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第二章 第二話 星恋の秘湯 ─ 奇跡への道標

星恋の秘湯。

その名前を思い出した瞬間、ぼくの中で止まりかけていた時間が、再び動き出した。

以前、ミレイと一緒に訪れた場所。

人の足では辿り着けないほどの高さにあり、夜には手が届きそうなくらい近くに星々が輝く、小さな秘湯。

あの場所には、不思議な安らぎがあった。

病名も分からない。

治療法も見つからない。

それでも、あの場所なら。

何かが変わるかもしれない。

ぼくはスマートフォンのような見た目の端末を取り出した。

画面を操作し、以前も二人で利用したメタリックブルーの乗り物を呼び出す。

あのときは、これから二人で見る景色を楽しみにしていた。

けれど、今は違う。

少しでも早く、ミレイを連れて行かなければならない。

やがて、窓の外へ青い光が差し込んだ。

静かな起動音。

朝焼けの空の下に、流線型の美しい機体が到着していた。

ぼくはミレイのもとへ戻る。

「ミレイ。少し移動するよ。」

そう声をかけながら、慎重に抱き上げた。

熱い。

一晩中看病を続けていたのに、身体の熱は少しも下がっていない。

ミレイは苦しそうに眉を寄せ、それでもぼくの服を弱々しく握った。

「……いっしょ……?」

掠れた声。

その小さな問いかけに、胸が締めつけられる。

「うん。一緒に行くよ。」

「星恋の秘湯へ。」

ミレイはぼくを見つめた。

そして、ほんの少しだけ安心したように目を閉じた。

ぼくはその身体をしっかりと支え、機体へ運んだ。

あの日も、二人で乗った乗り物。

けれど今、腕の中のミレイは、自分の力で立つことさえ難しい。

ぼくは慎重に寝かせ、身体が冷えないようブランケットを掛けた。

そして機体を発進させる。

朝の空。

遠くに広がる山々。

ゆっくりと流れる雲。

以前なら、きっと二人で眺めていた景色だった。

でも今は、その美しさを楽しむ余裕なんてなかった。

ぼくは自動操縦の状態を確認しながら、できる限り機体が揺れないように速度を調整する。

少しの振動でも、ミレイの身体へ負担をかけたくなかった。

ときどき振り返る。

熱で赤くなった頬。

汗で濡れた水色の髪。

浅く、苦しそうな呼吸。

「……ミレイ。」

名前を呼ぶ。

ミレイは目を閉じたままだった。

ぼくは額のタオルを替え、機内の温度を確かめる。

「もう少しだから。」

そう声をかけると、ミレイの指先が微かに動いた。

ぼくの声が届いているのだろうか。

その小さな反応が、たまらなく愛おしかった。

もし、間に合わなかったら。

そんな恐れが、何度も胸をよぎる。

でも、そのたびに思い出す。

昨夜、苦しい中でも笑おうとしていたミレイの顔。

そばにいてほしいと願ってくれた声。

そして、ぼくの手を握り返してくれた温もり。

絶対に諦めたくなかった。

ぼくは再び前を向く。

機体は朝の空を静かに進み続けた。

やがて。

山々の向こうに、白い朝霧が見えてきた。

その先に、小さな湯気が立ち上っている。

星恋の秘湯。

「……ミレイ、もうすぐだよ。」

あの日、二人で訪れた場所が近づいてくる。

人の足では辿り着けない、高い場所にある秘湯。

周囲を森が囲み、季節ごとに色とりどりの花が咲く。

今は、たくさんの薔薇が咲いていた。

以前は二人でその景色を楽しんだ。

けれど今日は、花を眺める余裕さえなかった。

ぼくは機体を慎重に着陸させ、急いで外へ出た。

秘湯のすぐそばへ、大きなマットを広げる。

ミレイが少しでも楽に横になれるように。

準備を終えると、再び機体へ戻った。

「ミレイ、着いたよ。」

そっと抱き上げる。

熱は、まだ高い。

それでも秘湯へ近づくにつれ、ミレイの表情がほんの少し和らいだように見えた。

ぼくは慎重に歩き、用意したマットの上へミレイを寝かせた。

長い水色の髪が、柔らかく広がる。

冷たいタオルを額へ置き、身体を包むものを整えた。

そのときだった。

秘湯から立ち上る白い湯気が、ゆっくりとミレイの方へ流れてきた。

まるで、そこにいることを知っているかのように。

柔らかく。

優しく。

湯気はミレイを包み込んでいく。

ぼくは思わず息を呑んだ。

すると。

苦しそうに寄せられていた眉が、ほんの少し緩んだ。

浅かった呼吸も、わずかに落ち着いていく。

「……ミレイ?」

ぼくはそっと額へ触れた。

まだ熱い。

けれど、その表情には確かな変化があった。

「……よかった。」

思わず言葉が漏れた。

ここへ来た意味はあった。

あの不思議な湯気は、ミレイの苦しみを少し和らげてくれている。

ぼくはそう感じていた。

このまま。

このまま、よくなってくれたら。

そう願いながら、ミレイのそばで様子を見守った。

けれど。

時間が経っても、熱は下がらなかった。

額へ触れる。

まだ熱い。

呼吸も、少し穏やかになったとはいえ、苦しそうなままだった。

ぼくは何度もタオルを替えた。

汗を拭いた。

身体が冷えすぎないように気をつけた。

何度も名前を呼んだ。

それでも、状態がよくなる気配はなかった。

秘湯の湯気は、確かにミレイを和らげてくれている。

でも、治してくれているわけではない。

少しずつ、時間だけが過ぎていった。

空は夕暮れの色へ変わり、やがて深い藍色に染まっていく。

そして、夜が訪れた。

星恋の秘湯の夜。

空には無数の星々が広がっていた。

天の川が、空を横切っている。

地上から遠く離れたこの場所では、まるで星々がすぐそばにあるように感じられた。

以前なら、ミレイと並んで見上げていた景色。

あのときは、二人で笑っていた。

手を繋いで、流れる星を探していた。

でも今は。

ぼくの隣で、ミレイが苦しそうに眠っている。

「……ここでも、駄目なのか……。」

思わず、声が漏れた。

メディカルAIでも原因が分からない。

この秘湯でも、熱は下がらない。

もう、何をすればいいのか。

ぼくはミレイのそばへ座り込み、拳を握った。

こんなにも近くにいるのに。

こんなにも大切なのに。

どうして、助けられないんだ。

一瞬、目の前が暗くなるような気がした。

けれど、すぐに顔を上げる。

いや。

こんなことを考えている場合じゃない。

何かあるはずだ。

まだ、方法があるはずだ。

考えろ。

思い出せ。

そのときだった。

夜空の彼方を、一筋の光が横切った。

流れ星。

長く尾を引きながら、遠い山の向こうへ落ちていく。

ぼくは、はっと顔を上げた。

その光が消えたあとも、しばらく夜空を見つめていた。

流れ星。

どこか遠い場所へ落ちていった、あの光。

そのとき、ふと、以前聞いたある伝承が脳裏に蘇った。

星花神宮。

雲に届くほど高い場所にあると伝えられる神域。

かつて、その神宮の境内へ流れ星が落ちたという。

大地にできた窪み。

そこに、奇跡の花が咲くと伝えられていた。

どんな願いでも叶えるという、不思議な花。

けれど、その花はいつでも咲いているわけではない。

いつ咲くのかも、誰にも分からない。

そして、誰もが出会えるわけではなかった。

神宮へ続く険しい獣道を、自分の力だけで進むこと。

その道に待つ、いくつもの試練を乗り越えること。

そして何より。

曇りのない、純粋な想いを持ち続けること。

そのすべてを越え、境内へ辿り着いた者にだけ、奇跡の花と出会う権利が与えられるという。

昔聞いた伝承だった。

本当に存在するのかも分からない。

ましてや、そこへ辿り着ける保証なんてない。

けれど。

ぼくは、もう一度ミレイを見る。

苦しそうに呼吸する横顔。

汗で濡れた水色の髪。

熱を持った頬。

その姿を見た瞬間、胸の奥に一つの想いが灯った。

ミレイを助けたい。

ただ、それだけだった。

どれほど険しい道でも。

どんな試練が待っていても。

あの花に会える可能性があるのなら。

行くしかない。

ぼくは立ち上がろうとした。

けれど。

その足が止まる。

ミレイを、一人にするのか。

今だって、こんなに苦しそうなのに。

もし、ぼくがいない間に何かあったら。

もし、目を覚まして、ぼくを探したら。

そんなことを考えると、どうしても離れることができなかった。

ぼくは再びミレイのそばへ座る。

そっと手を握った。

「……ミレイ。」

返事はなかった。

ただ、弱い呼吸だけが続いていた。

行かなければ、助ける方法は見つからないかもしれない。

でも、離れれば、今のミレイを守れなくなるかもしれない。

どちらも怖かった。

それでも、時間は過ぎていく。

ぼくは何度も夜空を見上げた。

そして、眠るミレイへ視線を戻した。

そのとき。

ふわりと風が吹いた。

甘く、心地よい香り。

ぼくは顔を上げる。

秘湯の周囲に咲いている、ラブの薔薇だった。

以前、二人で訪れたときにも咲いていた花。

本当に愛し合う二人のもとで咲くといわれる、不思議な薔薇。

月明かりを浴びた花々が、静かに揺れていた。

その香りが風に乗り、秘湯の湯気と混ざり合う。

そして、ミレイの方へ流れていった。

すると。

ミレイの呼吸が、ゆっくりと変わり始めた。

さっきまで苦しそうに繰り返していた浅い呼吸が、少しずつ深くなっていく。

小さく震えていた肩も、静まっていった。

「……ミレイ?」

ぼくはそっと顔を近づける。

熱はまだある。

けれど、その表情は先ほどまでとは違っていた。

少しだけ、穏やかになっている。

そして。

ミレイは、そのまま深い眠りへ落ちていった。

今までとは違う。

苦しそうにうなされる眠りではない。

静かで、穏やかな眠り。

ぼくはしばらく、その寝顔を見つめていた。

秘湯の湯気。

ラブの薔薇の香り。

その二つが、ミレイを包み込んでいる。

まるで、この場所そのものがミレイを守ろうとしてくれているようだった。

ぼくは薔薇へ目を向ける。

月明かりに照らされた花弁が、星屑のように輝いていた。

「……ありがとう。」

自然と、そんな言葉が漏れた。

もちろん、この場所が本当にミレイを守ってくれるのか、確かなことは分からなかった。

でも。

このまま何もしなければ、ミレイを助けることはできない。

一刻の猶予もない。

ぼくは、もう一度ミレイのそばへ座った。

長い水色の髪へ、そっと手を伸ばす。

月明かりに照らされた横顔。

穏やかになった寝息。

少し前まで、二人でアイスクリームを食べていた。

オーロラを見上げて、笑い合っていた。

あの時間が、遠い昔のことのように感じられた。

でも、ぼくは覚えている。

あの笑顔を。

あの声を。

一緒にいたいと願ってくれたことを。

そして、今も。

ぼくにとって、ミレイはかけがえのない存在だった。

失いたくない。

もう一度、元気な笑顔を見たい。

また二人で、たくさんの景色を見たい。

そのために。

ぼくはミレイの髪を優しく撫でた。

「……待ってて。」

小さく、静かな声。

「絶対、助けるから。」

ミレイは眠ったままだった。

けれど、その言葉に応えるように、指先が微かに動いた。

ぼくはその手を、最後にもう一度握った。

そして、ゆっくりと離す。

再び端末を操作し、メタリックブルーの乗り物を呼び出した。

やがて、秘湯の外れへ青い光が差し込む。

静かな起動音。

機体が到着した。

風が吹く。

ラブの薔薇の花弁が、夜空へ舞い上がった。

ぼくはもう一度だけ振り返る。

白いマットに横たわるミレイ。

秘湯の湯気。

優しく漂う薔薇の香り。

この場所が、ミレイを守ってくれる。

そう信じて。

ぼくは機体へ乗り込んだ。

願いは、ただ一つ。

ミレイを助けたい。

それだけだった。

静かに機体が浮かび上がる。

そして。

星花神宮へ向かう旅が、今、始まった。

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