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その後(朝の湖)

最終話のちょっと後です。


 早朝、アンデの湖に小走りで向かう人影があった。朝のこの時間は、湖にいる仔犬様の食事の邪魔をしないようにとアンデの街人は湖には近付かない。その前に、いくらかの食物を湖に投げ入れておくのだ。

 それを知ったモリーネは、ここ数日、この時刻に湖をこっそり訪れていた。

 雲のない青空の下、朝陽に照らされ輝く湖の畔の木陰に姿を隠す。モリーネはキョロキョロと見回し、辺りに人がいないことを確認すると腰紐を解き、ドレスの裾を持ち上げた。

 思い切りよくドレスを脱ぐと、モリーネは下着姿で湖へと走った。誰もいないとはいえ、下着姿というのは恥ずかしい。ばしゃばしゃと水の中へと進んでいく。

 目指すのは、もちろん、緑に光る仔犬である。

 腰の高さまで浸かると、一気に水中へと身体を沈める。冷やりとした水に身体を慣らすと、モリーネは湖底をめざして潜った。

 さほど深くもない場所にあるので、仔犬の姿を見つけるのは容易い。

 今日ものんびりと湖底で手足を広げ、だらしない姿で仔犬が寝転がっていた。

 今日こそは!とモリーネは手を伸ばす。

 だが。


 また来たの? しつこいわね。嫌だったら嫌なの!


 仔犬はごろんごろんと転がり、器用にモリーネの手をすり抜ける。


 王太子宮に帰るべきだって言ってるでしょ!

 モリーネはそう心の中で訴えた。

 その言葉は、仔犬には聞こえるらしく。


 嫌ーーっ!


 モリーネは必死に手を伸ばすけど、すかさず逃げる仔犬はなかなか素早い。

 何度も息継ぎをしては潜り、逃げる仔犬と格闘しているのだが、一度も手に掴むことは出来ないでいる。

 アンデの人達にはとても悪いとは思うけれど、この仔犬はさっさと王太子宮に戻すべきだとモリーネは思っていた。

 もともと王太子宮にあったのだし、王都の神殿から仔犬の王妃を戻すようにとの使いが来ていた。モリーネ自身も、今後また仔犬に呼ばれた時に、水中へ落とされるよりはアレグイルの部屋に到着したいと切実に思っていたから。もしも冬にこの湖に呼ばれたら、命が危ない。そうでなくとも、ドレス姿で泳ぐのは溺れて死ぬ危険があるというのに。

 そして、仔犬がこうも嫌がるというのも、余計に王太子宮へ戻したくなる要因になった。

 モリーネにとっては、仔犬に対してちょっと意地悪したい気分なのだ。ちっとも助けてくれなかったし、溺れそうにさせるし。そして、必死なこちらの意も介さずにこのだらーっとした態度。モリーネがむかっとくるのも仕方ない。

 ばしゃばしゃと潜っては水面に顔を出し、また潜るのを繰り返し。

 体力が尽き、今日はもう無理かとモリーネが思った頃。


「モリーーッ。モリーーッ!」


 岸から大声でモリーネを呼ぶ声が聞こえてきた。

 モリーネが湖面で顔を向けると、険しい表情でアレグイルが駆けてくるところだった。

 朝陽に照らされたアレグイルの髪が輝き、走る姿も素敵……。

 と、うっとり眺めて。

 はっとモリーネは我に返った。

 アレグイルは、ばしゃばしゃと水に入ってこようとしている。

 モリーネは、水中に隠れた首から下は、下着姿なのだ。とてもアレグイルと対面できる状態ではない。


「待って、アレグイル! こっちに来ないでっ!」


 大声で叫ぶけど、アレグイルは誤解したらしく、急いで近付こうとしている。

 モリーネは焦った。ドレスは岸にあるし、水中に隠せるものはない。アレグイルを止めるしかないのだ。


「来ないで、アレグイル! 止まって、来ないで!」

「どうしたんだ、モリー!」


 アレグイルを避けるように泳いで距離を離そうとするモリーネに、声を張り上げる。

 ようやく距離を縮めようとしなくなったアレグイルだったけれど、すでに腰まで浸かったアレグイルからモリーネの姿はぼんやりと見えた。

 水の透明度は高く、モリーネの剥き出しになった肩や腕にアレグイルの目が釘付けになる。


「モリー?」


 モリーネはアレグイルから一定の距離をおいて、浅い場所へと戻った。しかし、下着姿では水から出ることができない。


「あの……あっち向いててくれない?」


 モリーネは胸元を手で押さえ、アレグイルに頼んだ。

 アレグイルはモリーネを凝視したまま、硬直していた。


「アレグイル?」

「あ、いや、ちょっと待て……」


 うろたえた様子のアレグイルは振り返って、後方へ手で何やら合図を送る。

 モリーネはそれを見て、他にも人がいることに気付いた。そうだった。王太子のアレグイルが一人でこんなところにいるはずがない。きっと騎士達が一緒にいるはずで。

 モリーネはどうしようと困り果てていた。


 モリーネ以上に困っていたのは、そばに立っていたアレグイルの方である。

 時間がモリーネに追いつき、もうすぐツィウク家一行がアンデに到着する。ツィウク家とタラント国へは、すでにモリーネを王太子妃として迎えたい旨は伝えた。アレグイルは、できればモリーネを王宮へと連れ帰りたくて、ツィウク家一行をアンデで待ち受けようとやってきたのだ。

 すでに王太子宮ではモリーネ受け入れの準備は整っている。後は、ツィウク家の許可だけだった。許可がなくとも強引に王宮へ連れ去ることもできるのだが、それは彼女と家族を無理やり引き離すことになるため極力避けたい。

 そんなことを考えてやってきたのだが。

 アンデの領主館を訪ねると、朝早くにモリーネは館を出てしまったと聞かされた。どこに行ったかと問えば、湖だと言う。最近、モリーネはこっそり湖で朝を過ごしているらしい。

 アレグイルが湖に向かうと、ばしゃばしゃと水が跳ねていて。アレグイルに、あのモリーネが沈んだ夜を思い出させた。

 モリーネが自分の名を呼んでいるのが聞き取れ、急いで近付いたのだが。

 彼女はどうやら、近付かないでと言っていたようだ。

 水に濡れた白い肩が、爽やかな朝陽の中で艶めかしく輝いている。

 一瞬、裸かと思ったが、どうやら下着姿らしい。

 アレグイルは岸にいる騎士達を遠ざけた。しかし、彼等とてアレグイルから目を離すつもりはない。アレグイルの合図があっても、姿を消すことはないだろう。

 ここでモリーネが水から上がれば、騎士達の目にモリーネの姿も入ってしまう。


 うろたえるアレグイルの前で、モリーネは意を決して水から上がった。長く水中にいたため身体が冷えてしまったからだ。

 一応、下着は身につけているし、モリーネの視界には騎士達の姿はない。だから、きっと見ないでくれるに違いないと信じて。


「ま、待て、モリーっ」

「あっち向いてて! すぐに服を着るからっ」

「モリーっ……」


 モリーネはアレグイルの声を振り払い、ドレスの置いてある場所へと走った。

 モリーネは周囲に誰の気配も感じられなかったので、急いで濡れて張り付いた下着を脱ぎ、ドレスを被る。

 その真後ろにいたアレグイルは、ごくりと唾を飲み込んだ。目をそらすことなど考える余裕はない。

 濡れた下着はぴたりと張り付き、モリーネの身体の線を浮かび上がらせていた。そして、おもむろに上半身の下着が取り払われ、白い背中が露わになる。その背筋を幾筋も水滴が流れ落ちる。

 そして、モリーネがドレスを取ろうと屈んだ拍子に、脇から白い丸みが僅かに見てとれ。後方に突き出された丸い尻は布からでもその素肌が透けて見えるようで。

 それはすぐにドレスで隠されたものの、アレグイルの脳裏に見事に焼き付いた。

 ごそごそと動くモリーネ。じゃばっと音を立てて水が流れ落ちる。

 それらから、アレグイルの頭ではモリーネが何をしているのかを推測することができた。

 モリーネが身体を起こすと同時に、アレグイルは静かにモリーネに背を向けた。あたかも、ずっとそうしていたかのように。


「ごめんなさい、アレグイル。もういいわよ」


 明るい声でモリーネが背中を向けたアレグイルに近寄った。

 素知らぬふりでアレグイルはモリーネに向き直る。

 濡れた髪が首筋に張り付いていて、頬を赤く染め恥ずかしそうな顔のモリーネがアレグイルを見上げていた。後ろ手に隠し持っているのは白い布の塊で。モリーネは、今、下着を着けてないのだとアレグイルはぼんやり思った。


「どうして、湖に……」


 アレグイルの動揺は態度には出ていなかったが、言葉には如実に現れていた。

 そんなアレグイルにモリーネは気付かない。彼女自身、それどころではなかったから。

 ドレスを着ているとはいえ、下着を着けていない状態なので、とてもとてもとても恥ずかしい。

 でも、恥ずかしがっては、それこそ何か変だと勘ぐられてしまうと思い、モリーネは平静を装った。しかし、濡れた肌の上に着たものだからドレスが所々身体にひっついてきて気持ち悪い。

 そんなこんなで二人とも内心激しく動揺していた。


「えっと、仔犬を、アレグイルに渡そうと、思って……」

「仔犬の王妃のことか?」

「そう。王太子宮にないといけないものなんでしょ? あの仔犬、嫌がって逃げるから、なかなかとれなくて」

「モリーがそんなことをする必要はない。……年頃の娘が、泳ぐのは、どうかと思う」


 アレグイルはぎこちなく告げる。

 じろっと見下ろされたモリーネは、肩をすぼめた。


「そんな風に、肌を見せるのは、止めてもらいたい」

「……ごめんなさい」


 か細い声でモリーネは答えた。白い塊を胸に抱え、項垂れる。胸の傷が彼の気に障ったのかと思ったのだ。誰もが気まずそうに目をそらすモリーネの傷跡は、アレグイルの悔恨を呼び覚ましてしまうことを忘れてた。

 モリーネは歩き出すふりをして、アレグイルの視線を避けるように身体の向きを変えた。


「モリー」


 アレグイルは咄嗟に手でモリーネの行く手を阻んだ。自分の言葉のせいで、彼女が気落ちしてしまったことはわかっていた。ただ、今のアレグイルには、余裕がなかった。

 さっき自分が何を口にしたのかすら、あやふやになるほど。

 モリーネの行く手を阻んだアレグイルの手は、モリーネの腕に触れ、彼女を引き寄せる。

 彼女はアレグイルを恨めしそうな瞳で見上げているのだが。その胸元に抱き締めているのは、さっきまで彼女が身に付けていただろう下着で。その濡れた布の塊が押し付けられた胸元は濡れて肌に張り付いている。

 アレグイルはこんなことくらいでと言い聞かせるのだが、平常心には程遠く。じっと見つめてくるモリーネが、期待を込めて待っているようであり。

 アレグイルは、考えることもせず彼女の背中に腕を回した。モリーネはじーっと見つめ続けていて。そっと額に唇を落とす。と。

 モリーネは瞼を閉じ、大人しく待っている。その口元は笑みを浮かべ、沈んだ様子はもうそこにはなかった。

 アレグイルは頬に手を添え、口付けを落とした。

 が。

 背中に置いた手は、素肌を布一枚隔てているだけなのを忘れることはなく。抱擁は次第に熱を帯び、唇は軽く啄ばむだけで終わることはできず。長くモリーネを腕の中に閉じ込めることになった。



 しばらく後、頬を染め熱にうかされたようなトロンとした表情のモリーネと寄り添い、アレグイルはアンデの領主館へと向かう。

 騎士達が少し離れて付き従っている。


 そんな様子をアンデの領主館の玄関先で、兄ラフィールが握りしめた拳を震わせて待っていた。


「あんのヤロー……」


 少しでも早く迎えに行かなければと急ぎやってきたというのに。大嫌いな男にまんまと籠絡されている妹を目の当たりにするとは。

遠目にも、二人がベタベタしているのがわかるほどだった。しかも、その歩みは遅い。互いに視線を交わし合っているのだから。

 兄ラフィールは、憎々しげな視線をアレグイルへと送っていた。



「絶対に許さんっ!」


 歯を食いしばるラフィールの背後に並ぶツィウク家の使用人達は、苦笑いで次期当主を見守っていた。

 その中に、侍女ミルダもいる。もちろん笑みを浮かべて。

 ミルダが数日前まで見ていた気力のないモリーネの姿はそこにはなく。デレデレと崩れた態度のモリーネがいる。安堵とともに、第一夫人の座を獲得するためにはと再び説く必要がありそうだと思っていた。


「モリーネっ! そいつから離れろっ!」


 兄ラフィールの声が響き渡った。

 声が届いたのか、モリーネが足を止めた。そして、満面の笑みを浮かべ、両手を広げて駆けてくる。

 置いていかれた王太子の姿に、少しばかり気を良くしながら、兄は妹のために腕を広げた。

 明るい日差しの中、人々の顔もまた晴れやかだった。



~The End~


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