一目ぼれ
俺がユウカを初めて意識したのは高校二年になる春、四月のことだった。
新学期の始まり、校舎の前にはクラス替えの掲示を見ようと大勢の生徒がたかっていた。俺もその例にもれず、首を伸ばして人垣の間から何とかして自分の名前を探そうとしていた。二年三組のところに「風間正輝」という文字を見つけるとすぐにそこから離れた。人ごみは苦手だった。
するとふと甘い香りを嗅いだ。目の前を横切った女生徒のものだった。彼女は掲示板の前で先ほどの俺と同じように必死に自分の名前を探していた。俺は遠くから彼女の容姿を眺めてみた。綺麗だな、という感想が真っ先に浮かんだ。さらりと伸ばした黒髪と整った目鼻立ちは彼女が美人だということをはっきりと示していた。俺は興味が惹かれて彼女の視線の先を追ってみた。名前が知りたくなったのだ。けれど、離れたところからでは彼女の名前どころかクラスすらわからなかった。
彼女は自分の名前を認めたらしく、しばらくすると体育館の方に向かってしまった。始業式がそこで行なわれるのだ。跡を追いかけようと一瞬思ったが、友人を待っていたし、一目見ただけの女の子にそこまでするのも何だか変な気がしたので、その場にとどまることにした。
一年生の頃に彼女を見かけたことはあっただろうか。考えてみたがわからなかった。見かけたような気がしなくもないが、結局のところ覚えていない。それなのにどうして俺が彼女にここまで心を揺り動かされたのかは正直、見当もつかなかった。
始業式の後、新しい教室で彼女の姿を探してみたけれどいなかった。他のクラスのようだ。俺は興がそがれたようなもやもやとした気持ちになったのを覚えている。俺の高校は一学年に四百人くらいいるマンモス校なので、目当ての人物を探し出すのは中々難しい。不思議なことに、彼女の姿を廊下で見かけることさえしばらくはなかった。結局俺は、彼女のことを何一つ知ることはできなかった。
彼女の名前を知ることができたのはそれから一か月後のことだった。
俺の通う高校では珍しいことに体育祭が二度開催される。一度目は五月、二度目は九月に。俺は実行委員に選出されたわけだが、どちらの準備にも努めることになる。二度の体育祭は競技内容や名称は若干違うけれど(五月のは体育祭、九月のは運動会とふつうは呼ぶ)、本質は変わりないのではないかと思う。つまりは学校の煩わしい授業から解放されて丸一日を健全なるスポーツに費やす日。また次の日からは普通に授業があるというのに、そんなこと考えもしないで、持てるエネルギーの全てを燃やし切ってしまうかのように誰もがはしゃいでいる。俺もその例にもれず、張り切って祭りに挑んだ。リレーのアンカーもつとめ、結果は二位だったけどかなり健闘したように思う。そうしてまさしく活力の全てを使い果たした俺は体育祭の後、かなりへとへとになっていた。
疲れはてていたのは他の実行委員も同じだったみたいで、そいつらは何と、いくつか残っていた体育祭の片づけをさぼって帰ってしまった。仕事を押し付けられた俺は苛立っていた。
ハードルを乗せたリヤカーを体育倉庫に引きずっていくと、そこに彼女がいた。俺はあまりにも驚いて「うわっ」と声をあげてしまった。今思い返しても恥ずかしい。彼女もそんな俺を見て驚いた様子だった。俺は彼女に尋ねた。
「ええと、君は?」
彼女は実行委員の腕章を付けていなかった。つまり、実行委員ではないはずだ。実際、前日の委員会では彼女の姿は見かけなかった。だから、実行委員でもないはずの彼女が、こんな体育倉庫にいることはどうもおかしかった。
「どうしてここにいるの?」
「えーと」と彼女は答えた。「友達に頼まれたの」
「友達?」
「うん、そう。友達が体育祭の実行委員でね、今日は用事があるから、代わりに後片付けをしてくれって頼まれたの。どうしてもっていうから、仕方なく、ね。今年は違うけど、去年は実行委員だったから、勝手は解っているし」
彼女は両手に抱えたカラーコーンを見せながら笑った。柔らかな笑みで、始業式の日に嗅いだあの甘い匂いがよみがえってくるようだった。
そうか、去年も実行委員やっていればよかったな。そうすれば、もっと早く彼女と知り合えたかもしれない。俺は自分の頬が熱くなるのを感じ、そのことをごまかすように言った。
「それって押し付けられたってこと? なら俺とおんなじだね。俺も、他のさぼって帰ったメンバーの尻拭いをしてるからさ」
と、憎まれ口をたたきつつ、俺は内心、そのさぼった奴らに感謝していた。彼女とこうして話をすることができたのは、一応はそいつらのおかげだからだ。
「そうだね」
「藤田先生も人使いが荒いよ。リヤカーに物を乗せるだけ乗せて、後は運んどいてくれ、だ。さぼったやつがいるって話しても、そうですか、なら君がその分働かないといけないね、がんばってねって普通に言うんだもの。そのくせ自分は会議か何だかでどっかに行っちゃって、手伝ってくれないし」
俺は大げさに溜め息をついた。藤田先生は数年前に赴任してきた数学科の教師だ。おだやかな物腰と優しい口調、眉目秀麗でもあるので女生徒からの人気が高い。学生時代はテニスをやっていたとかで、意外と体育会系だ。毎年体育祭実行委員のまとめ役をしている。生徒思いの良い先生で俺も嫌いではないのだが、融通が利かないのが玉に瑕だと思う。
彼女は俺の愚痴に微笑んだ。
「でも、仕方がないよ。あの先生も悪気があって言ったわけじゃないんだし」彼女は云った。「むしろ私は活躍できなかったぶん、こういうところでがんばらないと」
けなげな態度に好印象を抱いた。俺は思わず尋ねた。
「ねえ、名前訊いていい?」
「えっ」
「俺は風間っていうんだ。風間正輝」
彼女はしばらく呆気にとられたようだったが、急におかしくてたまらないという風に、くすくすと笑いだした。理由がわからず俺は狼狽えた。
「風間君でしょ、うん、知ってるよ」
「えっ、どうして?」
「だって体育着に書いてあるじゃない」
彼女は口元を抑えながら、俺の胸元を指差して云った。確かにそこには金字の刺繍で小さく俺の名前が書かれている。俺は「あっ、そうか」と云った。
彼女は自分の胸元をつまんで、
「私は、ユウカ。高松優香っていうの。よろしくね」
その笑った顔は今日見た中でとびきり一番輝いていた。
その後、家に帰って、夕飯を食べ、シャワーを浴び、ベッドの上でごろごろしながらマンガを読み、時たま机に向かって明日の予習をしようとはしてみるも、彼女の笑顔が頭に度々浮かんできて全く集中できず、しまいには布団を頭からかぶって、「あー」とか「うー」とか唸りながらベッドで寝返りを打ったら、そのまま転げ落ちて頭を床で打ち、はっと冷静になってみて初めて、俺は彼女に恋をしたことに気付いた。
俺はこれまで恋愛なんてしたことは一度もなかったから、どうすればいいのかまるでわからなかった。俺の信条にわからにことは人に訊くのが一番というものがある。だから俺は迷わずこの恋を友人に相談することにした。
翌日の昼休み、俺は親友のミツルを誘って、昼食を共にすることにした。ミツルはまず間違いなく俺の一番の友人だと断言できる。小さい頃から家が近所でよく一緒にサッカーをしたりして遊んだものだった。小学校、中学も同じで、こいつになら何もかも話せる、というほど俺らは互いのことを信用していた。こいつは整った顔立ちをしているのに気取ったところがないので、男子からも女子からも好かれていて、特に女子からの人気が高い。ミツルなら少なくとも俺よりは女心をわかっているはずだ。昼休みになるとあっという間に周りを女の子に囲まれてしまうので、昼食に誘いだすのには苦労した。あまり他の奴に聞かせたくない話題なので、ひと気のない中庭のベンチに座って俺は弁当箱を広げた。
「マサキと一緒にご飯を食べるなんて久しぶりだ」と、ミツルは嬉しそうに云う。
確かに最近はご無沙汰しているように感じる。とはいえ、昼休みどころか普通の休み時間まで女子と楽しそうに会話に花を咲かせているところに割って入る勇気は俺にはないのだ。
「なあ、聞いてほしいことがあるんだ」
俺はさっそく切り出した。
「どうしたの?」
俺はミツルに昨日のことを全部話した。ユウカとの会話や印象、そして俺が彼女に恋をしてしまったこと、洗いざらい全て。ミツルは始めは面食らったようだったが、徐々に真剣な顔になって話を聞いてくれた。話し終えると、
「そっか、うん、そうかそうか」と、しきりにうなずいていた。何を納得しているんだ、と訊くと、
「ついにマサキが恋愛かあ、と思うと感慨深くて。今まで何年も一緒にいたけど、浮いた話なんてまったく聞こえてこなかったからね」
「それはお互い様だろう」
と、俺は唇をとがらせて云う。ミツルは俺なんかよりもよっぽどモテているはずなのに未だに誰かと付き合っているという話を聞いたことがない。ミツルは笑って、
「『僕は人を好きになることに疲れてるんだ。尊敬できる人と出会わせてくれと神様に祈っているよ。』」
と、芝居めかした口調で云った。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンの台詞だった。こいつはサリンジャーの小説が好きで、時々こういった風に気に入った言葉を引用する癖がある。俺は苦笑して、
「お前らしいや」
ミツルはそこでまた真面目な表情に戻って、
「正直、何て言ったらいいのかわからないよ。こういうの、あんまり得意じゃないんだ」
俺はたいしてがっかりしなかった。
「そうか、お前なら恋愛相談とかしょっちゅう受けているものかと思っていたんだけど」
「確かに相談されることは多いけど、自分でもまともなアドバイスができたとは思ってないよ」
俺はうなずいて、
「うん、でも、ありがと。聞いてもらえるだけでだいぶ楽になった気がする。多分、他のもそうなんだろうな。みんな聞いてもらうだけで、けっこう肩の荷が下りたような気分になるのかもしれない。お前になら多分安心して話せるんだろうな」
「だと、いいけどね」
ミツルはまだいくつか中身の残っている弁当のふたを閉じて、立ち上がり、
「月並みな助言しかできないけれど、一つ言うなら、自分のしたいようにするのがいちばんだと思う」
と云って教室の方に戻っていこうとした。俺は慌てて、弁当はもういいのか、と頓珍漢なことを後ろから尋ねる。ミツルは「もうおなか一杯なんだ」と、足早に去っていった。俺は取り残されたような気分になってしばらくぼうっとしていた。そうして空っぽになった頭に浮かんできたのはやっぱりユウカの昨日の笑った顔だった。