夜会での一幕
「アネモネ・クロッカス侯爵令嬢、私は貴女との婚約を破棄する」
国王不在の夜会で王太子ミムラスが突然言い放った言葉に、会場は波を打ったようにシンっと静まり返る。
「な、何故でございますか? 私はミムラス様の伴侶となるべく、ずっと研鑽してまいりましたのに」
「貴女は為政者として相応しくない。クロッカス侯爵令嬢、私が何も知らないとでも?」
「何のことですの?」
ミムラスに正面から婚約破棄宣言をされた宰相の娘であるアネモネは、狼狽えながらもすぐさま反論したが、ミムラスは不快気に溜息を吐いた。
「やはりシラを切るのだな。本当はこんな衆人環視の前で婚約破棄など宣言せず、穏便に解消しようと思っていた。けれど私から何度婚約解消を願い出ても了承せず、剰えシスルを暴漢に襲わせようと画策した貴女を、これ以上野放しにするわけにはいかない」
それに、とミムラスは糾弾の手を緩めず追及する。
「クロッカス侯爵が違法な武器や奴隷売買をしており、貴女もその奴隷達を虐げているとの調べはついている! 私は貴女のような醜悪な女性を心から嫌悪する! 貴女も侯爵も断罪する証拠は揃っているので覚悟するといい!」
冷たく吐き捨てられたミムラスの言葉にアネモネはワナワナと震えだす。
アネモネが婚約者であるミムラスに夢中なことは有名な話だ。だから愛してやまないミムラスから拒絶の言葉を言われて、アネモネが平静を保っていられるわけがない。
「……その女のせいなのね! ミムラス様は私のものなのに! あんたさえ、あんたさえいなければ! この成り上がりの男爵令嬢如きが!」
数多の宝石をあしらった豪奢なドレスを翻し悪鬼のような形相をして絶叫したアネモネは、ミムラスの数歩後ろで怯えたように成り行きを見守っていた一人の少女に向かって走り出す。
少女の名はシスルといい、明るい空色の髪と瑠璃色の瞳を持つ庇護欲をそそる可愛らしい容貌をした、新興のクローバー男爵家の令嬢であった。
下位貴族の令嬢ながらシスルは貴族学園で優秀な成績を収めており、同学年であるミムラスとは同じクラスで切磋琢磨する間柄であったらしい。
ちなみに23歳になるアネモネは、とっくに学園を卒業しており18歳になるミムラス及びシスルとは学園生活は被っておらず、両者に直接的な接点はない。
けれども二人が親しいらしいと人伝に聞いたアネモネは、シスルに嫌がらせを繰り返していた。
先程ミムラスが言っていた通り、シスルに暴漢を差し向けたことも一度や二度ではない。
悉く失敗に終わったのはシスルの実家であるクローバー男爵家が裕福なため、彼女に腕の立つ護衛が何人も付いていたからである。これが貧しい家の子であれば今頃彼女はこの場に立つことは出来なかったはずだ。
こんなことになるのなら、家で飼っている奴隷の子供のように初めから直接手を下せば良かったと、激高したアネモネがシスルに手を振り上げようとした時、ミムラスがさっと二人の間に割って入った。
「それが貴女の本性か」
苦虫を潰したような表情でアネモネを睨んだミムラスに、少しだけ冷静さを取り戻したアネモネが引き攣った笑みを浮かべる。
「し、躾のなっていない泥棒猫にお仕置きをするのは当然ですわ!」
苦し紛れの言い訳を始めたアネモネに、ミムラスは完全に軽蔑の眼差しを向けた。
「衛兵、クロッカス侯爵令嬢を貴族牢へ投獄せよ! 己の罪を認めないばかりか何の罪もないシスルへ手をあげようとするなんて、もう顔も見たくない! 私の前から消えてくれ!」
地下牢にしなかったことは一応元婚約者としてミムラスなりの優しさだったのだが、嫌悪感を滲ませて放たれた拒絶の言葉にアネモネは目を見開くと、途端に縋るように媚を売り始める。
「財政難の王家へ無利子で資金を援助しているクロッカス侯爵家の私と婚約破棄すれば、国王陛下からお叱りを受けるのはミムラス様の方ですわ。その女の口車に乗せられて心にもないことを仰ってしまっただけなのでしょう? ね、今なら許してさしあげますから、その汚らわしい女を庇い立てするのはお辞めになって」
ミムラスを執愛するアネモネは必至に訴えるが、対するミムラスの方はアネモネを完全に無視し、シスルと呼ばれた令嬢へにこやかに微笑みを向けた。
「シスル、これでもう心配はいらない。私がずっと君を守ってあげるからね」
甘く優しいミムラスの言葉に、シスルはまだ緊張しているのか不安そうに肩を震わせる。
そんなシスルを労わるように彼女の空色の髪をミムラスが撫でる様子に、周囲の者達は貴族学園で二人が仲睦まじいという噂が真実だったことを知る。
節度ある交流ではあったらしいが、アネモネが嫉妬してしまうのは仕方がないだろうと同情的な視線が注がれた。
それにアネモネの父であり宰相でもあるクロッカス侯爵を敵に回せば、いくら国王が亡き王妃に似たミムラスを溺愛していても、ただでは済まないはずである。
正義感に燃えたミムラスは侯爵を断罪する証拠があると豪語していたが、15年前の戦争バブルが弾けて財政難に陥っている王家を、資金面で支えているのは宰相であるクロッカス侯爵である。その宰相を国王が切り捨てるとは考えにくい。むしろそんな証拠は隠蔽させる可能性の方が高いのだ。
「ミムラス様! ミムラス様! 貴方は私のものよ! ミムラス様!」
アネモネの悲痛な叫びは、シスルを見つめるミムラスには届かない。
ミムラスの名を叫びながら衛兵に連行されるアネモネの姿を見送った人々は、今後の行方を案じて戦々恐々としたのだった。




