第二章 第一話 幸せな夜に訪れた異変
仕事を終えた夜。
ぼくは少しだけ胸を弾ませながら、ミレイの家へ向かっていた。
今日は連絡していない。
驚かせたかったからだ。
少し前、ぼくが激しい腹痛で苦しんだとき、ミレイはずっとそばにいてくれた。
安心して甘えられるように、優しく寄り添ってくれた。
今日は、そのお礼がしたかった。
やがて、見慣れた家の前に辿り着く。
ぼくは玄関の横にある呼び鈴を押した。
しばらくして、軽い足音が近づいてくる。
「……こんな時間に誰だろう……?」
聞き慣れた声。
そして、扉が開いた。
長い水色の髪。
柔らかな部屋着に身を包んだミレイが、そこにいた。
ぼくの姿を見ると、驚いたように目を見開き、それから安心したように微笑んだ。
「もう……連絡してくれたら迎えに行ったのに。」
そう言いながらも、とても嬉しそうだった。
「でも、会いに来てくれたの……すごく嬉しい。」
ぼくも微笑み返す。
「今日はね、この間ぼくが体調悪かったときに、甘えさせてくれたお礼を持ってきたんだ。」
ミレイは一瞬きょとんとしたあと、ふわりと目を細めた。
「……お礼?」
少し照れたように笑う。
「そんなこと、気にしてたの?」
そして、ぼくを優しく見つめる。
「私はね、甘えてくれたことが嬉しかったんだよ。」
「つらい時に頼ってくれるのって、ちゃんと心を預けてくれてるってことだから。」
その言葉に、胸が温かくなる。
ミレイは少しいたずらっぽく微笑んだ。
「でも……せっかくだから、見せて?」
ぼくは持ってきた箱を差し出した。
中に入っていたのは、二種類のアイスクリーム。
高級苺を使ったストロベリー。
高級カカオを使ったチョコレート。
星を散りばめたような、美しいデザインだった。
ミレイは箱を覗き込むと、ぱちぱちと瞬きをした。
そして。
「……わぁ……!」
花が咲くような笑顔。
「これ……覚えててくれたの?」
その瞳が、本当に嬉しそうに輝いていた。
ぼくは、その笑顔を見るだけで、持ってきてよかったと思えた。
「ありがとう。」
ミレイはアイスクリームを大切そうに見つめる。
「溶けちゃう前に、一緒に食べよ?」
ぼくは頷いた。
そして、もう一つの贈り物を見せる。
オーロラマッピング。
天井へ幻想的な光を映し出す装置だった。
星空や雪景色。
香りとともに、部屋の雰囲気そのものを変えてくれる。
ミレイは説明を読みながら、目を丸くした。
「……えっ。」
そして、少しずつ頬を赤くしていく。
「これ、絶対私が好きなやつだって分かって選んだでしょ……。」
困ったように笑う。
でも、その声は隠しきれないくらい嬉しそうだった。
「こんなの使ったら……安心して、ずっと甘えちゃいそう。」
ぼくは笑った。
そんな時間を一緒に過ごしたくて、選んだのだから。
「じゃあ、どこで映そうか?」
ミレイは少し考えてから、窓辺のベッドへ案内してくれた。
白いシーツ。
柔らかな灯り。
二人で並んで座ると、オーロラマッピングを起動する。
次の瞬間。
天井いっぱいに、ゆっくり揺れる光が広がった。
青。
紫。
淡い緑。
静かな夜の海のように、柔らかな色が白いシーツへ流れていく。
「……わぁ……。」
ミレイは思わず見上げた。
その光が長い水色の髪に映り込み、部屋全体が二人だけの星空みたいになった。
「ねえ、ミレイ。どっちの味が食べたい?」
二つのアイスクリームを見せる。
ミレイは少し考えるように視線を揺らした。
「んー……今日はね。」
オーロラを見上げたあと、ぼくへ微笑む。
「ストロベリーが食べたい気分かも。」
「なんだか今日の空気、甘くて優しい色してるから。」
そう言いながら、隣へおいでと場所を空ける。
「半分こもしたいな。」
「きっと、そっちのカカオも絶対おいしいもん。」
ぼくはチョコレートを手に取り、ミレイの隣へ座った。
ミレイは小さなスプーンでストロベリーアイスをすくう。
そして、そっと口へ運んだ。
「……んっ。」
ひんやりした甘さが広がった瞬間、その表情がふわっとほどける。
長いまつ毛が少し伏せられ、幸せそうに目を細めた。
「……おいしい……。」
ぼくは思わず笑ってしまう。
そんなに幸せそうな顔をしてくれるなんて。
ミレイはもう一口食べてから、嬉しそうにぼくを見つめた。
「これ、すごく好き。」
「なんだろう……甘いのに、安心する味。」
そう言って笑ったあと、少しだけ照れたようにスプーンを差し出した。
「……ひとくち、食べる?」
ぼくは頷く。
ミレイは少し前かがみになり、ストロベリーアイスを乗せたスプーンを、ぼくの口元へ運んでくれた。
「……あーん。」
ぱくっ。
苺の甘さと冷たさが、口いっぱいに広がる。
でも、それだけじゃなかった。
ミレイが使った同じスプーン。
少し近づいた距離。
ぼくを見つめる、照れたような笑顔。
その全部が混ざって、胸の奥まで温かくなる。
アイスクリームとは違う、もう一つの愛しい味。
ミレイは、ぼくの表情を見てくすっと笑った。
「なんか今、すごく幸せそうな顔してた。」
「うん。美味しかったよ。」
ぼくはチョコレートアイスを差し出した。
「ミレイ、こっちも美味しいよ。よかったら食べてみない?」
ミレイは少し目を丸くしてから、ほんのり頬を染めた。
「じゃあ……ひとくちだけ。」
ぼくのスプーンへそっと手を添え、チョコレートを口へ運ぶ。
濃厚なカカオの甘さ。
「……おいしい。」
ミレイは嬉しそうに目を細めた。
「ストロベリーとはまた違うね。」
そして、少し照れながら笑う。
「でも……こうやって交換しながら食べると、なんだかもっと特別な味がする。」
天井ではオーロラの光がゆっくり流れていた。
他愛のない会話。
二人で分け合うアイスクリーム。
何気ない時間。
けれど、それは出会った日から積み重ねてきた、二人だけの大切な時間だった。
ずっと、こんな時間が続いてほしい。
ぼくはそう思っていた。
――そのときだった。
ミレイの顔が、いつもより少し熱っぽく見えた。
最初はオーロラの光のせいかと思った。
けれど、近くで見つめているうちに、違和感が強くなっていく。
少し赤い頬。
どこか熱を帯びた瞳。
呼吸も、ほんの少しだけ浅い。
それでもミレイは、いつもどおり優しく微笑んでいた。
「……ミレイ、調子悪いんじゃない?」
ぼくが心配そうに尋ねると、ミレイは一瞬だけ目を細めた。
そして、いつもの笑顔を作る。
「だいじょうぶだよ。」
声は確かに、いつものミレイだった。
けれど。
何かが違う。
その笑顔に、少し無理をしているようなものを感じた。
ミレイはもう一口アイスを食べようとした。
でも、さっきより動きがゆっくりだった。
そのとき。
オーロラマッピングが、次の景色へ切り替わる。
天井に映し出されたのは、静かな雪景色。
白い光が、ゆっくり降り積もる。
音のない冬の夜。
さっきまで二人で楽しんでいた幻想的な景色。
なのに。
今は、部屋が静かすぎるように感じられた。
ミレイは雪景色を見上げながら、小さく笑う。
「……綺麗だね。」
でも、その横顔は、どこか苦しそうだった。
ぼくはもう迷わなかった。
「ミレイ、ちょっとごめん。」
そう言って、そっと額へ手を当てる。
熱い。
驚くほど熱かった。
「……ミレイ、これ、かなり熱があるよ。」
ミレイはびくっと小さく肩を揺らし、それから困ったように微笑んだ。
「……えへへ、ばれちゃった。」
その声に、いつもの元気はなかった。
「せっかく来てくれたから……楽しい時間にしたくて。」
胸がきゅっと痛くなる。
「体温計、どこにある?」
ミレイはゆっくり指を向ける。
「テレビ台の下の引き出し……。」
ぼくは急いで立ち上がった。
引き出しを開け、体温計を探す。
見つけた。
すぐにミレイの元へ戻る。
ベッドの上で待っていたミレイは、少しぼんやりした表情をしていた。
それでも、ぼくの姿を見ると小さく微笑んだ。
「……ありがと。」
ぼくは隣へ腰を下ろす。
「ミレイ、ちょっと測ろう。」
ミレイは少し気まずそうに笑った。
「……ほんとに大丈夫だったんだけどなぁ……。」
けれど、素直に頷いて体温計を口へ入れた。
部屋が静かになる。
天井では、オーロラの雪景色が流れ続けていた。
その光が、白いシーツとミレイの横顔へ降り積もっている。
さっきまで、あんなに楽しかったのに。
ぼくはミレイの額へかかった髪をそっと避けた。
やっぱり熱い。
一体、いつから具合が悪かったのだろう。
そう考えていると。
ピピピッ――。
静かな部屋に電子音が響いた。
ぼくは体温計を取り、表示された数字を見た。
四十度。
40.0℃。
もう一度見る。
間違いではなかった。
「……こんなに高かったのか。」
頭の中が、一瞬真っ白になる。
さっきまで、ミレイは笑っていた。
ストロベリーアイスを一口食べて、幸せそうに目を細めていた。
ぼくへスプーンを差し出して、少し照れながら笑ってくれた。
あのとき、すでに苦しかったのだろうか。
どうして、もっと早く気づけなかったのだろう。
ぼくは唇を噛んだ。
「……ミレイ、ごめん。」
大切な人の変化だったのに。
もっと早く気づけたはずだった。
ミレイは熱で潤んだ瞳を、ゆっくりこちらへ向けた。
そして、少し苦しそうなのに、ぼくを安心させるように微笑もうとした。
「……そんな顔、しないで。」
弱々しい声。
「一緒にいる時間……楽しくて、私も気づかないふりしてたから。」
その言葉を聞いて、胸がさらに苦しくなった。
ミレイはシーツを少し握る。
熱で辛いはずなのに、先にぼくを安心させようとしている。
ぼくは深く息を吸った。
今は、自分を責めている場合じゃない。
この人を、少しでも楽にしてあげたい。
ぼくは立ち上がり、タオルを取りに向かった。
ミレイは全身に汗をかいていた。
肩が小さく震えている。
熱で火照っているはずなのに、ときどき寒そうに身体を縮こめる。
額にも細かな汗が滲んでいた。
ぼくは水と柔らかなタオルを持って戻る。
「ミレイ、少し汗を拭くね。」
ミレイはぼんやりした目でぼくを見上げ、小さく頷いた。
額。
首。
肩。
熱を持った身体を、丁寧に拭いていく。
震えないように気をつけながら、水気を乾いたタオルで取る。
ミレイは、ときどき小さく息を漏らした。
「……ん……。」
辛そうだった。
少しでも楽になってほしかった。
ぼくは足元までシーツを整え、もう一度ミレイの額へ触れる。
やっぱり熱い。
ミレイはそっとぼくへ身を預けるようにして、小さく呟いた。
「……そばにいてくれて、安心する……。」
その声を聞いて、ぼくは静かに頷いた。
「うん。そばにいるよ。」
やがて、ミレイの呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
目を閉じながら、掠れるような声で呟いた。
「……そばに、いてね……。」
ぼくはそっと髪を整えた。
そしてミレイは、静かに眠りについた。
ぼくは看病を続ける。
汗を拭く。
タオルを替える。
呼吸を確認する。
何度も、何度も。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ふと、天井の光が消えた。
オーロラマッピングの映像が終わったのだ。
さっきまで広がっていた雪景色は、もうない。
部屋には静けさが残っていた。
やがて、灯りも落ちる。
暗闇の中で、眠るミレイの呼吸だけが聞こえていた。
ぼくは、そのそばを離れなかった。
「今度は、ぼくがちゃんと支えるから。」
小さく呟く。
ミレイの熱は、下がる気配がなかった。
夜が明けても。
ぼくはほとんど眠らないまま、看病を続けていた。
水を飲ませ、汗を拭き、タオルを替える。
それでも、熱は下がらない。
朝の淡い光が、部屋へ差し込んできた。
ミレイの呼吸は、まだ浅い。
「……これは、普通じゃない。」
ぼくは、ある装置を思い出した。
メディカルAI。
この世界では、どこの家にもあるという家庭用の医療診断装置だ。
自宅にいながら、高度な医師レベルの診断ができる。
この世界の発達した医療技術。
ぼくは、その力を信じていた。
これなら、ミレイを助けられるかもしれない。
装置を起動する。
淡い起動音。
青白い光が浮かび上がる。
《家庭用メディカルAI 起動》
《患者の状態をスキャンしてください》
ぼくは眠るミレイを振り返る。
赤くなった頬。
汗で濡れた水色の髪。
苦しそうな呼吸。
すぐにスキャンを開始した。
画面に、無数のデータが流れていく。
体温。
呼吸。
発汗量。
身体の状態を示す数値。
どれも異常を知らせていた。
ぼくは祈るような気持ちで、診断結果が出るのを待った。
やがて。
《診断結果》
その文字が表示された。
ぼくは画面へ身を乗り出す。
けれど。
次に現れた言葉を見て、思考が止まった。
《病名:不明》
「……え……?」
そんなはずがない。
この世界の医療技術なら、きっと分かると思っていた。
それなのに。
《該当データなし》
《病原特定不能》
《治療法:不明》
《危険度:高》
ぼくは画面を見つめたまま、動けなくなった。
「……どういうことだよ……。」
昨夜まで。
ミレイは笑っていた。
アイスクリームを食べて。
オーロラを見上げて。
優しく微笑んでいた。
それなのに、今。
原因も分からない。
治す方法も分からない。
ぼくはゆっくり振り返る。
白いシーツの中で眠るミレイ。
汗で濡れた水色の髪。
苦しそうな呼吸。
時折、小さく震える肩。
その姿を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「……そんなの、嫌だ。」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
メディカルAIは、さらに警告を表示する。
《患者状態:進行中》
《継続監視を推奨》
《生命危険度:上昇傾向》
ぼくは愕然とした。
でも。
立ち尽くしているわけにはいかなかった。
ぼくは再びタオルを握る。
冷たい水へ浸して、絞る。
ミレイの額へ当てる。
首や腕の汗を拭き、乾いたタオルで水気を取る。
背中をさする。
呼吸が少しでも落ち着くように、声をかける。
できることを、全部やる。
けれど。
何も変わらなかった。
《高熱 継続》
《原因不明》
《危険状態》
画面には、同じ警告が並び続けている。
こんなにも大切なのに。
そばにいるのに。
触れているのに。
何ひとつ、治してあげられない。
「……なんでだよ……。」
ぼくは思わず俯いた。
そのとき。
ミレイが、苦しそうなまま指先を伸ばしてきた。
熱で震える手。
ぼくは、その手を握り返した。
すると、ミレイの呼吸がほんの少しだけ緩んだ。
その小さな反応が、ぼくを繋ぎ止めていた。
まだ、できることがあるはずだ。
「……考えろ。」
ぼくは自分へ言い聞かせた。
何ができる。
何がある。
ほかに方法はないのか。
頭の中で、これまでの出来事を繰り返す。
昨夜から続く高熱。
苦しそうな呼吸。
何度も替えたタオル。
どれだけ手を尽くしても、よくならないミレイ。
そして、メディカルAIの診断結果。
《病名:不明》
《治療法:不明》
けれど、原因が分からないからといって、ここで諦めるわけにはいかなかった。
ぼくは、もう一度ミレイを見る。
これ以上、苦しませたくなかった。
医療で分からないのなら。
ほかの方法は。
この世界に、何かないのか。
考えろ。
思い出せ。
そして。
そのときだった。
「……ある。」
ぼくは、はっと顔を上げた。
脳裏に、一つの景色が浮かんでいた。
空へ近い場所。
深い森の向こう。
星空と月明かりに包まれた、小さな秘湯。
以前、ミレイと一緒に訪れた場所。
星恋の秘湯。
あの湯に浸かったとき、心の奥まで穏やかになっていくような、不思議な心地よさがあった。
二人で流星群を見上げた夜。
咲き乱れるラブの薔薇。
ミレイの幸せそうな笑顔。
あの場所なら。
もしかしたら。
医学では分からない、この異変を和らげる何かがあるかもしれない。
確かな根拠なんてなかった。
それでも。
もう、ほかに思いつかなかった。
ぼくはミレイの手を、もう一度そっと握った。
「……ミレイ。」
熱で苦しそうな横顔。
それでも、ぼくの手を離さない指先。
「一緒に行こう。」
ぼくは静かに決意した。
ミレイを。
星恋の秘湯へ連れて行こう、と。




