夜空の目
黒と藍、それから紺を溶かしたような色味に、光が瞬いた。星だ。直感的に思う。
高校一年生、春。
新しい教室で、わたしは彼と出会った。
「え、――」
思わず口をついた言葉に、彼は両目を瞬かせた。
入学して一週間が経ったばかりの教室の中。まだ出席番号順に並べられた席は、中学から同じ友人たちとは離れた場所だった。逆に両隣は同中らしい。楽しげに喋る声を聞きながら、すぐに周囲と打ち解けられる性格でもない己の不遇さを呪った。
唯一の救いは最後列であることくらいか。
高校デビューなんて言葉に内心そわそわしつつ、近い席にカレシ候補のイケメンがいることをどこか夢見てもいたのだが……。実際、前の席に座るのはぼさぼさ髪の野暮ったい男子である。
あーあ、ツマンナイ。
少女漫画の主人公にはなれなかった自分の運命に唇を尖らせた。
前からは、教師が配った何らかのプリントが回されている。半身を捻り、手渡してくる前席男子は今日も長い前髪を目の上に垂らして、表情も良く見えない。
オタクくん。
不貞腐れた心がひどいあだ名をそいつに付けた。別に嫌っているわけではない。肥大した自尊心がそうさせるのだ。
「ありがと」
それでも虎にならないよう、口の中でくぐもるように礼を告げた。
回されたプリントには『自己紹介カード』と面倒くさい文字が並んでいる。教壇で話す担任の弁を聞けばなんと、まずは前後で自己紹介をしましょう、とのこと。そんな、小学校一年生でもあるまいに。
「はーいセンセ、小学校から一緒でーす」
「せんせー、おれ女の子とやりたいです!」
一気に騒がしくなった教室の端でため息。出身校の項目から欄を埋めていった。
五分後、簡単に椅子を後ろに向けた彼は私と同じ名字で佐藤。下の名前は竜の泪と書いてタツルと読むらしい。
相変わらずウザったい前髪の向こうにあるだろう目元へ視線を合わせていた。ちゃんと目を見て話しましょう。ママの口癖だ。
反対に彼は目を伏せがちだ。あまり人と視線を合わせたくないらしい。会話の合間に少しこちらを見てはすぐに下を向く。長い前髪の隙間から、ふと見えた瞳に視線は吸い込まれた。
――夜の空だ。
総毛立つ。その美しい目に魅入った。
黒目は、黒と藍、それから紺を溶かしたような色。その奥には、小さな光も瞬いて見える。夜空の目だ。
「え、めっちゃ綺麗」
思わず顔を寄せ覗き込めば、まるで星空のような目がはたりと瞬いた。
「和子、前の男子とめっちゃ喋ってなかった?」
その日の昼休み、同中の未来ちゃんがにやにやと尋ねてきた。背の高い美人さん。幼なじみの親友である。
「モサ男とか言ってたのに。白馬の王子さまだった?」
柔らかくからかう彼女の声に、唇はとんがってしまう。
「自己紹介してただけ。未来ちゃんだって話してたでしょ」
「それにしては顔近かったなーって」
だから近くないし。言おうとして、彼の瞳が思い出された。あまりにも綺麗で覗き込んでしまった自覚も多少ある。確かに、近かったかもしれないと今さらながら顔に血がのぼった。
「和子?」
「目、綺麗だねって言ってただけ」
言い訳をするような早口になってしまった。なんだかこれでは、本当に彼を気にしているみたいじゃないか。
「佐藤の?」
「そ、竜泪くんの」
ふーん、タツルくんね。
もう下の名前で呼ぶのかと、にんまり未来が意味深に笑った。なんとも意地悪である。だって仕方がないじゃないか。このクラスに佐藤は自分も含め四人もいるのだから。自然と下の名前で呼ぶことになる。分かってるでしょと睨みつければ、未来は悪気なくケタケタと笑声をあげた。
「で、竜泪くんはなんて?」
「綺麗とか初めて言われた、って笑われた」
「はーん。なるほどね〜」
なにが、なるほどなのか。
「それだけだってば」
すっかり不貞腐れた心が見えたのだろう。ごめんごめん嫌わないでと未来はいつもの調子で謝ってきた。
「ま、人見知りぎみの和子が、クラスの子とちゃんとお喋り出来たみたいで私は嬉しいよ」
「なにそれ、ママ?」
「んふふ〜。それで和子、部活は? 何にするか決めたの? 友だちと一緒だから〜とかじゃなくて、ちゃんと考えて決めなきゃだめよ」
今度はこっちからからかってやろうと反撃したものの、未来は満更でもなさそうに笑うだけだ。どうにも敵いそうにない。同い年なのに姉のような彼女につられて一緒に笑った。
「ちゃんと考えてるよ、ママ。安心してね?」
「心配はしてないわよ、和子ちゃん」
和子ちゃんって、ウケる。ケタケタ、箸が転がっても面白いオトシゴロだ。ひとしきり二人で笑ったところで閑話休題。話題は部活へと戻ってきた。
「未来ちゃんはまた吹部でしょ?」
「うん、クラ続けるつもり。和子は?」
「天文学部」
「あー和子星好きだもんねぇ。けど、あったっけ?」
「あるよ。一応……」
そう、あるのだ一応。初日に配られた部活紹介の用紙にも小さく書かれてはいた。学校見学に来た時にはほぼ同好会のようなもので、部員のほとんどが幽霊部員だとも聞いているが、確かに存在はしているのだ。
今日から部活見学が始まっているはずなのに、天文学部に割り当てられた教室へ向かう人影が皆無なことからも人気のほどが分かるだろう。
誰かしら人がいてくれたならいいのだけれど……。
と一抹の不安を抱えつつ、半分開かれた扉から部屋の中を覗き込んだ。
「あ、」
声をあげたのは同時だったろう。入口のすぐ側で竜泪が所在なさげに佇んでいた。こちらを見てふんわり笑んだ唇は薄く綺麗な形だ。
「よかった。誰もいないから、どうしようかと思ってたんだ」
半身を覗かせたまま会話をするのもおかしいだろうと、そそくさと教室の中へと入り、一歩分彼と距離を開けて横に並んだ。そのうち誰かは来るだろう。たぶん。
自己紹介も終わった間柄にそれほど緊張することもなく、少し高い位置にある顔を見上げた。
「竜泪くんも、天文学部に入るの?」
「うん。そのつもり」
「星とか好きなんだ」
「好きって言うか……」
うーんと言葉を途切れさせた横顔が首を傾げる。
「少しくらい知っといてもいいかなぁと思って、かなぁ」
「星のことを?」
「そう。星とか、宇宙のことを」
なんだか、不思議な言い回しだ。受験に必要だから勉強するみたいな、そんな口調だった。
「和子さんは星が好きなの?」
「うん、知識は無いけど。見るのは好きだから」
「へぇ、いいね」
なぜだか、嬉しそうだ。前髪の向こうの眦が垂れる。すると瞳の中の星がさらに煌めいて見える気がして、胸がドキドキと高鳴った。
ドキドキ? いや、まさか。だって、モサ男だ。タイプじゃない。いいや、目はすっごく綺麗だけど、だけども――。
「お、悪い。新入生だよな? あー先輩たちも来てないのか。放っといて悪かったな」
思考のループに入りかけた意識は、突然かけられた声に心臓を飛び跳ねさせた。いつの間に来ていたのだろう。男性教師が教室をのぞき込んできていた。
顧問の加藤だと名乗ったその人は、自分は陸上部と兼部をしていること。天文学部としては教室の鍵の受け渡しをするくらいで、あとは生徒の自主性に任せていることを説明してくれた。
「基本こことか図書室とかで好きなこと調べてまとめてもらってる。何かやりたいこととかあれば言ってくれれば、出来るか検討するから。……まぁ、本気でやりたければ、だけどな」
なんて先生が言うくらいの部活だ。
結局一週間の見学期間が終わった後にも部室へと顔を出すのは、私と竜泪くらいであった。
それでも何年か前までは熱心な生徒がいたのだろう。部室の本棚には、宇宙に関する本や図鑑がたくさん蔵書されていた。近くの天文台から寄贈されたものも多く、読んでも理解が出来ない冊子がいくつもあった。
そのどれもこれもが興味深い。そんな本棚の中から今日も、とりあえず一番好きなものを選んで読んでみることにした。
竜泪もまた適当な一冊を手に隣の椅子を引く。
「和子さんは何調べてるの」
「流れ星。なんとか流星群って毎年あるんだね」
「あーだね」
竜泪はある程度知識があるらしい。それでいて興味はさほど無いのだろう。宇宙の本を読む姿は、参考書を捲るように退屈そうであった。
「竜泪くんは?」
「星の成り立ちとか」
「難しそうだね」
「うん、ぜんぜん分かんない」
そう言って笑う、彼の瞳の奥がチカチカと瞬いた。うん、キレイ。けど、見えづらい。彼の両目を覆う前髪を払い除けたい衝動に駆られた。
竜泪自身も、前髪が邪魔じゃないのだろうか。思いつきに、ポーチに入れてあった髪留めをひとつ取り出し手渡してみた。
「使う? それか留めてあげようか」
手を伸ばせばその分顔は遠ざかった。
「いや、大丈夫。ありがと。だけど、遠慮しとこうかな」
言葉通り嫌だったらしい。竜泪の態度に、もう近付かないと両手を顔の高さに上げて「ごめん」と詫びた。
「見られるの嫌だった?」
「うーん。そうだね、あんまり……」
言いながら、竜泪は神経質そうに前髪をいじった。野暮ったい髪形の向こうに隠される瞳が惜しい。けれど、仕方がないだろう。
「この前、目、覗き込んだのも嫌だった?」
「あれは……」
慎重に尋ねれば、前髪に触れる手が動きを止めた。
「大丈夫……だった」
「ほんとに?」
「うん、本当に、」
答えつつ、竜泪は何かを思案するように視線を彷徨わせた。やはり、嫌だったのではとじっと見つめる。その視線に気付いたのだろう、星を宿した瞳が視線を絡め真っ直ぐにこちらを見据えてきた。
どうしたというのか。
ドギマギと心臓が暴れ出す。それでも外せない視線に、綺麗な口が柔らかく笑みを浮かべるのを見て、息が止まった。同時に思考も停止する。頭は半分も回っていなかった。
「もう、大丈夫なんだと思う。和子さんに見られるの、嫌じゃないよ。ありがとね」
だから彼の言う”ありがとう“の意味も分からないまま。
金曜日。部活を終えた未来と呆けた頭で帰宅した。
事件は週明け、月曜日の朝に起こった。
入ってきたひとりの男子に教室がざわついたのだ。
「おはよ、和子さん」
「おはよ……竜泪くん?」
疑問符を付けてしまったのは仕方がないだろう。つい三日前とは、印象がまるで違うのだから。
竜泪が、あれほど嫌がっていた前髪を短く整え、顔がよく見えるようになっていたのだ。もうモサ男などとは呼べないのはもちろん……なのだけれども!
――前髪の下がそんなイケメンだったなんて聞いてない!
バグつく心臓を上から押さえつけた。
「うん。変?」
数日前までのモサ男は、そんな反応にクスクスと笑いながら追い打ちをかけるように首を傾げのぞき込んでくる。瞳は今日も夜空みたいに綺麗なまま。
「ううん、ぜんぜん変なんかじゃない」
赤くなる顔に綺麗な唇が弧を描いた。




