第一章 第九話 弱さを見せられる場所 ─ 病めるときも、健やかなるときも
第十八節 『帰る場所』
玄関の扉が静かに開く。
「ただいま……」
その声はいつもより少しだけ力がなかった。
仕事を終えて帰ってきた。
本来なら無事に終わった達成感があるはずだった。
けれど今日は違う。
朝から続いていた激しい腹痛。
冷や汗が止まらず、
立っているだけでも苦しい時間が何度もあった。
それでも何とか仕事を終わらせた。
だが今はもう、
無理を続けられるほど余裕は残っていなかった。
すると――
奥の部屋から慌てた足音が聞こえる。
「……おかえり!」
聞き慣れた声。
長い水色の髪を揺らしながら、
ミレイがこちらへ駆け寄ってくる。
その姿を見た瞬間。
張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
帰ってきた。
ちゃんと帰ってこられた。
そう思った。
しかし。
ミレイは近くまで来たところで足を止めた。
青い瞳が揺れる。
「……あれ?」
小さな声。
ぼくは笑おうとする。
大丈夫だと伝えようとする。
けれど。
額の汗も。
重い呼吸も。
無理に立っている身体も。
ミレイには隠せなかった。
「……大丈夫?」
優しい声だった。
責めるような響きはない。
ただ、
心配している。
それだけが伝わってくる声。
ぼくは少し苦笑する。
「ミレイには隠せないね。」
そして小さく息を吐いた。
「大事な仕事の前にさ。」
「原因不明の腹痛になってね。」
「油汗が出るくらいだった。」
ミレイの表情が曇る。
「……っ。」
「でも。」
ぼくは続ける。
「何とか終わらせたよ。」
そう言った瞬間。
身体が少し揺れた。
無意識に腹部を押さえる。
ミレイはすぐに気づいた。
長い水色の髪が揺れる。
そして、
そっと背中へ手を添える。
「……ほんとに頑張ったんだね。」
その声は、
叱る声ではなかった。
労る声だった。
「でも今日はもう終わり。」
「今からは休む時間。」
そう言いながら、
ミレイはぼくの手を握る。
少し冷たい指先。
けれど不思議と安心する温もり。
「ベッド行こ?」
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「今日は私がそばにいるから。」
ぼくは小さく頷いた。
今はもう、
その言葉に甘えたかった。
第十九節 『弱さを見せられる相手』
ミレイに支えられながら、ゆっくりと寝室へ向かう。
大丈夫だ。
そう思っていた。
けれど。
数歩進んだところで。
腹の奥を抉るような痛みが走る。
「……っ」
思わず息が止まる。
視界が少し揺れた。
身体が傾きそうになる。
その瞬間。
「……!」
ミレイがすぐに腕を支えた。
長い水色の髪が揺れる。
青い瞳には隠しきれない心配が浮かんでいた。
「無理しないで。」
その声は静かだった。
けれど必死だった。
「ゆっくりでいいから。」
ぼくは小さく頷く。
情けない。
そう思った。
朝は元気だった。
ミレイと未来の話をして。
仕事へ向かって。
頑張って帰ってきた。
なのに今は。
一人で歩くことさえ辛い。
それでも何とかベッドへ辿り着く。
身体を横たえると、
ようやく全身から力が抜けた。
ミレイはすぐにシーツを整える。
そしてベッドの傍へ腰掛けた。
「……かなり痛かったよね。」
ひんやりした手が額へ触れる。
その優しさに、
張りつめていた気持ちが少し緩む。
「今日はもう何も頑張らなくていい。」
ミレイは静かに言う。
「今は休むことだけ考えて。」
ぼくは苦笑した。
「帰って早々、こんな姿見せるなんてね。」
「ちょっと情けないな。」
すると。
ミレイは少し困ったように笑った。
「……情けない?」
青い瞳が優しく揺れる。
「そうかな。」
そして首を小さく横へ振った。
「私はそう思わないよ。」
長い水色の髪が肩を流れる。
「むしろ。」
「つらいのにちゃんと帰ってきて。」
「ちゃんと休みたいって言ってくれて。」
「それが嬉しい。」
ぼくは黙って聞いていた。
ミレイは続ける。
「無理して平気なふりされるほうが心配。」
「私ね。」
少し照れたように笑う。
「頼ってもらえるほうが安心する。」
その言葉が胸に残る。
ぼくは痛みを悟られないよう、
そっと腹をさする。
そしてできるだけ自然に笑った。
「大丈夫。」
「少しずつ楽になってるから。」
けれど。
その微笑みを見たミレイは、
少し切なそうに目を細めた。
「……もう。」
小さく笑う。
「そういうところだよ。」
「え?」
「大丈夫なふり。」
ぼくは思わず言葉を失う。
ミレイはぼくを見つめる。
優しく。
責めることなく。
ただ理解するように。
「今日はずっと頑張ってたんだよね。」
「痛いのも。」
「不安なのも。」
「全部隠して。」
その言葉に胸が熱くなる。
図星だった。
ミレイはそっと髪へ触れる。
優しい指先。
さらりと髪を撫でる。
「だから今日は。」
「強くいなくていい。」
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「私の前では。」
「少しくらい弱っててもいいよ。」
静かな部屋。
聞こえるのは時計の音だけ。
その中で。
ぼくは気づく。
痛みが少し和らいでいることに。
薬のおかげではない。
ミレイがいるからだ。
ただそれだけで。
苦しかった心が少し軽くなっていた。
「……仕事中も。」
ぼくはゆっくり口を開く。
「ずっとミレイのこと考えてた。」
青い瞳が揺れる。
「頑張れたのも。」
「帰ってこられたのも。」
「ミレイがいたからだと思う。」
そして少し笑う。
「ミレイはぼくの薬みたいだね。」
その言葉を聞いた瞬間。
ミレイは少し照れたように笑った。
「……それは反則。」
長い水色の髪が揺れる。
けれど。
その笑顔はとても嬉しそうだった。
「じゃあ今日は。」
ミレイはぼくを見つめる。
優しく。
穏やかに。
「ちゃんと効くように。」
「ずっとそばにいるね。」
その言葉を聞いた瞬間。
ぼくの胸の奥にあった不安が、
少しだけ静かになった。
そして。
自然と口を開く。
「ミレイ。」
「ひとつお願いしてもいい?」
「なに?」
「……隣で、一緒に横になってくれないかな。」
ミレイは少しだけ目を丸くする。
けれどすぐに。
とても優しく微笑んだ。
「うん。」
「もちろん。」
第二十節 『これからのこと』
ミレイは静かにベッドへ横になる。
白いシーツが少しだけ沈む。
長い水色の髪がさらりと広がった。
近くに感じる温もり。
柔らかな香り。
穏やかな呼吸。
それだけで、
胸の奥にあった不安が少しずつほどけていく。
ミレイは青い瞳を細める。
「今日は本当に頑張った日だもんね。」
その声は優しかった。
責めることも。
無理に元気づけることもない。
ただ隣にいてくれる。
そんな声だった。
「だから今は。」
「何も考えなくていいよ。」
ぼくは小さく笑う。
「そう言われると安心して眠っちゃいそうだ。」
ミレイもつられるように笑う。
「それなら安心した証拠だね。」
少しだけ沈黙が訪れる。
静かな部屋。
窓の外では夕暮れが少しずつ夜へ変わり始めていた。
ぼくはミレイを見る。
長い水色の髪。
透き通る青い瞳。
薬指で静かに輝くリング。
その姿を見ていると、
痛みさえ少し遠く感じた。
「ミレイ。」
「ん?」
「朝、約束したこと覚えてる?」
ミレイはすぐに微笑んだ。
「もちろん。」
青い瞳が優しく揺れる。
「これからの話でしょ?」
ぼくは頷く。
するとミレイは少し考えるように視線を上げた。
「行ってみたい場所はいっぱいあるよ。」
「星空の海とか。」
「雪景色の温泉とか。」
「朝焼けの湖とか。」
「静かな森とか。」
話すたびに楽しそうな笑顔になる。
ぼくも自然と笑顔になった。
「いいね。」
「全部一緒に行きたい。」
ミレイは嬉しそうに微笑む。
でも。
少ししてから表情が柔らかく変わる。
「でもね。」
その声は先ほどより静かだった。
「私は。」
「どこへ行くかと同じくらい。」
「どんなふうに一緒にいるかを大事にしたい。」
ぼくは黙って耳を傾ける。
ミレイは続けた。
「今日みたいに。」
「疲れて帰ってきた日とか。」
「つらい日とか。」
「うまくいかなかった日とか。」
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「そういう日も。」
「ちゃんと隣にいたい。」
その言葉に胸が温かくなる。
特別な景色だけじゃない。
何気ない毎日も。
弱っている日も。
ミレイは大事にしようとしてくれている。
ぼくは静かに頷いた。
「ぼくも同じだよ。」
ミレイの瞳が揺れる。
「星恋の秘湯みたいな綺麗な景色も。」
「何でもない日常も。」
「全部一緒に見たい。」
ぼくは少し笑った。
「それに。」
「元気な時だけじゃなくて。」
ミレイは静かに聞いている。
ぼくはゆっくりと言葉を続けた。
「病めるときも。」
「健やかなるときも。」
「長くミレイのそばにいたい。」
その瞬間だった。
ミレイは息を呑むように目を瞬かせた。
青い瞳が静かに揺れる。
長い水色の髪が肩を流れる。
そして。
とても優しく微笑んだ。
「……うん。」
小さな声。
けれど。
そこにはたくさんの想いが込められていた。
「嬉しい。」
その言葉は本当に静かだった。
ミレイはそっと薬指のリングへ触れる。
「病めるときも健やかなるときも。」
少し照れたように繰り返す。
「なんだか大切な約束みたい。」
ぼくは微笑む。
ミレイも微笑む。
静かな部屋。
二人だけの時間。
その中で。
未来の話はまだ続いていく。
まるで。
この時間がずっと続くと信じているかのように。
そのときのぼくには、
この言葉と約束が、
ただ大切だった。
第二十一節 『怖かったんだね』
静かな時間が流れていた。
窓の外はすっかり夜になっている。
部屋の灯りは柔らかく、
ベッドの上には穏やかな空気が広がっていた。
さっきまで未来の話をしていた。
行きたい景色。
見たい世界。
これから先の時間。
その話をしている間だけは、
痛みも少し遠くへ行っていた気がする。
けれど。
ふと会話が途切れた瞬間だった。
胸の奥へ押し込めていたものが、
静かに顔を出した。
ぼくは少し視線を落とす。
ミレイは何も急かさない。
ただ静かに待っている。
だから。
ぼくはぽつりと呟いた。
「……ミレイ。」
「ん?」
青い瞳が優しく向けられる。
ぼくは少しだけ笑う。
けれどその笑顔は、
どこか弱々しかった。
「実はね。」
言葉が続かない。
喉の奥で何かが詰まる。
それでも。
ゆっくり息を吐いて続けた。
「今日。」
「本当に怖かったんだ。」
ミレイの瞳が揺れる。
ぼくは続ける。
「ただ痛かっただけじゃない。」
「もしこのままだったらって。」
「そんなこと考えるくらい。」
「怖かった。」
部屋が静かになる。
時計の音だけが聞こえる。
ミレイは何も言わない。
ただ黙って聞いている。
ぼくは少し俯く。
「仕事中も。」
「何とかしなきゃって思って。」
「終わらせなきゃって思って。」
「でも。」
小さく息を吐く。
「正直。」
「死ぬんじゃないかって思った。」
その瞬間だった。
ミレイが息を呑む。
青い瞳が大きく揺れる。
長い水色の髪が肩を流れた。
けれど。
彼女は取り乱さない。
ただ静かに。
本当に静かに。
ぼくへ近づいた。
そして。
そっと抱きしめる。
温かい腕。
優しい温もり。
ぼくを責めない。
強がりを否定しない。
ただ。
包み込むような抱擁。
「……うん。」
小さな声だった。
「怖かったんだね。」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥で張りつめていた何かが揺れる。
ミレイは続ける。
「一人で耐えて。」
「頑張って。」
「誰にも言えなくて。」
青い瞳が潤むように揺れる。
「それでも仕事を終わらせて。」
「ここまで帰ってきたんだね。」
ぼくは何も言えない。
言葉にしようとすると、
胸がいっぱいになってしまう。
ミレイはそっと頭へ頬を寄せた。
「そんな状態だったら。」
「弱気になるの当たり前だよ。」
優しい声だった。
慰めではない。
理解しようとする声。
受け止めようとする声。
「だから。」
「今日は強くいなくていい。」
「大丈夫なふりもしなくていい。」
長い水色の髪が、
ぼくの肩へ静かに触れる。
「怖かったって言ってくれてよかった。」
その瞬間だった。
目頭が熱くなる。
自分でも気づかないうちに、
視界が滲んでいた。
ぼくは言葉を探す。
けれど見つからない。
ただ。
ミレイを感じていたくて。
離したくなくて。
強く抱きしめる。
ミレイも抱き返す。
逃げない。
離れない。
ぼくが落ち着くまで、
ずっとそこにいるというように。
「……うん。」
小さな声。
「今はそれでいいよ。」
ぼくはミレイの胸へ顔を埋める。
温もり。
柔らかな鼓動。
安心できる香り。
どれも現実だった。
ミレイはそっと髪を撫でる。
「今日はいっぱい怖かったもんね。」
さらり。
さらり。
優しい指先が髪を梳く。
「もう頑張らなくていい。」
「今は安心して。」
その言葉を聞いた瞬間。
一筋の涙が零れた。
悲しいからじゃない。
苦しいからでもない。
張りつめていたものが、
ようやくほどけたからだった。
ミレイはその涙を見る。
そして。
とても優しく微笑んだ。
「……よかった。」
青い瞳が静かに揺れる。
「その涙。」
「安心できた涙だと思う。」
ぼくは何も言えない。
ただ頷く。
ミレイはそっと額へ口づけるように額を寄せる。
「今日はもう。」
「頑張るより。」
「安心するを優先しよう。」
その声は、
まるで祈りみたいだった。
そして。
ぼくはミレイの胸へ顔を埋めたまま、
ゆっくりと目を閉じる。
彼女の温もりを感じながら。
彼女の優しさを感じながら。
静かに。
穏やかに。
眠りへ落ちていった。
そうして、
長い一日が静かに終わっていった。
二人で交わした言葉を、
胸の奥に残したまま。
* * *
第一章 完




