2025年になってから一か月がたちました
想像力が乏しい。
今に始まったことではないけれど。
とっかかりがないのではなく、中身を持たせることができない。
何もない場所に道を引いても、すぐに壁にぶつかってしまう。その壁を無理やりどかせても、その道を、飾り付けることができない。
代り映えのしない、どこにでもあるような、細くて古い道しかできない。
それを自分の道だと言い切るには、あまりに人為的に舗装された道だ。
オリジナリティが欲しかったわけじゃない。別に似たり寄ったりでも、面白かったり、素敵だと思えていたらそれでよかった。昔はそうだったような気もする。
たとえどこかで見たようなシナリオでも、それは楽しくて、面白いものだった。だから道がどんどん生まれていった。壁をどかすのでも壊すのでもなく、穴を開けたり、遠回りしたり、色々なやり方があったし、どのやり方でもそこに必然性があるように感じられた。いや、必然性すら、必要としていなかった。
別の言い方をすれば、なんでもよかったのだ。
どんなものでも、よいものであるような気がしていたから。
それが誤解だったのか、それともそれが真実で、今の僕がその真実を失ってしまっただけなのか、定かではない。いずれにしろ、僕の現状は悲惨だ。
書くべきものがないという事態。その事態よりも具合が悪いのは、書くべきものがなければいけないという無意識的な思い込みであろうと思う。
書くべきとか書くべきでないとか、それ自体がおそらくは全然どうでもいいことなのに。そういう考えを持ってしまう、必要としてしまうことそれ自体が、僕の思考と手が衰えている証なのではないかと考えてしまう。
まぁそれはそれで構わないとも思うのだが。
要は、何も面白くないのだ。
あるいは、面白いと感じても、同時にくだらないとも思っているのだ。
そのうえ、興が乗ってくだらないことに力を注いで、それなりのものを作っても、そこで恥という感情が出てきて、それが何度も何度も関係のないタイミングで僕の心を揺さぶる。そしてその成果を全部なかったことにしてしまう。
何度それをやってきたことだろう。でもそれ以外にしようがなかったことを知っている。僕は自らの……変態性のようなものを誇ることはできない。
開き直り切れない。そういうキャラクターとして生きることができない。
もともと不安感が強い性格なのだ。その割に変なことをしたがる。変なことをして、その結果どうなるのか知りたくなってしまう。それを知った後は、なかったことにしたくなるし、実際になかったことでにできるのなら、そうしてしまう。
あぁ。僕はきっと一生そういうことを繰り返すのだろうな。不毛な人生だ。
九割以上の人が感じているような、世間や社会の世知辛さを経験せず生きてきて、おそらくは死ぬまで、経験しないであろうと思っている。
なぜそうなのかは、わからない。人は、いつもうざったいほどに苦労話をするし、人生の難しさについて語りたがる。どうしようもない不幸や不運、病気の話や事故の話をする。仕事の話や、逃げられない人間関係、悪意ある人の自業自得な末路。そういう話は嫌というほど聞いてきた。それを避けて生きてきたわけではない。ただ、僕はなぜか、そういうものに遭遇せずに生きてきた。一切。
僕は自分の財産について真剣に悩んだことがない。稼ぎもそうだ。仕事も将来も恋愛も結婚も、自分事として真剣に悩んだり、選択したことがないし、この先もないだろうと思っている。そのつもりがないのだ。
別の人に任せているわけではなく、ただ、他の人の仕事や将来や恋愛や結婚の道筋に付随する要素として、自分がただ存在するだけ。
いうなれば、僕はどこにでもいる愛玩動物の一種のような生き方をしているのだ。飼われている犬や猫が考えるべきことは、自分の周囲の人間たちからいかに気に入られ、餌を多くもらえるか、遊んでもらえるかということだろう。もちろん他のペットたちとの関係も重要だが、飼い主たちが何を考え、何をして生きているかは完全に他人事なのだ。もちろん、自分の運命は確かにそれによって変わっていくのだが、でもそれは自分の人生を自分でコントロールしているつもりになっている場合だってそう変わりはしないのだ。雇われているのであれば、その会社の業績によって自分の状況は変わるし、何か商売をやっているにしても、社会の情勢で大きく自分の運命は変化する。すべてをコントロールすることはできない。ただ、変動する状況の中で、自分にとっての最善を選択し続けるだけ。
自分の人生を価値のないものとして認識し、いや、価値のないものとして選択したときから、僕の人生はつまらないものになったし、そうあるべしと定めたのだ。
人に共感することはできても、人から共感されることはない。共感を求めることもない。僕の人生は、共有されるものではないし、共有されたからといって何かが増えるわけでも減るわけでもない。
だから本来、こんなことは文章にすべきことではないのかもしれない。
ではなぜ書くのか。わからないけれど、それが楽しくて、自然なことなのだ。
こんなつまらなくて、何にもならないような文章を、ずっと書き続けている。誰にあてるのでもなく、自分自身に向けてでもなく、ただきっと、文章にしなければ、頭の中で繰り返されることもおそらくはないであろう内容について、ここに示し続ける。
そう。書かなければ、生まれない思考がある。僕はきっと、その思考を楽しみたいがためだけに、書いているのだ。
まるで、楽しく考えるためだけに散歩するように。
僕にとって文章は作品でもなければ、商品でもない。じゃあこれはなんなのだ。
きっと、さび付いたコンロみたいなものなのだろう。これ自体には何の意味もない。もっと別のものの媒体。
たとえば、授業中に取ったノートやメモみたいな。それ自体には意味がなく、それをとったり、見返したりするというプロセスのために存在している。
悲しい話だが、そのプロセスはおそらく、他の人のためにはまったくなっていないし、自分のためになっているかと問われても、それもかなり怪しい。
ただゴミだけが残って、積もっていく。
しかし、こう言ってはなんだが、作品だろうが商品だろうが、一部のきわめて優れたもの以外は、すべて潜在的にはゴミだ。ただ彼らの方が制限が多く、真剣にやっていて、その対価として価値のあるもの、つまり金や人気といったものを手に入れている。
ごくごく自然で正当なことだ。僕には真似できないことだし、すべきでないことだ。
僕は無能なのだから。無能なまま生きていくべきだ。そこで見返してやりたいとか、自分の能力を証明したいとか、そういうことを考える時期はとうに過ぎている。
嫌というほどやった。もう十分だ。
僕の人生があと60年も続くとして、その間ずっと僕がこのまま孤独であるとして。
十年前なら、僕はそれに、絶望していたことだろう。不思議な話だ。僕は十年間、絶望し続けていたのに、今の僕は絶望していない。
その絶望が平時の基準になって、苦しくなくなった。悲しくもなくなった。落ちていくことがなくなって。ただそこでぼんやりと現実を見つめられるようになった。受け入れて、選択できるようになった。
孤独であることを選択したのではなく、孤独であることは確定された状況であるとして、その孤独の中に存在する非常に狭いいくつかの選択肢を眺めて、よりよい方を選べるようになった。
まるで奴隷が、奴隷である状況を受け入れて、奴隷たちの中でよい待遇を受けられるよう努力し始めるような、ある意味では健気な状況の受け入れを行いながら、客観的に世間や社会といったものを俯瞰して眺めて、自分の位置を知ることができているというのは、なかなか奇妙な話だ。一奴隷が、社交界の人間関係に精通しているかのような不自然さだ。
もし自然であることが正しいことなら、僕は痴呆であるべきなのだけれど。
役立たずとして生きるということはどういうことなのだろうか。
不思議なことに、僕が読んできた小説の中には、たびたび、僕によく似た人物が出てくる。わざわざ名前を列挙はしないが、ある小説では、非常に優れた能力を持っているのに、部屋にこもって金属いじりをしている人物が出てきた。彼は結局ごみを作り続け、それが物語によい影響を与えることは一度もなく、法事の時だけ仕方なく役目を果たすだけの人物だった。また別の人物は、かつて非常に大きな仕事を任されていたが、ひとつの致命的な失敗をきっかけに隠居し、誰にも迷惑をかけないと誓って、静かに畑を耕して過ごしていた。そのことを、周りの人間はもったいないといったが、全く聞く耳を持たず、ただ親戚の娘をかわいがってたまに料理をふるまうこと以外に意味のあることは全く何もせずに死んだ。
人生を何か価値のあるものにしようとするのは、あまりに難しいし、その席は非常に少なく、奪い合いになる。そのうえ、奪ったその席が、当たりであるという保証はどこにもなく、死ぬまでそこが外れだったことに気が付かないこともある。場合によってはそれが大外れで、その人生が周囲の皆にとってトータルでマイナスになってしまうことだってありうるのだ。
それなのに、多くの人間がそういった破滅と隣り合わせで生きることを選択しているのは、人類がそうした多くの人間の破滅を糧に発展してきたからなのだろうと思う。これからもきっとそうだ。
僕には関係がないと思いたいけれど、どうしようもなく関係してしまっている事柄だ。
僕は何も知らないではいられないから。何もできないくせに、知ることについてだけは、十分な能力を持って生まれてしまったから。
知ることは、何かできる能力を持っている人間だけができていればいいのに、実際のところ、行動することはできてもものごとを十分に認識できない人や、僕のように、認識能力は十分でも、まったく行動することができない人間もいる。両方できる人間は、ある意味では完成された人間であると言えるが、両方できない人間もまた、負けず劣らず完成された人間、いや、動物であろうと思う。
完成された人間になれないのなら、完成された動物である方がずっといい。僕はそう思っていたが、できてしまうことをできないようにすることは、おそらくできないことをできるようにするよりも難しいことのように思う。少なくとも、若いうちは。
何もせずに一日中ずっと座って日向ぼっこすることが、若者には肉体労働よりも苦しいことと感じるように。
老いていけばいずれ逆転する。しかしそれは活動においてのみで、知るという知的活動については、相対的に、老いても衰えるところは少ない。
だから僕は、健康であれば、あと六十年は苦しみ続けるのだ。
一年前は、七十歳そこらまでしか生きる勇気がわかなかった。五十年が限界だった。
でも僕は今、自然と九十近くまで生きる覚悟ができている。あと六十年、耐えることができそうだと思っている。
偶然十年や二十年で死ねれば御の字だが、僕は知っている。こういう人間は、そう簡単には死なないものなのだ。それにきっと、死にそうになれば必死になって生きようとする。それが生命に対する礼儀であり、義務なのだ。
そう。僕は学んだ。生きることは、礼儀であり、義務なのだ。生きとし生きるものたちへの。いや、それ以外の、生きていないものたちに対してもそうだ。
生きているのなら、生き続けなくてはならない。転がりつづける石が、急にピタッと止まることが、それだけで全体の状況を悪くするように、その生物がどんなものであれ、呼吸をしているのなら、その呼吸を続けなくてはならない。それがどんなに残酷で悲しいことでも、その残酷さと悲しさこそが、生命の絶対的な規範であり、超えてはならない境界なのだ。
自殺は罪ではない。一個の選択である。死んだものは死に続けるしかなく、蘇ってはならない。死のうとすることもまた、生命の在り方のひとつとして認められることで、それに対しても、礼を尽くさねばなるまい。現代において、それが十分になされていないのは不満だが、近い将来それらはもっと尊重されることになるだろう。
悲惨な状況になって、どうしようもなくなって、それでも明るく健康的に生きる人間の物語が書きたいけれど、きっと僕には書けないだろうと思う。
そういった経験がないから。
いずれ年老いて、そういう経験ができていたならば、きっと書くだろうと思う。生きることは、残酷で悲しいことでなくてはならない。苦痛と笑顔で満ちたものでなくてはならない。
いつか人を祝福するときに「あなたの人生が悩みのない幸福で満ち足りたものになりますように」ではなく「あなたの人生が、苦痛と後悔と欠乏に満ちた、実りあるものになりますように」と言えるように。
僕は多分、ある意味において、ひとつの人生を完成することができるのではないかと思っている。
逆に言えば、僕は生涯で、それ以外のことは一切できないのではないかとも思っている。
だからそれ以外のことは、どんどん望まなくなっていくのではないか、とも。




