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エピローグ

 一週間後。

田所は退院し、新宿三丁目の雑居ビル五階にある事務所へと戻ってきていた。

 エレベーターを降り、短い廊下の先にある扉の前で、ほんの一瞬だけ足が止まる。

鍵を差し込み、回す。カチリと乾いた音がして、扉がゆっくりと開いた。

 中は出て行った時のままだった。

段ボールは積まれたまま、本棚はまだ空きが目立ち、机の上には細々とした備品が雑然と置かれている。

生活の匂いがまだ薄い、仮の拠点のような空間。

それでも、帰ってきたという感覚だけは確かにあった。

 靴を脱ぎ、ゆっくりと室内に入り、三人掛けのソファーに身体を沈める。

腹の奥に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめた。

「……いてぇな」

小さく呟いて天井を見上げる。

静かな部屋に、時計の秒針だけが規則正しく響いていた。

荷物の整理をしなければならないとは思う。

だが、その気力はまだ戻ってきていなかった。

 その時、机の上の電話が鳴る。

静寂を裂くような着信音。

表示は見慣れない番号だった。

「……営業か?」

そう呟きながらも受話器を取る。

『田所さん?』

「そうですが」

『新宿東署の山岸です』

「ああ!山岸さん。どうしたんですか?」

病室でのやり取りが脳裏に浮かぶ。

『犯人が自供しましたんで一応、ご報告をと思いまして』

「そうですか。わざわざありがとうございます」

『それから北沢このみの方も任意で事情聴取したんですが、大学時代から水上の事が好きで水上の気を引く為と、夏野さんへの嫉妬で協力していたそうです』

ほんのわずかに目を細める。

「そうでしたか。まぁそんなところだとは思ってましたが」

『今回はありがとうございました。捜査協力費という事で些少ですがお支払いしますので、後で口座を送って下さい』

「分かりました。ありがとうございます」

『今後も何かあればお願いするかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。それじゃ』

通話が切れる。

受話器を戻すと、再び静寂が戻った。

「……さて」

そう呟いて、再びソファーに身体を預ける。

事件は終わった。

だが――何かが始まった気もしていた。

 その時。

コンコン、と控えめなノックの音が響く。

ゆっくりと立ち上がり、扉へ向かう。

ドアを開けると、そこに立っていたのは夏野だった。

「よろしいですか?」

「どうぞ」

二人は向かい合わせにソファーへ腰を下ろす。

距離は近いが、どこか緊張した空気が流れていた。

「今日はどうしたんですか?依頼料の件なら後日請求書を……。そもそも幾らにすれば良いかも決めてなくて……」

「いえ。そうじゃないんです。実はお願いがありまして……」

「何でしょう?」

少しだけ間を置いて、はっきりと言う。

「ここで雇ってもらえないでしょうか?」

「え??」

思わず間の抜けた声が出る。

「私がこうして生きてられるのは田所さんが庇ってくれたお陰です!だから恩返しがしたいんです!お願いします!」

勢いよく立ち上がり、深々と頭を下げる。

「まあ、落ち着いて、座って下さい」

慌てて手で制すと、ゆっくりと座り直す。

「見たところ、事務所を片付けたり、お茶を入れたりする人が必要だと思うんです。そういうのは私がやりますから、恩返しさせてもらえませんか?」

視線が室内へ向く。

散らかった段ボール、整っていない机。

「でも、あなたほどの方がこんな小さな探偵事務所じゃ勿体ないですよ。利益が出るかどうかも分からないから、あんまり給料も出せませんし。それにお仕事もあるでしょ?」

「貯金がありますから給料は安くても構いません。それにセントラルホールディングスは辞めてきました」

「ええっ!?誰もが憧れる様な大手企業を辞めちゃったんですか?」

「ここで田所さんに恩返ししなかったら、私、一生後悔することになると思います。だから……」

その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。

(後悔……。そうだな。この人にも後悔の無い人生を送って欲しい。それに事務所も弁護士も親父の威光で手に入れたものだが、この人がここで働きたいと思う気持ちは初めて俺が自分自身の力で手に入れたものだ。それを断るのは俺自身も後悔しそうだ)

短く息を吐く。

「分かりました。よろしくお願いします」

「ありがとうございます!」

ぱっと表情が明るくなる。

「じゃあ、早速コーヒー入れてきますね!」

そう言って給湯室へ向かう背中を、しばらく見送る。

静かだった事務所に、初めて人の気配が満ちていく。

     *

「……という訳だ。って、みんな寝てるじゃないか!?」

 ソファーには平井、各務、棚田、雨宮がぐったりと沈み込んでいる。

「話が長いからですよ」

「せっかくだからちゃんと説明しておこうと思ったんだよ」

「先生は眠くないんですか?」

「ああ。話してる間に親父の事とか思い出しちゃったよ……」

「じゃあ、あっちで飲みなおしますか」

「そうだな」

 二人はつまみとビールを持って田所の机へ移動する。

夏野は自分の席の椅子を持って向かい側に座る。

事務所の空気は、もう以前とは少し違っていた。

「初めての事件に」

差し出されたグラス。

「ああ。初めての事件に」

軽く触れ合う。

小さく澄んだ音が、静かな室内に広がる。

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