六月二日の日記
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センチメンタリズムには通常、生産性がない。そのため、馬鹿にされたり、場合によっては禁じられたりする場合もある。
しかし、怒りや攻撃性が同じように生産性をそれ自体が持たないにもかかわらず、それが決して世の中からなくならず、また、それを中心にして動くものごとがあまりに多いのと同じように、センチメンタリズムも、人間の行動原理を根本から司るもののひとつであり、どうあがいても背を向けて生きるのは難しいものであるように思う。
怒りや攻撃性は、活動性に結びつき、人を成功に導くことがある。現代ではよく聞く言説であり、おそらくある程度の正しさを含んでいる。
それに対してセンチメンタリズムや憂鬱性は、あまり論理的に肯定されることがない。ただ、その必要もないほどに、人々はそういった感覚や感情を信頼し、その中で生きているようにも感じられる。人が死んで悲しむことや、ものごとがうまくいかなくて落ち込むことそれ自体を否定するような人間は、それだけで「人の心がわからない」と、他者からの評判が落ちる程である。
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喉が渇く前に、あらかじめ用意した机の上のコップを手でもって、水を一口、二口と飲む。この活動は、果たして「生きるため」のものなのだろうか。それとも贅沢なのだろうか。
渇く前に、満たす。おそらく、渇いてから満たした方が、より大きな快感が得られることだろう。それを自らコントロールして得ることも、今の自分であれば可能であろう。
肉体にとってはどうであろうか。それは専門家に聞いてみないと分からない……と言いたいところだが、専門家もはっきりとした答えを出すことは難しいのではないかと思う。ただ、ひとついえるのは、多くの場合で「どちらであってもそれほど大きくは変わらない」ということだ。
体に影響が出る程渇くのは問題であろうが、そこまで自分でコントロールできる人間は多くないし、そこまでコントロールできるほど卓越した精神の持ち主なら、その活動の目的がただの「快楽の追求」なら、その無意味さを悟り、行う判断は避けるだろうと思う。
渇く前に、満たす。私たちは欲望をそのようにしてコントロールしてきた。渇いている人々の気持ちはわからない。きっと、それを体験したとしても、わからないままだろうと思う。
豊かな暮らしをしてきた人間は、貧しい暮らししか知らない人間の気持ちを、想像力で補完すること以外に方法はない。また、貧しい暮らししか知らない人間が、豊かな暮らしをどれだけ体験しても、生まれながら、貧しい暮らしをしたことのない人間の生き方やその感情を、己のものとして感じることは、同じように難しいのではないかとも思う。
一度経験したというだけでは、それ以外の経験を知らない人間のことを知ることはできない。それは、どうしようもない人と人との間の心理的な断絶の根本的な要因であろうと思う。
私たちはみな、私たち自身の中でしか生きられない。貧弱な想像力は、それでも他者と繋がるために、健気な努力を続けている。
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他者やフィクションに共感し、自然と痛みを感じたり涙を流したりするとき、自分の体験を思い出してそうしているのではなく、むしろ反射的にそうなっているように感じる。特定の、複雑な情報に反応している、というのがしっくりくる。
おそらく切なさと共感は、相性がよく、もしかすれば、互いに増幅し合う関係にあるのかもしれない。
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論理や理性それ自体に退屈を覚える。時に、互いに歩み寄る対話それ自体が嫌いになる。
自分は歩み寄らず、一方的に話し、相手は自分を理解するために最大限の努力を行う。そういうコミュニケーションがとりたくなる時がある。
たいていの場合、人間とのコミュニケーションは、その逆になってしまうから。
私は人から理解されがたい人間だと思う。それは、簡単に理解されるような人間でありたくないという気持ちと行動原理の結果でもありそうだと思っている。
意味もなく私は私を複雑な存在にしてしまったのかもしれない、と思うこともある。それを支持する証拠もいくらかある。
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人生に、世界に、何を求めるか。私はまだそれを見つけられていない。
どんな世界になってほしいのか。どんな人間に生きていてほしいのか。
自分はどのような人間になりたいのか。どのような出来事に遭遇したいのか。どのような目的のために努力をし、どのような障害の前で挫折をしたいのか。
欲求を持っていないのではなく、欲求の対象が不在なのだ。それを見つけたいと思っている。
自分が心の底からそれを信じ、自らのすべてを投げ出せるような。
もしそれが見つからなかったのなら、きっと私は自らを投げ出さないまま、中途半端に生き、中途半端に死ぬことだろう。それもまたひとつの人生だと思う。それがよいか悪いかは、それすら私にはまだ決定できない。
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心臓に突き刺さった折れた茎が血を吸って美しい花を咲かせた
その色はとても綺麗な紅色だった
生きることは苦しみなんだと
受け入れるしかないじゃないと
泣きながら笑ったのは本当に君だったのかな
わざわざ桜が散っていくのを眺めに行く人々
今年も見事だと言って
来年も来ようと言って
彼らもまた散り行く桜のように思って
愛しく思えたのならどれほどよかったか
人はまるで泥のようで
食事にたかる蝿のようで
たとえその生が儚くとも
決して潰えることのないしぶとさでしがみつき
その生を無数に連ねていく
私もまた人であるというのに
なぜ私だけが儚さとともに生きているというのだろうか
なぜ私や私の愛する人々だけが
散り行く桜のように美しくあると言えるのだろうか
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ひび割れた道路。コンクリートの破片。
目的の感情に辿り着くための詩。音楽。
世界はおそらくそれほど美しくはない。
抽象化されたものだけが美しいというのなら抽象化するための材料たる具体物と抽象化の主体たる人間にそれぞれに配分される美しさの原因はどの程度なのだろうか。
人に喩えられない景観にどれほどの意味があろうか。
すべてが人の心を動かすためだけにしか存在しないというのなら、私たちの心を意図的に操作し、心地よい感情だけを残して生きていくことができたとして、そのとき世界の価値はどうなってしまうのだろうか。
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私にとって生きる価値とは、「私が生きる価値」ではなく「この世界は、精神的存在が生きるに値するか?」という問いである。
必死になって働く人々が「生きるために働いていれば、生きる価値などどうでもよくなる」と言うのは正しいが、それは言い換えれば「精神的な存在であることをやめれば、生きる意味を問う必要はなくなる」と言っているのに等しく、それは私の問いに対しての答えになっていない。
もっと別の言い方をすれば「生きる意味や価値を問う人間は、この世界に存在していた方がいいのだろうか」という問いである。おそらく、精神的な価値それ自体を認めない人々は、自信をもって「ない」あるいは「時には役立つかもしれないのである」と答えることだろう。
私が「心」というとき、そこに含まれるものは、感情と理性と、その他多くの様々な持続するはたらきのことである。
精神とは、その中でも複雑で、その機能がよくわからないものたちである。また、心そのものを主題とし、思考し、時にそれゆえに破滅する存在である。
私はいつも、私が精神的であることに、どれだけの意味があるだろうかと問うている。
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