第78話 優雅なる魔女の狂想曲――ザ・デイ・オブ・パーフェクト その3
「今日は無理かもしれないな……」
赤から紫色に染まり始めた夕暮れの空を見上げて、ネインはポツリと呟いた。朝から花壇の縁石にずっと座り続けているが、いつまで経っても魔女からお呼びがかからないからだ。しかも瀟洒な館は完全に静まり返り、何の気配も感じられない。本当に魔女が住んでいるのかどうかさえ疑わしくなってくる。
「最強の悪魔使いと呼ばれる雨の魔女――。やはり、一筋縄ではいかない相手か……む?」
ネインは思わず小さなため息を1つ漏らした。するとその直後、不意に館の玄関から1人の男が姿を現した。あの黒髪の執事だ。ネインはおもむろに立ち上がり、まっすぐ歩いてきた執事と再び顔を合わせた。
「大変お待たせ致しました、ネイン・スラート様。主がお会いになると申しております。ご案内致しますので、こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
淡々とした執事の言葉に、ネインは軽く頭を下げた。執事はすぐにネインを館の中に案内し、広いロビーの階段をのぼって2階へと上がっていく。執事に続いて階段をのぼり始めたネインは、ふとロビーの置き時計に目を向けた。時計の針は、もうすぐ6時を指そうとしていた。
「――こちらでございます」
2階の一室の前で足を止めた執事が、重厚な木製の扉を開けてネインを中に促した。ネインが足を踏み入れてみると、そこは明るい部屋だった。豪華な燭台のロウソクが黄金色の光を放ち、壁には大きな風景画が飾られている。美しい城が描かれた絵だ。その絵の手前は一段高いスペースになっていて、豪華な椅子が置かれている。そしてその椅子に、見目麗しい女性が座っていた。赤い髪をアップにまとめた、赤いドレス姿の女性だ。
1人で部屋に入ったネインは、女性を一目見たとたん足を止めた。それからゆっくりと女性の前に進み出て、口を開いた。
「ネイン・スラートです」
「ようこそいらっしゃいました」
わずかに硬い表情で名乗ったネインを見て、女性は形のよい赤い唇で優雅に微笑んだ。
「わらわがこのオルトリンの森の主――ナキンカルナ・オルトリンです」
「ナキンカルナ……」
ネインは思わず口の中で呟いた。雨の魔女の名前はカルナとしか聞いていなかったので、少し意外だったからだ。そして魔女の美しさもまた、ネインにとっては予想外だった。
「意外でしたか?」
「えっ?」
カルナの言葉にネインは一瞬キョトンとした。
「最強の悪魔使いと恐れられている魔女が、このような小娘で意外でしたか?」
「えっと……はい。正直、もっと殺伐とした雰囲気を持つ人だと思っていました」
「それはつまり、わらわの見た目は怖くないということですか?」
「そうですね。こんなにきれいな人だとは思ってもいませんでした」
「まあ」
真顔で答えたネインを見て、カルナは嬉しそうに目を細めた。それからおもむろに席を立ち、ネインのそばに歩み寄る。
「それではネイン。長らくお待たせしたお詫びに食事を用意しております。積もる話はそれからにいたしましょう」
「わかりました。それではお言葉に甘えて、ご馳走になります」
ネインは軽く頭を下げて礼を述べた。するとその直後、カルナが右手を差し出してきたので思わず首をひねった。それがどういう意味なのかわからなかったからだ。
そんなネインを見てカルナはクスリと微笑んだ。それからネインの腕を自分の腕に軽く絡めて、ゆっくりと歩き出す。そして入口とは違う壁の扉から隣の部屋に足を運んだ。
そこは明るい広間だった。広い部屋の中央には長いテーブルが置かれていて、執事のブリトラが食事の用意をすでに終えて待機していた。カルナは軽い足取りでネインを席へと案内し、2人で和やかに夕食を楽しんだ。
「そうすると、ネインは家族を殺した犯人と、さらわれた妹を探したいわけね?」
「はい」
ネインからおおよその事情と目的を聞いたカルナは、食後のハーブティーを一口含んでネインに尋ねた。するとネインもカップを手にしたまま、カルナに向かってうなずいた。
「それと、ある人の子どもを探したいと思っています」
「それはさっきのカメオの話ね?」
「はい。形見の品を、その人の子どもに渡すためです」
真面目な顔で答えたネインを見て、カルナは再び優雅に微笑んだ。
「ネインは面白いわね。人助けと復讐なんて、まるで真逆のことなのに」
「オレはそうは思いません。どういう巡り合わせかわかりませんが、関わった以上はどちらにも全力を尽くしたいだけです」
「ふふ。若いのね」
カルナは楽しそうに目を細めながら立ち上がり、ネインを連れて窓際の小さなテーブルに移動した。そしてネインと向かい合って腰を下ろすと、カルナの方から話を切り出した。
「さて。それではネイン。あなたがわらわと魔女契約を交わしたい理由はわかったし、できる限り協力してあげたいとも思う。だけど、わらわにはやらねばならないことがあるし、これから先は少しばかり忙しくなる予定があるの。だからネインと魔女契約を交わすのは条件次第ということになるのだけれど、わらわの心を動かせるほどのものを、あなたは持っているのかしら?」
「はい。持ってきました」
「あら。何かしら?」
真剣な顔でうなずいたネインを見て、カルナは微笑みながら首をかしげた。実のところ、カルナはネインの手土産にはあまり期待していなかった。なぜならば、欲しいモノをすべて手に入れるだけの力と金があるカルナには、今は特に欲しいモノが思いつかなかったからだ。
しかし、ネインが腰の小さな革袋から取り出したモノを一目見たとたん、カルナは一瞬目を見開いた。それは美しいオレンジ色に輝く球形の石で、カルナには見覚えがあったからだ。
(ま……まさかそれは……)
カルナは優雅に微笑んだまま、すさまじい速さで思考を巡らせた。すでにその時点で、カルナの心臓は早鐘のように胸の中で鳴り響き、手のひらには汗がじっとりとにじみ出ていた。
「オレが持ってきたモノはこれです」
ネインはテーブルの上にオレンジ色の石をそっと置いた。
「あなたが求めているという話を聞いたので、カエンドラの瞳を持ってきました」
その瞬間、食事テーブルのカップを片付けていたブリトラがティースプーンを床に落とした。しかしブリトラは何もなかったかのようにゆっくりとスプーンを拾い、カルナとネインの方に丁寧に頭を下げてから片付けの続きに戻った。
「……まあ。これがカエンドラの瞳なの?」
カルナは指先の震えをネインに気づかれないようにしながら、カエンドラの瞳をつまみ上げた。そして優雅に微笑んだまま、オレンジ色の球体を全力で凝視した。
(し……信じられない……。これはまさに、完璧なカエンドラの瞳……)
カルナは思わずゴクリと唾をのみ込んだ。しかしすぐに何気ない顔で、オレンジ色に輝く特殊魔法核をテーブルにそっと戻した。
「そうね。これはどうやら本物のカエンドラの瞳みたいだけど、ネインはどうやってこれを手に入れたの?」
「詳しいことは話せませんが、ある研究者に協力してもらいました」
「その研究者の名前は?」
「それは……」
ネインは一瞬言葉に詰まった。まさか研究者の名前を訊かれるとは思ってもいなかったからだ。しかし、答えを促すようにカルナが首をかしげたので、ネインは腹をくくって口を開いた。
「スミンズさんです。ランドン王立研究院の正規研究員、メナ・スミンズさんに協力してもらいました」
(なるほど、王立研究院の研究者か……)
ネインの返事を聞いたとたん、カルナは胸の中でうなずいた。
(そのメナ・スミンズという名前は初耳だけど、あそこの研究者ならたしかに可能性はあるかもしれない……。しかしそうなると、問題は……)
カルナは素早く思考を巡らせ、ネインの話を分析した。そしてやはり何食わぬ顔で質問した。
「それでネイン。このカエンドラの瞳は、いくつあるの?」
「それ1つだけです」
ネインが即答したとたん、カルナは再び高速で思案した。
(やはり、これほど質の高いものはそう簡単に作れないか……。そうなると、王立研究院はカエンドラの捕獲方法を確立したわけではなく、これは偶然の産物という可能性が高い……。だったら問題は何もない。むしろこれは最高の巡り合わせだわ……)
最初は驚きで震えていたカルナの指先が、今度は興奮で震え始めていた。しかしそんなことはおくびにも出さず、カルナは軽く微笑んだままネインに話しかけた。
「いいわ、ネイン。たしかにこのカエンドラの瞳は、魔女なら誰でも欲しがる特殊魔法核よ」
「それでは、このカエンドラの瞳と引き換えに、オレと魔女契約を交わしてもらえますか?」
「ええ、もちろん。これほどの手土産を見せられて、断ることのできる魔女なんていないでしょう。だけど、1つだけ条件があるわ」
「条件?」
不意にカルナが指を1本立てたので、ネインはわずかに首をかしげた。
「ネインが希望している魔女契約は2つでしょ? 1つは人探しのためにわらわの情報網を使いたい。もう1つは、いざという時にわらわの魔法支援を受けられるようにしておきたい」
「はい。力のある魔女と契約すれば、世界中のどこにいても特殊な魔法で様々な支援を受けられると聞いています」
「ええ、そのとおりよ。だけど依頼が2つなら、報酬も2つ必要なの。カエンドラの瞳はたしかに希少な特殊魔法核だけど、1つだけなら2つの依頼は受けられないというわけ」
「つまり、あなたが出す条件をクリアすれば、それがもう1つの報酬になるということですね?」
「そういうことよ」
淡々と訊いてきたネインに、カルナはニッコリと微笑んだ。
実のところ、カエンドラの瞳が1つあれば、カルナとしてはどれだけの数の魔女契約を交わしてもじゅうぶん以上にお釣りがくる。ネインが持ってきた手土産は、それほどの価値がある特殊魔法核だったからだ。
しかし交渉というモノは、下手に出たら不利になる。どれほど美味しい報酬を用意されたとしても、簡単に引き受けたら自分の価値を安く見られてしまうし、今後の力関係にも大きな影響が出る。だからカルナはカエンドラの瞳に飛びつきたい衝動を必死に抑え、澄ました顔でネインに条件を突きつけた。
「だけど安心していいわよ。それほど難しい条件ではないから」
「……わかりました」
カルナの言葉を聞いて、ネインは一瞬考え込んだ。
カエンドラの瞳は1つしかないとネインは答えたが、実はあと2つ用意していたからだ。目の前に座る美しい魔女がカエンドラの瞳を求めていることは知っている。しかし、最初から手の内をすべて見せると、交渉を有利に運ぶことはできない。だからネインは状況を見て残り2つの切り札を出そうと考えていたのだが、その前にカルナの方から条件を出すと言ってきた。
ならば切り札は温存して、その条件を聞いてみよう――。ネインはとっさにそう判断した。もしもその条件とやらがネインの手に余るものであれば切り札を出せばいいし、逆にクリアできそうであれば、その条件をのんだ方が得策だからだ。
「それで、その条件というのは何でしょうか?」
「ふふ。そう緊張しなくていいわよ。ネインならきっと、簡単にこなせることだから」
カルナは上目づかいでネインを見つめ、妖艶な笑みを浮かべてみせた。それから頭の中で計画を素早く修正しながら、慎重に言葉を選んで条件を口にした。
「さて……。なかなか面倒な条件を出されたな……」
カルナとの交渉を終えたネインが、低い声でポツリと呟いた。
ふと顔を上げると、すでに真っ暗な夜空は黒い雲で覆われている。軽く振り返ると、背後にはカルナの大きな館がひっそりと佇んでいる。
もう夜も遅いので、カルナには宿泊していくように勧められたが、ネインは丁重に辞退した。なぜならば、ネインは少なからず落胆していたからだ。
王都からこのオルトリンの森までは、片道だけで軽く10日を超える道のりだ。しかもカエンドラの瞳という特殊魔法核まで用意してきたのに、ネインは魔女契約を交わすことができなかった。それで徒労感を覚えたネインは、魔女の館に泊まる気がしなかった。
「しかしまあ、落ちこんでいてもしょうがないな……」
ネインは再び呟き、手の中の小さな金属片に目を落とした。冒険者の個人認識票と同じサイズの小さな鏡だ。これがあれば世界中のどこにいてもカルナと話をすることができるらしい。そしてカルナの出した条件をクリアしたあとにこの鏡を通じて報告すれば、その時点で魔女契約を交わすとカルナは約束してくれた。しかし、その条件が突拍子もない内容だったので、ネインはかなり困惑していた。
「とにかく今は王都に戻ろう。この目で現地を確認しないと、潜入計画は立てられないからな……」
そう呟き、ネインは胸いっぱいに夜の冷たい空気を吸い込んだ。そしてしっかりとした足取りで、薄暗い森の中へと入っていった。
その時不意に、夜に包まれた森の中で1つの影がわずかに動いた。
太い木の枝の上で闇と同化していた人影だ。その黒い影は、魔女の館から立ち去るネインを鋭い瞳で見つめている。そしてすぐに気配を消したまま素早く動き、王都への帰路についたネインの背中を追って、森の奥へと姿を消した。
その細い人影の腰には、美しい白い剣が提げられていた。




