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第23話「君の為なら…」

登場人物

水無月みなづき 晴人はると

高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。

ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。

久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。


霧咲きりさき 零花れいか

高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。

落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。

どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。

夜の中を駆け抜ける。


足は、止まらない。

どこへ向かっているのか。

頭で考えているわけじゃない。


それでも進むべき方向だけは、はっきりとわかっていた。


躊躇いはない。

この道を通った記憶も、曖昧で。

いつ、どれくらい前に歩いたのかも、はっきりしない。


それなのに体が、迷わない。


“思い出している”んじゃない。

“導かれている”みたいに。


足が、次に進むべき場所を選んでいく。

見慣れたはずの街並みが、夜の中で別の顔を見せる。


昼間とは違う影。

静まり返った空気。


それでも不思議と、不安はなかった。

さっきまであれほど胸を締めつけていた焦りが、今は形を変えている。


急がなければいけない。

その想いだけが、まっすぐに残っている。


息が上がる。

喉が焼ける。


それでも足は、止まらない。

止めようとしても、止まらない。

止まる理由が、もうどこにもない。


胸の奥で、何かがずっと指し示している。


“こっちだ”と。

“間違えるな”と。


その感覚に従うように、ただ、前へ。


そして最後の角を曲がった瞬間、視界が開けた。


そこに広がっていたのは、昔と何も変わっていない景色だった。


小さな空き地。

舗装もされていない、土のままの地面。


踏みしめれば、乾いた音が鳴るはずのその場所は。

今は、ただ静かにそこに在るだけだった。


周囲を囲む古びたフェンス。

ところどころ歪んで、塗装も剥がれ落ちている。


端に置かれたままの、錆びついたベンチ。

あの頃と同じ場所に、同じ向きで置かれている。


時間が、止まっているみたいだった。


そしてその中心に、一本の桜の木が、静かに立っている。

夜の中で、その輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。


春には、淡い色に染まるその枝も。

今はただ、黒い影として空へ伸びているだけだった。


それでもその姿を見た瞬間に、記憶が自然と呼び起こされる。


放課後。

何をするでもなく、ここに来て。

ベンチに座って、くだらない話をして。


笑って。

時には、ただ黙って。

それでも、隣にいることが当たり前だった。


そんな時間。

そんな場所。

そんな――“当たり前”だったもの。


胸の奥が、わずかに軋む。

懐かしさと、痛みが入り混じる。


けれど今は、それに浸っている場合じゃない。


ここに来た理由は、一つだ。

零花を――見つけるため。


ゆっくりと、足を踏み出すと、砂利が小さく音を立てる。

その音が、やけに大きく感じられた。


静かすぎる。

風も、ない。

葉の擦れる音すら、聞こえない。


世界から、音が抜け落ちたみたいだった。

その異様な静けさの中で、視線が自然と引き寄せられる。


桜の木の根元。

幹にもたれかかるようにして人影があった。


細い体。

長く流れる髪。

見間違えるはずがない。


「……零花!」


名前を呼ぶ声が、思っていたよりも掠れていた。


駆け寄る。

距離なんて、一瞬だった。

膝をつき、その体を支える。


軽い。

抱き起こした瞬間に、はっきりとわかる。


こんなに、軽かったか。

こんなに、細かったか。


「おい……っ、零花!」


肩を揺らす。

反応は、遅れて返ってきた。


「……晴人、君?」


かすれた声。

ゆっくりと、目が開く。

焦点が合うまで、少し時間がかかる。


「どうして……ここにいるの?」


その言葉は、どこか現実感が薄くて。

まるで、夢でも見ているみたいな響きだった。


「なんでって――お前を探しに来たに決まってんだろ!」


息が上がっているのに、構わず言い切る。

零花は、その言葉を聞いて、一瞬だけ目を細めた。


「……来てしまったのね」


その声音には、安堵とも、諦めともつかない感情が滲んでいた。


「……っ、何言って――」


「っ……!」


言いかけた瞬間、零花の体が大きく震える。


「ごほっ……! っ、げほ……っ!」


「おい、大丈夫か……!?」


背中に手を回し、細い身体を支える。

けれど、咳は止まらない。


呼吸が、浅い。

明らかに、まともな状態じゃない。


こんな状態で、ここまで来たのか。

無理をしたに決まっている。


「……っ、零花……!」


零花が、口元を押さえると、その掌に赤が滲んだ。


「……っ!」


息が、止まる。

視界が、一瞬で色を失う。


血。


それが、現実だと理解するまでに、わずかな時間がかかった。


「おい……っ、大丈夫かよ……!今すぐ病院に――」


言いかけた、その言葉を。

零花は、静かに遮った。


「……もう、遅いのよ」


その言葉ははっきりと、届いた。

まるで最初から、わかっていたかのように。

受け入れているかのように。


「……っ、ふざけんなよ」


気づけば、言葉がこぼれていた。

否定するように。振り払うように。


「遅いわけ、あるかよ……!」


喉の奥が、ひりつく。

感情が、うまく言葉にならない。


理解したくない。

理解してしまえば、全部終わってしまう気がして。


「こんなの……こんなの……!」


言葉が、途切れる。

何を言えばいいのか、わからない。


ただ、否定したい。

否定し続けなければ、この現実に押し潰されてしまいそうで。


その時ふいに、視界の奥に、別の光景が重なる。


同じ場所。

この、桜の木の下で笑っていた零花の姿。


『ねえ、晴人君。また来ようね』


柔らかな声。

何気ない約束。

特別でもなんでもない。


それでも、確かにそこにあった時間。

風に舞う花びらを、楽しそうに見上げて。

隣で、当たり前のように笑っていた。


触れれば、すぐに思い出せるほど近くにあったはずの記憶が。

どうして今は、こんなにも遠いのか。


胸の奥で、何かが軋む。

温かかったはずの記憶が、今はただ鋭く突き刺さる。


「げほっ……!」


零花の激しい咳で現実に引き戻される。

腕の中で、零花の体が小さく跳ねる。


「零花……!」


慌てて背中を支える。

呼吸が、乱れている。


浅く、途切れがちで、一つ一つの呼吸が、ひどく不安定だった。

さっきまで、頭の中にあった“笑っている零花”と。

今、腕の中にいる零花があまりにも違いすぎて。


「……どうして……」


声が、自然とこぼれる。

問いかけるというより、縋るような、声だった。


「どうしてこんなことになってんだよ……」


答えなんて、聞きたくないはずなのに。

それでも、聞かずにはいられない。

零花は、ゆっくりと瞳を伏せる。


その仕草一つ一つが、弱々しくて。

見ているだけで、胸が締めつけられる。


「……ねえ、晴人君……私ね?ずっと、わかっていたの……こうなること」


心臓が、強く打つ。

嫌でも、理解させられる。


これは、突然の出来事じゃない。

零花の中では、ずっと前から続いていた“終わり”なんだと。


「だから……」


視線が、ゆっくりと桜の木へ向けられる。

その先にあるのは過去の記憶か、それとも自分の終わりか。


「……最後に、ここに来たかったの」


穏やかな声だった。

あまりにも、穏やかで、だからこそ、痛い。


あの頃と同じ場所で。

あの頃と同じ景色を見て。

終わりを迎えようとしていた。


「……一人で、終わるつもりだった」


ぽつりと落とされた言葉。

軽く言っているようでその実、あまりにも重い。


「……晴人君には、見せたくなかったのに」


わずかに、笑う。

その表情は昔と、変わらない。


優しくて、どこか、少しだけ寂しそうで。

だからこそ余計に、耐えられない。


「……なんで、そんなこと言うんだよ。一人で、なんて……そんなの……!」


言葉が、続かない。

何を言えばいいのか、わからない。

何をすればいいのかも、わからない。


ただ、このまま終わるなんて。

そんな結末だけは、認めたくない。


「どうやら、間に合ったみたいね」


不意に背後から、声が落ちた。

それは、あまりにも唐突でそれでいて、この場の静けさに、妙に馴染んでいた。


張り詰めていた空気にひびが入るように、その一言だけが、くっきりと響く。


「……っ」


心臓が、強く跳ね、反射的に顔を上げる。

さっきまで、意識のすべてが零花に向いていたせいか、その“第三者の存在”を、うまく認識できない。


この場には、俺と零花しかいないはずだった。

そう思い込んでいた。


だからこそその声は、現実感を伴わずに耳へ届く。

声のした方へ、視線を向けると、そこにさっき会った女が立っていた。


暗がりの中の街灯もないはずの場所で。

それでも、その姿だけははっきりと浮かび上がっている。


影に溶けることもなく、かといって、光に照らされているわけでもない。

ただ、そこに“在る”。


そんな不自然さが、強く際立っていた。

まるで最初から、この場に存在していたかのように。


「……あんたは……」


驚きよりも先に、思わず声が漏れる。

胸の奥に広がるのは、言いようのない違和感だった。


どうして、ここにいる。

どうして、こんなタイミングで現れる。


問いは浮かぶのに。

答えを考える余裕がない。


女は、そんなこちらの動揺など意にも介さず、ゆっくりと視線を落とした。

その先にいるのは――零花。


まるで、最初からそこにいたことを知っていたかのように。


「でも……もう時間の問題ね」


その声に感情はほとんど乗っていない。

驚きも、焦りも、同情もない。


ただ、事実を確認するだけの声音。

それが、余計に現実を突きつけてくる。


「……あんた、俺をつけて来たのか?」


声に、自然と警戒が混じっているのが自分でもわかる。


この女は、普通じゃない。

それだけは、はっきりしていた。


女は、考えるような素振りを見せてから、わずかに首を傾げる。


「ん~……結果的には、そうなるかな。もともと、ここに来るつもりだったけれど」


続けられたその言葉に、今度は、別の冷たさが背筋を走る。


偶然では、ありえない。

理解が追いつかないまま。

ただ一つだけ、確かなことがあった。


この女は、ただの通りすがりなんかじゃない。

この場に現れたこと自体に何かしらの“意味”がある。


「……あんたは……いったい、何なんだ?」


思わず問いがこぼれる。

警戒も戸惑いも混ざった声だった。


目の前の女はこの場にあまりにも似つかわしくないのに、最初からそこにいるのが当然であるかのように佇んでいる。

その在り方が理解できず、理解できないものへの不気味さだけが胸の奥に広がっていった。


女はその問いを受けても表情を変えず、わずかに考えるように視線を揺らしたあと、静かに口を開く。


「そうね……その子の生みの親、といったところかしら?」


「……は?」


一瞬、思考が止まる。

生みの親――その言葉が意味するものは母親のはずなのに、目の前の女からはそんな実感がまるで湧かない。

違う、と直感だけが胸の奥でざわつく。


女はその反応を見て、小さく息を吐いた。


「ああ……これじゃ語弊があるわね。その子を“作った”って言った方がいいかしら」


「……作った?」


思わず繰り返す。

意味は同じはずなのに、どこか決定的に違う響きがある。

その違和感だけが、はっきりと残る。


「……何、言ってんだよ……」


掠れた声が漏れる。

理解したくないのか、それとも理解できないのか、自分でもわからない。

女はそんな混乱など意に介さず、淡々と続ける。


「その子はね。普通の子じゃないのよ。何せ、私が――」


「やめて……」


か細い声が割り込む。腕の中の零花だった。


「……話さないで……」


息も絶え絶えに、それでもはっきりと拒絶する。

その言葉には確かな恐れが滲んでいた。

女はそんな零花を見下ろし、わずかに目を細める。


「ダメよ。晴人君が頑張ってここまで辿り着いたんだもの。ちゃんと真実を教えないと可哀そうでしょう?」


その視線がこちらへ向く。

“真実”という言葉が、重く胸に沈む。

零花がこの女を止めようとしている――その時点で、ただの他人ではないことは明らかだった。


「……真実?」


自分の声がやけに遠く感じる。

問い返したつもりなのに、ほとんど確認に近かった。

女はわずかに口元を緩め、短く肯定する。


「そう。そこにいる子は――零花であって、零花ちゃんじゃない」


その言葉が静かに落ちる。意味はすぐには理解できない。

それでも、何かが決定的に崩れた感覚だけが、確かに残った。


「本当の零花ちゃんは……もうこの世にはいないのよ」


「……は?」


思考が止まる。

今、なんて言った――この世にいない?

じゃあ、今腕の中にいるのは、誰だ。


視線が無意識に零花へ落ちる。

そこにいるのは間違いなく零花だ。


顔も声も仕草も、全部知っている“あの零花”のままなのに、それでもどこかで何かが噛み合っていない感覚だけが、胸の奥に残る。


「そこにいる零花は、私が創り上げたもの。いわば人造人間、ってところかしら」


「……っ」


言葉の意味が頭に入ってこない。

人造人間?何を言っている?そんなもの、あるはずがない

そう否定したいのに、なぜか完全には否定しきれない違和感が残る。


「……何を、言ってるんだよ……」


やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。

女はそんな様子を気にも留めず、むしろ落ち着いたまま口を開く。


「改めて、自己紹介するわね。私は――慈愛の魔女。自称、だけれど」


「……魔女?」


その言葉に引っかかる。

魔女なんて、おとぎ話や伝承の中の存在のはずで、現実にいるはずがない――そう思った、その瞬間。


「あ、今“古典的な魔女”を想像したでしょ?」


女が見透かしたように、くすりと笑う。


「古いわねぇ。今や魔女も現代的な時代なのよ?」


軽く言ってのけるその姿は現実離れしているのに、なぜか否定しきれない現実味を帯びていた。


腕の中の零花と、目の前の魔女、そして突きつけられた“真実”。

何一つ理解できないまま、それでも一つだけ確かなことがあった。


もう、元の“日常”には戻れない。


「あれは――零花ちゃんが中学生の頃だったかしら」


ぽつりと語り始めるその声音には、淡々としていながらもわずかな温度が滲んでいた。


「あの子は、重い病に侵されていたのよ」


「そんなの……」


聞いたこともない。

そんな話、一度もなかった。


転校していったあの時の零花は、確かに笑っていた。

いつも通りで、何も変わらないように見えていたから、疑うことなんてしなかった。


「隠していたのね。特に――貴方には」


「……っ」


理解は追いつかないままなのに、その言葉だけが妙に現実味を帯びて、逃げ場もなく突き刺さる。


「私は、息も絶え絶えで、今にも崩れそうなあの子と出会ったの。そして私はあの子の“想い”を聞いた」


「……想い?」


思わず問い返すと、魔女はゆっくりとこちらを見て、わずかに口元を緩める。


「元気な姿で――晴人君と逢いたい、っていう想い」


「……っ」


胸の奥が強く締めつけられる。

それはあまりにも当たり前で、あまりにも切実で、そしてあまりにも残酷な願いだった。


「本当に、健気な子だったわ。でも――もう私の力でも助けられないくらいの“運命”だったの」


その言葉は穏やかでありながら、否定の余地を一切残していなかった。


「だから私は、あの子の代わりに――そこにいる零花を創り上げたのよ」


その言葉はあまりにも自然に、まるで当然のことのように告げられる。

けれどその内容は現実離れしていて、重く、そして確かにこの場に突きつけられていた。


「……なんで」


喉の奥で言葉が引っかかり、うまく息ができないまま、胸の奥に溜まっていた感情が一気に形を持つ。


「……なんで、言わなかったんだよ……!」


気づけば叫んでいた。抑えようとしたはずなのに止められない。


「そんなの……そんな大事なこと……俺に……言えよ……!」


声が震える。

怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからないまま、感情だけが溢れていく。


「なんで一人で……勝手に……!」


視線が零花へ向く。

腕の中にいるのに、もう同じ時間を共有できない存在だと突きつけられて、どうしようもなく怖かった。


「……俺は、何だったんだよ……」


かすれた声が落ちる。

それは問いかけでありながら、答えを求めているわけではなく、ただ溢れた感情がそのまま零れただけだった。


「言えないわよ。それだけ貴方を想ってたんですもの」


魔女が静かに言い切る。

その声音には、どこか擁護するような響きがあった。


「私もできる限りのことはしたつもり。でもね――」


一拍、わずかな間が落ちる。


「想いを叶えるには、代償がつきものなのよ」


「……代償?」


聞き返した声は、自分でもわかるほど掠れていた。


嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。

それ以上、聞きたくないのに。


耳だけは、言葉を逃がそうとしない。


「それは――貴方と再会した時から、寿命のカウントダウンが始まる、というものよ」


魔女はあっさりと頷き、ためらいもなく続ける。


「……っ」


理解したくないのに、意味だけが先に頭へ入り込んでくる。


「じゃあ、この症状は……」


腕の中の零花へ視線を落とす。


苦しそうな呼吸。

弱っていく体。

そのすべてが、今の言葉と繋がってしまう。


「肉体の限界よ…もともと、寿命を長く設計することはできなかったの」


その言葉は、あまりにも冷静で。

あまりにも、どうしようもなく現実だった。


「……ごめん、ね……」


かすれた声がそっと落ちる。

腕の中で零花がわずかに目を細め、苦しそうな呼吸の合間に、それでも言葉を紡ごうとしていた。


「……言えなかったの……だって……あのまま、別れるしかなかったから……」


途切れがちな声で、それでも必死に続ける。


「……最後くらい……元気な私で、いたかったの……」


「……っ」


「……晴人君に……悲しい顔、してほしくなかったから……」


あまりにも零花らしい、優しすぎる理由だった。


「……それにね」


わずかに力を込めるように、零花の指が晴人の服を掴む。


「……もう一度……逢いたかったの……ちゃんと……もう一度……」


声は震え、呼吸は乱れ、それでも想いだけは途切れない。


「……晴人君に、逢えて……よかった……」


そう言って、零花は穏やかに微笑む。

満たされたようなその表情が、どうしようもなく胸を締めつけた。


「……どうにか、助かる方法はないのか!?」


気づけば、魔女を睨んでいた。


縋るように。

押しつけるように。

逃げ場を探すように。


「なあ……あんた、魔女なんだろ!?」


さっきまでの怒りとは違う。

どうしようもない焦りと、恐怖と。

それでも諦めきれない想いが、全部混ざっていた。


「なんとかしてくれよ……!」


それは願いであり、懇願であり――ほとんど祈りに近かった。

もう、手段なんてどうでもいい。


理屈も、代償も、関係ない。


ただ――目の前の存在を、失いたくない。

その一心だけが、すべてだった。


「ん~……方法ならあるわよ」


その一言に、胸の奥にわずかな光が差し込む。


「……っ、本当か……!」


「でも、代償は重いわよ?」


その言葉が、すぐにその光を覆い隠した。


「なんだってする!何を差し出せばいい!」


迷いはなかった。

躊躇する理由も、もう残っていない。

魔女はそんな様子を面白がるように、わずかに目を細める。


「そうね……晴人君の寿命を彼女に分け与えることならできるわよ」


「寿命……?」


「そう。できて――半分くらいかしらね」


一瞬だけ、言葉が引っかかる。


半分。自分の人生の、半分。

けれど、そんなことはどうでもよかった。


「半分か……十分じゃないか」


零花が助かるなら、それでいい。

それ以外に、価値なんてない。


「あら、そんな簡単でいいの?どうしてそこまでするの?」


「当たり前だろ!俺は――」


一瞬言葉を飲み込み、それでもはっきりと口にする。


「俺は零花が好きなんだ!失いたくない……少なくとも今は!」


その想いに、魔女は満足そうに微笑んだ。


「ふふっ、強い意志ね。素敵よ。でもね――寿命を分けるだけじゃ足りないものがあるわ」


「……なんだよ」


もう、何が来ても構わない。

そんな覚悟が、すでにできていた。


「それは――失われていく記憶よ」


その一言に空気が、凍る。


「今の彼女には、本物の零花ちゃんの記憶が固着されているの」


魔女は、静かに言い切る。


「だから、今のその子の“新しい記憶”は、消えていくわけ」


「……っ」


言葉の意味が、ゆっくりと理解に変わる。


新しい記憶。

つまり――再会してからの時間。


ここまでのすべてが消えていく、ということ。

その瞬間、ある言葉が脳裏に蘇る。


『――最近の記憶が、ところどころ抜けているの』


零花の、あの言葉。

あれはこれが、原因だったのか。


魔女は、少し考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。


「解決するには、本物の零花ちゃんの記憶を消せばいいのだけれど」


その言葉はあまりにも淡々としていて、まるで些細な提案のように聞こえた。

だが、その中身は――あまりにも重い。


「……それじゃ意味がない」


考えるまでもなかった。


「過去があって、今の零花がいるんだろ」


零花の笑顔も、仕草も、言葉も。

すべては積み重ねてきた時間の上にある。

それを否定するなんて――できるはずがなかった。


「じゃあ、今の記憶は消えてもいいの?」


「それもダメだ。どっちの記憶もあって、零花なんだから」


揺るぎのない言葉。

それは理屈ではなく、確信だった。

魔女は、その答えに満足したように目を細める。


「ふふっ、欲張りさんね。どちらも手放したくない……それはつまり、“等価以上”を望んでいるということよ」


その言葉は、責めるでもなく、ただ事実を突きつけるものだった。


「……わかってる」


代償が重くなることくらい、もう覚悟している。

それでもなお、手放せないものがある。

それだけの話だった。


魔女はわずかに肩をすくめ、小さく息を吐く。


「……いいわ。他に方法がないわけではないもの」


その一言に、空気がわずかに揺れる。


救いの可能性。

だが同時に、それがさらに重い選択であることも、直感的に理解できた。


「ただし、その分の“容量”を、どこかから補う必要があるわ」


「……どういう意味だ」


喉の奥が、わずかに乾く。

それでも俺は問い返す。


逃げるという選択肢は、最初から存在しなかった。

魔女は、ゆっくりと――告げる。


「あなたの記憶を与えるの」


その瞬間、世界がわずかに遠のいた気がした。


「彼女があなたと過ごした時間。そのすべてを、あなたの中から切り出して――彼女に定着させる」


その一言一言が、確実に俺の中へと沈んでいく。


切り出す。定着させる。

まるで、それが当たり前の処理であるかのように。


「そうすれば、彼女は決して忘れない」


魔女の声は、どこまでも穏やかだった。

救いを提示するように。

そして、ほんのわずかに、間を置いて。


「けれどその代わりに――」


魔女の視線が、真っ直ぐに晴人を射抜く。


「あなたは、その思い出を失うわ」


静かに告げられたその言葉が、重く、深く、胸の奥に沈む。


思い出。

それは零花と過ごしてきた時間、そのすべて。

笑ったことも、話したことも、すれ違ったことも。

やっと取り戻した、大切な日々。


それらが自分の中から、消える。

代わりに、零花の中に残る。


――それで、本当にいいのか。


喉が詰まる。

言葉が出ない。

思考が、追いつかない。

それでも選ばなければならない。


「……どうする?」


静寂が重く落ちる。

魔女の問いは消えず、逃げ場も時間も与えられていない。

それでも、答えは決まっていた。


「……それでいい」


ぽつりと呟き、俺は迷いなく言い切る。


「俺の記憶を、全部使え。零花が生きられるなら、それでいい」


それは、自分自身を削る選択だった。

これまで積み重ねてきた時間も、ようやく取り戻した想いも、すべてを手放すことになる。


「どうせ……忘れるのは俺だけなんだろ」


自嘲気味に笑いながらも、その声は揺らがない。


「だったら問題ない」


零花が覚えていてくれるなら、それでいい。

自分が忘れても、その想いまで消えるわけじゃない――そう信じるしかなかった。


その瞬間。


「やめて……!」


か細い声が割り込む。

腕の中の零花がわずかに身じろぎ、震える瞳で俺を見上げた。


「そんなの……ダメよ……私のために……そんなこと……しないで……」


弱々しく、それでも必死に服を掴む手には、確かな拒絶が込められている。


「せっかく……会えたのに……忘れられるなんて……嫌よ……」


涙がこぼれる。

その言葉は、本物の零花と、今ここにいる零花、その両方の想いが重なったものだった。


「私のこと……ちゃんと覚えていてほしい……」


当たり前で、切実で――あまりにも残酷な願い。


握られた服の感触が、はっきりと伝わってくる。

こんなにも、ここにいるのに。


この温もりも、声も、表情も。

全部、忘れてしまうのか。


――それで、本当にいいのか。


心が、揺れる。

今まで積み重ねてきた時間が、頭の中に浮かんでは消えていく。


笑い合った日々。何気ない会話。

ようやく、取り戻したものだった。


それを自分の手で、手放す。


――怖くないわけがない。


喉が詰まる。声が、出ない。


それでも。


それでも――


「……それでも」


ゆっくりと、言葉を紡ぐ。

零花の手を、そっと握り返す。


「それでも……俺は、零花を助けたい」


震える声だった。

迷いが消えたわけじゃない。

恐怖がなくなったわけでもない。


「忘れるのが、俺でよかったって思えるくらいに」


一度、言葉を区切る。

そして、まっすぐに見つめる。


「零花が生きてくれるなら……それでいい」


それは、綺麗な決断なんかじゃない。

ただの、わがままだ。

自分が忘れてもいいと思うことでしか、救えない選択。


それでも、それしか選べなかった。


「ごめんな……零花。お前の願い、全部は叶えてやれない」


覚えていることも。

生きてほしいという願いも。

両方を守ることは、できない。


「でも……生きててほしいんだ」


その一言に、すべてを込める。

零花の手を、強く握る。


「だから――」


ゆっくりと、顔を上げる。

魔女を、まっすぐに見据える。


「やってくれ」


その言葉は、もう揺らがなかった。

俺の言葉を受けて、魔女はゆっくりと微笑む。


「契約成立ね」


その声はどこか優しく、それでいて抗えない確定を帯びていた。


「大丈夫よ。想いは力になるっていうもの。貴方達なら……きっと」


そう言って、魔女はそっと手を掲げる。


空気が、変わる。

目に見えない何かが、空間を満たしていく。


淡い光が、足元からゆっくりと広がり、やがて俺達を包み込んだ。

温かい――けれど、どこか切ない光。


それはまるで、記憶そのものが形を持ったかのようだった。

俺の中で、何かがほどけていく。


触れていたはずの感情が、少しずつ遠のいていく。

確かにそこにあったはずの時間が、輪郭を失っていく。


零花と過ごした日々。

笑い合った瞬間。交わした言葉。

その一つ一つが、光となって零花へと流れていく。


「……っ」


声にならない。

何を失っているのか、理解しているはずなのに。

もう、それを“実感すること”すら、できなくなっていく。


それでも目の前にいる零花だけは、はっきりと見えていた。


「……はる、と……くん……」


かすれた声が、届く。

零花が、必死に言葉を紡いでいた。

その一言一言が、今この瞬間にしか存在しないことを、どこかで理解しているかのように。


「……ありがとう……」


涙が、頬を伝う。


「……ごめん、ね……」


途切れそうな呼吸の中で、それでも想いを伝えようとする。


「……でも……」


震える唇が、最後の言葉を形にする。


「……だい、すき……」


その言葉が、空間に溶ける。

次の瞬間、光が、一気に膨れ上がった。


視界が白に染まる。

すべてを飲み込み、すべてを塗りつぶすように。


そして――何もかもが、静かに消えていった。

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