悲しさ寂しさ穏やかさ
夜の昼寝、というと矛盾しているように聞こえるかもしれない。
活動時間の一時的な睡眠という意味で昼寝を捉えていただくと、この言葉は、普通の人間と活動時間がずれている人間にとってはそれほど不可能なものではなくなる。
いわゆる通常の社会生活を送っている人間の平均的な起床時間が六時だとしたとき、私の生活はだいたい約六時間ずれているため、夜中の11時くらいから、数十分~2時間ほど眠る場合、それは昼寝というよりも夕寝に近いかもしれない。現代では一般的に、夕方に眠るのは健康を損ねるとされているが、私はこの根拠に乏しい俗説に対して懐疑的である。
ともあれ、今晩の昼寝では、珍しく穏やかな夢を見た。その夢は、意識が現実世界に戻った後も継続し、ベッドの中でぼんやりとしながら、頭の中で深いリバーブのかかった重低音のハーモニーが鳴り響いていた。スマートフォンが鳴らしているのではないかと思ったが、後で確かめたが、そうではなかったようだ。
悲しさ、寂しさ、穏やかさ。この三つの感覚が、僕の中でぐるぐるとまわり、調和のとれた状態で、維持されていた。この三つの概念が、どれほど密接に繋がり、相性がよく、正しい状態で配置されうるのか、ということを僕は初めて知り、納得すると同時に、この世界の神秘の一端を垣間見たように思えた。
この世界の騒音から離れて。深い海の底のくぼみに横たわって。
僕らはいずれそこに還る。そう確信した。
飽くことも、倦むこともない。そこにあるのは、穏やかな悲しさと寂しさ。それが永遠であることに、悩むことも、傷つくことも、苦しむこともない。
ただあるのは、悲しさ、寂しさ、穏やかさ、だけ。
僕はこの感覚を、実は一度だけ経験したことがあった。自殺未遂をしたとき、固い地面の上で、僕はこの感覚を覚えたのだった。
悲しさ、寂しさ、穏やかさ。きっと死ぬ瞬間も、こんな気持ちなのだろうなと、僕は布団の中で思った。
人生に意味はない。この世界にも。それでいい。
それでも、僕は生きると決めた。たとえ意味も価値もなくても、僕にはやらなくちゃいけないことがある。そして僕がやったことが、どんな意味や価値を持つかは、僕が決めることではなく、当然僕にわかることでもない。
だからそんなことはどうでもいいんだ。どうでもいいけれど、この世界においてもっとも確かなものは、存在と行動であり、僕にはそれがある。
この世界にそれ以上のものはない。
頭が完全に覚醒し、再びノイズに満ちた世界で生きることを決めてから、僕はただ、心の向かうままに、自分が睡眠しただいたいの時間を、pcの履歴から見て取り、その後、現代の筆、すなわちキーボードを膝の上において、キーを叩き始めたのだ。




