自殺橋
明るい音楽が頭の中で流れてる。多分、何年か前の甲子園のテーマソングだ。
あの時とは違う。あの時は、衝動的な行動だった。今そうしなくてはいけないという、強迫観念に近い意志を、自ら望んで維持した結果だった。
心は落ち着いている。心臓の音は早いけれど、頭は冷静だ。
別に、今じゃなくたっていい。でも、今であったっていい。とりあえず、橋の上まで行こう。ゆっくり、自分のペースで。
あの時は、靴を脱いで、裸足で駆けていった。橋の上で躊躇してしまわないように、すぐに助走をつけて、飛び込んだ。
あの時本当に怖かったのは、死ぬことよりも、死ぬことが怖くて、自殺すらできない自分として生き続けることだった。もしそうなっていたら、僕は多分、自分でいることすらできなかっただろうから。
死にたい。そう。僕は死にたいんだ。心の底から。
気持ちは、あの時とあまり変わらない。僕は、自由になりたい。この、暗い夜空をどこまでも飛んでいければいい。そうすれば、僕の心を煩わせる一切のことを忘れられるだろうから。
もう二度と、人間としてものを考えなくてよくなるだろうから。
橋の上に到着した。唾を呑む。自殺というのは悲しすぎる、と数か月前の僕は思ったし、そう書くこともあった。その考えはいまだに変わらない。
死ぬつもりはなかった。死なない、と決めたことさえあった。でもそれを覆すことにした。
生きるのが嫌になった。疲れた、とか、寂しい、とか、そういう感情が原因じゃない。ただ、嫌いになったんだ。そしてそれが、この先二度と変わらないことが、ひとつの確信として僕に訪れたんだ。
別に死ななくちゃいけないわけじゃない。要は今、僕は皿に乗った嫌いな食べ物を、ゴミ箱に捨てようとしているだけなんだ。それを、毎日食べてきたけれど、時には好きだと自分に言い聞かせたりもしたけど、やっぱりまずかったし、不愉快だったし、胃にも悪かったんだ。
一度ゴミ箱に捨てたものをもう一度拾い上げて、また食べ始めたこともあった。その時、少しはおいしいかなって、本気で思えたのは事実なんだ。でもそれをずっと食べ続けていたら、やっぱり耐えられないように思えた。
死にたい。
そう率直に思えるようになった。深刻な表情ではなく、真顔でもなく、いつもの柔らかい笑みを浮かべたまま、嫌いな食べ物を勧められたときに「遠慮しておきますね」と笑って言うような感覚で、この人生に別れを告げられるようになった。
成長だな、と思い、橋から見下ろす。そこそこの高さだ。今度こそ死ねるだろうと確信している。前回死ななかったのは、そもそも生きても死んでもいいと思っていたからだ。今回の僕は、生き残るという未来を考えていない。これで、完全に終わりにする。
「悲しすぎるよ。そんなの」
声が聞こえてくる。いつも僕を苦しめてきたのとは、違う声色だけれど、結局同じことだ。
「そうだね」
「他に方法はないの?」
「あるかもね」
「それをもう少し探してみない?」
「誰か別の人が僕の代わりにやってくれたらね。僕はもう疲れたし、そんなこと二度としたくないな」
「少し休んだらきっと、また元気が出てくるよ」
「そのプロセス自体に飽き飽きしたんだ。僕はその過程であと何回、鞭で打たれるのかな? あと何回、眠れない夜を過ごして、あと何回、知らない誰かの声に耳を塞がなくちゃいけないのかな? それを耐え抜いた先に待っている未来に、それを耐えるだけの価値はあるのかな?」
「きっとあるよ」
「ないよ。これははっきり言える。僕の人生に、そうするだけの価値なんてない」
「でも君は、きっとここで、君と同じことをしている人がいたら、その人を助けようとするじゃない」
「それとこれとは別の問題だよ」
「同じだよ。どうして君は、他の人のためには頑張れるのに、自分のために頑張れないの?」
「誤解だよ。僕は今まで自分のためにずいぶん頑張ってきたけれど、全然よくならなかったんだ。他の人に対してもそうだよ。その人のために頑張ったことがないなら、頑張るだけの意味があるかもしれない。だから頑張る。でもその人のためにどれだけ頑張っても何も変わらなかったなら、僕は自分に対して諦めるように、その人に対しても諦めるよ。僕は特別誰かに優しい人間でもないし、自分自身を憎んでいる人間でもない」
「……でも君は、誰かを助ける力があるんだから、生きなくちゃいけないよ。どんなに苦しくても」
「だから、それが嫌だって言っているんだよ。まぁ、君を説得したって仕方ないんだけどね」
「お願いだから、今日だけは死なないで」
「君のお願いを聞く義理はないよ」
「あなたが死ぬことなんて誰も望んじゃいない」
「僕が望んでる。それで十分じゃないか。もっとも、僕以外にも僕に死んでほしいと思っている人は何人かいそうだけどね」
「……悲しいよ。そんなの。せっかく生まれてきたのに」
「否応なく生まれてきてしまった、というのが僕の感覚だけどね」
「死にたいなら死ねばいいじゃないか」
いつもの声が響いた。
「あぁ、だからそうしようと思ってね」
「……本当は死ぬ気なんてないくせに」
「君はずっとそう思いながら、僕が死んでいく様を眺めているといい」
「考え直さないか?」
「君まで止めようとするのか?」
「自殺なんて馬鹿げてるだろう?」
「あぁ。馬鹿げてるね。でもあいにく僕は馬鹿なんだ。だからそうする」
「いつだってできるだろう。自殺なんて。今日じゃなくていい」
「そうだね。でも、今日そうしたいと思ったんだ」
「今日は、自殺するには悪い日だ。雨も降っていない。それに、周りにも迷惑をかける。これまでお前はまわりにずいぶん迷惑をかけてきたくせに、全然その恩を返せていない。そのうえ、自殺なんてしたら、恩をあだで返すことになる」
「君のやり口にはいつもうんざりなんだよ。僕が自殺したい理由のうちに、僕の人生には必ず君がついてまわるっていうことがあるんだ。まぁ、僕の代わりに君が死んで、二度と僕の前に姿を現さないっていうのなら、生きることを考えてもいいんだけどね」
「……それは俺の意志でできることではない」
「わかってるさ。だからこうやって死のうとしているんじゃないか。それにしても、僕が死ねば、君も死ぬんじゃないかと思うんだ。もしそうなら愉快なことだ」
「お前が死んでも俺は死なない。別の誰かの心の中で生き続ける」
「そうだろうね」
「だがお前は、お前が死んだらそれきりだ。お前の心は、誰かの心の中では生きられない」
「うん。わかってる」
「お前の存在は、お前が思っている以上に貴重で、有用なものだ。そしてお前は、お前自身の所有物じゃない。お前は人のものを勝手に壊して捨てようとしているんだぞ」
「そうだね」
「良心の呵責を感じないのか」
「感じるよ。でも結局は、天秤だよ。どちらを選ぶかという問題」
「我慢しろ。お前が本気で死にたいというのはわかった。でも、今日じゃない。お前が死ぬのは今日じゃない。そういう運命だ」
「それは、嘘だね。僕は嘘つきだから、君の嘘もすぐにわかるよ。今日が僕の死ぬ日だ。この世界から、君のいう、貴重な資源がひとつ永遠に失われる日だ。そしてその責任の一端を、君が負っているわけだ」
「それに意味なんてない。お前を離れた俺は、お前のことなんて知らないからな」
「でも、僕と共にいる君は、僕と共に消える。それだけで愉快なことだと思う。それに、君がいなくたって、僕は死のうとしただろうしね」
「こんなことを言いたくはないが、お前には生きる価値がある。そんじゃそこらの凡人たちよりも、お前には才能が……」
「そういうやり口にはうんざりだって何度も言ってきただろ? 僕は君には騙されないし、その口車に乗せられることもない。君に乗せられて、ろくなことが一度もなかったからね」
「だがお前はその過程で多くを学び、成長してきたじゃないか」
「うん。そしてその学びと成長の先にあったのがこれだ。それにね、実は君が宿っているこの社会だって、同じようにこうなっていくんだよ。僕は、そうして一度滅びた後に、再び希望の芽が出るんじゃないかと思っているんだけどね」
「その希望の芽をその目で見なくていいのか」
「そんな何千年も生きられるように人間は作られていないし、見るためだけに地獄の苦痛に耐え続けるのは馬鹿らしいだろう?」
「死なないでくれ、頼む」
声が聞こえなくなった。静かだ。心臓の音も、少し優しくなっている。
僕が死んだことを悲しんでくれる人は何人かいると思う。いなくたっていいのだけれど。
この事実についてちゃんと考えてくれる人は、多分あまりいないと思う。それは少し残念だな。
でもいいんだ。別に。
僕は、感謝しているんだ。両親にも、友人たちにも、先生たちにも、見ず知らずのみんなにも。僕とかかわりがあったすべての人と、その人たちのすべての親切と好意に。ありがとう。君たちは何も悪くないよ。もちろん、僕だって悪くないさ。
でもね、こうなるしかなかったんだ。今までありがとう。
ここにきて僕はこう思っている。人生は、それほど悪いものじゃなかった。最悪と呼ぶには、あまりによいことや、素敵なことがたくさんあった。
僕はもう十分生きた。このさき生きていても、よいことよりも悪いことの方が多いような気がする。確信は持てないし、その比較の結果が明らかになることはないだろうけど、僕はこうすると決めたんだ。
誰かのためでも、自分のためでもない。目的も理由もない。ただ、死にたいから、死ぬ。それだけのこと。だから、大丈夫。
それじゃ、さようなら。楽しかったよ。
ーーーーー
自殺の想像は、生きる痛みを和らげる。
僕が生き続けるためにはこういった儀式が定期的に必要になる。
遺書ではないし、構ってほしいわけでもないから、心配しないでくれ。しょせんは遊びさ。
もし君が死にたいと思っているなら、同じような遊びをするといい。少し楽になるはずだから。