4・とりあえず油揚げでも
金田はあれから小一時間ほど眠りについている。
外は日が落ち始め、傾いた太陽の赤い光が障子の白を透かして入り込んでくる。
うちの客間は九畳ほどの広さのある和室。その和室に敷いた布団の上で、金田はスースーと寝息をたてていた。眠る睫毛は長く、寝息をたてる唇はピンク色の艶やかな光沢を放っている。
金田はうちの敷居を跨いだ瞬間にポンッとまた例の白い煙をあげて元の金田の姿に戻った。今度は尻尾と耳が出ている姿だった。
「うちには結界を張っているからな」
それを見てビックリする俺にねーちゃんがそう呟いていたので、家に何かしらの仕掛けをしているのだということが分かった。この家は色んなもので守られているみたいだ。
それにしても俺はこの家について知らないことが多い。知らされていないというより、俺が興味なさすぎなんだろう。ねーちゃんは聞いてくる分にはちゃんと教えてくれるけど、逆に言えば聞かなければ何も教えてくれないのだ。知ろうとしない人間に親切に教えてくれるほどねーちゃんは甘くはない。
俺は眠る金田の横で明日提出の現代語の課題に辞書を片手に取り掛かっていた。
現代語の課題は時間が掛かる。渡されたプリントに記載されている単語を調べて書き込むというものなのだが、その単語が五十にも及ぶ。そのいちいちをきちんと調べてプリントに書き込まなければいけないのだ。面倒くさい。
とりあえず日本語が読めればいいんじゃないかと思うが、日本語って小難しい単語が多いのな。分かるものは辞書を開かなくても適当に意味を書くが、それ以上に意味を知らないものが多いなと思った。
うちは金持ちだけど、俺自身は貧乏なので電子辞書なんて高級品は持っていない。辞書はねーちゃんのお古。
文句を言っても仕方がないが、どうしてこう下の子どもって上の子どものお下がりばかりになるんだ。俺にも新しいものを買ってください。でも英語の辞書なんかはねーちゃんが試験に出やすい単語にチェックを入れてたりするから意外と重宝してるんだけどね。ねーちゃんってば頭は良いんだ。態度は尊大だけど。
八割がたの単語を埋め、辞書の小さな字に目が疲れてきた頃、
「うーん」
もぞりと身動きをして金田が目をあけた。
「ここ……」
見上げた天井に見覚えがないようで(まあ、当然か)、しばしぼーっとして目をしばたかせる。長い睫毛はそれだけでパシパシと音が鳴りそうだった。
「俺の家」
パタンと辞書を閉じて机に置く。
「起きたならねーちゃんを呼んでくるからそのまま待ってて。あ、傷の手当はしてないから。なんかもう塞がってるみたいだし、気になるなら自分でやって」
家に到着する頃には、金田の体に付いた傷は赤い線の跡は残れどあらかた塞がっていたのだ。
金田の白い肌につけられていた傷は治るまでには数日はかかるだろうと思うくらいだったのに、なんの不思議かいつの間にかほぼ治っている状態だった。妖怪って傷の治りが早いんだろうか。
傷の手当はせずに済んだが、布団に転がす前に水で塗らしたタオルで適当に血はぬぐわせてもらった。まだ生乾きで布団を汚しそうだったからだ。洗うの俺だし。血ってなかなか落ちないんだよ。
白い肌にドキッとしてイタズラしようなんて気持ちはなかったからね。気を失った女子にそんなことするほど飢えてないから。だってそんなことで警察に捕まりたくないもん。
彼女ができたら正式ににゃんにゃんするんだ。……できたらね。今までいたことないけど。あ、涙が。
「待って」
枕元に置いた救急箱を指し示して立ち上がると、身をわずかに起こした金田が俺を静止した。
「なんで助けてくれたの? 普通、人間ってあまり知らない相手には薄情じゃない……」
「普通はそうかもね。電車の中で席を譲らない人が多いし、倒れてる人を見たって平気で置いてく人だっているし」
「きみは違うって言うの?」
金田が首をかしげる。不思議そうに、少しだけバカにしているように。
人の親切は素直に受け取っておけばいいと思うんだが。
金田くらいの美少女になると、男相手なら特に下心に注意しないといけないのかもしれない。大変だな美少女も。良かった、俺平均で。
警戒する相手に「俺は無害ですよ」なんて言っても通用しないのは当たり前のこと。
「金田はクラスメイトだし、顔を知っている相手を置いてくのもどうかと思っただけのことなんだけど……」
どうすっかなぁ、と俺は頭をがしがしと引っかいた。
「ただで助けられることに抵抗があるなら、キスしてもらったお礼とでも思っておいてよ。はは、金田みたいな美少女にキスされるなんて俺って役得ー」
実際は後味最悪って言われてブロークンハートだったわけなんだけどね。しくしく。そこは黙っておく。
「それに俺には俺の事情ってのがあるんだよ。俺っていうかねーちゃんのだけど。連れてきておいてなんだけど、俺としてはさっさと帰ってほしいんだよね。なんか面倒なことになりそうだし。でも今は帰らないでくれ。とにかくそこでじっとして待ってて」
逃がしてあげたいのは山々なんだけど、ねーちゃんにロックオンされたら逃げられはしないだろう。地の果てまで追っていって(主に追わされるのは俺。ねーちゃんは動かない)捕まえて言うことをきかせるのだ。それがうちのねーちゃんです。
どうせ捕まるなら無駄な体力は使わないに越したことはないんだよ。俺も無駄な体力は使いたくないし。
「ちなみに、ねーちゃんってのはうちで二番目に権力のある人で俺の保護者ね。そのねーちゃんが金田にゴアイサツしたいんだと」
どんなゴアイサツかは知らないがな。
基本的にばーちゃんは俺のことには関与して来ない。俺の実質的な保護者ではあるが、すべてのことはねーちゃんに丸投げされている。
そのねーちゃんの命令ならば俺は死ぬ気で実行しないといけないのだ。でないと俺がやられる。
立ち上がろうとする体を「とにかくまだ本調子じゃないだろ。もう少し休んでいけよ」と布団に戻す。ごめんなぁ。下心はないんだけど、逃げられるのは色々とまずいんだよ。そういう意味じゃこれも立派な下心になるのかな。
「今のうちに体力戻しとけ」
でないとあのねーちゃんに数秒で沈められるぞ。もう少し休憩すれば数秒が数分に伸びるかもしれない。だからといってそれが良いことなのかどうかはべつの話だが。
グ、グルルゥ~
掛けなおした布団の中で盛大に腹の虫が鳴る。
食欲があることは良いことだ。だが、まさか美少女金田がそんなふうに盛大な腹の虫を鳴らすとは思っていなかったので、思わず布団にかけていた手が止まった。
「だって、ずっと動いてたから……妖力はきみから気持ち悪くなるくらい吸い取って一杯になったけど、お腹はまた別なんだもん……」
金田が恥ずかしそうに掛け布団に頭を埋める。
可愛い顔して、可愛い仕草で、可愛い声で言っているんだけどさ、ちっとも可愛くないって思うのはなんでだろうね。きっと「吸い取った」とか「気持ち悪くなるくらい」とか言われたせいだね。
可愛い子と話をできるのは願ったり叶ったりなんだけど、普通の人間レベルの会話をしたい。
でも俺は腹が減った生き物には弱い性質らしい。
「ねーちゃんの前に腹ごしらえ、かな。腹が減っては戦もできぬって言うし」
ぽふぽふと布団を叩いて「待ってろ」と伝える。
戦か。
ねーちゃんと対峙するのは金田にとっては精神的な戦となるだろう。素人にねーちゃんの威圧感は胃が痛い話なのだ。
部屋を出る際に、「……ごめんね」と小さく金田が呻く。
その姿はしおらしくて、結構可愛いとこあんじゃんと俺は開いた扉を静かに閉じた。
※ ※ ※
とりあえず冷蔵庫に何か残ってたかな、と台所に向かう途中で居間のほうから聞こえてくるぼそぼそとした話し声に足を止める。
「――なんであんなのが宗介の傍にいるんだ」
廊下に面した居間へと向かう扉のガラスの向こうで、電話を掛けるねーちゃんの姿があった。
「知らなかっただと? ふざけるなっ! お前の嗅覚で分からないはずが……ほお、ふうん……犬飼お前、私にバレなければそれでいいとか思ってただろう?」
ねーちゃんは電話先にいる人物に向かって語気を荒げていた。
犬飼というのはねーちゃんの高校時代からのパシリだ。友人ではない。パシリだ。
当時柔道部の不良OBだった彼を風紀委員だったねーちゃんがぶちのめしたことからパシリとして使われている。何をどうしてパシリになったのかは謎だ。あまり追求したくない。
ついでに言えば、彼はうちの高校の体育教師だったりする。体育教師だからといって汗臭いおっさんなわけではなく、爽やかな好青年だ。見かけに関しては。
ねーちゃんになら足蹴にされても構わない、と普段から公言しているのでM属性の人なんだと俺は勝手に思っている。俺にはM属性はないから、あまり仲良くはしたくない。
Sっ気のあるねーちゃんとは良いコンビなんだとは思うが、変態は勘弁だ。あの人、ねーちゃんにど突かれると嬉しそうに笑うんだ。コワイ。
「十五分やる。急いで来い。会議? なんだそれ。私の命令とどっちが大切だと思ってるんだ? いいよ、他にも使える足はあるから。犬吉、犬井、犬又……分かったならいい。早く来いよ。いーち、にーい」
うわぁ。鬼だ。
彼にねーちゃんの命令の拒否権がないのを知っていて言っているのだ。しかも他のパシリの名前をあげて慌てさせて思考回路を遮断している。彼は他のパシリたちの頂点にあると自負しているので(そんなこと自慢にもなんにもならないということは自覚なし)、他のパシリを使われるくらいなら自分がやると思っているふしがあるのだ。
今から高校を出て渋滞の始まるこの時間帯に車で来ても二十分はかかる。返り支度をして目上の先生に会議を断ってってしてたらそれくらいかかる。
時間内に来れないことを分かっていて「来い」なんて言うねーちゃんってマジで鬼だ。時間を越えてやって来たら「遅いっ!」と制裁を加えるに違いない。今までだってそうだった。ねーちゃんならそうする。犬飼さんはねーちゃんのサンドバッグだからな。
がちゃりと受話器を置いたねーちゃんが振り返る。
「アレは起きたのか?」
「うん、今起きたとこ。腹が空いてるみたいだからなんか食わせてやろうと思って」
今しがたの会話については話すつもりはないらしい。当事者は俺なんだけどね。
俺のあずかり知らぬところで話が進んでいたとして、腹が立たないのは相手がねーちゃんだからだろう。困らされることはあっても俺に害があることはしない人なのだ。
「そうか。じゃあもう少し待ってからご挨拶に伺わせてもらうとするか」
はいはい、ゴアイサツっすね。なんでそこで指をポキポキ鳴らしてるんだか。一応クラスメイトなのでお手柔らかにしてあげてほしいところだが、ねーちゃんの辞書に「加減」って文字はあるんだろうか。
いざとなったら俺が間に入って助けてやろう。俺だって血の通った人間なのだ。か弱い女子がいじめられそうだったら助けないと。
「宗介……なにか失礼なことを考えてやいないだろうな」
何かを察知したのか、ねーちゃんが俺を睨み付ける。
「いや、なにも」
ごめん。力になれないかもしんない。
ぶんぶんと首を振る俺に「さっさと戻って逃げ出さないように見張ってろ」とねーちゃんは拳で胸を軽く叩いてきた。あくまでねーちゃん基準での‘軽く’だ。十分痛い。
俺は「早く来てよ、サンドバッグ犬飼さん」と祈りつつ、胸を押さえて台所へと向かった。
※ ※ ※
腹が空いているようだったので、すぐに食べられそうなものとしておいなりさんとさっと醤油であぶった油揚げを出したのだが、
「うはぁ。お、おいしぃ」
かなりお気に召していただけたようだ。金色の獣の耳がピンと立って三本の尻尾がぴょこぴょこと振り子のように動いている。
金田はすごい勢いでおいなりさんを両手に持って口に放り込んでいった。
「ぐっ、ごほごほっ」
途中でむせるので横に置いていた茶飲みを差し出す。美少女金田に幻想を抱いている奴が見たらどう思うことか。
金田が食べているおいなりさんは昨日作って冷蔵庫にしまっておいたものだ。
我が家の‘働かざる者食うべからず’の家訓は学生の身の上でも適応される。特に特技のない俺にできることが掃除・洗濯・料理くらいのものなので必然的に俺の仕事が家事となってしまうのは仕方のないこと。
おかげで料理は普通の高校生より出来るようになった。振る舞う機会はそうないけど。
これだけ目を輝かせて食べてもらえると作り甲斐もあるというもの。ねーちゃんは量がありさえすれば味はうるさく言わないからな。
「こんなに美味しいものを食べさせてくれるって、きみって良い人だね」
金田の価値基準がよく分からない。人間を警戒するような態度を取ったかと思えば、食べ物でつられるような発言をする。
「……変な奴」
米粒を頬にくっつけて頬張る姿に笑うと、つんとそっぽを向かれてしまった。
なんだよ、素直な感想を述べただけだろ。ってそれがいけないのか。ちょっと反省。
宗介はセクハラなことは考えるけど、実際には行動せず。
一応良識だけはある。