること自体を否定することに近くなってしまう。

 平等と公平は異なる。公平は、人々を統べる立場や裁く立場の者たちにとっての美徳であり、普通に生きる人々にとっては危険な特徴である。平等は、幻覚性の猛毒であり、できれば今すぐにでも忘れ去ってしまった方がいい概念である。この世に平等などないし、あってはならない。

 真に平等な世界とは、ひいきが許されない世界を意味する。それすなわち、誰を助けることもできない世界であり、誰も助けてもらえない世界である。私は、全員が幸福な世界で暮らすよりは、一部の人間しか幸せでない世界で不幸に生きるほうがいい。全員が幸福な世界では、私は誰かに特別な人間として扱ってもらえないし、私もまた誰かを特別な人間として扱うことはできないであろうから。

 そういう意味において、恋愛はこの世の真の不平等であり、その価値をもっともわかりやすく、誰にでも理解できるものである。私は恋愛というものが好きではないが、そういう側面だけで、恋愛は賛美するのに十分なものであると感じられる。

 つまるところ私が言いたいことはこうである。すべての人間が伴侶を得られる代わりに恋愛が存在しない世界で生きるくらいなら、恋愛が存在する世界で、伴侶を得られない人間として生きるほうがマシである、ということだ。

 ただ、一般的に平等が求められるのは、その手助けや好意に不平等が生じる場合ではなく、嫌悪や悪意に不平等が生じる場合である。嫌悪や悪意は生じてしまった場合、必ず対象をとる。それを抱いた人間にとっても、周囲の人間にとっても、その対象は狭い方がよく、広すぎる場合は人間嫌いに、狭すぎる場合は特定の人間に対する憎悪となる。中間が、人種差別であったり性差別など多種多様な不平等を生む。

 いずれにせよ、善意や好意が誰かを幸せにしたいという欲求なら、嫌悪や悪意は誰かを不幸にしたいという欲求であり、誰しもが生まれながらにして少なからず抱いているものである。

 私はこれをどうしていいかわからずいる。


 ともあれ、人間の道徳性の優劣を、その徹底性や理想性で測るのはやめた方がいい。ひいきしないことが人間の道徳性の本質だと考えることほど、人を病ませる原因にしたものはないかもしれない。

 道徳性の優劣は、明確に「ひいきするかどうか」ではなく「何をひいきするか」ということによって決定される。自分自身を常に優先し、他者をすべて下を置く人間は、道徳的に劣っていると判断される。

 自らより弱い立場のもので、かつ見込みのある者に手を差し伸べ、強い者たちに対して敬意を払いながらも対等性を得ようと向き合う姿が、道徳的に高く評価される。それが現実であり、私たちの道徳的本能である。


 ただ、ひいきされなかった側の人間のうちいくらかは、ひいきした人間を憎悪し、悪意を抱く。また、場合によってはひいきという行為それ自体を憎悪することもあり、それが極端な平等主義を生む。

 憎悪や悪意は多くの病や諍いを生む。だとしても、私たちはこれらなしに生きたことがないし、これらなしに生きることがうまくイメージできない。生きていれば、誰かに罵声を浴びせられたり、不公平な扱いを受けたり、場合によっては理不尽な暴力を受けることもある。そうしたときに、憎悪も悪意も抱かないというのは、不自然なことであり、それ自体が間違っていることであるように感じてしまう。もちろん、努力次第で、そうしたものがないかのようにふるまうことはできるし、それが評価されるという想定によって、もっとそれを和らげることはできるだろう。

 だとしても、そのようにして生きることが正しいことなのか、楽しいことなのか、私にはわからない。むしろ、憎悪や悪意をむしろうまく使って、それが人々の好意や善意を引き出せれば、その方がずっといいのではないかとさえ思う。


 憎悪や悪意は、得られたかもしれない利益や幸福、他者の好意や善意によって生じるものである、ということは忘れないようにしよう。憎悪や悪意に囚われている人間に必要なのは、説教ではなく埋め合わせである。


 それにしても、世界はつまらないと思う。人間が、そういう生を何世代にもわたり繰り返してきたことはもうすでに事実であると考えていいと思う。それが人間の経済や技術を進歩させてきた。学問や、思想を深めてもきた。

 しかしそれだけだ。人間そのものは何も変わっていない。私はそれが悲しい。


 ひいきすること、それも上手にひいきすることは、人間の素晴らしい長所のひとつだ。それを否定するつもりはない。それは、すでにもっている財産としてうまく生かすべきだ。

 だが、それだけではこの時代を生きるのには十分ではない。私はそう感じている。生きることは、ただ誰かを助けたり、助けることで自らの立場をより強固にすることであったりするためだけのものであるべきでない。

 もっと何か大きなもののために。もっと何か、価値のあるもののために生きていたいと思う。

 それが何なのかは私にはまだわからない。


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