嵌められた
「だったら丸山さんが保護者会会長をしたらいいじゃないですか?みなさんもそう思いますよね?」
何を言っているの、この人。どうして私が会長をする話になるの。この会議で今年度の会長を決めるなら、あらかじめ連絡してほしいって言っただけじゃない。毎日仕事と家事と子どものことで忙しくてそんな時間あるわけがない。あんたは専業主婦だし時間なんて余るほどあるはずでしょ。
「そんな、こまっ」
困りますと言おうとした私に被せて別の参加者が発言した。
「そうよ。丸山さんだったら安心だわ。確か上のお子さんもこの幼稚園の卒園生だし、この土地のこともよくご存知だしね。」
「丸山さんが引き受けてくれたら、みんな安心よね!」
確かに地元のことは私が1番詳しいと思う。でもなんでみんなでそう言ってくるの?自分が会長にならなきゃそれでいいってこと?全員にはめられた?待って待って!無理よ!無理無理!!
「いや、私はただ、立候補がいないならくじ引きにしたらどうかと言ったただけで、会長をするなんて一言も・・・」
今度は野々上理香子が被せて言ってきた。
「でも丸山さんが言ったとおりだわ。私が悪かったわ、ごめんなさい。皆さんお忙しいものね。いつまで待っても決まらないもの。みなさんも賛成されているし、今年度の会長は丸山さんが引き受けてくださったら安心だわ。丸山さん、よろしくお願いします。」
野々上理香子が丁寧に頭を下げた。
まって、嘘でしょ。最悪だ。とても断れる雰囲気じゃない。なんで私が?仕事もあるのにそんな時間あるわけないじゃない。会長だなんて、一年間、どうやっていけばいいのよ。
私は丸山有希。39歳。会長というのは、年長の息子の雄太が通う幼稚園の保護者会会長のことだ。先生と協力しながら運動会や音楽会などのイベントの裏方を運営する。事前の打ち合わせや集会、ほかの保護者への連絡など、一年中活動がある。
私は保育の短大を卒業したが、子どもが嫌いだったので無資格でも雇ってもらえる介護施設へ就職した。結婚した時に一度は退職したのだけど、雄太が生まれてから訪問介護のパートを始めた。雄太の上に小学3年生の康太という息子もいる。パートとはいえ、フルタイムだし利用者の都合で残業することも多い。介護職でこんなに働いているのに、正規雇用にはなかなかなれない。何度か所長に打診したが、雄太に手がかかって休むことも多いので、なんとなく丸め込まれてパート採用のまま今に至っている。働き方改革なんてどこか違う国の対策なのだろう。この田舎では仕事があるだけでも恵まれいると思わないとやってられない。
雄太のお迎えに行くのは幼稚園が閉まるギリギリだ。いったいどうやって集会に参加すればいいのだろう。かといってこんなことで仕事を辞めるわけにはいかない。5年前に無理して新築一軒家を買った。夫の給料だけじゃとてもじゃないけど今の生活はできない。毎日、仕事と家事に忙殺されて、夜は倒れこむように寝て、朝は一番に起きて、お弁当と朝ごはんの用意、それに夜ご飯の準備をして、夫と息子達を起こす。
仕事後に雄太を幼稚園に迎えに行き、帰ってくるのは遅い時で7時を過ぎるになる。康太は学童から帰ってからは1人で留守番をさせている。1年生の頃からずっとだ。私が忙しくイライラしているせいで、康太は寂しいとかお腹が空いたとか、文句も泣き言も一度も言ったことがない。
雄太を連れて帰ると急いで夕飯を用意してお風呂に入らせて、9時にはベッドで寝させる。雄太はまだまだ手がかかる。ずっと「あれやった?早くして!」しか言っていない。子どもたちが学校で今何を習っているのかとか、仲の良い友達の名前とか、普段何をして遊んでいるのかとか、私は何も知らない。康太と雄太がどんな性格なのか、どんいうふうに成長しているのかすらよくわかっていない。母親失格だと自分で気付いている。
自分の時間なんてずっとない。美容院すら何か月も行けていない。ママ友とランチなんて都市伝説だと思う。私とは無縁だ。専業主婦の人たちと私とじゃ時間の流れが全然違う。私だってゆっくり育児を楽しみたかった。いったいどこで何を間違えたのだろう。
今、私に会長を押し付けようとしている現会長の野々上理香子は、まるでSNSのショート動画で、リクエストもしていないのに次々と現れてくるインフルエンサーのようだった。手入れが行き届いてツヤツヤでクルクルの巻き髪。服だってフワフワのスカートに、育児で汚れることを度外視した白色のシャツ。アクセサリーなんてピアスもネックレスもリングもキラキラのトリプルコースだ。おまけに凝ったアレンジのジェルネイル、まつエクもばっちり。いつも完璧でどうやって子どもと遊んで家事までしているのか謎だった。
ほかの保護者達も、流行りのインナーカラーを入れている人も多く、手入れが行き届いていてプリンヘアになっている人なんていない。みんなそれぞれ素敵な格好をしている。
私なんて、訪問先から直行してきて、ジャージのような制服のまま、お風呂の介助をした後の蒸気と汗でボサボサ頭で、白髪染めすらしていない。化粧も崩れてドロドロ。せめて眉毛は残っていてほしいが、化粧直しをするどころか、鏡を見る余裕もなくこの会議に駆け込んできたのに。
この人たちに私の姿はいったいどんな風に映っているのだろう。キラキラした彼女たちからの見えないマウントに負けないように、精一杯の意地と虚勢を張って、発言をした結果がこれだ。今この教室にいる全員は敵なのだろうか。
私は、都会からずっと離れたこのド田舎で生まれ育って、今もまだここで生活している。このキラキラママはいったいどこから嫁いできたのか。きっとおしゃれでスローな田舎暮らしを求めて移住してきたんだろう。
確かにこの土地には田舎暮らしの素晴らしさが溢れている。四季折々に変化する山の色や空はとても綺麗だし、地元で獲れる野菜はみずみずしくてとても美味しい。地元のトマトなんて味が濃くて、この味を知っているとスーパーに売っているものは水くさくて食べられない。娯楽がない分、時間もゆっくり流れている。そんな田舎暮らしは確かに魅力的だ。
スーパーもコンビニもない。田んぼのまんなかに暖炉の煙突が伸びたオシャレな新築のお家が建っていたりする。この土地の良さを求めてやってきたのだろう。
もともとここで生きてきた私には、この窮屈で狭い田舎が苦しい。便利な都会暮らしに憧れる。
この野々上理香子という女は、この田舎には見合わない。キラキラとした大都会の生活を思わせる。なぜこんなところで暮らしているのだろう。そのネイルとマツエクをするために、どこまで遠くへ行っているのだろう。このあたりにそんな素敵なサロンがあるなんて思えない。
「保護者会会長って、有希ちゃんそんな余裕あるの?俺も手伝いたいけど、仕事でそれどころじゃないよ。」
帰ってからビールを飲んでいる大輔に、昼間のことを話した。結局、会長を引き受けることになったのだ。大輔とは結婚して11年、2つ年下だ。隣の県の出身で、友達の紹介で出会った。大輔は自分の地元に家を買いたかったみたいだけど、私たちの収入だと予算が足りず、渋々この田舎で家を建てることにした。
末っ子長男で甘やかされて育ったせいか、大輔はマイペースでプライドがやたらと高い。亭主関白をきどっているのか家事と育児は女の仕事という価値観で、自分が食べたお皿も片づけない。付き合っていたころは、年下の彼のそんなところがかわいくもあったけど、今は苛立ちしかない。保護者会の会長になったこともまるで他人事だ。イクメンという生き物は都市伝説なのだろう。この地域に生存しない。
近所に住む両親も、同居している兄夫婦の子どもに手がかかるので私たちを助けてくれることはない。なんで私ばっかりがこんな目に合うのだろう。
あの悪夢のような保護者会から1週間が経った。今日は会長になって初めての会議の日だ。
始めの1週間はあの会議のことを思い出してはイライラしていたが、その怒りも次第に落ち着いて、雄太のためにも何とか前向きに取り組もうという気持ちになっていた。
出社するとはじめに朝のミーティングがある。所長の酒井麻美は朝から明るいしいつもパワフルだ。今年52歳で大学生の娘と息子がいる。私より随分年上なのに若々しいし、仕事にも隙がない。どうして私だけがこんなに疲れているのか。
「今日の丸山さんのスケジュールは、午前に木下さんのお風呂介助で、午後から母前園さんの通院の付き添いへ行ってそのままお買い物の付き添い介助ね。よろしく!」
こうやってスタッフの予定を確認し合うのだが、酒井所長はいちいち元気に声をかけてくれる。
「わかりました。今日はまた保護者会の会議があるので、そのまま直帰させてください。」
「大変ね。会長になったんだって?」
誰から聞いたのだろう。酒井所長は本当に情報が早い。
「はい、まぁ前向きにやれたらなって。不安しかないんですけど。」
酒井所長の勢いに気圧されて、私は苦笑いをしながら答えた。
「仕事しながらは大変よー。私も昔やったけど、なんせ集まりが多いでしょう。でも、学校のことがよくわかったし、いい経験になったわ。丸山さんも頑張ってね!」
大きなお世話だな、と内心思ったことが顔に出ていないか気にしながら、ありがとうございます、と小さく答えた。酒井所長なら野々上理香子に負けることなく会長をこなすことができるんだろう。全てのことに負けっぱなしの自分が情けなくなった。
なんとなく気分が下がったまま午前の訪問を済ませ、午後から前園さんの訪問へ向かった。前園さんの家はこの田舎の中でもさらに東の山奥にある。某バラエティ番組に出てきそうな程、山の中にポツンとある一軒家だ。建物は平屋だが、とても広くて広い庭や造りに趣がある。丁寧に手入れしながら大切に暮らしてきたことが感じられた。前園さんは、この地域では有名な資産家だった。
「こんにちはー!前園さーん!丸山でーす!」
インターホンを押しても返答がないので、玄関から大きな声で呼んだ。前園さんは歳のせいで少し難聴だから聞こえないのだろう。玄関の鍵が開いていたのでドアを開けてもう一度大きな声で呼んだ。
「前園さーん!丸山でーす!」
返事がない。嫌な予感がした。独り暮らしの高齢者が自宅で倒れ、誰にも気付かれずそのままになってしまうことはよくある。
「前園さーん?いますかー??」
最悪の事態を予測しつつ、物音がしないか耳を澄ませて家の中に入った。
リビングのドアを開けると、前園さんがいつも通りパソコンに向かって座っていた。ほっとして息を吐いた。
「前園さん!いるなら返事してくださいよぉ!返事がないから勝手に入って来ちゃいましたよ!」
のんきにパソコンを触っている前園さんに本当はムカついていたが、バレないようにぶりっ子をして言った。
「おぉ、丸山さんか。もう病院の時間かな。」
老眼鏡の上から覗くようにこちらを見て、前園さんはにっこり微笑んだ。金持ちの老人はどこまでもマイペースだ。
前園さんはとても彫りが深い顔立ちで、まつげも眉毛も濃く長く、まるで古い洋画に出てくる俳優のようだった。毎日ベレー帽をかぶっていて、さりげなく着ている普段着がとても上質そうなものばかりだ。男性老人の一人暮らしだが、こぎれいにしている。
前園さんは今83歳なのだが、年の割にとてもハイカラな性格の人で、パソコンやスマートフォンを使いこなしている。話題も、インスタでバズったお菓子を取り寄せたとか、孫と服を交換をしたとか、その動画をTikTokに投稿したとか、話題がまるで高校生だった。
所長の話では、60年以上前にこの辺りで初めて車を購入して乗ったのがこのおじいさんなのだそうだ。所長はいったい誰からそんな情報を聞いてくるだろうか。
唯一前園さんが不幸なのは、肺繊維症を患っていて、在宅酸素が手放せないところだろう。少し動いただけで息切れするので、どこに行くにも誰かのサポートが必要になる。どんなにお金があっても健康は買えない。私が前園さんを下に見れる唯一の部分でもあった。
「パソコンで何見てたんですかー?」
なんとなく前園さんのパソコンを覗き込んで聞いた。何かのグラフが表示されているがなにを見ているのかさっぱりわからない。
「これは株だよ。僕は株が趣味でね。まー、趣味は他にも沢山あるんだけどね。ちなみにここの会社の株は去年に買ったんだけど、今は10倍だよ。ははは。株はやめられないね。」
「10倍?!え、株って損するだけじゃないんですか?!」
株で儲けている人が本当にいるなんて。しかもこんな田舎に。
「そりゃ増えるばかりじなないよ。僕だって沢山損してきたよ。あははは。」
なんだ、金持ちの道楽か。前園さんほどの資産があれば損したところで、痛くも痒くもないんだろう。そんなに簡単にお金が増えるならどんなにいいか。前園さんの余裕そうな笑顔が妬ましかった。
もしも簡単にお金が増やせるなら、仕事を減らして保護者会や子ども達との時間も作れるようになるかな。介護なんて肉体労働をせずに不労収入が入ったらどんなに楽だろうか。こんなギリギリの生活から抜け出せるだろうか。心の底にあった欲と妬み嫉みが、一気に増殖して体の隅々まで浸透していく。今まで株なんてギャンブルに心が揺れるこことなんてなかった。でも今は、目の前のこの余裕そうな老人が心の底から羨ましい。今の生活を打破したい。
「株、私にもできますかね?」
勝手に言葉が出ていた。こんな年寄りに私は何を聞いているんだ。酸素ボンベがなければ苦しくて動けないような病気の爺さんに。
「そりゃあできるよ。今はスマホでできるし便利だよー。」
あははと笑いながらできると言った前園さんが、急に良い人なったように見えた。病院に出かける用意を手伝いながら、私は気持ちが高揚していた。今の生活を抜け出す突破口が前園さんかもしれない。
毎週水曜の午後は前園さんの買い物支援をしている。そして、月に1度だけ火曜に通院の付き添いも行っている。今日は、その通院の付き添いの日だった。
酸素ボンベを車の後ろに乗せて、市街にある病院へ連れていく。同じ市内とはいえ、病院まで車で30分はかかる。昼過ぎに自宅を出たのに、診察前、会計、薬局で散々待たされて、前園さんの家に着いた時には18時前になっていた。
「丸山さん、いつも遅くなってすまないねぇ。小さい子が待っていんだろう。僕はここでいいから、早く帰ってあげて。」
門の前に車を止めると、前園さんが一人で降りようとした。
「そういうわけにはいきませんよ。ボンベを持って家の中まで案内するまでが契約なので。私が怒られますよ。」
私は慌てて、車を降りた。トランクから予備の酸素ボンベ出して、前園さんに並んで歩いた。
「そうか。すまないね。いつも遅くなっちゃって。」
車から何メートルも歩いていないのに、前園さんは息を切らしている。
前園さんが家の中に入ったのを確認して、車に戻った。
保護者会の会議は18時からだ。ここからだと幼稚園まで20分以上かかる。みんなのしらけた顔が目に浮かんだ。全身で保護者会を拒絶している。行きたくない。責任感だけで車を幼稚園に走らせた。
教室の前に着いた時、すでに18時15分だった。走って階段を上ったので、息が上がっている。午前に入浴支援をしたせいで、化粧も禿げて汗臭くなって髪もボサボサになっているだろう。でも、あの野々上理香子にこの必死な姿を見られるのが悔しくて、鏡も見ずに手櫛で髪を整えて結び直した。それだけで何か変わるとも思えないが、何か抗ってからじゃないと、教室のドアを開けことができなかった。
息を整えて、申し訳ない顔を作ってから教室のドアを開けた。
「遅れてすみません。」
さも申し訳なさそうに言う。
話し声が聞こえていたが、みんな黙って一斉にこっちを見た。私の悪口でも言っていたのだろうが。全員が敵に見える。
「いえいえ、私たちも今集まったところなんですよ。」
野々上理香子が完璧な笑顔をこちらに向けた。その視線が胸に突き刺さって息が詰まる
私は急いで席に着いて資料を広げ、会議を進める準備をした。
「さっそくですが、今日は初めての集まりなので自己紹介と7月にある運動会についてですね。」
私はみんなを見ながら言った。
「ごめんなさい!自己紹介は丸山さん以外もう終わってしまったんです。あとは丸山さんだけで・・・。」
会議を始めようとした私に向かって野々上理香子が眉の中央を上げた泣きそうな顔で頭を下げた。みんな今来たばかりって言ったのは嘘だったのか。野々上理香子の演技も白々しすぎる。そりゃ遅れて来た私は悪い。けど、誰からも自己紹介されずに自分だけが自己紹介するなんて、まるでさらし者だ。酷すぎる。
一瞬で心の中が被害者意識でいっぱいになった。でもここで負けたらだめだ。自分が惨めすぎてすべてが崩れてしまう気がした。早く帰らないと子ども達が待っている。私は、潰されそうな胸にぐっと力を入れて声を出した。
「えーっと、そうだったんですね。では、私の自己紹介だけ。今年度の保護者会会長を務める丸山有希です。二度手間になってすみませんが、役職とお名前だけでももう一度お願いできませんか。」
作り笑顔を顔に貼り付けて、わざとゆっくりしゃべった。大丈夫、私は野々上理香子に負けてない。自分に言い聞かせる。それでも、心が折れそうで前を向いていられず俯いてしまった。
副会長:野々上理香子
会計:村上麻衣
年長組クラス役員:田中京子
年中組クラス役員:野中智子
年少組クラス役員:藤本絢
私以外にも、会計の村上さんと年中・年少の田中さんと藤本さんが仕事ありのワーママだった。野々上理香子のさっきの攻撃的なマウントはいったい何なんだろう。
「私以外にも働いている方がいて、ほっとしました。皆さんお忙しいので、会議はなるべく少なく短時間、可能な限りSNSグループでの連絡で進めさせてください。」
そう挨拶をして、園の先生からもらっていた運動会の資料をみんなに渡し、19時までの予定だった会議は18時45分には解散になった。 1時間の予定がいつも長引いていたらしいが、実質30分ほどで終了した。何か不備がないか不安になる程あっけなく終わった。
「今日初めて保護者会会長の仕事してきたよ。」
子どもたちが寝た後に帰ってきた大輔に、今日のことを話した。 意外と興味を持って話を聞いている。私以外に2人がワーママだったと話した。
「やっぱり今どきは、共働き家庭が多いんだって。専業主婦の方がマイノリティーだろ。」
大輔はいつもなんとなく私を見下している。少し有名な大学を卒業してるので、短大卒でパートの私を馬鹿にしているのだ。パートとはいえフルタイムなので、安月給の大輔と少ししか収入は変わらない。腹が立つが、そうだよねーとだけ返事をした。ここで言い返したら、プライドの高い大輔とは永遠に口論になる。無駄な喧嘩は疲れるだけで明日に響く。いつもこうして私が我慢している。
「ところでさ、株ってどう思う?」
なんとなく大輔に聞いてみた。
「あー、株ね。FXならちょっと前やったけど?」
「え、そうなの?!」
思わず大きな声が出てしまった。子どもが起きてしまう。
「そんなの聞いてないよ。どこにそんなお金があったの?」
声を小さくした。生活費のほとんどは私のパート代で賄っているのに。そんなお金があったなら、家にお金を入れろ。あー、腹が立つ。
「ちょうどコロナがあったでしょ。その時に10万から始めたんだけど、一気に200万まで増えたんだよ!思わず声出しちゃったよ俺!で、また上がるかなーと思って、その200万円をもう一回突っ込んだんだ。そしたら急に円の価値が下がっちゃって。全部なくなっちゃった。、でもマイナスにはなってないよ!ちゃんと辞めたから!」
はぁ?200万円分もギャンブルしたの?馬鹿じゃない。
「えー、なにそれ。」
「ほんと、10万がいっきに80万になって200万になって。」
すげぇだろ、と自慢げに話す大輔がムカつく。それなのに全部なくなるなんて、何考えてるんだ。私が毎日こんなに必死になっているのに。腹が立つ。
そういえば、大輔は大学生の頃スロット狂だった。マイナスになってない、っていうのは嘘だろう。実際はだいぶ負けているはずだ。プライドが高いから隠してるんだろう。
「それはすごいね。」
苛立ちを隠して、大輔に調子を合わせる。
「有希ちゃん、株やりたいの?」
「うーん、利用者さんに株やってるおじいちゃんがいて、なんとなく気になっただけ。」
株を始めたいことを相談したかったけど、こいつに話すのは危険だと心のアラームが鳴るのでやめた。
それから2週間後経った。今日は前園さんの買い物支援の日だ。先週は別のスタッフが担当したので、前園さんに会うのは2週間ぶりだった。
インターホンを押してから、玄関のドアを開けた。
「こんにちは。」
「おー、あがってー。」
今日はちゃんと返事があった。お邪魔しますと言っていつも通りリビングへ行く。前園さんの在宅酸素チューブが玄関まで届かないので、返事があれば勝手に家の奥まで上がっていく。
前園さんはリビングのいつもの場所に座ってスマホを触っている。
「今日はパソコンやってないんですか?」
株のことを聞きたくて声をかけた。
「ははは。今日はね、庭に咲いた花をインスタグラムにアップしていたんだよ。ほらこれ、見てくれるかい?もうイイネがたくさんついたんだよ。私の写真はなかなか好評なんだ。」
老眼鏡をかけた前園さんが、スマホの画面を私に向けた。花の写真がアップされている。プロフィールのところを見るとフォロワーの数が・・・
「フォロワー1万536人?!マジで?!」
信じられない。自分の周りにこんなにフォロワーの多い人がいたなんて。
83歳にして、私よりずっと今を楽しんでいる。悔しくて惨めで胸がギュッとなった。この人はどうやったら不幸になるんだろう、そんなことを考えてしまっている自分が気持ち悪い。
「ここはほんとうにいいところだからね。今の若い人にこの田舎暮らしが人気みたいだよ。こんなじいさんの暮らしがスローライフなんだって。ははは。奥さんが生きていたら、花ももっと素敵に育てられるし、写真ももっと素敵なんだけどなぁ。」
前園さんは寂しそうに笑った。良い奥さんだったんだろう。配偶者にも恵まれて、前園さんは本当に幸せな人なんだと思った。
「前園さんはずっとここに住んでいるんですか?」
「もちろん。生まれた時からずーっとね。僕はこの土地から離れたことはないんだよ。」
前園さんの笑顔が後悔は微塵もないと言っている。私もずっとこの田舎に住んでいるのに、この違いはなんだろうか。
「前園さん、株を教えてくれませんか?」
ずっと考えていたことなのに、急に恥ずかしくなった。女は四十前になるとこんなにも図々しくなるのか。それでも今がチャンスだという根拠のない自信があった。
「構わないけど責任は取れないよ。ギャンブルと同じだからね。でも、株は面白いよ!」
無邪気に笑う前園さんが子どもみたいに見えた。
はじめに株の買い方を教えてもらった。まずは、証券会社に口座を開設して、入金。好きな銘柄の株を購入する。すべてスマホのアプリからできた。83歳のお爺さんがサクサクとスマホを操作して説明してくれる。その説明はとても丁寧でわかりやすく、とても親切だった。ずっと高齢者にスマホなんて宝の持ち腐れだろうと思っていた自分が恥ずかしくなった。
その日の夜、子どもたちを寝させてから、前園さんに教えてもらった証券会社の口座開設の手続きをした。証券会社を検索し、必要事項を入力。簡単な手続きだった。
申し込みをしたからといって、すぐに株を買えるわけではなかった。口座が開設されるまで数日かかる。それまでそわそわと過ごした。




