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第24話「雨上がり、君の名前を」

登場人物

水無月みなづき 晴人はると

高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。

ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。

久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。


霧咲きりさき 零花れいか

高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。

落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。

どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。


高瀬たかせ りく

晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。

明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。

軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。


桜井さくらい 美咲みさき

晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。

明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。

場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。

目が覚めると、白い天井が視界いっぱいに広がっていた。

どこか無機質で、やけに明るい光。


しばらくの間、ただそれを見つめていたが、やがてゆっくりと瞬きを繰り返す。


――ここは……?


頭がぼんやりとして、うまく思考がまとまらない。

身体を起こそうとすると、シーツの擦れる感触とともに、ようやく自分がベッドの上にいることに気づいた。


白いカーテン、消毒液の匂い、規則的に鳴る機械音。


――病院……?


「晴人……!」


不意に名前を呼ばれ、視線を向ける。

そこには、両親の姿があった。

目に涙を浮かべながら、ほっとしたように何度も名前を呼んでいる。

その様子に、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「よかった……本当に……」


母さんの震える声。

父さんも、安堵したように息を吐いていた。


――どうして、こんなことに?


疑問が浮かぶ。

けれど、その先が続かない。


何も思い出せない。

最後に何をしていたのか。


記憶が、まるで霧の中にあるように曖昧だった。


両親の話によると、俺は路地のような場所で倒れていたところを、偶然通りかかった老人に発見され、そのまま病院へ運ばれたらしい。


幸い、身体に目立った異常はない。

ただ、念のため数日入院して様子を見ることになったという。


説明を聞いても、どこか現実感が薄かった。

まるで、自分のことじゃないみたいだ。


数時間後には、病室の扉が開き、陸と美咲が顔を出した。


「おい、大丈夫かよ晴人」


「もう、心配したんだからね!」


二人の声を聞いた瞬間、自然と肩の力が抜ける。


「ああ……なんとか」


短く答える。

その声が、どこか他人のもののように感じられた。


それから他愛もない会話が始まる。

授業の話、先生の愚痴、最近のちょっとした出来事。

どれも、どこにでもある日常の断片だった。


けれどそのどれもが、どこか遠い。

笑っているはずなのに、実感が伴わない。

自分だけが、少しだけ世界からずれているような感覚。

それでも、二人と話している時間は、確かに心地よかった。


「そういえばさ、零花先輩も復帰したんだよ」


ふと、美咲が何気なく口にする。


「体調不良でしばらく休んでたけど、もう普通に学校来てるって」


その言葉に俺は自然と首をかしげていた。


「……誰だ、それ」


一瞬、空気が止まった。


「は?」


陸が間の抜けた声を出す。


「おい、冗談だろ?」


美咲も、困惑したように俺を見る。


「零花先輩だよ?ほら、あの――」


説明されてもその名前は、何も引っかからなかった。


記憶の中に、空白がある。

そこだけが、不自然に抜け落ちている。


知らない。

本当に、まったく覚えがない。


「……悪い、ほんとにわからない」


そう言うしかなかった。

陸と美咲は顔を見合わせる。

その表情には、はっきりとした動揺が浮かんでいた。


「……お前、それ……」


陸が言葉を選ぶように口を開く。


「記憶、飛んでんじゃねえのか……?」


その一言が、静かに、重く落ちた。


その後、医師に相談した結果、症状は一時的な記憶障害だろうと告げられた。


時間が経てば、自然と思い出す可能性が高いらしい。

ただし医師は、わずかに表情を引き締めて続けた。


「無理に思い出そうとしないでください。かえって負担になることがあります」


静かな口調だったが、その言葉にははっきりとした注意の色が含まれていた。


思い出そうとするな。

それは、どこか引っかかる言葉だった。


思い出せないこと自体には、確かに不安がある。


けれど同時に、なぜか無理に触れてはいけないような感覚もあった。

まるで、そこだけが不自然に切り取られているような。


そんな、曖昧な違和感。


そのことを陸と美咲に伝えると、二人は一瞬だけ顔を見合わせたあと、無理に明るく振る舞うように頷いた。


「そっか……まぁ、医者がそう言うなら大丈夫だろ」


「うん、焦らなくていいよ!そのうち思い出すって!」


いつもの調子で言葉を返してくる。

けれど、その奥にある戸惑いは隠しきれていなかった。


そしてそれ以降、あの名前は――口にされることはなかった。


「零花先輩」


その言葉だけが、まるで触れてはいけないもののように、静かに会話の中から消えていった。


◇ ◇ ◇


退院した日の空は、やけに澄んでいた。

病院の外に出た瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でる。


それだけで、どこか現実に引き戻されたような気がした。


久しぶりの外の空気。

見慣れているはずの街並み。


なのにどこか、遠い。

自分の知っている風景のはずなのに、ほんのわずかにズレているような感覚があった。


家に帰ると、日常が待っていた。

いつものリビング、いつもの家具、いつもの匂い。


安心するはずの場所。

けれど、その安心感にも、どこか薄い膜が張っているようだった。


それからの日々は、穏やかに過ぎていった。


春休み。

学校に行く必要もなく、時間だけはたっぷりある。


だからといって、特別なことをするでもなく。

テレビを見て、スマホをいじって、適当に時間を潰す。


気がつけば一日が終わっている。

そんな、取り留めのない毎日。


陸や美咲と連絡を取ることもあった。

他愛のないやり取り。

軽口を叩き合う、いつも通りの関係。


それなのにふとした瞬間に、言葉が詰まる。

会話の中で、ぽっかりと空白が生まれることがあった。


何かを言おうとして。

何かを思い出そうとして。

――そこだけが、抜け落ちている。


夜になると、特にそれは強くなる。

部屋の中で一人になると、妙に静かで。

その静けさの中に、自分の違和感だけが浮き上がってくる。


何かを忘れている。何かが、足りない。

理由のわからない“欠け”が、ずっと心の奥に残っている。


埋めようとしても、埋まらない。

触れようとしても、掴めない。

そんな感覚だけが、日々の中に溶け込んでいた。


そして、ある日。

用もなく街を歩いていたときだった。


春の空気はやわらかく、通りには人の流れが絶えない。

どこか浮き足立ったような雰囲気の中、ただぼんやりと前を向いて歩いていた、そのとき。


ふと視界の端に、誰かの後ろ姿が映った。

黒髪の、長い少女だった。

風に揺れるその髪が、光を受けてかすかにきらめく。


それだけの、ありふれた光景。

なのにその瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


「……っ」


息が、詰まる。

反射的に足が止まり、視線がその背中に吸い寄せられる。


理由は、わからない。

見覚えがあるわけでもない。

知っているはずもない。


それでもなぜか、見過ごしてはいけない気がした。

胸の奥に、小さな波紋のような感覚が広がっていく。


それは次第に大きくなり、形のない違和感となって、心を揺らしていた。


懐かしいような。

苦しいような。

それでいて、どうしようもなく手の届かない感覚。


何かを思い出しかけている。

そんな予感だけがある。

けれど、その“何か”には決して辿り着けない。


あと少しで触れられそうなのに、その距離がどうしても埋まらない。

もどかしさが、胸の奥に滲んでいく。


気づけば、身体が先に動いていた。

無意識のうちに、その背中を追いかけている。


理由なんてない。

ただ、離してはいけない気がした。

それだけだった。


人混みの中をすり抜けるように進む。

距離を詰めようとするたびに、その背中はわずかに遠ざかる。


そしてほんの一瞬、視界を遮られたその隙に――姿は、消えていた。


「……あれ……」


辺りを見回しても、もうどこにもいない。

取り残されたのは、自分だけだった。


ざわめく街の音が、急に遠く感じられる。

胸の奥に残るのは、理由のわからない、強い違和感。

そしてほんのわずかな――喪失感。


「……今のは、なんだったんだ……」


問いかけても、答えはない。

ただ、その感覚だけが、やけに鮮明なまま、心に残り続けていた。


◇ ◇ ◇


新学期が始まり、俺達は二年生になった。

久しぶりの学校は、やっぱり少しだけ空気が違う。


春の匂いというか、なんとなく浮き足立った感じというか。

校門をくぐると、あちこちで「久しぶりー!」なんて声が飛び交っていて、いかにも新学期って雰囲気だった。


「……やっぱ、学校ってこんな感じだったよな」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。


覚えている。

この景色も、この空気も。


でも、どこか遠い。

そんな妙な感覚が、まだ少しだけ残っていた。


教室に入ると、すでに何人かが集まっていて、それぞれに久々の再会を楽しんでいた。

見慣れた顔ぶれに、自然と肩の力が抜ける。


「いよっ!これで通算何度目だ?」


背中を軽く叩かれて振り向くと、陸がニヤニヤしながら立っていた。


「もう腐れ縁ってより、運命って感じよね!」


美咲もすぐ隣で笑っている。


「……また同じクラスかよ」


掲示されたクラス表を見ながら、思わず苦笑する。


偶然にしては出来すぎてる。

ここまでくると、確かに“運命”って言われても否定できない。


「まあ、楽でいいけどな」


「でしょ?安心感あるよねー」


「お前らと一緒ってだけで、クラスの当たり外れ関係ねえな」


そんな軽口を叩き合いながら、自然と席に着く。

周りでは椅子を引く音や、笑い声、誰かの大きなリアクション。


全部ひっくるめて、いつもの教室の空気だった。

なんだかんだで、この感じは嫌いじゃない。


いや、むしろ落ち着く。

しばらくすると、他愛もない話で盛り上がる。


春休みに何してたとか、宿題終わってないだとか。

どこにでもある、普通の会話。


普通の時間。

それなのに、ふとした瞬間に会話が途切れる。

言葉を探して、ほんの一瞬だけ思考が空白になる。


――あれ?

今、何を言おうとしてた?


すぐにどうでもいい話で繋げるけど、その違和感だけが少しだけ残る。

ほんの一瞬のこと。気にするほどじゃない。


……はずなのに。


胸の奥に、小さな引っかかりが残っていた。


何かが足りない。

そう思うほどじゃない。


でも、何かが――少しだけ、欠けている気がする。


理由はわからない。

ただ、その感覚だけが、消えずに残っていた。


◇ ◇ ◇


新学期が始まって、数日が経った。

最初こそ少しだけぎこちなかった教室の空気も、今ではすっかり元通りだ。


誰がどこに座るか、誰と誰が話すか、そんな小さな流れも自然と出来上がっていて。

まるで最初からこうだったかのように日常が戻ってきている。


その日、空は朝から重たい雲に覆われていて、昼休みを過ぎた頃には、ぽつぽつと雨が降り始めた。


窓ガラスに当たる雨粒が、ゆっくりと筋を引いて流れていく。

ぼんやりとそれを眺めていると、教室のざわめきが少しだけ遠くに感じられた。


「春なのに雨とはな~」


陸が椅子に背を預けながら、気だるそうに外を見やる。


「ホントよね~。桜、すぐ散っちゃいそう」


美咲も窓の方へ視線を向けて、小さくため息をついた。

校庭の桜は、ちょうど見頃だった。


淡い色の花びらが、風に揺れて、光を受けて。

――そんな光景が、ついさっきまで当たり前にあったはずなのに。

この雨で、その時間もすぐに終わってしまうのかもしれない。


「なぁ、今度の休みの日、花見でもやらねぇか?」


思いついたように、陸が言う。


「いいね!桜が散る前にやろうよ!」


美咲がぱっと表情を明るくする。


そんな何気ないやり取り。

特別なことなんて何もない、いつも通りの会話。


けれどその“いつも通り”が、どこか少しだけ遠く感じた。

輪郭ははっきりしているのに、どこか手触りが曖昧なような。


自分がちゃんとこの場所にいるはずなのに、ほんのわずかに、ズレているような感覚。


その違和感だけが、静かに胸の奥に残っていた。


◇ ◇ ◇


放課後。

雨は止むどころか、むしろ少し強くなっていた。


昇降口で傘を開くと、細かい雨粒が地面に跳ねて、小さな音を立てている。

空気はひんやりとしていて、春のはずなのに、どこか冷たかった。


俺は特に急ぐ理由もなく、いつもの帰り道を歩き出す。

靴底が濡れた地面を踏むたびに、わずかに水を弾く音がする。

アスファルトに広がる水たまりに、雨が落ちては円を描き、すぐに消えていく。


その繰り返しを、ただぼんやりと眺めながら歩いていた、その時。

ふと、足が止まった。


「……あれ」


視線の先にあるのは道端に植えられた、低い木。


紫陽花だった。

まだ花は咲いていない。

青も紫もなく、ただ葉だけが重なり合っている。


どこにでもある、ありふれた風景。

なのに――なぜか、そこから目が離せなかった。


「春の紫陽花って、こんななんだな……」


その声は、雨音に溶けてすぐに消えていった。

じっと見つめていると、胸の奥が、かすかにざわつく。


懐かしいような、寂しいような。

そんな感情が、ゆっくりと広がっていく。


ここで――誰かが、立っていた気がする。


同じように、この紫陽花を見て。

雨の中で、静かに佇んで。


「……誰だ?」


思い出そうとするけれど、その先が、どうしても掴めない。

像はぼんやりと浮かぶのに、肝心な部分だけが抜け落ちている。


大切な何かに、もう少しで触れられそうなのに。

指の隙間から、零れ落ちていくみたいに思い出せない。


……気のせい、か。

そう思って視線を外しかけたその時、足音が聞こえた。

雨音に紛れながらも、確かにこちらへ近づいてくる気配。


振り向いた先にいたのは――同じ制服を着て、傘を差した、長い黒髪の女子生徒だった。

雨を遮る傘の下で、その髪だけが静かに揺れている。


彼女は、俺の数歩手前で足を止めた。

こんな細い道で立ち止まられたら、通りにくいだろうと思い、俺は少し身体を横にずらす。

道端の紫陽花の方へ寄り、通れるだけのスペースを空けた。


けれど、女子生徒は動こうとしなかった。

その場に立ったまま、ただ静かに佇んでいる。


「……?」


不思議に思い、傘越しにそっと覗き込む。


そして、目が合った。

傘の下から、じっとこちらを見つめている瞳。


長い黒髪に、整った顔立ち。

そして――目の下にある、小さな泣きぼくろが、やけに印象に残った。


初めて見るはずなのに。

なぜか、その顔から目が離せなかった。


胸の奥が、わずかにざわつく。

言葉にできない違和感が、ゆっくりと広がっていく。


「あの……なにか?」


俺の声は、思っていたよりも少しだけ小さく、雨音に溶けていった。

女子生徒はすぐには答えなかった。

傘の下で、ほんのわずかに視線を揺らし、それからゆっくりと口を開く。


「……何を見ていたの?」


静かな声だった。

感情を抑えたようでいて、どこか確かめるような響きがある。


「えっ?」


予想していなかった問いに、思わず間の抜けた声が出る。


問い返されるような内容じゃない。

なのに、その一言には妙な重さがあった。


「……えっと、この紫陽花を」


視線を逸らし、足元の紫陽花へと目を落とす。

まだ咲いていない、緑の葉の塊。

ただそれだけのものを、どうして自分が気にしているのか――自分でも、うまく説明できなかった。


「まだ咲いてもいないのに?」


女子生徒の声が、重なる。

責めているわけでも、否定しているわけでもない。


ただ、確かめるように。

それでも、その言葉は妙に胸に引っかかった。


「……はい。なんとなく、気になっちゃって」


曖昧な答えしか返せない。

それでも言葉を続けたのは、なぜだろう。


「……前に、ここで誰かが同じ紫陽花を見ていた気がして、それで」


口にした瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。

思い出せないはずの記憶が、輪郭だけを残して浮かび上がる。


雨の中、ここに立っていた誰か。

長い髪が揺れて――その先が、どうしても思い出せない。


女子生徒は、何も言わずにそれを聞いていた。

遮ることも、否定することもなく。


ただ、静かに。

まるで、その言葉を――大切に受け止めるかのように。


「……そう」


その声は、どこか遠くを見ているようで。

今ここにいるはずなのに、少しだけ手の届かない場所にいるような、そんな感覚を覚えた。


彼女はわずかに視線を落とし、紫陽花へと目を向ける。

傘越しに揺れる光の中で、その横顔が静かに浮かび上がる。


「紫陽花は、その色によって、花言葉が違うのよ」


「……花言葉?」


聞き返すと、彼女はゆっくりと口を開く。


「青は――“冷淡”や“無情”」


雨音に紛れるような、静かな声。

それでも、その言葉だけは不思議と耳に残った。


「紫は――“気品”や“高貴”」


一つ一つ、確かめるように紡がれていく。


「そして、白は――“一途な愛情”」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。


「……一途な、愛情……」


無意識に、口にしていた。

なぜ、その言葉だけが引っかかるのか。


理由はわからない。

けれど――その響きだけが、妙に胸の奥に残っていた。


「貴方はどの色だったらいい?」


「……えーっと」


不意に向けられた問いに、少しだけ言葉を探す。

色、なんて言われても、正直よくわからない。


「白、ですかね」


口から出たのは、その一言だった。

理由は、自分でもわからない。

けれど、その言葉だけが、不思議としっくりきた。


女子生徒は、わずかに目を細める。


「……そう」


短く、静かな返事。

その声には、どこか安堵のようなものが滲んでいた気がした。


「それじゃ」


それだけを告げて、彼女は俺の横をすり抜ける。

傘越しに感じる、わずかな気配。


すれ違う一瞬、なぜか時間が引き伸ばされたように感じた。


そのまま、彼女は雨の中へ歩いていく。

少しずつ、その背中が遠ざかっていく。


俺は、動けなかった。

ただ、見送ることしかできない。

それでいいはずだった。


知らない相手だ。

ただ少し、言葉を交わしただけの、それだけの関係のはずなのに。


胸の奥が、強くざわつく。

このまま行かせてはいけないと、どこかで警鐘が鳴る。


理由はわからない。

わからないのに。


声が、込み上げてくる。

呼ばなければいけない。


そう思った瞬間――


「――零花」


気づけば、自分でも驚くほど、自然に口にしていた。

ただ、それが当たり前のように、その名前が零れ落ちた。

雨音の中、その一言だけが、はっきりと響く。


女子生徒の足が、止まった。

ほんのわずかに、その背中が揺れる。

傘を持つ手が、微かに震えていた。


振り返らず、その場に立ち尽くしている。

まるで時間が、止まってしまったかのように。


――零花。


その名前が、雨の中に溶けていく。


声に出した直後、自分でも何を言ったのか理解できなかった。

ただ、胸の奥からこぼれ落ちるように、その名前が自然に口をついて出た。

それだけが、妙に現実味を伴って残っていた。


すぐには、何も起きなかった。


女子生徒は立ち止まったまま、背を向けたまま動かない。

雨音だけが、静かに、けれど確かに二人の間を満たしていく。

その時間はほんの数秒のはずなのに、やけに長く引き伸ばされたように感じられた。


やがて、ほんのわずかに彼女の肩が揺れる。


ゆっくりと。

本当に、時間を確かめるように、女子生徒が振り返った。


その瞳には、涙が滲んでいた。

今にも溢れ出しそうなほどに、静かに、けれど確かに溜め込まれていたものがそこにあった。


「……晴人君?」


震える声だった。

その呼び方に、思考が一瞬で追いつかなくなる。


「……あれ?」


自分の口から、間の抜けた声がこぼれる。

何が起きているのか、理解が追いつかない。

ただ、胸の奥だけがざわついている。


「……俺、何言って……」


さっき口にしたはずの言葉を思い出そうとしても、うまく掴めない。

輪郭だけが残っていて、中身が抜け落ちているような感覚。


「すみません。なんで急にこの名前が……って、えっ?」


そこで、ようやく気づく。

――今、名前を呼ばれた。


しかも、初めて会ったはずの相手に。

“晴人君”と。


言葉が続かない。

理解できない。


なのに――彼女は次の瞬間、手にしていた傘を取り落とした。


軽い音を立てて地面に落ちた傘は、そのまま雨を受け、彼女の肩や髪へと水滴が降り注いでいく。

それでも構う様子はなく、彼女はまっすぐこちらへと駆け出した。


「晴人君……!」


距離が、一瞬で詰まる。

逃げる間も、考える間もない。

そして、そのまま、強く抱きしめられた。


思わず息が詰まる。

細い腕のはずなのに、その力は驚くほど強く、まるで離すまいとする意思そのものが形になっているかのようだった。


「晴人君……っ、晴人君……!」


何度も、何度も。

繰り返されるその名前。

声は震えていて、涙で滲んでいて、それでもはっきりと耳に届く。


雨と涙の境界は、もうわからなかった。


ただ彼女は、縋るように、確かめるように、失ってしまいそうな何かを繋ぎ止めるように――


俺の名前を、呼び続けていた。

どうしていいかわからなかった。


知らないはずの相手に、抱きしめられ、名前を呼ばれている。

それなのに、拒絶する気持ちはまるで湧いてこない。

それどころか、むしろこのまま離してはいけないと、どこかで強く思っている自分がいた。


頭の中は混乱しているはずなのに、胸の奥だけがやけに騒がしくて、締めつけられるような感覚だけがはっきりと残る。


どうしてなのかは、わからない。

目の前の彼女が誰なのかも、なぜ自分の名前を知っているのかも、何ひとつ思い出せないはずなのに。


それでも、この温もりだけはどこか懐かしくて、この声だけはなぜか胸に響いて、この涙だけは放っておけないと思った。


理由なんてない。

ただ、それでもいいと、どこかで思ってしまった。


だから、俺はゆっくりと腕を上げる。

戸惑いながら、確かめるように、そっと彼女の背中へ手を回す。

そして――抱きしめ返した。


強くはない。

けれど確かに、そこにある想いを逃がさないように。

自分でも理解できないまま、それでもこの瞬間だけは間違っていないと信じられるように、静かに彼女を抱きしめる。


腕の中で、彼女の肩が小さく震える。

その震えは次第に強くなり、抑えきれなかった感情が、少しずつ溢れ出していくのがわかった。


「……よかった……」


かすれるような声が、胸元から零れる。

その言葉の意味は、まだわからない。


わからないはずなのに、その一言だけは、不思議なくらい深く胸に残った。

まるで、ずっと前から知っていたかのように。


どれくらい、そうしていただろうか。

腕の中の温もりは、まだ消えない。


小さく震える彼女の肩も、胸元に残る微かな涙の感触も、すべてが確かにここにあるものとして感じられた。


わからない。

どうしてこの人を抱きしめているのかも。

なぜ、こんなにも離したくないと思っているのかも。


何ひとつ、思い出せないはずなのに。

それでも――この瞬間だけは、間違っていないと、そう思えた。


ふと、空を見上げる。

気づけば雨は、上がっていた。


厚く覆っていた雲はいつの間にか薄れ、淡い光が差し込み、濡れた地面をやわらかく照らしている。

さっきまで聞こえていた雨音は消え、代わりに、どこか静かな空気が広がっていた。


視線を落とすと、道端の紫陽花が、雫をまとったまま静かに揺れている。


まだ咲いていない、小さな蕾。

けれどその奥に、確かに何かが宿っているように見えた。


形にはなっていなくても。

まだ、咲いていなくても。


そこにあるものは、決して消えてはいない。


まるで――今の自分たちのように。

腕の中の彼女の存在を、改めて確かめるように、少しだけ力を込める。

彼女もまた、応えるようにその腕にしがみついてくる。


言葉は、いらない。

思い出せなくてもいい。


それでも。

きっと、ここから始められる。

そんな予感だけが、静かに胸の奥に灯っていた。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。


『霧咲零花』というキャラクターは、自分にとって昔から特別な存在でした。

だからこそ、こうして一つの物語として最後まで描き切れたことを、とても嬉しく思っています。


再会した幼馴染との時間。

少しずつ積み重なる違和感。

そして、その先にある真実。


しっとりとしていて、切なさや不安もある物語でしたが、

その中で「それでも変わらない想い」を描きたいと思いながら書き続けました。


この作品が、少しでも皆さまの心に残る物語になっていたなら幸いです。


もし少しでも「読んでよかった」と感じていただけましたら、

感想や評価、ブックマークなどで応援していただけると、とても励みになります。

ひとつひとつの反応が、これから先の創作活動の大きな力になります。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

またどこかで、別の物語でもお会いできたら嬉しいです。

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