三角関係
ユウカが亡くなったのは、九月の初めのことだった。夏休みが明け始業式から数日が経っていた。彼女は学校近くの神社の石段から落ち、頭を強く打って死亡した。俺が夏休みに教えたあの神社だった。
俺はその報せをユウカが死んだ次の日に学校で知った。その日の朝、パトカーが校庭に停まっているのを不思議に思ったのを覚えている。一限が終わるとクラスがざわついていた。授業時間中もずっとスマホをいじっていた奴が、俺の顔を見て何か云いたそうにしていたとき、放送が入った。内容は高松優香が今朝、死体となって発見されたという衝撃的なものだった。俺は最初、それらの言葉の意味が理解できなかった。スピーカー越しでもよく通る校長の声が、ユウカが神社の石段から転落したことなどの詳しい事柄を伝えると、教室のざわめきは最高潮に達し、俺もそのときになって、ようやく事態が飲み込めた。
彼女が死んだ……。
悲しみなのか怒りなのか、得体のしれない感情が胸のうちから怒涛のように押し寄せてきて、俺は叫びだしたい気分になった。
ミツルが俺の席に近づいてきた。
「こういうときに何て声をかけるべきかわからない自分が嫌になるよ。ねえ、その大丈夫?」
俺は弱々しく首を横に振り、
「ユウカが死んだって本当なのかよ。どういうことだよ。意味わかんねーよ。なあ、どうしてなんだよ」
感情の赴くままにそう云った。いきなりこんな冷酷な現実に直面しなければならないことについて無性に苛立ちを覚えた。クラスメイトたちが戸惑いがちにこっちを見ているのがわかった。その不躾な視線が俺の苛立ちを一層大きくした。
「こんな風に云ったところで効果はないかもしれないけど――ねえ、マサキ、冷静になることだよ。とにかく、落ち着いて」
「落ち着いていられるわけないだろ!」
俺は思わず叫んだ。ミツルは残念そうにかぶりを振って自らの席に戻っていった。俺は舌打ちを一つし、そのまま机に突っ伏した。そして、昨日ユウカと最後に話したときのことを思い返した。
ユウカの教室を尋ねたのは、昼休みのことだった。ユウカは窓際の席で女子の友達と談笑しながらゆっくりとパンをかじっていた。俺は彼女に近づいて、後ろからそっと肩を叩いた。ユウカは飛び上がって振り向き、俺だとわかると、静かに目を細めた。
「もう、びっくりした。何、どうしたの?」
「いや、ちょっと、伝えたいことがあってね」
俺は窓の桟に寄りかかりながら云った。
「おやおやあ、君は噂の彼氏君ではないですかあ」ユウカと一緒に昼食を食べていた女生徒が云った。確か三枝さんと云ったか。お調子者の娘だということは知っていた。「さては、二人っきりの甘―い密談ですか。もし、お邪魔なようでしたら、わたくし、席を外しますが」
と、三枝は悪戯っぽい目つきで俺を眺め、にまにまと唇の端を上げた。
「いやいや、そうじゃないから」と、俺は苦笑し、「むしろその逆で、今日は一緒に帰れないってことを云いにきただけだから」
三枝はちょっといぶかるように、
「本当に、それだけをわざわざ教室にまで云いに来たの? それだけを?」
「ああ、まあ。だって直接じゃないと、ユウカと連絡がとれないからさ」
「あぁ、そういえば、そうね」三枝は首を何度か縦に振り納得した。「うん。今、ユウちゃん、スマホ持ってないんだもんね」
「そういうこと」
ユウカはつい二日前にスマホを壊したばかりで(鞄に入れていたら、水筒からお茶が漏れ、水没したらしい)、今も修理中だった。代わりのスマホもまだ届いてないみたいで、ユウカと連絡をとるにはわざわざ口頭で用事を伝えなければならなかった。もちろん、そんなことは俺にとって苦ではなかったが。
「どうして。何かあったの?」
ユウカは口元に手を当ててそう訊いた。
「うん。放課後に急に部活のミーティングが入ってね。帰りが遅くなりそうなんだ」
「解った。残念だけど、今日は他の人と帰るよ」
ユウカはあどけない仕草でこくりと頷き、上目づかいで俺を見つめてそっと微笑んだ。彼女の頭には、俺が夏祭りの時に渡した四葉のクローバーの髪飾りが付けられていた。これがユウカとの最後の会話だった。俺は今でもその時の様子をこうやって鮮明に思い出すことができる。ユウカは昨日間違いなくこの世界に存在していた。そのことを実感し、俺は静かに唇を噛んだ。
翌々日の夕方、彼女の家で通夜が行われた。その日は部活があったが、当然こっちを優先して、俺は父親から借りた喪服で参列することにした。ミツルも一緒だ。ミツルは制服のままだった。実のところ、ユウカの家を訪れるのはこれが初めてだった。恋人の家に初めて訪れる機会として、これほど忌まわしいものはなかった。帰宅時にユウカといつも別れるあの角を俺はこれまで一度として曲がったことはなかった。ユウカは俺に家まで来られるのを頑なに拒んだ。残念だったが、下心があると思われるのも嫌だった俺は、あまり強くは言わなかった。
それなりに大きな白い一軒家の周りには俺も含めた学校関係者の弔問客が多く見え、見覚えのある奴らが数人、みな一様に沈んだ面持ちをしていた。制服で来ているものの中には他校生の姿もあった。ユウカの中学時代の同級生かもしれない。参列していたのは生徒だけではなく、担任や学年主任などの教師の姿もあった。数学科の藤田のような、あまりユウカとは接点のなさそうな教師もいた。受付の人にお悔やみを述べてから芳名帳に名前を書き玄関を上がると、同級生の一人に、祭壇のある部屋まで案内された。ことのほか小さい棺の周りで、数人が嗚咽を漏らしていた。その中には三枝の姿もあった。俺は恐る恐る近づいた。三枝たちが俺に気付きはっと息を呑むのが解った。隣のミツルが不安そうな目つきで俺を見た。
棺を覗き込み、俺は思わずため息を吐いた。ユウカは穏やかな表情をしていた。まるで眠っているみたいで、彼女が死んでいるのだということは実感できなかった。今にも起き上がり、俺の大好きなあの笑顔を見せてくれるのではないかと期待さえしたが、もちろんそんなことはなかった。俺はそっと目を閉じた。ユウカとの思い出が瞼の裏によみがえる。彼女はもう二度と微笑んでくれないのだと思うと、とめどなく涙が流れ落ちそうだった。しかし俺はそれを堪えた。どうして耐えようとしたのかは自分でもよくわからない。意地のようなものだろう。……いったい俺は何に対して意地を張っているのか。ミツルは青ざめた顔で、花で埋もれたユウカの姿をじっと見つめていた。こいつはもしかしたら怖がっているのかもしれないなと俺は思った。唐突な同級生の死に得もしれぬ恐怖を感じているのかもしれない。
線香の匂いに混じって棺桶からの香りがわずかに漂っていた。ユウカのあの甘い香りはどこにもなかった。
棺のそばに立っていた年かさの女性が俺たちに向かって頭を下げた。服装やその仕草から品のよさが漂っていた。
「この度はお忙しい中わざわざお越しいただきましてありがとうございました。故人は――娘は――生前、ご学友の皆様に大変親しくさせていただき、本日皆様がご出席いただきましたこともさぞ喜んでいることと存じます」
ユウカの母親だろう。女性の顔には確かにユウカの面影がうかがえた。心もち、女性の肩は震えているように見えた。この人もまた思いがけない娘の夭逝に、言葉では表しようのない悲痛を胸に抱えているに違いない。そう思うと、どうにもやりきれない思いが胸に積もるだけだった。俺たちは口々にご愁傷様ですと云った。しかし、それにどれだけ心がこもっていようと、そう云った決まり文句が果たしてこの人へのどれほどの慰めになるのだろうか。
「わたしたちも本当に突然のことで驚いています」三枝が涙混じりに云った。「わたし、ユウちゃんとは、いちばんの親友だったんです。クラスも、部活も一緒で。二人でよく遊びに行きました。最近はちょっとそう云う機会も減ってたんですけど……でも、ユウちゃんが亡くなる前の日も、今度の日曜日に二人で買い物に行こうって約束したばかりだったんです。それなのに、どうしてこんなことに……」
三枝は目元を手で覆って、またわっと泣き始めた。周りの女子たちが彼女の背中を優しくさすった。ユウカの母親は湿っぽい声で、
「本当に娘は、幸せだったと思います。どうか皆様も故人の冥福をお祈りください」
「そこにいる彼は」三枝は俺を指した。「ユウちゃんの恋人だったんです」
俺は思わず身をこわばらせた。ユウカの母親は俺を見た。
「そうですか。あなたが……」
「俺のことを知っているのですか?」
「ええ、ええ」母親はしみじみといった風に頷いた。「ユウカから聞いております。運動会の時に知り合ったんですってね。あの娘と仲良くしてくれてありがとう。あの娘、ここ最近はいつもあなたのことを話していました」
母親は少し勘違いをしているようだ。俺とユウカが出会ったのは本当は五月の体育祭だ。運動会は九月。しかし、訂正するほどのことではない。
俺は何て云うべきか解らず、ただ黙っているだけだった。
しばらくして通夜の法要も終わり、通夜振る舞いが開かれた。食事をとる気分にはならなかったが、当然、断るようなことはしなかった。本当はユウカの母親ともう少し話をしたかったのだが、周囲に人が多すぎたのと、彼女自身、弔問客への対応で忙しそうだったので、諦めて、隣に座るミツルに話しかけることにした。ミツルは先ほどからずっと無口なままだった。
「なあ、ミツル。ユウカと最後に話したのはいつだった?」
「いつって……」ミツルは静かに箸を置いた。「ちょうどユウカちゃんが亡くなった日の放課後だったよ。ホームルームが終わったばっかだったから、十五時三十分くらいのことだと思う。すぐに部活に向かおうとしたら、これから帰ろうとするユウカちゃんと廊下ですれ違った」
「何か、話したのか?」
「うん。と云ってもたいしたことは話してないけどね。……実は、どんなことを話したかなんてほとんど覚えていないんだ。まさか、こんなことになるなんて思わなかったから……」
「ユウカがどんな様子だったかも覚えていないか? 何でもいい。どんな些細なことでもいいから気付いたことがあったら教えてほしいんだ」
ミツルは何かを云いたそうな眼をしたが、結局素直に答えてくれた。
「うーん、何というか急いでるようだった」
「急いでる?」
「うん、そう。焦っているっていうのとはちょっと違うかな。そう、急いでいる。待ちきれないって感じだったような気もする」
「待ちきれないだって? どういうことだ、それは?」
「どういうことだって云われても……」ミツルは困ったような顔をした。「思ったままのことを云っただけだから……。ねえ、マサキ、どうしてそんなことを訊くの?」
「……いや、何でもないんだ」
実は、このとき、頭の中ではある考えが持ち上がっていた。しかし、それをこの場でこの親友に話すことは憚られた。周りにはあまりにも人が多すぎたのだ。このことは、ユウカの母親にも直接伝えておきたい内容で、できれば他の人にもあまり聞かれたくはなかった。ミツルは不審そうにしながらも、別段、追及はしなかった。
通夜振る舞いの席はだいぶお開きの雰囲気になっていた。外も暗くなってきたので、生徒たちは早めに引き上げるように云われた。俺とミツルもそそくさとその場を辞そうとした。すると玄関まで向かった俺たちを引き留める声が後ろから掛かった。振り向くと、ユウカの母親が立っていた。
「あなた、確かユウカとお付き合いしていた子よね」母親は伏し目がちに云った。
「ええ、そうです」かすかにかすれた声で答えた。
「あなたに、改めてお礼を云いたいと思ったの」
そう云って、母親はかすかに笑った。その顔がユウカの見せるあの笑顔ととてもよく似ていたので、俺は胸が張り裂けそうな気分になった。母親は通夜の席とは違ってだいぶ砕けた口調だった。俺もそのほうが話しやすく気が楽だ。俺はそっと周囲をうかがった。生徒たちはあらかた家の外に出てしまい、玄関の間口に立っているのは、彼女と俺とミツルの三人だけだった。廊下の奥のほうから喧騒が漏れ聞こえた。お開きが近いとはいえ、いったん入った酒は中々抜けきらないのだろう。本人たちにはそのつもりはないのだろうが、傍からすれば、通夜の時の粛々としたムードは失せているようだった。
俺はあることを母親に伝えようかどうか迷っていた。しかし中々煮え切らず、視線をさまよわせていると、玄関付近の戸棚に置かれた花瓶が目に入った。花瓶には真っ白い清らかな花が差してあった。
「それ、あの娘が好きだった花なの」ユウカの母親はそんな俺を見て云った。
「あの……」俺は意を決して口を開いた。「一つ、どうしても気になることがあるんです」
「あら、何かしら」
「俺、ユウカが亡くなる前に少し話をしたんです。その時、彼女はあの場所に行くなんて一言も云っていませんでした。ユウカはどうしてあの神社に向かったのでしょうか?」
これは彼女が死んだことを聞いてからずっと考えていた疑問だった。隣でずっと無表情だったミツルが、考えてもみなかったとでもいうように、目を丸くしていた。
ユウカが亡くなった神社は八月に俺が彼女にいつか一緒に行こうと誘った場所だった。しかしその後は部活などで忙しくなかなか行くことは叶わなかった。だからひどい話だけど、そのうちに俺はそんな約束を忘れてしまっていた。彼女の死んだ場所を知って、俺はやっとその約束を思い出したのだ。彼女の方はその約束を覚えていたのだろうか。……わからない。だけどもし約束のことを思い出してあの神社に向かおうとしたのだとしたら、どうして彼女はそのことを俺に伝えてくれなかったのだろうか。そうすれば彼女は死なずに済んだのかもしれないのに……。俺は悔しくてならなかった。
その理由について一晩中考えてみたとき、俺はあることを思い付いた。そして、思い付いたその理由は俺にとって実に許しがたいものだった。
母親は首を振った。
「わからないわ。あの日、あの娘は家に帰ってこなかったの。直接、あの神社に向かったのね。せめて家に連絡でも入れてくれたらって、今更ながらに思うけど……。あの娘、携帯壊したばかりだったし、どうしようもないわね。私もあの娘の死体が発見されるまで、あの娘があの神社にいたなんて知らなかったのよ。ええ、私もそれが気にかかっていました。あそこは縁結びの神社だったらしいから、多分あなたについてのことで向かったのでしょうね」
数秒の逡巡の末、俺は彼女と夏休みに二人でそこに行こうと約束して、結局行かないまま、すっかり忘れてしまったということをまず説明した。そして、こう続けた。
「ユウカがあの神社に向かったのは俺のせいかもしれません」
母親は俺が何を言っているのか解らず混乱しているようだった。
「俺はこんな風に考えているんです。もしかしたら、ユウカは約束をすっかり忘れてしまった俺に怒っていたんじゃないか、俺を誘わないで一人であの神社に向かったのもその当てつけのつもりだったんじゃないかって」
もしその通りだったとしたら、俺は自分を自分で許せないだろう。俺は怖くなってその先を考えることができなかった。しかしその答えを知らないままというのも我慢ならなかった。ミツルにユウカの死の直前の様子を尋ねたのも、答えを知るためだった。
母親は少し驚いたように目をしばたかせて、
「……そう」
とうつむきがちに云った。俺は怒鳴られることを覚悟したが、彼女は意外にもやさしい目をして、
「ありがとう、教えてくれて。ええ、本当に」
俺は今にも泣きそうだった。ミツルはどうすればいいのか解らず、必死でかけるべき言葉を探しているようだった。
「だけどね、やっぱりわかりません、あたしには」母親が云った。この中でいちばん落ち着いているのは彼女であるような気がした。「あの娘は確かにあなたが言うような理由であの場所に行って、死んだのかもしれないし、そうでないかもしれない。けど仮に前者のほうだったとしても、あなたの責任ではないわ。ええ、これは本当です。こういう云いかたは誤解を招くかもしれませんが、でも云っておかなければならないことですから云います。あのね、たとえあの娘が、ユウカが、どんな理由であの神社に行こうと、結局のところ階段から足を滑らせて転落したのは、あの娘自身の責任よ。あなたが責任を感じることはないわ」
「そんな……俺は……」
「いいから。娘のことで自分を責めないでちょうだい」母親はあくまでも噛みしめるような口調で云った。「あたしは、あなたがあの子と交際してくれて本当に良かったと思っているの。あなたと付き合うようになってから娘は本当に変わったわ。前よりも性格が明るくて社交的になった。ええ、あなたには感謝してもしたりません」
「いえ……」
俺は驚いていた。彼女が俺と出会うまでは社交的でなかっただなんてまるで想像できなかった。彼女に俺がそれほどの影響を与えていたのだと思うと、切なくてたまらなかった。
しばし沈黙が流れた。その間、ユウカの母親はどこか遠くを眺めるような目つきをしていた。ユウカのことを思い出しているのだろう。
俺は口を開いた。
「あの、何か形見の品をいただけませんか。俺は夏休みに彼女に四葉のクローバーの形のストラップを贈りました。もしよろしければ、それが欲しいのですが」
母親は笑顔で承諾してくれた。ユウカの私物は彼女の自室に保管してあるらしい。棺に入ったユウカの遺体には髪飾りは付いていなかったから、おそらくは髪飾りもその場所に保管してあるのだろう。しばらくして、母親が戻ってきた。手には緑色の小さなアクセサリーが握られている。
「これで、いいのかしら」
「ええ、これです。本当にありがとうございます」俺は深々と頭を下げた。「これは俺にとって思い出の品なんです。ユウカへの最初で(そして最後の)贈り物でしたから。ユウカもそれを気に入ってくれていました。ユウカはそれをいつも髪につけていたんです。事件の日もそうだったはずです。」
「あら、おかしいわね」ユウカの母親は首を傾げた。「それ、あの娘の鞄の中にありましたよ。神社で亡くなっているのが発見された時、髪の毛には何も付けていなかったと思うけど……。もしかして、あなたたちの学校って、校則でアクセサリーの類とか、禁止されているのかしら」
「いえ……、そんなこと、なかったはずですけど」
うちの高校はそこまで規則が厳しくないことで有名だ。清水あやめのようなあまりにも派手なものならともかく、薄い化粧や髪飾り程度の小物だったら、教師もそれほど目くじらを立てることはない。実際、異性間交友にも比較的寛容で、俺とユウカが付き合い始めたという話が校内に広まっても、生徒指導室に呼び出されるような問題にはならなかった。俺はミツルに目配せしたが、ミツルはきょとんとしていて、事態をそれほど真剣には考えていないようだった。
母親は、そうよねえ、と首を捻りつつも、まあ、いいわ、とさほど興味なさそうに軽く頷いた。一方で、俺はどこか釈然としないものを感じていた。
「ねえ、あなたには本当に感謝しているのよ」母親は感慨深げに云った。「ええ、あなたと付き合ってからの娘は毎日が楽しそうだった。からかうと顔を真っ赤にしていました。最初は誰と付き合っているのかどうしても教えてくれなかったのよ」
俺の知らないそうしたユウカの様子を想像すると胸が熱くなった。しかし、母親は続けて、とんでもないことを云った。
「でもね、最近になってようやく教えてくれました。五月ごろだったかしら。あの娘、あたしに向かって嬉しそうに言ったの。『今日、私の付き合っているマサキ君っていう人と一緒に帰ったの。楽しかったなあ』って。多分、ついポロリと洩らしちゃったのね。あたし、へえマサキ君っていう子と付き合っているんだあ、って思って……」
「ちょっ、ちょっと待ってください⁉」俺は思わず叫んだ。「えっ、今、五月ごろって云いました?」
彼女の口ぶりではまるで五月以前から誰かとの交際が始まっているようだった。誰かとの――。
すると母親は怪訝な顔をして、
「ええ、云いましたけど」
俺は尋ねた。
「彼女が誰かと付き合っている様子を見せたのは何月からでしたか?」
心臓の鼓動が速くなっているのがわかった。俺はただの思い違いであってくれと思いながら――
「ええ、だから、運動会の時でしょ。今からちょうど一年ぐらい前、去年の九月ごろだったけど。それがどうかしたの。あなた、自分が告白した日付も覚えていないの?」
俺とミツルは混乱する頭で高松家を出た。
……いったいこれはどういうことなんだ? ……ユウカは俺と付き合う前に誰かと付き合っていた? しかし彼女は誰とも付き合ったことがないと云っていたじゃないか。あれは嘘だったのか? それしか考えられないが、だけど、どうしてそんな嘘を…… まだ恋愛経験のないうぶな少女を演じようとした? ユウカはそんなタイプには見えない。……いったいどういうことだろう。母親の思い違い? いや、そんなことはないだろう。ならいったい。……本当に可能性はそれしかないのか? そうじゃない、もう一つある。だがそれはあまりにも荒唐無稽というか、ユウカに似つかわしくないというか。……だけど、俺はそもそも彼女のことを何か一つでもまともに知っていたのか? 解っていたのか? 本当にそうじゃないと自信をもって断言できるのか?
ユウカが二股をかけていなかった、と。
俺はその考えを必死に打ち消そうとしたがなかなか消えなかった。彼女は俺と付き合う以前に誰かとすでに付き合っていて、そのうえで俺の告白を受けた。その可能性だってゼロではない。
……他にも不自然なところはある。例えば、よく考えたら、彼女が俺の告白を了承したのがそもそもおかしいことのようにさえ思った。ユウカに告白したのは彼女と出会ってまだ一か月かそこらしか経っていなかった。緊張して有頂天になっていてまるで思い当らなかったけど、本当にそんなことがあるのか? 俺は別に彼女に好かれる要素が自分にあったとは思えなかった。
もちろん彼女には誰か元彼がいて、そいつと付き合っていたことを何らかの事情で隠したいと思ったということは充分考えられる――どちらにせよあまり考えたくないが。
……そうだ。そうに違いない。そうに決まっている。
とにかく悪いほうへ悪いほうへと暴走する思考を何とかして押さえつけようとしている俺に対して、ミツルが深刻そうな顔で云った。
「ねえ、マサキ。何を考えているの? まさか……」
「なあ、ミツル。どうしたらいいんだろう。さっきから考えが嫌なほうにしか進まないんだ。俺はユウカのことが好きだった。こういうセリフはクサいかもしれないけど、愛していたっていってもいいかもしれない。でも、今、俺はユウカのことが信用できていないんだ。ユウカのことを疑ってしまっている。馬鹿げた考えだということは解っているんだ。でも、どうすることもできない……」
「…………」
俺の悲痛な声に、ミツルもまた辛そうな顔をした。
「俺は――ミツル、お前も疑っているんだろう? 俺は、ユウカが浮気していたんじゃないかって想像しちまってるんだ。ふざけた、突飛な妄想に聞こえるかもしれない。でもさ……。なあ、ミツル。お前はどう思っているんだ。お前の考えを聞かせてくれ」
「……さあ、解らないよ。これだけじゃあ、何とも云えない……。他に何か心当たりでもあったの?」
「…………」俺は黙って首を横に振った。「どうかな。特にはっきりとしたものはないな。けど、今思えば、ユウカが俺の告白を受け入れてくれたことが自分でもおかしいような気がして」
「うん、確かに。それは思った。出会って一か月で告白を受け入れるのは何か裏があるようにも感じた」ミツルは気まずそうに、「マサキは、ユウカちゃんがマサキの告白を受け入れた理由について、本人から何か聞いていないの?」
「いちおう、訊いてみたことはある」
「…………」
「俺もさ、やっぱり気になっていたんだ。ユウカみたいな可愛い娘がさ、どうして俺なんかと付き合ってくれたんだろうって。俺はお前みたいに顔も良くないし、身長もお前と同じ一七〇くらいだ。かといって、勉強やスポーツが取り立ててできるってわけでもないしな」
だから、尋ねた。
「そしたらさ、ユウカのほうも俺に一目ぼれしていたって云うんだ。俺は舞い上がっちまった。何ともお気楽な思考回路だなと自分でもつくづく思うけど、俺はこれを信じてたんだよ。いや、そもそも、疑うなんて思いもしなかった」
「……そう」
ここまで自らを呪わしく思ったことはなかった。俺は奥歯をぎゅっと食いしばった。
「ねえ、マサキ。あの髪飾りについてはどう考えている」
「髪飾りって、これのことか?」
俺はポケットから先ほどユウカの母親から受け取ったばかりの四葉のクローバーの髪飾りを取り出した。
「そう、それ」
「どうって……。これがユウカの二股云々と何か関係があるのか?」
「……うん。ちょっと、今、とんでもないことを思い付いちゃったんだ」
「とんでもないこと?」
「うん……。その髪飾り、ユウカちゃんの髪についていたはずなんでしょ。それなのに、ユウカちゃんの死体の髪にはついていなくって、その鞄に仕舞われていた」
「ああ。そう云えば、それも不思議だよな。女の子って、髪飾りとかわざわざはずしたりするもんなのか?」
「いや、そんなことはないよ。……それとね、マサキはユウカちゃんが一人であの神社に行った理由についても気にしていたでしょ」
「……そうだけど」
そうだ。結局、それも解っていない。最初はユウカの俺が約束を破ったことに対する当てつけが理由かと思った。……というか、それ以外に思い浮かばなかったんだ。だが、いったんユウカのことをこうして疑い始めると、この推測も疑わしくなる。
「それがいったい、どうしたって云うんだ? 何か解ったのか?」
ミツルは何度か首を横に振った。しかしそれは否定の仕草というよりは、何か恐ろしいものを見て、ぶるぶると震えているかのようだった。
「そうなんだけど……」ミツルの言葉は歯切れが悪かった。「まだ、あくまでも、勘に過ぎないよ。だから、何も云えない。そんな軽々しく云えるようなことじゃ、ない……」
ミツルが何を云いたいのか、あるいは云いたくないのか、さっぱり解らなかった。俺は幾度か質問をしたが、ミツルはその口を固く閉ざし、その後はもう何も云おうとしなかった。
交差点でミツルと別れた。意味深な発言をしてからずっと沈黙を保っていたミツルは、しかしその交差点に着いたときに、俺が「さよなら」とだけ云って、そのまま別れようとすると、不満そうに深いため息を吐いた。
「マサキ、他に何か云うことはないの?」「何かってなんだよ」感謝の言葉とかだろうか。「やれやれ。まあ、もういいや」ミツルは肩をすくめた。「もういいって、何がだ?」「何でもない。じゃあね」
ミツルは信号が点滅し始めた横断歩道を威勢よく駆けていき、その姿はみるみるうちに夜の闇に紛れ見えなくなってしまった。
家に着いたのは夜八時くらいだった。予定よりもだいぶ遅い。どっと疲れがやってきた。今日一日であまりにも色々なことを経験したように思う。俺を気遣う素振りを見せつつも、通夜の様子を尋ねたがっているお袋への対応もそこそこに、俺はざっとシャワーだけを浴びて(湯船にゆっくりと浸かるのも億劫だった)、そのままベッドに倒れこんだ。頭の中がごちゃごちゃだった。やがて睡魔の波が混濁した思考を全て包み込むように襲ってきた。俺はそれに抗いつつも段々と呑まれていった。眠りの淵で俺がずっと考えていたのはミツルがほのめかしていたクローバーの髪飾りのことだった。あいつは何が云いたかったのだろう。そしてついに限界が訪れ、俺は眠りの谷底へとゆっくりと吸い込まれていった。そのほんの一瞬のあるかないかの意識の中で、俺はミツルの云いたかったことにようやく気付いたような気がした。